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2022-09-24

ガイノクリティックスってなんだろう 小林苑を

特集「女性」と俳句

ガイノクリティックスってなんだろう

小林苑を


岡田一実さんが現代俳句評論賞を受賞したというので早速拝読した直後、たまたま松本に出かけることになった。久女の代表句の場所であり、季節なのだ。

紫陽花に秋冷いたる信濃かな

少し青を残した枯れ紫陽花かもしれない。乾いた空気と山に囲まれた信濃という響き、久女の生理的感受性とそれを表す言葉選びの鋭さを実感した。

杉田久女ほどさまざまに書かれた俳人はいないのではと思う。評論だけではなく、小説にも幾度となく取り上げられている。ひとつには俳句作品がそれだけ魅力的なのであり、もうひとつはその言動が俳句界にとって枠を外れたものとして受け止められたから、なのだろう。

加えて言えば、その枠を超えて突進する相手が「大悪党」を名乗って見せる虚子だったから。この評論を読むまでは殊更に久女に向き合うことはなかったのに、手元の伊藤敬子『久女の百句』を読み返し、『鑑賞 女性俳句の世界』の坂本宮尾「美と格調 杉田久女」や田辺聖子『花衣ぬぐやまつわる…』を開き、すっかり久女句に嵌ってしまった。

久女の俳句をガイノクリティックス(女性の文脈から捉える女性文学の分析)の視点から読み直すことは、「女性性」に拘りすぎる男性ジェンダー化した批評の相を眺め直し、新たな側面を見出す方法となり得よう、と岡田さんは「はじめに」で言う。

なぜ久女なのかについても、①彼女が自ら「女性性」をテーマとして打ち出した俳句は有名であるが、それ以外の視点から俳句芸術の高さを志向したと見られる珠玉の佳句があまり知られていないのではないか、②山本健吉をはじめ、特に男性評者が、久女の「情の濃さ」を主軸に照らしながら、「男をたじたじとさせる息吹」を賞めつつ評価を下位に置いたり、その真摯な姿を茶化して評したりするところがあった。それは正当性に欠け、俳句表現の味わいを貧しくする可能性が高いのではないか、というふたつの懸念を挙げる。

人口に膾炙した久女の句は女性ならではのものに集中し、さらに男性目線で低めに評価されてやしませんか、というのだ。確かに、久女伝説に相応しい句が取り上げられやすく印象的ということはあると思う。さらに、低めと言うより「女性とはこうだ」の男性目線で解釈され、それが定着している感も否めないが、低くはどうだろう。「いま」も、そうなのだろうか。

久女に嵌りつつ、フェミニズムやジェンダーやガイノクリティシズムの意味を考えてみる。ウーマン・リブ(女性解放運動)なんて言葉をいまの人は知らないかもしれないが、1970年前後、それは(少なくとも日本では)からかいをもって使われたりした。それでも国連が1975年を国際婦人(女性)年としたときには変化の兆しを感じたけれど、半世紀たって、あまり変わってない気がする(ことに日本では)。

足袋つぐやノラともならず教師妻

1975年のそのまた半世紀前に『ホトトギス』に掲載された句。百年経ってもこの気分は伝わってくる。まさに「女性性をテーマとした」句であり、かつ、いかにも「男性ジェンダー化した批評」者のバッシングを受けそうな句だ。「出来不出来はともかく、こういう女は面倒なんだよな」という冷笑が聞こえそう。しかし、そんなことには頓着せず直球を投げる久女、その表現力の確かさは読み手にはズシンとくる。忘れられなくなる。

花衣脱ぐやまつわる紐いろ〳〵

初期の代表作であり、「女の句として男子の模倣を許さぬ特別の位置」と虚子の評価を受けることになったに掲句について、山本健吉は「閨情と言ってもよい本然的な女の匂いが濃厚である」と書いた、と岡田さんは記す。その後の評者も着目するのは女性ならでのところで、田辺聖子も「ナルシシズム」と指摘する。俳壇とは縁のない読者である私は、よく言えば先入観なしなので、この句に出会ったとき閨情など浮かびもしなかった。もちろん花衣の華やぎや疲労感を伴う陶酔はあるけれども、「まつわる」紐のリアリティに感嘆し、それらを脱いだホッとする感覚やそれでも「まつわる」面倒な紐のリアリティ、さらに「脱ぐや」の切れのスピード感ときたら。

評論の最後には、久女の俳句作品そのものの丈の高さは正当に再評価されるべきと「英彦山六句」が置かれている。これらは次の有名句で始まり、いずれも背筋のピンと立った句である。

谺して山ほととぎすほしいまゝ

この六句は…、語り出したらキリがなくなりそう。この稿に求められているものを逸脱していくようなので筆を止めよう。まっさらで読む、俳句の楽しみはそこよね、と岡田さんに語りかけながら。


 

2022-06-05

【句集を読む】佐藤智子句集『ぜんぶ残して湖へ』を読む 小林苑を

【句集を読む】
佐藤智子句集『ぜんぶ残して湖へ』を読む

小林苑を

『平』第13号(2022年2月)より転載(若干の改稿アリ)

確か上田信治さんの仮名句会で佐藤智子さんを知ったんだと思う。佐藤さんの句は新鮮で心地よく、この年象は『ぜんぶ残して湖へ』でも変らない。

どこがどう新しいかは、週刊俳句 第769号で若い論客が書いている。ここでは数句紹介して、その清新さを伝えられたらと思う。

句の素材は「いま」身近にあるもの、食べ物や飲み物がよく出てくる。表現も「いつもの」喋り方、つまり私からすれば若い世代の口語調なのだけれど、俳句という型に丁寧に入れることで、伝わってくるのは日常の写生ではなく日常に潜む違和、言い換えると揺らぎのようなもの。

タイトルの『ぜんぶ残して湖へ』は、そんな違和を「ぜんぶ」置いて、広くて明るくてからだが軽くなる非日常の湖へ、ということなのだろうか。海、ではなく湖というのに納得する。冒険の旅ではなく、緑に囲まれた水辺で深呼吸なんかする。そう、水の匂い。それだけ「いま」が息苦しく不安な、あるいは一人が楽な、そんな時代なのかもしれない。

 夜の梅水辺のように腰かける

水辺といえば句集にはこの句。まだ少し肌寒い闇のむこうに湖(うみ)を感じている。梅って古風な風情だなんて、勝手に思い込んでいただけなのだ。微かな梅の香りも、どこでもドアを開けてくれるアイテムになる。

 お茶を持って二階や春と春の雨

 玄関に米置いたまま春の闇

 まだパジャマ紫陽花が野菜みたいで

たとえばこんな春から初夏へ。よくある日常の場面と違和を感じさせる季語の配置。切れや韻や喩などを駆使して、つまり俳句の技法を使うことで少しだけ時間が流れ、それが揺らぎを生む。

 薫風や今メンバー紹介のとこ

 梅雨を祝う椅子の回転を使って

 魚焼きグリルを洗う琵琶の家

こんなさり気ない句にも時間は流れて、それは自分だけの流れ方なのだ。

 朝蜘蛛やテニスボールのおろしたて

 冷やし珈琲耳にかけずに残す毛束

 くいぶちについてのはなし黒ビール

朝蜘蛛・冷やし珈琲・黒ビール。ここでも季語は季節を示すよりも切れを生かして「いま」の気分(揺らぎ)を表現するワードとして選ばれる。

 花水木やたらさパンを買って生きる

 ペリエ真水に偲ぶだれをだれが

 いい葱はコンソメで煮るまだ泣くよ

生きる・偲ぶ・泣く、下手するといまやクサくなるワードなのにさり気ない。二物衝撃だけれどもっと軽く、さり気なく「いま」らしさをぶつけてくる。

 明日降る初雪台所でしゃがむ

 給水塔寒さを脳に通さずに

佐藤智子が突然登場したとは思わない。この前に鴇田智哉も佐藤文香も上田信治も…、そうか、俳句はまだまだ新しくなると思わせくれる句集なのだ。


佐藤智子句集『ぜんぶ残して湖へ』2021年11月/左右社



2021-09-12

ほろ酔い俳人論 穴井太の夕空 小林苑を

ほろ酔い俳人論 穴井太の夕空

小林苑を

『里』2013年1月号より転載

北九州市戸畑区のなんじゃもんじゃ通りに穴井太の句碑があるという。

夕空の雲のお化けへはないちもんめ

はないちもんめ、もう子供たちはこんな遊びはしない。二手に分かれて、はないちもんめと唄いながら相手側の誰かを「欲しい」と指名する。いいね、欲しいんですよ。無視するとか、排除するんじゃなくて、こっちへおいでよと誘うのです。

