ラベル 宮本佳世乃 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 宮本佳世乃 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026-06-07

『オルガン』宮本佳世乃さんへの「10の質問」〔俳誌の中の人に訊く〕

〔俳誌の中の人に訊く〕
宮本佳世乃さんへの「10の質問」


Q1 関わっていらっしゃる俳誌の名前と概要、そしてご自分の役割を教えてください。

『オルガン』。メンバーは岩田奎、田島健一、鴇田智哉、福田若之、宮﨑莉々香、宮本佳世乃。2015年に創刊し、年4回季刊で発行。私は一応編集ということになっていますが、校正は鴇田さんと二人で行っています。

Q2 『オルガン』の特徴・アピールポイントを教えてください。

現在43号まで発行。作品13句、テーマ詠7句、座談会、往復書簡、連句など。座談会や連句は魅力あふれるゲストを呼んでいること。テーマ詠のテーマはメンバーの持ち回りだが、その人らしさが際立つところ。〔宮本〕

誌名がいいこと。作品なら幾らでもできること。〔鴇田〕

6人の作家が個として独立しながら、独自の共同体を成している点。〔宮﨑〕

Q3 『オルガン』を発行/維持していくうえで、苦労することを教えてください(ひとつでも複数でもかまいません)。

日々の労働に翻弄されることや、体力面などさまざまな理由から、最近遅刊ぎみになっている。経済的に許せばもっと上質な印刷にしたい。〔宮本〕

メンバーの日程が合いづらいところ。〔鴇田〕

決め事は話し合いで決めるので、誰か1人が決めるよりは速度感がスローである点。そこが良さでもある。〔宮﨑〕

Q4 『オルガン』をつくっていくうえで、だいじにしていること・たいせつに思っていることを教えてください。

一人一人が作家であり、作品を大事にしているところ。〔鴇田〕

セッション感、かなと。〔福田〕

個が集まりながら、俳句を書くというロジカルさにおいて、共有しているものがある気がする点。〔宮﨑〕

みんながメンバーで一冊を作っていること。〔宮本〕

Q5 『オルガン』を動物に譬えてください。その理由を教えてください(理由がなければ、言いたくなければ無回答でかまいません)

この質問、どうする?〔宮本〕

菌類、ですかね。動物ではないか、〔宮﨑〕

菌類いいかも〔岩田〕

「菌類 動物」で調べたら菌類は植物よりも動物に近いものと近年はされているらしく、正式には「分解者」らしいです。なんかわたしはよりしっくり来た。厳密には動物ではないけど。〔宮﨑〕

じゃあ菌類にしよう〔宮本〕

いちおう、自分が動物と聞いてぱっと思い浮かんだのは、海月とか蜘蛛とかでした。ぽ。〔福田〕

Q6 ご自分のことに質問が移ります。理想的な休日の過ごし方を教えてください。

昼から川沿いでビールを飲み、ときにごろごろし、夕焼を見て帰る休日。

Q7 現在お住まいの町は、どんなところですか?

駅前は再開発が進んでキレイになり、休日は人であふれている。
大きい公園があり、道が広く、富士山もきれいに見える。
駅前は栄えているが、すぐに住宅街。ずーっと行けば、畑など。
特に南口にはまだまだいい飲み屋がある。

Q8 好きな自然現象について、教えてください。

冬の夜、うっすらと積もるほどに降る雪。

Q9 10年後、『オルガン』はどうなっていると思いますか。「こうなっていたい」という野望・願望でもかまいせん。

オルガンという共同体が変容しながらも続き、書かれたものとその姿勢によって、俳句の世界に微力ながらも風穴を開け続けること。〔宮﨑〕

引退、新規参加を含めてメンバーが入れ替わっている。楽しくやっている。〔宮本〕

メンバーがすっかり入れ替わっている。〔鴇田〕

Q10 最後に、ご自分の最近作を5句教えてください。ベスト・オヴでも、単に直近の5句でも、どちらでもかまいません。

はつ雪や紙をさはつたまま眠る  宮本佳世乃(以下同)
ひまはりのこはいところを切り捨てる
蜜柑山はやく帰つてはやく死ぬ
天井の高くてうちだけがおでん
みんなさみしい明けましておめでたう