はないちもんめから花の淡色や春の温みを感じる人もいるかもしれないが、無季句である。花鳥諷詠が四季の移ろい、つまり自然を写してこころを託すのだとしたら、無季の句は心情を詠う。目には見えない人のこころに形を与える。

穴井には無季句がたくさんある。代表句といえば誰もが挙げるであろう次の句も無季。

吉良常と名づけし鶏は孤独らし

たくさん鶏がいるうちの一羽に名前をつける。いつも、その鶏だけはぐれているのだ。もしかしたら、一羽の鶏を飼ったのかもしれない。そういうことが結構あった。私が生まれた家は東京世田谷の住宅地だったけれど、祖父がどこからか持ってきた鶏が一羽いた。あの鶏はどうしてしまったのだろう。

鶏は卵を産ませるために飼い、最後は食べるために締める。だから、どのみちこの鶏も食べられる運命にあるのだ。鶏というのは喧しい。よく鳴く。けれども、吉良常は鳴かない。

吉良常の名前なら誰でも知っていた。尾崎士郎の『人生劇場』を読んでいなくても、一四回も制作された映画を観ていなくても、吉良常は任侠の人であり、恩義を知る人なのだというイメージを抱いていた。

映画版での吉良常は、その当時の渋い役者と決まっている。月形龍之介、森繁久彌、一九六八年の内田吐夢監督「飛車角と吉良常」では、飛車角の鶴田浩二に、吉良常は辰巳柳太郎。田宮二郎、若山富三郎も演じている。

もっと安易に、「やると思えばどこまでやるさ」で始まる演歌「人生劇場」で知ってる気になっていたかもしれない。作詞佐藤惣之助、作曲古賀政男。この歌、たいがいの人がソラで歌えた。最後の三番はこうだ。
時世時節は変わろとままよ/吉良の仁吉は男じゃないか/俺も生きたや仁吉のように/義理と人情のこの世界
しつこくいえば、浪花節、つまり浪曲で有名になったのが吉良の仁吉で、その仁吉筋に当るのが吉良常だ。あの人は浪花節だから、なんて昔はよくいったもんだけど、人情家と言い換えると、その俗っぽさが消えてしまう。

孤独なんて恥ずかしくって、俳句に使うのはタブーに近い。ぎりぎり鶏だから許される。だいたい鶏に名前を、それも吉良常なんてつけない。ほんとにつけたんじゃなくて、仮に呼んでみるってことだ。男ごころを鶏に仮託してみせる。この句がいいのは、まるで演歌みたいにそうと分かるように書いてあるところだ。

穴井太の句は平易ではないが、わかる句だ。真直ぐにすっと染み通ってくる。ときには演歌、ときには童謡のように。

断っておかなければいけない。この句については穴井自身が書いており、飼っている鶏の中にいつも群から離れている一羽がいて、吉良常と名付けたという。十歳年上の妻、君子は結婚前から養鶏で暮らしを立てていた。だから鶏は身近な存在で、穴井はこのはぐれ鶏を愛おしんで見ていたのだろう。そんな現実の素材から、穴井は多くの人(かっては大衆なんていったけど、いまや差別語ですか)の原風景とでもいうべき景を作り上げる。

●

昭和元年大分県生まれ。恵まれた子供時代を経て(穴井太ができあがるにはここが大事な気がする)、十二歳で工業高校に入学したが授業より稲刈・工場動員の多い時代となっていく。同級生に俳句作っていた益田清がいた。不本意に進学した工業高校に文学仲間を得たのだ。後に穴井が俳句を始めるのも、君子と出会うのも、この縁による。

神戸製鋼に入社、終戦を迎える。技術職のため戦地に赴くことはなかった。生き残ったという意識はこの世代の男たちにとって生きていく上で強い箍である。穴井もまた、この思いを抱えて生きる。

親元に戻った穴井は大分の飯田高原へ、晴耕雨読の日々から中学の教員に、さらに中央大学に合格して上京。窮乏生活ではあったが、現代詩に、戦後文学の熱に触れた。

卒業はしたものの穴井は体を毀して帰郷する。北九州で仕事に就くため、君子の家に寄宿することになる。運命の出会いというやつか。引き上げで二人の子を失い、一人の子を育てるため養鶏をしていた女性で、大学時代に益田の俳句の会で見知っていた。周囲の大反対を押し切って結婚。君子三十五歳、穴井二十五歳。

中学教員の職を得る。近くに住む益田の薦めで「先生らしいこと」をと俳句を始める。ここ、なんだか可笑しい。俳句より仲間が好きだったんじゃなかろうか。横山白虹の「自鳴鐘」に入会、さらに益田に誘われ同人誌「未来派」を刊行、発行人となる。

三十二歳の時、八幡市で開かれた九州同人誌会議で金子兜太と出会う。これをきっかけに九州俳句作家協会誕生。『九州俳句』を発刊、次第に俳句にのめり込んでいく。社会性俳句、さらに前衛俳句が広まっていた。

昭和三十六年八月、第八回長崎原爆忌俳句大会で原爆句碑作品に選ばれる。句碑十二句中、応募作品は穴井の句のみ。兜太の「湾曲し火傷し爆心地のマラソン」等と並んで句碑は立っている。

夕焼雀砂浴び砂に死の記憶

原爆の句だと知らなくてもいい。雀を近頃はあまり見かけなくなってきたけど、チュンチュンとそこらを突つきまわっていたもんだ。子供たちがつるんで遊び回るのによく似ている。無心に遊ぶ子供たち。違った、雀たちが炎色に染まるとき、脳裏にフラッシュバックする光景。穴井には「還らざる者らあつまり夕空焚く」というのもある。夕焼けは穴井の喪失の痛みだ。

この頃、「口語俳句というものに遭遇して、目がさめたような感じやったね」という。三十八年「海程」へ。三十九年、第一句集『鶏と鳩と夕焼と』(1963年/未来派発行所)を出す。俳壇を意識してではなく、転勤でPTAから貰った餞別のお返しに困り作って配った。

翌年、仲間たちと天籟句会を結成、ハガキ版「天籟通信」発行。その後、雑誌化される。「天籟通信」は現在も引き継がれ発行されている。

主宰も代表もなし、和気藹々かつ活発に議論する場。「みんな平等やったからね」と語るが、会場は穴井の自宅、編集・発行も穴井の肩にかかっていたのではある。この「天籟通信」に腰を据え、主の穴井は俳人として活躍してゆく。現代俳句協会賞をはじめ数々の賞を受け、句集を刊行、精力的に執筆もする。

この経歴は佐藤文子著『明日は日曜』(2003年/邑書林)から。穴井への聞き書きであり、その人生と人柄がストレートに伝わってくる。北九州弁のその声までもが聞こえてくるようで、金子兜太の帯文には「快著なり」とある。

初めて手にした時、こんなに素朴に直情な人がいるのだと呆気にとられた。悲しいことに涙し、許せないことに怒り、行動もする。それは穴井の句に現れる。評論の土台となる。

夜業のパン寝て食う一人の星祭り

廃屋にコ―モリ傘が吊られている

土に還るボタいっぽんの鬼あざみ

のぞきからくり泡だちやまぬ夜の廃液

霧にまぎれ重工業の突き出す胃

この後の穴井についても書くべきことは山程あるが、先を急がなければならない。「俳人は俳句だけやっていればいいんじゃない、現在を見つめなければ」が持論だった。「天籟塾」を開き、俳句に拘らずいまを語って貰おうとさまざまな講師を招いた。最初の六回の天籟塾講師名と著書一冊をあげる。見えて来るのは思想ではなく、弱者と共にあるということ。

河野信子『媒介する性 ひらかれた世界にむけて』、前田俊彦『ええじゃないかドブロク ドブロク裁判全記録』、松本竜一『風成の女たち ある漁村の闘い』、岡村昭彦『南ヴェトナム戦争従軍記』、石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』、上野英信『追われゆく坑夫たち』。

上野は筑豊の炭坑労働者を支援し語り継いだ人。廃坑の坑夫長屋を筑豊文庫と名付けて住居にし、ここに集った人々が天籟塾講師ともなった。お互いに合い通ずるものがあったのだろう、上野との深い交流は穴井の俳句観をも決定づけた。

発足後十年を経過した五十五年に、「『天籟通信』の二〇〇号を迎えて」と題して読売新聞に寄せた一文がある。「俳句が、自然と人間の交わりを詠むものであるとするならば、ヒトもクサも、そしてソラやウミやケモノタチにも熱いまなざしを向けねばならない。そのため、生きていることが、矛盾の沸騰点の中に居ることを、実作者たちは痛烈に感じざるを得なかった。いかに生きるべきかが、句会の底流として苦く熱く流れだした」と、こちらが気恥かしくなるような一途な書きぶりである。

●

穴井の俳句を素材から大雑把にわけてみる。任侠系とでもいいたいような情念の句に加えて、とことん拘った九州の風土、学校、そして酒。

あおい狐となりぼうぼうと魚焼く

三月の風人買いのやさしさで

十二月あのひと刺しに汽車で行く

くりからもんもん冬の金魚は逆立ちに

別宅という言葉あり蝉しぐれ

評論集『俳句往還』(1995年/本多企画)の「なにを言い止めるか」で、「コトバ以前に常に強く執着する質だ」と自らを評し、「日常の有限性のなかに無限性が見える、…もともと日常の猥雑さのなかでしか、俳句は俳句たり得ないのではないか、…日常にどっぷりつかっていて、ある時ある時に日常を超える一瞬を言い止めよう、その言い止め得た姿こそ、私にとって真の現実たりうるのである」という。

けぶる母郷いくたび芹の匂いたつ

水匂う夜明け共有林に入る

しんしんと青い鎌ふるなまけ者

青梅を煮つめる女ばかりの家

めしこぼす母いて椿まっさかり

穴井の言葉はごつごつしている。骨太の質感。金子兜太の秩父のそれと低通しているが違う、北九州の風土と素朴。兜太の知に対して、穴井の直情。そんな感じか。ごつごつした言葉で、高度経済成長期の日本、変わる風景に向き合う。図式的過ぎるというような批評家的態度は穴井には無縁だ。許せんもんは許せん。愛着のあるものは大事せんと。変わりゆく風景を懐かしい者らがかすめて通る。

枯山に鳥透き肉親こぼれゆく

あおあおと地へ腰据える山椒売り

ももいろの舌をあそばす枯野かな

ことごとく木を諳んじる時雨なり

風の木あり死者をかついで山越える

子供らを見詰める。仲間ということを考える。エッセイ集『吉良常の孤独』(1997年/葦書房)には、熱いとしかいいようのない教師体験が綴られている。

うすいくちびる仲間はずれの鳥がいて

九月の教室蝉がじーんと別れにくる

あたらしい帽子が太くて枝張る桜

番長も俺も毛深きゆきのした

ゆうやけこやけだれもかからぬ草の罠

うすいくちびるは話したくても語れない。別れ。命。九州弁で「太い」は大きい、肉体を感じる言葉。そして俺も。遊びのあとの草の罠。理屈より感情。失われゆくものへの哀惜。
父死んでやがて母死ぬ麦こがし

平成七年二月、「天籟通信」を蔭で、というより一緒に支えた妻、君子が十年間の人工透析の後、死去。「春夕焼あの世を歩くキミコのばか」。その後の穴井は生き急ぐ。平成九年十二月、七十二年の生涯を閉じる。

『明日は日曜』によれば、君子が救急車で運ばれるというときに「僕のこと書いてみんね」と言ったという。君子との生活が終わるかもしれないという予感は、自身の来し方と終着の思いへと繋がったのだろう。

むろん最後は酒の句。穴井はよく呑み、よく語ったらしい。酒飲みなら頷くしかない句を作った。どの句の酒も胃の腑に滲みる酒である。

筍さげ酒にすべきか酒にする

冷奴酒系正しく享け継げり

秋風や酒で殺める腹の虫

良夜かな二勺の酒にいたわられ

めしが出て三日月の出る宴つづく

晩春、盛夏、白露と飲み続け、〆の飯が出ても放談し。また春が来る。

梅咲くや酒屋へ一里黄泉へ二里

●

なんじゃもんじゃ通りに句碑って、なんだかいい。なんじゃもんじゃで思い出すのは山崎方代。あ、あれは『こんなもんじゃ』(2003年/文藝春秋)だ。飲んで放浪して死んでしまう。そんな無頼な生き方をも受け入れる時代は終わってしまった。無頼なんて、それは心が病んでいるのですよ、と言う。そうかもしれません、そうかもしれませんが、病んでいるのは人ではなくて、人らしくあることを拒絶する社会の方かもしれないじゃないですか。

山頭火を論じた「風になった男」という一文がある。『俳句往還』に、また『現代俳句文庫 穴井太句集』(1994年/ふらんす堂)にも収められている。もともとは写真集に寄せたものだとある。

その山頭火もまた病んでいたかもしれないし、ハタ迷惑な奴だったろうけれど、そんな男に寄り添って「男の腹の中には、酒の虫や孤独の虫、それに栄達の虫や絶望の虫といった、いろいろの虫がうごめいている。山頭火においては、それらの虫が抑え難く大きくうごめき、ついには行乞放浪の旅に出たと思う」と。穴井はそうした原初のこころの伴走者であり続けた。

仲間を大事にし、妻を愛し、人と酌み交わすのが好きだった。そうであればこそ、自身の孤独をひっそりと抱え続けたに違いない。最後の句集『原郷樹林』(1991年/牧羊社)の一句。

一樹のみ黄落できず苦しめり

こんな時代になりまして、時世時節は変わろとままよ、穴井太の武骨な句に胸を締め付けてもらいたくなるのです。酔いが回ったのかも知れません。

( 了 )

2021-01-24

【句集を読む】海の明るさ 石井清吾『水運ぶ船』 小林苑を

【句集を読む】
海の明るさ
石井清吾『水運ぶ船』

小林苑を


今がわが家族の旬か祭笛  石井清吾(以下同)

清吾さんとはいちど吟行をご一緒した。穏やかな笑みと長身が印象に残った。所属する「青垣」代表の大島雄作氏による序には、石井清吾が俳句に出会ってからのことが詳しく書かれている。「退職して自由の身だった」「平明さを求めている『青垣』で句を磨いてきた」、そして俳壇賞を受賞。なにより清吾句の魅力は「日向性」にあると。

そうなのだ。句集から受けるイメージは海の明るさ。長崎育ち、明石暮らしの所以だろうか。辛いはずの事柄さえもどこかおおどかなのだ。それは覚悟なのかもしれず、なんだか羨ましくもある。

掲句、「旬か」の「か」に滲むのは人生。祭笛は郷愁のアイテムであり、であれば作者を知らなくともさまざまな経験をして「今」があるはずと伝わる。難しいことはなにも言わず、サラッと「旬」なんてことを言う。祭笛が明るいのに哀しくも聞こえて、穏やかな「今」が沁みる。

パエリアを炊く大なべや南風吹く

どうってことない句だけれど大好きな句。あ音の繰り返しによる明るさ、パエリアからなんとなく連想されて、南風吹くで海からの風が鼻先にまで吹いて。美味しそう。なんて気持ちのよい日なんだ。

清吾句はどこか初々しい。それが働き詰めの人生の中に見え隠れしてこちらも嬉しくなるのです。

切抜きし書評古りたり百舌の贄

桔梗や弓引く前に正座して

おくんちや笛聞けば撥おのづから

海峡の夏へルアーを飛ばしけり

身長の少し縮んでお正月

風光る未決の箱をからつぽに

器具寄せて実験台の夜食かな

葉桜や真水ですすぐ試験管

新生児覗きに来たり祭髪

水族館へ水運ぶ船夏はじめ


石井清吾『水運ぶ船』2020年12月/本阿弥書店

2021-01-17

【句集を読む】暮らしのひとこま 津川絵理子『夜の水平線』を読む 小林苑を

【句集を読む】
暮らしのひとこま
津川絵理子『夜の水平線』を読む

小林苑を


鏡餅開くや夜の水平線  津川絵理子(以下同)

選ぶのに困る。どの句にも静けさ、穏やかさ、懐かしさという、和色のような微かなくすみがあり、佳い悪い、好き嫌いで選ぼうとすると、どれも佳いし好もしい。淡々とした日常、住み慣れた定型。俳句が伝えてくれる好いものが詰まっている。

掲句は句集のタイトルとなった句であろうが、実は、この句集ではむしろ特異。句またがりで二物衝撃或いは衝撃的。切れの強さも他の句にない気がする。だからと言ってなにがあったというわけではなく、鏡開きという年始行事の終わりを、いつも年のように行ったというだけのこと。むろんハレからケへの移行の行事でもある。この「や」をどう捉えたらよいのだろう。餅を割ったとたん、現れるのは夜の水平線。白から闇へ、動から静へ。この突然の場面転換はなんだろう。

収められた句は作者自身が言うように「日々の暮らしのなか、ささやかだけれど心に留めておきたいもの」に違いないが、当たり前に過ぎてゆく日常のひとこま、ひとこまに、夜の水平線が横たわっている気がしてくる。心に留めるのはさり気ないひとこまの中にある永劫のようなもの。人の生よりも遥かなもの。普段、わたしたちは気にも留めないで過ごしているけれど、ふっと気づくことがある。