『オルガン』問い合わせ先 organ.haiku@gmail.com
購入サイト https://organ.base.ec/



2024-04-21

宮本佳世乃【週俳3月の俳句を読む】余談だが

【週俳3月の俳句を読む】
余談だが

宮本佳世乃


服薬は菓子食ふやうに春の風邪  浅川芳直

春の風邪だからか、失礼ながら深刻ではない様子。ラムネ菓子のようなくすり。そんなに苦くもなく。あれ、でもその次に

閏日を寝返り夢のなき朝寝  同

があるので、もしかして寝込んでいたのか。せっかくの閏日なのにお得な感じがなく、春を満喫しきれない朝寝なのである。

きさらぎの銀河の果てのパイプ椅子  宇佐美友海

さまざまなものが生まれるきさらぎの果ての果てに、変哲のないパイプ椅子がある。それが見えてしまう大人になってしまった。パイプ椅子への焦点の当て方は橋間石の〈銀河系のとある酒場のヒヤシンス〉のヒヤシンスと同じだけれど、本句のほうが、無機質な感じが強い。

新社員配属血沼海ぞひに  岩田奎

「血沼海」をちょっと調べたら「古事記・日本書紀ではナガスネヒコに反抗されて矢を受けた五瀬命がその傷を洗った場所」とあった。表意に引き摺られるきらいはあるが、もしかしてどんどん出血して循環血液量減少性ショックになったのでは、など想像してしまう。

10句の多くに「腐」「醜」などのワードが入っているため、この句も、ブラックな部署へ配属されたのではないかと疑ってしまう。血沼海を見ながら働く気分はどんなものだろう。ちょっと興味がある。

その部屋のひねもす灯る雪柳  若林哲哉

家が灯るのではなく、部屋が灯るということは、研究室か何かだろうか。それとも、アパートの人が電気をつけっぱなしで寝てしまったのか。雪柳が可憐だけれど、重力に従って枝垂れる花のせいか、どうしても、新年度になってちょっと疲れている人を思った。余談だが、私の家の近くの学校は朝から夜中まで灯っている。


浅川芳直 寝返り 10 読む  第880

宇佐美友海 背中 10 読む  第881

岩田奎 ミャクミャク 10 読む  第883

若林哲哉 ひとひら 10 読む  第884

2023-12-10

三島ゆかり【句集を読む】宮本佳世乃句集『三〇一号室』を読む

【句集を読む】
宮本佳世乃句集『三〇一号室』を読む

三島ゆかり
『みしみし』第6号(2020年晩夏)より転載

『三〇一号室』(港の人、二〇一九年)は、宮本佳世乃の第二句集である。第一句集『鳥飛ぶ仕組み』(二〇一二年、現代俳句協会)からどのように変化を遂げたのか。第一句集を読んだときには、特徴的な要素をグルーピングして述べたが、今回は頭から章ごとに見ていきたい。

1.片側の

一ページに三句ずつ配列された句集の最初のページは、【取扱注意】の宣言として置かれている。

来る勿れ露草は空映したる  宮本佳世乃(以下同)

わざわざ「勿」の字を使っているからには、「勿来の関」を踏まえたものだろう。「どうか~しないでください」の意の「な~そ」に「禁止」の意味の「勿」を当てた「勿来の関」は、東北の関所としての実在性はともかく、歌枕として異界の入口であったり、恋の障害であったりしたようである。それを句集の冒頭に置くということは、私の句集を普通の句集だと思っているならどうか来ないで下さいという表明だろう。

キツネノカミソリ金網の向うは水

キツネノカミソリはヒガンバナ科(旧分類ではユリ科)の植物だが、その名の妖しさによって選ばれたものだろう。金網によってここでも世界が区切られている。

からすうり里の朝から母を逃がす

大罪を犯すと決意したように肉親を逃がしている。この句集は最初のページからして、そのように始まるのだ。句から作者の現実的な生活を思い浮かべて解釈するような読みは通じない。

ここまでの三句のうちの二句は句尾が助動詞や動詞である。特に「たる」で終わる句は句集全体で二十句以上に及びかなり多い。単に一句として見れば、重厚感、安定感の点で体言止めや「かな」「けり」などの切れ字に分があるが、配列として見渡した場合、動詞終止形による進行感、連体止めによる浮遊感などが適切に組み合わされてこそ、それぞれが互いに効果を発揮する。

六階のあたりに今日の月が居る

配列への配慮という点では、「転じ」による変化も著しい。宮本が編集する『オルガン』誌では連句が継続的に取り上げられているが、そこからのフィードバックもあるのだろう。「片側の」の章は秋・冬の句からなる。冒頭から季語だけ拾うと露草、キツネノカミソリ、からすうり、七夕笹、秋祭、と続く。どこか林に隣り合った集落のイメージが立ち上がってくるが、それを裏切るように置かれるのが掲句である。この「六階」のようにして、以後「スーパーの袋」「真空管」「透明な傘」「トランプ」「ナイロンテグス」「患者」「鍵盤」などが現れては転じ、気がつくと生死の境に連れて行かれている。転じつつも概して静謐にして空気の薄い世界…。佳世乃ワールドとはそんなところである。