冬の雲疾し一本の電話のあと

なんの電話だったのかはわからない。冬の雲が動く。「疾し」の不穏さ。大仰に言えば生きていくとはこんなひとこまの繰り返しでもある。余計なことは言わなくてもいい。それは俳句そのものだという気がする。

山の音太きつららとなりにけり

金盥ぐわんと水をこぼし冬

鎌倉の立子の空を初音かな

麻服をくしやくしやにして初対面

加茂茄子のはちきれさうに顔うつす

たどりつくところが未来絵双六

春寒き死も新聞に畳まるる

ちよいちよいと味噌溶いてゐる桜どき

病院の廊下つぎつぎ折れて冬

水に浮く水鉄砲の日暮かな


津川絵理子『夜の水平線』2020年12月/ふらんす堂

2020-12-20

【句集を読む】旋律 豊里友行『宇宙の音符』を読む 小林苑を

【句集を読む】
旋律
豊里友行『宇宙の音符』を読む

小林苑を


夢を漕ぐ
Rowing a dream    豊里友行(以下同)

どれを選べばいいの、と『宇宙の音符』をいったん閉じる。音符は煌めき飛び交い飛び散り、さまざまな音色を奏でてくれる。優劣も好き嫌いもつけられない。とりあえず表紙を見てよ、この表紙のような句群なの。楽しくなるでしょ。さまざまな音色の背景には厳しい沖縄の現実が、怒りが、横たわっているのだ。だけど、それでも、とても明るい。

沖縄の海を思う。あのブルー。人を思う。あの笑顔。初めて乗ったタクシーの運転手氏は昔からの知り合いみたいに話した。仕事で出会った人は時間があるなら付き合うよと言ってくれた。初めてなのに隠さない、開けっ広げ。『宇宙の音符』はあの沖縄だ。

2015年から2020年まで時間を追いながら全11章。最初の章のタイトルは「夢を漕ぐ」。この章は一句のみで、それが掲句(笑)。この自由律以外にも、スタイルの違う句がさまざまに並ぶのだけれど、この最初の一句こそが句集の主旋律だと思う。装丁にも、挿画にも、一句一句につけられた英訳にも流れる。

はなざかりのしままるごと遺品なり
Flowers bloom extensively, all of the island relics

さらに《青空の画鋲のような戦闘機》《あふりかまいまいつぶしてあるく老婆》《君は夕焼けに滅ぼされてゆくよ》等の哀切にも主旋律は流れる。

大好きな4章「がっこうでおしえない」はなんと言ってもタイトルが良い。《口説き方わからない埴輪になっちゃた》《かばをみるかばにみられる夏休み》《首のない平和な冷凍庫のチキン》《森も海も奪うこの手はなんですか》。それらはとても大事なこと。

選ぶのがほんとに難しいので、2章「エキストラ」の最後の句で了ることにする。この章は総出演って感じなのだが、なにが総出演かを説明すると長くなるので省略。興味のある方は見てください、読んでください。

月も踊れ
花も踊れ  宇宙の音符よ
日も踊れ
Moon, dance/Flowers, dance/Sun, dance  note of universe
〔註〕「踊れ」にはすべて「モーレ」の振仮名。


豊里友行『宇宙の音符』2020年9月/沖縄書房






2020-12-06

【句集を読む】現在と過去を二重写しにする存在 鴇田智哉『エレメンツ』を読む 小林苑を

【句集を読む】
現在と過去を二重写しにする存在
鴇田智哉『エレメンツ』を読む

小林苑を


いうれいは給水塔をみて育つ  鴇田智哉

何度も読み返す。句集をひとつの作品として編むのが当たり前になってきているのだろう。だから一句との出会いの悦びを味わうのとは違う。迷路に入り込むように頁を繰っていくことになる。

『エレメンツ』というタイトルが既に暗示的なのだけれど、ⅠからⅢまでの章立てはさらに細かい小タイトルで区切られていて、この小タイトルれが極めて象徴的なタイトルばかりなのだ。だから仕掛けが溢れているようなのに、句集全体の印象はひどく生真面目なのだ。

小タイトル20余りの小タイトルの中の4つが「35°37'34.9"N 139°26'13,9"E」というような謎の文字列で、たぶんと思ってGoogleで探る。「日本経緯度原点は、日本国内の測量の基準点。東京都港区麻布台二丁目に位置する」とWikipediaで知る。作者はいま自分が立っている地点を伝えようとするのだけれど、謎解きは読者それぞれに委ねられる。

掲句の「いうれい」は季語のようで長い時間を給水塔とともにあるのだから季語ではない。作者もいま給水塔を見ている。死んだ者も生きている者も給水塔の見える場所で空や風とともにある。私には『エレメンツ』の迷路の真ん中にこの給水塔が立っている気がする。見上げればいつもそこにあるものとして。

句集全体を通して頻出しているように感じたのが団地と電柱なのだけれど、実際にはそんなに多いわけではない。現在と過去を二重写しにする存在として印象に残ったのだ。《うすばかげろう罅割れてゐる団地》《凍る地を踏みしだき団地をのぼる》《眩しくてこはい団地のハナミズキ》。これらの団地はときに賑やかで、ときに廃墟だ。

さらに電柱。実は電柱・電信柱で2句しかない。さらに電線と給水塔。これらも生きる地点と距離或いは時間を感じさせてくれる。《うすらひを越えて電線沿いにゆく》《電柱で今日の私に出くはしぬ》《しやつくりや電信柱まで進む》。

気になると言えば、いくつかの紫陽花や鹿の句にも触れたいのだけれど『エレメンツ』の迷路で探してみてほしい。好きな句を何句か。

紫陽花に落ちてきよとんとする小鳥

車座のひとりづつ風穴のある

抽斗をひけばひくほどゆがむ部屋

マスクはりついた私があちこちに

この部屋が金魚となりの部屋は雨

空蟬をなくして次の日になりぬ


鴇田智哉『エレメンツ』2020年11月/素粒社 ≫amazon

2020-11-29

【句集を読む】「私」を刺す 柏柳明子『柔き棘』 小林苑を

【句集を読む】
「私」を刺す
柏柳明子『柔き棘』

小林苑を


無患子を拾ふきらひな子のきれい  柏柳明子『柔き棘』

話したことも、たぶんお会いしたこともないのに、柏柳明子の句も人もとても親しい気がする。句集名となった「抱きしめられてセーターは柔き棘」の感触。このゾワッという生理感覚。息を吸うのでも吐くのでもなく止まる瞬間。モヘアのような毛足の長いふわふわの柔らかなセーターに違いない。その長い毛足を棘と感じる「私」。相手を嫌いだからではない。むしろ喜びを感じているときに「私」を刺す棘。

掲句の無患子の実は皮をむくと大きな漆黒の種があり、これが羽根つきの羽根の玉になる。腰をかがめて拾われた不細工な無患子は白くて華奢な掌に乗るのだ。「きらいな」「きれい」の ki ki の繰り返しにも、「きらい」という感情や「きれい」という妬ましさにも、棘はあって「私」を刺す。

この疎ましい自意識の抱え方は女特有のものなのだろうか。どちらもセクシュアリティ抜きには感受できない句。たぶんそれが疎ましさの正体でもあるのだから。親しいと感じるのはこれかもしれない。決して口にしない(女である)自分という存在の面倒くささったら。

勿論、ゾワッとばかりしてはいられない。句集には《釣堀や加藤一二三のやうな雲》なんてクスッとする句もあり、特別なことの起こらない日常という時間が過ぎ、季節は巡る。《次々と傘をひらきて卒業す》《台風圏四角くたたむ明日の服》《だらだらと親族の来し蕎麦の花》《鋏ならきれいに切れる冬の空》。この世の則の中で、でも確かに目を凝らしながら。

するとね、いろんなものが見えるのです。

青葉木菟見えない友達と遊ぶ  柏柳明子(以下同)

よく風のとほる廊下よ竹の秋

幽霊と飯田橋ギンレイホール

炎天をギロチンの刃の落ちてくる

春の星頭の重きぬひぐるみ


柏柳明子句集『柔き棘』2020年7月19日/紅書房(炎環叢書) ≫amazon



2020-11-22

【句集を読む】わたしと出会うための一冊 樋口由紀子『めるくまーる』 小林苑を

【句集を読む】
わたしと出会うための一冊
樋口由紀子『めるくまーる』

小林苑を


わたくしをひっくりかえしてみてください  樋口由紀子(以下同)

『めるくまーる』のことを書こうと思ってからだいぶ経つ。うーむと前句集『容顔』を探すと、たくさんの付箋が貼られたまま本棚に収まっている。読み終えた句集の付箋は外して戻すので、付いているのは読みかけってことで、むろん途中まで読んだのではなく迷ったままなのだ。

なにしろ謎だらけ。《前の世は鹿のにおいがしたという》《ぎやまんのまんなかへんがきっと犬》。気になって前に進めなくなるんですけど、どういう意味ですか。《婚約者と会わねばならぬ大津駅》なんてもうお手上げです。婚約者って、とても面倒そうだとは思いますし、なんだか笑いたい気もします。しますけれど、です。

たぶん、と私は思う。もっと素直に言葉を信じることなんだろうと。謎は謎のまま感じればよいので、謎解きではないのだと。

蓮根によく似たものに近づきたい

困惑を眠らせている金盥

雑巾をかたく絞ると夜になる

自転車で轢くにはちょうどいい椿

取返しつかない窓をもっている

たとえば、これらの句群は直感的に分かると感じる。ほっとする。分かるを助けてくれる「もの」がある。しかし、俳句では単なる「もの」を置くことで景を鮮明にするのだが、ここでは唯の「蓮根」「金盥」「雑巾」「椿」「窓」ではなく、もっと過剰だ。これ等は作者の化身のような「もの」達なのだ。だからといって暗喩と捉えようとするとむしろ邪魔で、作者の思いが姿を現した「もの」達なのだ。

ところが、とようやく揚句に辿り着く。ここには化身どころか「わたし」がいて「ひっくり返せ」と言っている。裏返すのか、逆さにするのか、どちらにしても「みてください」とお願いしているのが怪しい。なにかが起こりますよ、ほんとうのわたしが現れるかもしれませんよ、と誘いかけてくる。でも、ひっくり返すと樋口由紀子がまんま立っていそうで、「苑ちゃん、なにしてんの、早くし」とか言いそうで。もういちどひっくり返すと、「苑ちゃん…」と無限ループに入り込みそうな気もしてくる。

人間は見た通り、言ってる通りではない、何を考えてるか分からない存在だと大抵の人が思っている。では自分はどうだ。わたしですか、わたしは…。『めるくまーる』はわたしと出会うための一冊。

最後に大好きな一句を。

なにもない部屋に卵を置いてくる


樋口由紀子『めるくまーる』2018年11月12日/ふらんす堂 ≫amazon

2020-11-15

【句集を読む】ええなあ、西のお人は 小池康生『奎星』を読む 小林苑を

【句集を読む】
ええなあ、西のお人は
小池康生『奎星』を読む

小林苑を


参道の箒目に雪混じりをり  小池康生(以下同)

『奎星』は三章から成っており、各章が春・新年から冬・早春へと編まれている。最終章の一句目は「初明かり奈良は生駒の向かう側」。大阪の人である作者からすれば初明かりは生駒山の向こうの奈良の方角、つまりは天平の彼方からやってくるのだ。なんとおおどか。ほんま、ええなあ、西のお人は、と思うのです。この句に限らず地名建物名がなんともな、東国の田舎モンとしてはズルいと言いたいような佳い句がある。

それは置いときます。揚句は新年のことだろう、と言いたかったのです。早朝、境内を掃き浄める頃はまだ雪だったかもしれないし、庭ではなく参道に箒目が残っているというなら、参拝もまた早い時間に違いない。結晶のような雪が箒目に混じっていたと、それだけ。なにも言わない、だからこそ、読み手は新たな年の清冽な冷気を肌に感じます。

このように『奎星』はどの句も丁寧に詠まれており、余計なことは言わない、俳句の真骨頂ですね、とここで終わってもいいのですが、実は帯文にある作者の「大患」が投影されている句集でもあるのです。であれば、揚句の凛と張り詰めた空気の中のすぐにも解けてしまうであろう雪の煌めきが刺さってきます。

少しだけ自分のことを。健康には自信があった私ですが、体調不良で病院のお世話になり「完治する治療法はありません」と告げられてから、「いま」という時間を生きているのではなく「生かされている」と感じるのです。生かされている間に、なにができるか、なにをすべきか。大袈裟な話ではなく、当たり前だった日常のひとこまひとこまが大事な時間なのです。

《大阪の男いらちぞ祭鱧》《みかん剝くさして食べたき訳でなく》《マフラーの中で一人になつてをり》の鬱屈。なにより《ななふしのやうにどこかにゐてくれる》の情愛。誰とは書いていないけれど奥様のことでしょう。枝そのもののような擬態で知られる昆虫で、草食なのだとか。「どこかにゐて」「くれる」。自身の思いとともに、これらの句には作中主体を見つめる作者の目を感じます。『奎星』は私小説のように作者の心情が刺さる句集なのです。

恋猫は婦長のやうに戻りけり  小池康生(以下同)

鹿の子の咥へてすぐに後じさり

店よりも厨明るし寒の入

立秋や朝から昆布を水に浸け

夕空に鷹の匂ひを残しけり


小池康生『奎星』2020年10月/飯塚書店 ≫amazon

2020-11-01

【句集を読む】絵コンテのような句群 能城檀『カフェにて』を読む 小林苑を

【句集を読む】
絵コンテのような句群
能城檀『カフェにて』を読む

小林苑を


美しき手の人と見る蟻地獄  能城檀

「美しき手の人」は手のアップだけで顔は見えない。だからこそより美しく、一緒に見ている私(作者)には姿そのものがない。蟻地獄があれば覗くのは俳人なら当たり前の光景なので、この句は吟行句かもしれない。でも、絵としては白くて細い(たぶん)手があるだけで、つぎに蟻地獄の暗い穴に焦点が絞られカットが切れる。暗示的でドラマティックで、どこか恋の匂いさえするのです。

作者が良い意味で傍観者である句、言い換えるなら映画の制作側の目線の絵コンテ(storyboard)のような句群がこの句集の魅力。わたしたちはこの絵コンテからイメージを膨らませドラマに入り込んでゆく。なにかが始まりそうな予感、そんな句群。そう思うと『カフェにて』というタイトルから既になにかが始まっているようなのです。《珈琲店春にはぐれたひとばかり》、ちょっと古風な店に集まってくる客たちが思い思いの席に座って黙って珈琲を啜っている。客のひとりひとりにドラマがありそうな、そんな雰囲気が伝わってきます。

『カフェにて』はどの場面も珈琲店の客達のように寡黙で、音が消えているようで、とても静か。

仲の良い他人にもどる梅の花  能城檀(以下同)

放置自転車拉致されてゆく油照り

病室から四角い八月が見える

いぢわるな人ときてゐる秋の浜

探偵は自転車で来る冬夕焼

食堂の最後の客として月光

句集のもう一人の主役は東京。著者略歴には東京都生まれ、仲寒蟬氏の序文によると港区在住で最寄り駅は麻布十番とある。麻布十番といえばいまや東京でも屈指のお洒落な街なのだけれど、私なんかは浅田次郎の『霞町物語』を連想したりして、むしろ下町の風情で《切干や東京もまた故郷なる》がよくわかる。切干、いいねェの気分。もともと東京は余所者の寄り集まった庶民の町、それが東京オリンピックを境に急変貌して、生まれ育った人間にはあの頃の東京への郷愁がある。とんでもなく変わり、なお変わってゆく故郷。立ち竦むしかありません。

火柱として冬ざれの東京タワー

不可解なきのこ生やして夢の島

麻布永坂約束のごと春時雨


能城檀『カフェにて』2019年12月/ふらんす堂 ≫版元オンラインショップ

2020-10-25

【句集を読む】暮れそで暮れない黄昏時 瀬戸正洋『亀の失踪』を読む 小林苑を

【句集を読む】

暮れそで暮れない黄昏時
瀬戸正洋『亀の失踪』を読む

小林苑を


粕汁や四人掛けの席に五人  瀬戸正洋

だからなんなんのよ! であるが、わざとなんだから知らんぷりしたくもある。こんな句をつぎつぎ繰り出す瀬戸正洋の第六句集『亀の失踪』が届く。封を切るなり受取人である同居人は「平野甲賀じゃないか!」と叫んだ。果たしてその通り。まず装幀で盛り上がり、『亀の失踪』だなんてと盛り上がるのである。
※ちなみに第五句集のタイトルは『へらへらと生まれ胃薬風邪薬』です。

もう少しすれば粕汁の美味しい季節がやってくる。粕汁はもやもやと喉につまりそうで苦手な人もいるだろうし、これでもかの粕どろどろが堪らんと言う人もいる。素朴だけれど独特な食べ物というか飲み物というか、身体がポカポカ温まる。