かなかなに血の集まつてゐるばかり

「に」が独特である。移動を表す動詞とともに使われているととれば、血がかなかなに集まっているともとれるし、動作・作用の起こる原因ととれば、かなかなのせいで私に血が集まっているともとれる。が、韻文のことばなので、どちらかに断定してそこから論理的に現実を説明しようとするのは、あまり意味のあることではないだろう。かなかなの鳴き声は、種を保存するための哀切な求愛行動である。それを万感で受け止めて得られたのが、本句の措辞だろう。

ざぶざぶと芒掻き分けあなた鍵

鍵を忘れて出勤した夫を駅まで追ったことがあるのかも知れない。そんな「あなた鍵」であるが、記憶を塗り替えて悪い夢にうなされるような「ざぶざぶと芒掻き分け」が凄まじい。とりわけ「ざぶざぶと」がオノマトペとして尋常ではない。

冬の点描みな健康の紐を曳く

点描といえばスーラに代表される新印象派の、光を捉えるために輪郭を失った絵画が思い浮かぶ。意図的に曖昧にした「健康の紐」は、ある人にとっては綱引きの綱かも知れないし、ある人にとっては生命維持装置の管かも知れないし、ある人にとっては祭りのひもくじかも知れない。句全体のイメージはつかの間の幸福のように儚い。

佳世乃句の多くは、もののかたちや作者の意思を明確に伝えるために書かれているものではない。まさに「点描」のように、句の世界全体が輪郭の曖昧な光の現象のようなものとしてそこにあり、読者に問いかけている。


2.あをき石

次の章は春と夏の句が並ぶ。

貝寄風に顔出す穴のありにけり 

「顔出す穴」でまず思い浮かぶのは観光地にある記念撮影用のボードである。その地に縁のあるドラマの主人公や歌手が描かれ、顔だけが穴になっていて、訪れた観光客が自分の顔を出しては恋人や家族に写真を撮ってもらう、あれである。しかし取り合わされる季語は「貝寄風」なのである。その地に誰も訪れなくなって、ただ風が吹いているのか。それとも、崖の巣穴から様子をうかがうために鳥か小動物が顔を出すのか。気がつくと、顔の不在について考えている。

さつきから三羽さんかく鳥の恋

一転しておどけた句である。「さつき」「三羽」「さんかく」とsa音で調べを整え、ひらがなの表記も楽しい。「鳥の恋」にも三角関係ってあるのかなあなどと眺めているのだろう。

目はひばり教はり雲雀好きになる

同語反復の片側をひらがなにするのは鉄則ではあるが、ここではもともと知識として知っていたものについて、あれがそれだと教わったのだろう。「ひばり」があれであり、「雲雀」が知識である。

クリアそれから川べりの芽吹かな

クリアは、ゲームなどの中間目標の達成のことだろう。精神集中がほどけ周囲にも気が回るようになる感じを、十七音着地の破調で巧みに表現している。

ボールペンごと春服の掛かりをり

仕事で使うボールペンを胸ポケットに挿している人の上着が、そのままハンガーに掛けられているのだろう。忘れたのではなく今は仕事中ではないのである。

木漏れ日がくちなはを動かしてゆく

リモコンの赤外線の類推だろうか。一筋の木漏れ日の光から不思議な感じ止め方をしている。

うつすらと背中の透けてゐる泉

「からだ」でも「下着」でもなく「背中」であることによって、より官能的な句に仕上がっていると感じる。泉が光をまとった神のすがたをしているようでさえある。

沖すこしゆるんでゐたる黒揚羽

近景の黒揚羽の出現により遠景への観察は一瞬途切れる訳だが、人は経験的に遠景にはなにも発生していないことを知っていて無視している。その無視をやめて俳句の二物衝撃のフォーマットに落とし込むと、遠景は弛緩しこんなことになる。ひとつ前の「うつすらと」にしても本句の「すこし」にしても、微妙な差異によって佳世乃ワールドでは異常を検知して振り切れる。


3.その他は

この章は東日本大震災の被災地を訪ねたのであろう十五句からなっている。

その他はブルーシートで覆はるる

最後に置かれた一句である。震災から何年も経つのにじつは圧倒的大多数が放置され、「その他」として目隠しされているのだろう。


4.かうかうと

この章はふたたび秋と冬の句からなる。「片側の」の章とどのように句を振り分けているのかは、あとがきに書いてない。が、こちらの章はできるがままに即吟したものを極力無加工のまま伝えようとしたものではないかと思う。「片側の」が書かれた曲だとしたら、「かうかうと」は即興演奏なのではないか。言い方を変えると、この第二句集では、一冊の句集の中でふたつの面があるのではないか。