場所は居酒屋かな。もともとゆったりなんかしてない「四人掛けの席に」は7音のはずが9音でギュウギュウ感溢れたところに「五人」でそうかとストンと得心する仕掛け。ギュウギュウはポカポカに通ずで、無理矢理一人詰め込んで身体寄せ合って粕汁を啜り、勿論酒も飲むだろう。テーブルだってゴチャゴチャする。よきかな、よきかな。いまなら「密」とか言われて嫌われる奴だけど、だからこそ掲句。ゆったりと比べてギュウギュウ・ゴチャゴチャはちと貧乏臭くて、冬の夜はこうでなくっちゃ。

句集には「後記」と「寄稿」と「解説」が付いている。どれも瀬戸正洋は照れ屋で糞真面目だって書いてある、と私は思う。そんなこと書いてないよと思うなら、そう思えばいいのだし。こういう人は「男根と弾痕大根は亀戸だと思ふ」とかしょうもないことを詠みたがる。「やや寒や人に嫌われようと思ふ」とか一見投げ遣りな句を作りたがる。だけど今回、真面目分量が増えた気がする。「にんげんの分際で何ができる晩夏」「COVID-19十一月の黒いくれよん」、いずれも帯に掲載されていて、人生も最終局面だぜと言ってるような気もする。五歳年下、だいぶこっちに近づいてきたね。仲間だね。暮れそで暮れない黄昏時も悪くないぜ。

クスクスしながら、だからなんなのよ!と呟きたくなる。正洋節は健在なり。

鰯も人も塩を振つたり振られたり  瀬戸正洋(以下同)

鯖の缶詰雑煮の前に置きにけり

夕立や映画の中の樹木希林

八月のあんどうなつの油かな

居酒屋にトイレはふたつ半夏生


瀬戸正洋句集『亀の失踪』2020年9月/新潮社 ≫amazon

2020-10-18

【句集を読む】かさばる 池田澄子『此処』を読む 小林苑を

【句集を読む】
かさばる
池田澄子『此処』を読む

小林苑を


わたし生きてる春キャベツ嵩張る  池田澄子

なんだかおこがましい気がする。するけれども、ま、いいか。この著名で人気のある俳人の句集を読むと、なにより口語で書くという決意のようなものが伝わってきて、ゾクッとする。いまや口語俳句は世に溢れているが、この人のぶれなさは凄い。代表句がどんどこ浮かぶのも口語の訴求力にあると思うが、口語ならあるわけではなく澄子的口語表現の程良い突き放しがリズムの良さと相まってストンと入ってくるからなのだ、なんて私なんかが言うと誰かに舌打ちされそうだけど、ま、いいか。

池田澄子×佐藤文香対談で「主語は池田澄子じゃなくて、この時代に生きている一人」だと言っていたけど、たかだか十七音に思いは書かず思いを書くというのはどうすればいいんじゃ。ここでもういちど程良い突き放しと言いたい。ほんとうは表紙や帯の句は避けたかったのだけれど、あまりに池田澄子的な掲句にしたのも、このことを説明し切れないが伝えたかったから。「わたし生きてる」と言い切って終わり。二物衝撃という俳句技法で「春キャベツ嵩張る」。思いは春キャベツの明るい色と嵩。芯は重いのに外側の葉の膨らみ具合は軽くてふかふか。嵩か。生命力なんていったら重過ぎるけど嵩なのか。句集『此処』の背景には身近な人々の死がある。されど此処で「わたし生きてる」。伝わるかな。

もう一句に少しだけ触れたい。戦争体験者はほんとに僅かになって私でさえ戦争を知らない子供たちなのだけれど、澄子句の程良い突き放しは反戦の思いにも及ぶ。

ごーやーちゃんぶるーときどき人が泣く  同

「ごーやーちゃんぶるー」の平仮名表記と音は泣いているように見える聞こえる。沖縄が泣いているのが見える聞こえる。この句を忘れることはないだろう。どんどこ浮かぶ澄子句がまた一句。

この人と居て嬉しくて瓦斯ストーブ  同

細切りの海苔を散らせばこぼれて春  同

さわらせてもらう鼓弓の涼夜かな  同

散る木の葉この世に入ってくるように  同

千代紙で鶴など折るな夏は暑い  同

よく晴れて昼の一人の春炬燵  同

●

池田澄子句集『此処』2020年6月/朔出版 ≫amazon

2020-10-11

【句集を読む】さみしいのかたち 宮本佳世乃『三〇一号室』を読む 小林苑を

【句集を読む】
さみしいのかたち
宮本佳世乃『三〇一号室』を読む

小林苑を


蜜柑山はやく帰つてはやく死ぬ  宮本佳世乃

初出はどこに掲載されたのだったか、どう受け止めればいいのか戸惑った記憶がある。同時に「ああ、わかる」とも思ったのだが、書こうとすると上手く書けない。でも気になって、一句なら他にいくつも浮かぶのにこの句から離れられない。

『三〇一号室』は「二階建てバスの二階にゐるおはやう」で締めくくられる。この句には佳世乃句のすべてがある。ひかりに溢れているけど冷んやりしていて、呼びかけ(挨拶)がある。特定の誰かではなくみんなへの呼び掛け。この掛けずにいられない共感性・迷いのなさの清潔感。これが佳世乃句の魅力だ。そして、宮本佳世乃の明るくて清潔な世界はほんの少し危うい。

みんなさみしい明けましておめでたう  同

さみしいは佳世乃句のキーワードだと思う。ひかりに溢れているけど冷んやりはさみしいのかたちなのだ。目の前の光景を見詰めていると同じなのに違うように見えてくる。たとえば印象派の画家に光の粒子が見えるように、だろうか。見えるだけではなくて肌に触れてきたりするんじゃないか。其処から言葉にしてゆく俳句の感性が宮本佳世乃にはある。

ところで『三〇一号室』とは「あとがき」にある著者が住んでいた部屋だろうか。病室かもしれない。強引に掲句に引き寄せるなら、そこは帰る場所であり人生を終わらせる場所なのだ。密柑山は晴れていて海が見えるのかもしれない。そんな明るい場所だからこその此処は居場所ではないという違和感。「はやく帰つて」はよく分かる。さらに「はやく死ぬ」と言われて立ち竦む。いずれ人は死ぬ。死にたいと死にたくないは同じだとも思う。でもこんなにも清々しく潔く死がそこに置かれている。ふいにこの解釈は違うかもしれないという気がしてくる。もしかしたら部屋の窓から蜜柑山が見えるのかもしれないし、帰るのはあの明るくて冷んやりした蜜柑山なのではないか。不穏なのに安らぎのある不思議な一句。

こどもつぎつぎ胡桃の谷へ入りゆく  同

陽当たりのちがふ黄色い菊畑  同

透明な傘をすべつてゆく秋よ  同

空蟬は耳のかたさよ眠くなる  同

夏痩せてたまたま顔のある煮干  同

その他はブルーシートで覆はるる  同


宮本佳世乃『三〇一号室』2019年12月/港の人 ≫amazon




2020-10-04

【句集を読む】守りと攻め 松本てふこ『汗の果実』を読む 小林苑を

【句集を読む】
守りと攻め
松本てふこ『汗の果実』を読む

小林苑を


だんじりの日のしづかなる理髪店  松本てふこ『汗の果実』

揚句を語る前に同句集にあるもう一つのだんじりの句に触れないわけにはいかない。

だんじりのてつぺんにゐて勃つてゐる  同上

この句の方が話題性もあり、著者らしい句と評されているだろう。確かに「勃つてゐる」の思い切りの良い言葉選びはてふこ句ならでは。でも、私は最初の句が好きだ。さらに言えば、こちらの方により松本てふこを感じる。

句集名から『狂った果実』を思った。実はこれ、アリスのアルバム・タイトルだったり、アダルトゲームのブランドだったりするらしいけど、日活映画(1956年制作・石原裕次郎主演)のこと。もちろん果実繋がりではあるが、私の中でもてふこ句が「勃つてゐる」とともに「おつぱいを三百並べ卒業式」「不健全図書を世に出しあたたかし」であったためだ。彼女の代表句であり、性的なイメージを白日の下にというよりあっけらかんと曝す。こちらを攻めの句と呼ぼう。

ところが、句集から覗われるのは普通の女性の日常だ。おつぱいを並べて卒業したうちのひとりが就職して仕事して恋して結婚して子供を産んで。こんな暮らしの中の憂鬱。これを守りの句と呼ぶとして、なにを守るのか。わたし、であろう。

「会社やめたしやめたしやめたし落花飛花」。ここで重要なのは仕事ではなく「会社」であること。さらに飛花落花ではなく「落花飛花」であること。女が仕事も家庭もと生き抜くのは半端ないんだよ。これは親子以上に年の離れた私が経験的に断言する。そして、いつまで経っても大して変わっていないというより、意識と現実の落差はむしろ大きくなったのかもしれない。生きづらさなんて言葉が浸透し始めたのはいつ頃からだろう。てふこ句からそんな時代の居心地の悪さが伝わってくる。

祭の喧噪から取り残された理髪店。こんな日は客もいない。理髪店という呼称の床屋とは違う古くさいけど洒落てる、だから格好よかったりもするアンビバレンスな感じ。だんじりという「ハレ(晴れ)」に対する「ケ(褻)」の昏さのひんやりとした安堵感。ここでは頑張らなくても無理しなくてもいい。

攻めと守りの話はこれまで。どちらも戦うには欠かせない。文中に出てこない句をいくつか揚げて、最後に「攻めて、攻めて、攻めまくれ」とエールを送って了りとしよう。

台風が来るぞ来るぞとマトリョーシカ  松本てふこ『汗の果実』

くちづけのあと春泥につきとばす

冷奴頼むさつさと口説かねば

金風や首にうるさき社員証

人ごみに流されながら初笑


松本てふこ句集『汗の果実』2019年11月/邑書林

2020-09-27

【句集を読む】東京女の心意気 太田うさぎ『また明日』の一句 小林苑を

【句集を読む】
東京女の心意気
太田うさぎ『また明日』の一句

小林苑を

初出:facebook

誰からも遠く夜濯してゐたる  太田うさぎ『また明日』

太田うさぎの句は安心して読める。句会をなんどかご一緒したけれど、その場で出される兼題でも吟行でもさらりと巧みに句にしてしまう。仁平勝氏による帯文には「芸達者」とあるが、私の印象は少し違う。芸ってよりは世間とのこの人の向き合い方なんじゃないか。世間というと俗だととられるかもしれないが、敢えて世界などではなく世間と言いたい。

つまりね、と言葉を探す。うさぎ句からは東京女〔*〕の心意気が漂う。剝き出しなんてことは金輪際ごめんだよってね。さらりさっぱり「また明日コートひらりとすたすたと」てな塩梅。大仰に別れとか言わない。明日の事なんてわからない、そんなのは先刻承知だけどさ「また明日」、これがうさぎ流。こんな句もある。「夏帽子振つて大きなさやうなら」。また明日ってわけにはいかないときも明るくさ。いいよね「大きなさやうなら」。

掲句の夜濯、いまでは都会の片隅感溢れる季語なのかも。「誰からも遠く」、どうってことのない日常の夜はすべての人との距離が等しくなる。それが独りってことだ。さみしいんでも気楽なんでもない自分に戻る時間。ちょいと穿つとね、この夜濯は自分のことは自分でやるってことでもあるわけよ。うさぎ句はこの立ち位置が動かないから心地良い。うまいこと言おうじゃなくて、自分がまず面白がる。

富士額見せて御慶を申しけり  同

美人の湯出てしばらくは裸なり  同

ラグビーの主に尻見てゐる感じ  同

なまはげのふぐりの揺れてゐるならむ  同

あっそうかとこっちも楽しくなる。うさぎさんの眼が笑っている。べたべたがちっともないさらっとした笑い。肌触り。「ふり」かもしれないが、ここまで来れば芸の内、ではなかったこの人の持ち味であり生き方なんだろう。

校庭の隅に心臓持つ兎  同

初燕スーツケースに尻預け  同

うしろより浪が浪抱く西鶴忌  同

きつねのかみそり迷子になつてゐないふり  同

ゐた人の消えコスモスの曲り角  同


〔*〕東京女(とうきょうおんな) 読んで字のごとし。東女ではちと泥臭すぎ、京女とは異なるさっぱり感。江戸から遠く離れて魔都に住まうこと久し。


太田うさぎ句集『また明日』2020年6月/左右社

2020-09-20

【句集を読む】広瀬ちえみ『雨曜日』の一句 小林苑を

【句集を読む】
ほっこり
広瀬ちえみ『雨曜日』の一句

小林苑を


めんどりがあたためているさようなら  広瀬ちえみ『雨曜日』

川柳の話をしようとすると緊張する。俳句は深読みを嫌ったりするのだが、川柳は寓意と(誰に言われたわけでもないのに)思い込んでる節があり、なにかを汲み取らなければと虚心になれないらしい。なのに俳句の深読みは大好き。

句集名がなんともお洒落な『雨曜日』。中には「たまたまもまたまたもあり鳥堕ちる」「午後からは豹が降るかもしれません」等のことば遊びなんかもあって、思いの外するすると読み進められた。ところが、帯が気になる。
かって…沼があった…木立が繁り…いまは見えない。ちえみを探したければ、そこに行けばいい (中西ひろ美) 
こんな謎めいたこと帯に書きます? 句柄が変わった? 著者のあとがきにも沼が出てくるし、句集にも「梅雨に入るからだが沼の匂いして」「笑ってもよろしいかしら沼ですが」がある。

手元に『セレクション柳人』全巻。正直『柳人』は捲った程度のものが多いのだが、それではと『広瀬ちえみ集』を開いてみる。どうも、と私は思う。女であることが面倒なとき、広瀬ちえみの句はいきいきするようだ。おかげさまで、と私は呟く。面倒にはこと欠かなかったもんね。著者とは面識がないが、ひとつだけ分かっているのは同世代ということ。

どんどん長くなりそうなので端折りに端折ってひとつだけ。『柳人』にも『雨曜日』にも父の句がいくつかある。『柳人』なら「父を食べ尽くして軽く口を拭く」とか。娘にとって父は男という存在の入口。面倒始め。好きだけど嫌い。

掲句に戻らねば。雌鶏が自然の営為として卵を抱く。とても大切に。ところが、あたためているのが「さようなら」だとしたら。人生にはいくつもの「さようなら」、いちど切りの特別な「さようなら」、最期の「さようなら」もある。女である面倒の源はこのあたためる役割なのかもしれないし、いつか「さようなら」するんだと(怖いんだぞ)決意を育てているようでもある。そうかそうかと雌鶏を思い浮かべると、これがなんともほっこりした姿なのだ。

ぶるぶるっとことばまみれを振り落とす  同

尋問を受ける突起があるために  同

胎内の大きな合歓の木が揺れて  同

物干しの父を取り込むのを忘れ  同

いらっしゃいませどの鳴き声になさいます?  同


広瀬ちえみ『雨曜日』2020年5月/文學の森





2020-09-13

【句集を読む】待っているらしい 生駒大祐『水界園丁』の一句 小林苑を

【句集を読む】
待っているらしい
生駒大祐『水界園丁』の一句

小林苑を

初出:facebook

はんざきの水に二階のありにけり  生駒大祐

句集を閉じると一編の物語を読み終わった気分がした。有り体に過ぎるけれど、園丁の語る水界日記のようなと言ったら伝わるかな。特別なドラマは起こらない。誰か、或いは何かを待っているらしい様子があって、ときどき水が揺らぐと、来たのかも知れないと顔を上げるが、また世界は静になる。そんな感じ。

この水界がどんなところかというのは句集に多く収録されている水に関わる句群を読んで貰うしかないが、掲句によれば広くて深い海の底というより淡水の昼には光も射してくるような場所で、二階もあるらしい。

昔、四国だったと思うのだけど、はんざきのいる川で出てくるのを待ったことがある。存外浅いところに棲んでいるんだなというのと澄んだ水が印象に残っている。そして私の世代なら井伏鱒二『山椒魚』なのである。はんざきとはあのぶつくさ言ってる奴としか思えない。さらに、またかいと言われるの覚悟で彼の人の句を。

 はんざきの傷くれなゐにひらく夜   飯島晴子

二階があると思っているのははんざきだけなのかもしれない。見上げたりしないからあるかないか本当のところは分からない。でも思えばあるのだ。二階とは行こうと思えば行けるすぐそこのはずなんだが様子の知れない場所。はんざはじっとしたまま二階を感じている。太古の姿のまま、はんざきの神経は研ぎ澄まされている。

選びたい句はいろいろあるけれど、語りたくなる五句を厳選。

せりあがる鯨に金の画鋲かな  同

もう一度言ふ蕪提げ逢ひに来よ  同

五月来る甍づたひに靴を手に  同

子供らが来て祝日を雪にせり  同

水中に轍ありけりいなびかり  同


2017-05-14

【週俳4月の俳句を読む】小林苑を Haiku in Wonderland

【週俳4月の俳句を読む】
Haiku in Wonderland

小林苑を


テレビをつけたら「Alice Through the Looking Glass」をやっていた。邦題は「アリス・イン・ワンダーランド 時間の旅」で「Alice in Wonderland」の第2作。最初のは映画館で観た。珍しく第2作の方が面白い気がした。気がしたってのも、最近とみに記憶力が衰えてきてきているので、前の話がよく思い出せない。