満月の歩く速さでくるメール

子どもの頃、どれだけ歩いても月が後ろに行かないことを不思議に感じたものだった。月が自分と同じ速さで動いているように感じるのと同じ違和感を、すぐメールを返してくる相手の速さに感じているのではないか。

水澄んであとはバドミントンでいい

秋の爽やかさを万感で受け止めての一句だろう。この場合のバドミントンはもちろんオグシオとかタカマツとかの高度な競技ではない、もっとも手っ取り早い娯楽としてのそれである。

日脚伸ぶいまらふそくのらのあたり

表記と発音が異なる歴史的仮名遣いの盲点をつき興じて見せた一句だろう。句会で出されたのであれば、披講者は困ったに違いない。

この章では「ニュータウンの短き坂よ木の実降る」の八ページ後に「十一月坂の短き団地かな」があったり、「音は動いて冬の欅の虚となる」の四ページ後に「ふくろふのまんなかに木の虚がある」があったりするが、日々の即吟の中で同じモチーフが姿を変えて現れているのではないだろうか。


5.ひかる絃

この章は、「あをき石」と同じく春と夏の句からなる。ふたつの章の関係は前章で述べたことと同様だろう。

魚のゐる昼のきはより芽吹きたる

「きは」とは水と大地の境界だろうか、夜と昼の境界だろうか。「魚のゐる昼の」という連体修飾が意味を弛緩させており、得体の知れぬところから芽吹きが始まっている。

末黒野と菜の花の空隣り合ふ

書かれた通りに読むと「末黒野」と「菜の花の空」が隣り合っているように読めるが、すると末黒野には空がないのだろうか。末黒野が隣り合っているのは「菜の花の空」ではなく菜の花が広がる大地ではないのか。という意味上の弛緩を敢えて作り込むことにより、末黒野の黒さと、隣り合った視界の明るさを詠み上げているのではないか。技術として弛緩を作り込んでいるのだとしたら、「ゆるい」とか「意味が分からない」という指摘は当たらない。

空蟬の摑む時間のやうなもの

脱皮する前の蝉は枝を掴んでいたが、それがそのままになっているだけで、空蝉が意思をもって何かを掴んでいるわけではない。しかし眼前の空蝉は確かに何かを掴んでいる。俳人の直観で詠み上げた「時間のやうなもの」という直喩に舌を巻く。


6.フリスク

最後の章は『三〇一号室』で暮らした人の思い出が季節に関係なく集められている。

二階建てバスの二階にゐるおはやう

句集の最後を飾る句である。「来る勿れ」で始まった句集は「おはやう」という挨拶で終わる。もしかすると、宮本にとってふたたび「おはやう」と言うために、この第二句集が必要だったのかも知れない。そんなことを感じる。

2023-02-19

宮本佳世乃【句集を読む】金子兜太「生長」を読む

【句集を読む】
金子兜太「生長」を読む

宮本佳世乃

『炎環』第458号(2018年8月)より転載

二月二十日に金子兜太が亡くなり、五月、石寒太により『金子兜太のことば』(毎日新聞出版・二〇一八年五月)が刊行された。めくっていると「自分の俳句が、平和のために、より良き明日のためにあることを心より願う。」という言葉に目が止まった。

今回は、文中に出てくる『鼎』という「寒雷」の若手作家(田川飛旅子、金子兜太、青池秀二)の合同句集(昭和二五年・七羊社)から、金子兜太「生長」を読んでいきたい。これは、第一句集『少年』より五年前、一九歳から三十一歳までの作品一九二句。これらの、戦前から戦後にかけての俳句が「いま」にどうつながるのだろうか。

マッチ箱に玉虫入れて都の子  兜太

曼殊沙華どれも腹出し秩父の子

「一 戰爭まで」の章から。両者とも子どもの景である。都会で玉虫を見ることはないだろうから、里山で玉虫に出会ったときに、親が持っていたマッチ箱に入れて持って帰る。曼殊沙華の句は、兜太の代表句で、二十三歳の頃の作品。秩父にいるんだなぁといった感慨が「どれも」という言葉から感じられる。都会の子、里山の子の様子は現代も変わらないだろうと思う。

靑きバナナ部屋の眞中に吊りて置く

犬は海を少年はマンゴーの森を見る

「二 トラック島にて」の章より。この二句だけで戦地の景だと読むのは難しい。みずみずしい果実の色が全体を引き立てている。

古手拭蟹のほとりに置きて糞る

魚雷の丸胴蜥蜴這いまわりて去りぬ

被彈のパンの木島民のあか兒泣くあたり

いずれの句からも暗い影とともに生命感を感じる。戦地にある黒い手拭と、生命の危険もありながらの野糞。普段の生活にはない魚雷の丸胴にちょろちょろしている、生きている蜥蜴の躍動感。木に当てている視点を島民の赤子に移す。乳児は生命そのものだ。魚雷の句は、戦地から加藤楸邨に送って「文藝春秋」に掲載されたという。

死にし骨は海に捨つべし澤庵嚙む

方々にひぐらし妻は疲れている

眠る子のそばで梨喰う市場の中

「三 戰後」の章より。一句目は戦友の骨か。澤庵を噛む日常にある死の記憶。収まらないほどの疲労とひぐらし。三句目は混沌とした市場で音を立てて梨を食べる。血のつながりや生きるという意思。

兜太にとって「生き物感覚」は俳句を書きはじめた当初から、ともに「存在」したのではないだろうか。それは、兜太自身が生きていた場所、つまり明日の俳句の世界に堆積されていくものだと思う。そして、当たり前だが、戦争はしてはならない。

合同句集の序は加藤楸邨。「生み出されたものの結果に瞠目することは誰にでも出来る。しかし、何を求めつつ、如何に生み出しつつあるかといふ形成の過程をみつめることは容易ではない」とある。トラック島での作品は、第一句集『少年』と、平成一四年に筑摩書房から出されている『金子兜太集 第一巻』の『生長』に収められているが、未完で終わっている。

2022-11-20

宮本佳世乃【句集を読む】 宇多喜代子『森へ』を読む

【句集を読む】
宇多喜代子『森へ』を読む

宮本佳世乃

初出:『炎環』第465号・2019年3月

「草樹」の会員代表、現代俳句協会特別顧問の宇多喜代子氏の第八句集。二〇一四年から二〇一八年までの五年間の句が収められている。作者は昭和十年生まれ。

もの言わぬ人ら月下の白黒に  宇多喜代子(以下同)

月は白眼中の月あくまで白

多摩川の毒かあぶくか月光か

幻のかたちとはこれ秋の川

爽やかや源流人を寄せつけ

前書きに「写真家 江成常夫 五句」とある。江成常夫は、昭和の戦争や環境問題など、国家や時代を問う作品を創造する写真家である。

戦争などのモノクロの写真から感情が揺さぶられる経験をするということは、誰にでもあるだろう。右のような句を読むと、俳句作家の眼で見たものが俳句となるときに、言葉により喚起される事実のイメージが、定型の作用によって強化され、個人の経験として上書きされているように思う。ただ「見た」「感じた」だけでは体験に過ぎないが、それを俳句とするときに「経験」に変換されるわけである。

連作一句目の「もの言わぬ人」のかなしみや矜持が音を立てずに伝わってくる。月の夜、眼だけが光るようでもある。二句目も月。「眼中の月あくまで白」と言い切っているところから、問答無用にそう思うしかない世界を想像した。残り三句は多摩川の環境汚染の句。生活排水や廃棄物、高度経済成長期の工業の進出によって汚染された多摩川。奥多摩の源流は神々しいほど清廉であることがわかる。

本句集は「森へ」という名前が冠されている。あとがきには「息苦しくなると原生の森を安息の場と思念し、再生のよすがとします」と書かれている。森そのものが見える句としては、山や土、樹々の句もあるが、ある強さの象徴として梟を描いたものが散見される。
親を喰う梟を見るだけの旅

瞑目のままの梟の剛毅

終わりなき戦に梟を送り込む

江戸時代以前の梟は不吉な鳥として扱われてきた。本句集の梟は、不気味さではない。「剛毅」という言葉からもわかるように、容易には屈しない意志、そしてかなしみを表しているのだろう。

八月はまことに真夏永久に真夏

金輪際死児が見開く夏や夏

芒にも中村草田男の墓にも雨

患わず冬あたたかな日に逝けり

青芒隠れ遊びのいつまでぞ

この「意志」は、戦争、沖縄だけではなく、師である桂信子、和田悟朗、中村草田男、急逝した弟、金子兜太などの身近な存在を詠むときの通奏低音になっている。

死の話いつしか葬儀の話で雪

秋袷死なずに生きていずれ死ぬ

雑煮餅それとなく余生のかたち

これらには、自己の死に対する視線が描かれている。「雪」や「秋袷」といった季節の移ろいは、日々を暮らすエネルギーでもある。雑煮餅の輪郭が不鮮明になっていくところに、来し方行方を思う。作者の視線の先に、生死が再生されていく。