「不思議の国のアリス」を元にした映画は他にも何本か観ている気がする(まただよ)。当然、どれも此処ではない何処かにトリップする話で、此処の私が出会う此処ではないワンダーランドは俳句に似ている、と強引に話をすすめることにする。

涅槃図の諸貝に毛の描かれある  堀下翔

円丈に似たる兎や涅槃図に  同

初っ端から、文字通りワンターランド・涅槃図の句。生真面目に正調で歌われたりすると笑いたくなるのが人間ってもん。だから「描かれある」とか「兎や」って可笑しいでしょ。この二句ほど直球でなくとも「篁に蜂あつまりて濃うなりぬ」、見事に写生ではあるけど「なりぬ」ですよ。この滑稽を逆手にとってるような(若い癖に老成している振りみたいな)節がこの作者にはあって、つまり俳句でしかできなさそうなことやってのける。確かに、円丈って兎に似てる。

蜜蜂の重みに花のしたがへる  瀬名杏香

県庁よりホースの伸ぶる万愚節  同

ワンターランドにどうやって行くかは人それぞれだけど、花に蜂が止まっているだけでもいい。蜜蜂の尻もなんだか可愛くて可笑しい。県庁はさらに滑稽。どこがですか、と引き戻さないで欲しい。ことに四月という晩春は呆けるのによい季節なのだ。

さへづりに遅れピピピと体温計  上川拓真

夜の蒲公英が電灯に集まりぬ  同

「ピピピ」は合図だ。なにかが起こる。電灯に照らされる蒲公英は謀議のために集まって来たのやも知れぬ。ワンターランドに行くのにいるのは想像力だけなので(ときどき記憶力も必要で困るが)、あとは勝手に遊べばいい。

どもれ人間!どおれいんれん!どぉーえにぎぇえ  野名美咲

短夜の湯に浮かべたる洗面器  同

ところで「怪獣のバラード」といえば、あの歌のことなのだろうか。あの歌をなんとなく思い出すと、「どもれ」の句が怪獣の叫びのように思えてくる。学校で合唱曲を歌わされたりしたのか、などと勝手に想像する。すると昼間は大人びた様子で過ごしている女の子が風呂場で洗面器を浮かべたりしているような気がしてくる。お約束として、怪獣は淋しがり屋だ。

台湾にて吾を追ふ髭のゲイの春  関悦史

亜細亜にてマネキン並び黴び始む  同

此処ではない「台湾」にこの作者に連れて行ってもらうことにしよう。連作なので全体の醸し出す雰囲気を楽しんで貰いたいのだけれど、結論から言うと「飛行機に乗つて地球に倦みて春」という、どことなく情けない旅なのだ。俳句は可笑しければいいわけでは勿論、もちろんない。だけれども、情けないというのはやはり滑稽だ。大上段に振りかざす権力的なものの対局にしかワンダーランドなんてあるはずがない。   

龍天にのぼるオルガン組み果てつ  小津夜景

利き手ではない手で触るる櫃の花  同

こちらも「ピエロ・デラ・フランチェスカによせて」とある連作。ピエロ・デラ・フランチェスカの絵画を目に浮かべて迷い込むべし。「隠遁の楽師あつまる桑の花」は入口に相応しい一句。場所も時間も飛び越えるのに、龍が天にのぼったり、利き手ではない方の手で触ったりするのはとても有効。そこには体感が、微熱のようなぬるさがあって、此処ではないのに確かにあるということが伝わるのだ。


第519号 2017年4月2日
■堀下 翔 篁 10句 ≫読む
第520号 2017年4月9日
■瀬名杏香 そとうみ 10句 ≫読む
■関悦史 台湾 10句 ≫読む
■小津夜景 そらなる庭に ピエロ・デラ・フランチェスカによせて 10句 ≫読む
■上川拓真 おほさじ 10句 ≫読む
■野名美咲 怪獣のバラード 10句 ≫読む

2015-12-20

【週俳10月・11月の俳句・川柳を読む】小林苑を (いま)(わたし)たいやきかもしれない

【週俳10月・11月の俳句・川柳を読む】
(いま)(わたし)たいやきかもしれない

小林苑を



たいへん丁重ではあったのですが、つまりなんか書けっていうから、いいよって返事をした。返事をしたからには書かなきゃいけないんですが、困った。なんどもなんども読んでいるうちに、『およげたいやきくん』が頭の中で鳴りだしたというか、止まらなくなった。

そもそもはわかめのせいかもしれない。端から (なな子、社長ほか代用可) とあるので、つまり誰でもわかめなんですよ、ということなんだろう。なんで断りが入れてあるのか、なな子はともかく、社長なぁ。社長にもいろいろあるし、それなりに辛いこともあるんだろう、なったことないけど。

わかめはひねくれているし、ぬるぬるしてるし、もちろんふるえる。エロッぽくもあるわけで、しかも、泣いているらしい。それにわかめっていっぽんじゃなくて、「わかめわかめ」となんぼんもゆらいでいる気がする。そして、ゆらゆらと増殖する。顔のないわかめたち。あのひとのようでも、このひとのようでもあるけど、誰でもない。泣いていると言われれば泣いているし、笑っていると言われたら笑っているようでもある。だけど、こんな風に言うのが妙にくっきりと聞こえる。

なんでやねんうち新宿のわかめやし  榊 陽子 「ふるえるわかめ」

啖呵であり、抵抗であり、主張だ。関西弁のようだけど、異国語だって構わないのだ。どこでもない「新宿」のわかめだと「うち(わたし)」が言うからにはそうなのだ。新宿の場末感・無国籍感がリアリティを与えてくれる。ゆらゆら同じようにゆれていたって、(いま)(わたし)はここにいるんだといわれると、嬉しくなる。

そういう根性はないので、とりあえず無数のわかめのいっぽんとしてゆらいでいようとすると、「進(スス)メ非時(トキジク)悲(ヒ)ノ霊(タマ)ダ」と言われる。ゴメンなさい。なにを言われたのかよくわからないけど、ゆらゆらしている場合じゃないらしいのだ。火の玉となれとか、、パーマネントはやめましょうとか、贅沢は敵だとか聞こえたようだけど、違うかもしれない。でもなんか、そういう時代がありましたなんてことではないらしい。「ときじく」ってのは「いつも」で、いつもってことは(いま)なんだろうか。

たくさんの人が取り巻く国会議事堂にいたことがある。わかめが揺らいでいたともいえるし、鮫が回遊していたともいえるし、ひとりぽっちだったともいえる。そこは確かに海の底のようではあった。気がつくと (わたし)たいやきで、たいやきは泳げないし、海に飛び込んだらどうなるのか。そこんとこに気がつきさえしなければ、とっても気持ちがいいもん♪ で、手を振って♪ もらったりしていた。

竹馬を基地のフェンスに立てかける  竹岡一郎 「進(スス)メ非時(トキジク)悲(ヒ)ノ霊(タマ)ダ」

広い米軍基地のフェンスに竹馬を立てかけるのだという。竹馬は、明るい自然の色をしたまっすぐな子供の遊具だ。みんなが竹馬で遊ぶことを忘れてしまっても、永遠の子供のようにそこにありつづける気がする。

凍星のどこかでペンを置く教師  千倉 由穂 「器のかたち」

たいやきには凍星がよく似合う。いつのまにか(わたし)は安心できる場所に戻っており、どこかで教師がペンを置いたらしい。なんだか懐かしくてほっとする。ほっとしながら、それは既に失われた場面だと感じる。たとえば、家族という器は(いま)ひび割れているのではと不安になる。

追記 たいやきは冬の季語。冷めると不味い。





■榊 陽子 ふるえるわかめ 10句 ≫読む 

第448号 2015年11月22日
■千倉由穂 器のかたち 10句 ≫読む

■竹岡一郎
進(スス)メ非時(トキジク)悲(ヒ)ノ霊(タマ)ダ
前篇:舌もてどくどくする水平線を幾度なぞつてもふやけず諦めず舌が鳥になるまでパアマネントは褒めませう 30句 ≫読む

第447号 2015年11月15日
■竹岡一郎
進(スス)メ非時(トキジク)悲(ヒ)ノ霊(タマ)ダ
後篇:接吻一擲無智一擲惜しむべからず抱くまでは木琴聴いても正気が足りぬ億兆の新たなる終末に洗濯は素敵だ! 30句 ≫読む

第449号 2015年11月29日
■竹岡一郎 進メ非時悲ノ霊ダ(ススメトキジクヒノタマダ)
番外篇:正義は詩じゃないなら自らの悪を詠い造兵廠の株価鰻上りに指咥えてる君へまつろう者を俳人と称えるが百年の計にせよ季無き空爆を超える為まつろわぬゆえ祀られ得ぬ季語へはじめてのうっちゃり 17句 ≫読む