宇多喜代子『森へ』2018年/青磁社 ≫amazon

2022-11-13

宮本佳世乃【句集を読む】生活感 石田郷子『草の王』

【句集を読む】
生活感
石田郷子草の王

宮本佳世乃

初出:『炎環』第459号・2018年9月
              
『秋の顔』『木の名前』に続く十一年ぶりの第三句集。昭和三三年生れの俳人である。昭和三〇年以降に生まれた特に女性俳人は「生活感がない」と言われることがある。ある結社の記念誌で、揶揄的に石田の名前を使われたこともある。ところで、本当に「生活感がない」のだろうか。少し前置きが長くなったが、句集を読んでいきたい。

四万六千日人混にまぎれねば  石田郷子

句集冒頭の句。この日に参拝すると四万六千日の功徳が授かると言われている。まぎれなければならないという切迫感があるが、まぎれたとしても孤独はぬぐい切れない。師である山口みづえの〈四万六千日子忘れの日を賜らず〉を意識したとも思われる。

まみえけり青水無月のなきがらに

寝冷せし手足を伸ばす父亡き朝

父の死を詠んだ句である。「まみえけり」で見る、見られるの関係を描いた。なきがらを前にした「こと」を書きながら、もう一度心のなかで反芻し、「まみえけり」が生まれたのだろう。二句目は、父の臨終後に実家で眠った後の光景。読み手にすーと入って来るようで、何かが引っ掛かる。それは、死を題材にしているからではない。

トースターちんと鳴つたる枯木かな

この「ちんと鳴つたる」の何とも言えぬ軽み。「鳴りたる」では全く成り立たない。中七で一回切れて、背景にある枯木を描き、場面を転換させる。枯木と言えども、もちろん木は生きていることが分かる。

思はざるところにも雪つもりたる

ここにもそこにも、雪が積もっている。こんなところまで! という茶目っ気が「にも」の二文字で描かれている。

芒原たちまち空の奈落にて

地面はどこかというのは同じだが、どこからが空なのかは、人によってとらえ方が違う。芒原にいたら、この場所が空にとっての地獄のように思えた。視座を変えることによって世界を逆転させる。

泉までさびしき人を連れてゆく

前世も淋しかりしと夏帽子

さみしい、のではなく、さびしい。息が吹いて、つぶやくように、さびしい。泉まで身体を連れてゆく。前世から夏帽子までさびしさで満たされている、豊かな句。

啓蟄の扉が開いて閉まりけり

青空のうすくなりたる網戸かな

一句目、ダブルミーニング。わらわらと虫たちが出てくる「扉」が開き、すぐに閉まる。もしくは、啓蟄の日の部屋の扉が開いて閉まった。二句目は、網戸を閉めたら青空がうすくなったように思った。ただそれだけのことだ。「生活感」などというものは様々あっていいはずで、仕事や身体や死生や家の中を描いたから「生活」なわけではないだろう。大切なのはこれで一句とした、と決めることではないか。


石田郷子『草の王』(平成二七年、ふらんす堂)

2022-11-06

宮本佳世乃【句集を読む】 閉まることのない穴 山田耕司『不純』

【句集を読む】
閉まることのない穴
山田耕司不純

宮本佳世乃

初出:『炎環』第460号・2018年10月

一九六七年生れで高校時代から作句をはじめたが長らく沈黙していた作者の『大風呂敷』(二〇一〇年)に続く第二句集。ある意味奇抜とも言えるタイトルの本句集は十章に分かれ、各章にテーマ性を持たせている。

山々に足こそ無けれふところ手  山田耕司(以下同)

山は笑い、滴り、よそおい、眠る。この句にあるように、山は顔も、手も、精神も持ち合わせていそうだ。普段は地にどっしりと腰を下ろしているが、もし足があったとしたら、雨に小躍りしたり、桜に駆けだしたり、誰かと絡ませたりするかもしれない。地中の根が見えないのと同じように、「ふところ手」は手先が他者から見えない。敢えて「手」の季語を使うことによって、自由な部分を想像させる。

秋耕の目鼻がありて二三人

秋の寂しさを含めた風景で、案山子を詠んだとも考えられる。「目鼻の」ではなく「目鼻が」と書くことで、顔の不思議さも思わせる。

面影に天ぷらそばを持たせけり

面影は記憶によって心に呼び起こさせる姿。もしくは幻。「俤」とも書く。誰のどのような面影を思い浮かべたのかによって句意は違ってくるが、天ぷらそばを持たせるくらいだから親しく、温かい感情を通わせた間柄だと思う。なんといってもおいしそうだ。

二階には泥鰌が足りてゐて静か

暑いさ中、みんなで泥鰌鍋を食べにきている。一階はまだ足りておらず、炊いている匂いばかりが充満している。ああ、早く食べたい。もしかしたら二枚目を待っているのかもしれない。満足と不満足ではなく、満足ともうすぐ訪れる満足を描いている。

みつ豆の叱る側だけ泣きながら

これも食べ物の句。二人で店に入って、向かい合って話さなければいけないこと状況。そういうとき、あまり重たいものを頼みたくはない。二人ともみつ豆を頼む。アイスが乗っているわけではないので、溶けない。豆の黒さと寒天の質感が泣いていることに通じている。

鶯やしやぶるくちよりでるめだま

鯛だろうか。『不純』には「挿す肉をゆびと思はば夏蜜柑」「あけぼのや乳房仕舞ふに目を見つつ」など、性的志向に読みを誘う句も多いのだが、この句もそうだ。人はほんとうに何でも食べる。目玉さえもしゃぶるし、嚙み砕くことさえある。そのくちびるを始終、眼で見ているわけだ。鶯は「梅に鶯」というように古くから親しまれているが、谷を渡ることもあるこの鳥を季語に配したことで、生きつなぐことの俗っぽさ、怖ろしさを感じた。

この句集にまさか『純粋』『純真』というタイトルはつけられないだろう。どのように生きていても、生活者としての混じりけからは逃れられないからだ。捻ったように見えてストレート。タイトル、装丁、俳句すべてから、こころのどこかの、閉まることのない穴を思った。


山田耕司『不純』(2018年/左右社)≫版元ウェブサイト

2022-10-30

宮本佳世乃【句集を読む】理知的かつあたたかい 飯田晴『ゆめの変り目』

【句集を読む】
理知的かつあたたかい
飯田晴ゆめの変り目

宮本佳世乃

初出:『炎環』第461号・2018年11月

二〇一〇年から二〇一八年春までの句をまとめた「雲」の主宰の第三句集。あとがきに「生者死者、水も石も人のほとりに棲む生きものも、思わぬ近さに感じながらの一集になったように思います」とある。

盆唄は水に浮きつつ来りけり  飯田晴(以下同)

むかうから見れば夜になる曼殊沙華

二〇一〇年~二〇一一年の作品。佃の念仏踊りだろうか。かたまったときの水の重さ、怖ろしさの上に死者を供養する盆唄が浮く。そして、日時を知っているかのように咲き始める曼殊沙華の一群。「むかう」は、彼方か、曼殊沙華の目線か。いずれにせよ人びとの歴史よりも古くからある記憶と自然が結びついている。

噴水にゆめの変り目ありにけり

ふいに手の出て藤房をひとなです

二〇一二年~二〇一三年の作品。噴水は地下などを循環して様相の変化を起こす。水群がふっと変わる瞬間を「ゆめ」と詠んだ。二句目は、藤の花が誇らしげに垂れている頃(藤のトンネルなどか)、ふっと誰かの手が伸びてくる景。面白いのは、この二句が同じページに並んでいること。「地下から手が伸びてきたのではないか」などユニークな読みもできる。二句組の句集ならではの相互作用だ。

腰かけてそれから秋の顔になる

北風やきつねうどんはきつねから

二〇一四年。腰かけて、やっと一息をつける、秋の日。夏には感じられない秋の風、秋の余裕。「それから」に実感がある。きつねうどんの句は頭韻を踏むことで寒さを表す。きつねが甘そうでいい。

秋風の野を脱ぎ捨てるやう逝けり

鳥渡る三朗の骨みな壺に

二〇一五年の秋。夫であり、「雲」の元主宰の鳥居三朗氏が急逝された。秋風の野をたらふく歩いて我が家に帰り、野の匂いを纏った服を脱ぐ。身ひとつの、「いる」姿。二句目からは、こころにずーんとかなしみが飛び込んでくる。生きている姿、哀しさ、愛しさ。

花追うてみんなで山の雨にあふ

風の名を言うて緑を分かちけり

菊食うて夜といふなめらかな川

みんなは、みんなだ。そこに居る人も、虫も、土も石も葉も。山桜が可憐にそこに生る。風の中で緑を分かつとは、なんと豊かなのだろうか。あめつちで、すべてと交感しようとする。三句目も、誰かと菊で一献やっている。「もってのほか」のおいしさは計りしれない。

本句集は編年体になっている。作者の師である今井杏太郎、夫である鳥居三朗両氏の死をはさみながら、日々を生きつつ、足で歩きながら作った俳句たちだ。句集として一気に読んだが、たとえお二方の死がなかったとしても、もともと作者には、ものに近づき、交感しようとする思いやすべがあるように感じた。理知的、かつあたたかい本だ。


『ゆめの変り目』飯田晴(平成三十年、ふらんす堂)

2022-10-23

宮本佳世乃【句集を読む】鍵和田秞子『火は禱り』

【句集を読む】
鍵和田秞子『火は禱り』

宮本佳世乃

初出:『炎環』第475号・2020年1月

平成二十五年から三十一年までの句を収めた、「未来図」主宰の第十句集。中村草田男が亡くなり、「未来図」を創刊してから三十五年が経つという。

元朝の濤うねり来るいのちかな  鍵和田秞子(以下同)

八十路には八十路の禱り初御空

冒頭の二句。本句集は編年体で作られているが、ほとんどの章が新年から始まっている。新年は大景を呼び寄せるが、この「濤」は、第九句集『濤無限』から引き続いた世界観であろう。どの言葉を見ても力強く、本句集の方向性を決定づけている一句。津波を引き起こした濤であるが、いのちを産生する源でもある。濤がうねりながらも、いつしか新しい時が廻ってくる。二句目も豪快、初御空があざやか。

万緑の句碑に歳月積りけり

万緑の池も万緑師はいづこ

構造的な句である。作者は草田男の「万緑」の句碑の前にいるが、「いま・ここ」が万緑なのである。漲っている緑(=師である草田男)を讃えつつ、過ぎ去った時間を情感そのものとして示す。この二句が同じページに並んでいるのも、句集ならではの面白さだ。

化けそこねたり夕闇の花からすうり

長月の梯子と縄にすれちがふ

そうかと思えばこのような句がぽつっと入ってくる。一句目は、烏瓜の花を見ている作者が化けそこねた、と読んだ。八十歳代ならではの軽さと面白み。二句目は、「長月」がいい。梯子も縄も長く、これらを使ってどんな世界にいけるのか、ワクワクする。句形も新鮮だ。

竹林の日のしたたりを秋遍路

本句における中七の切れは「を」でなければ成立しない。「や」だと野暮ったくなる。「の」「に」「と」だと切れがはっきりしない。

颱風の前の静けさ鰈むしる

これから台風が来るのを知っていながら、煮付けた鰈をむさぼっている。この句を読んだとき、これこそが人が生きるということだと思った。下六も含めて生命感が逞しい。

蜜柑食ふ怖るることの無きごとく

これも食べ物の句。畏怖があるからこその内容だ。その隣には、

鳥獣も人も草木も寒夕焼

一句一章、切れ字を使わずとも、完全に下五で切れている。どこと切れているかというと、二本足で立っているこの地との切れである。ダイナミックかつ、美しい。

夕蟬の声にどつぷり家古ぶ

集中、大好きな句。家に住んでいる人が歳を重ね、家も古びる。蟬も、人も、家もともに息づいている。私もいつかこういう句を作りたいと思った。


鍵和田秞子『火は禱り』(2009年9月/角川書店)

2022-10-09

宮本佳世乃【句集を読む】太く強く 石牟礼道子全句集『泣きなが原』

【句集を読む】
太く強く
石牟礼道子全句集『泣きなが原

宮本佳世乃

初出:『炎環』第477号・2020年3月

詩人でもあり、作家でもある作者が四〇年以上にわたって詠んだ二一三句を掲載。句集「天」の俳句や解説をはじめ、創作ノートからも四七句入集。ほかに、直筆色紙の句と挿絵や、海の写真など。解説は黒田杏子。

祈るべき天とおもえど天の病む  石牟礼道子(以下同)

ご存知のように、石牟礼さんは一九六九年に水俣病犠牲者たちの現実を伝える『苦海浄土』を刊行された。私は、水俣病の原因と症状については、中学校の授業で知っていたが、社会人になってからこの本を読んだとき、ひじょうにショックを受けたことを覚えている。行政や経済発展を選択した国民(世論)に置き去りにされた水俣病の被害者を肌で感じたように思えたからだ。この、「肌で感じたように思える」というのは石牟礼さんの作品に一貫しているように思う。鬼気迫るものが、太く、強くある。

この句は一九七三年に新聞の学芸欄に水俣病犠牲者たちの鎮魂の文章とともに掲載された。もちろん背景に水俣を読むべきなのだろうが、そうでなくても天災や人災などでの犠牲や、状況的危機を考えると、成り立つ句であろう。私は団塊ジュニアの東京生れで、美しい景色などは目にしないで育ったが、たとえば、美しいふるさとや思い出が心にあれば、今よりもっと、病んだ天の不可逆性を憎むであろう。

死におくれ死におくれして彼岸花

いずくなる境ぞここは紅葉谷

まだ来ぬ雪や ひとり情死行

いずれの句も、色彩が明確に見える。周りの人の死に自分が遅れる気まずさ。天と地、あるいは生死の境界が分からなくなる谿。待っても待っても雪は来ない、救われなさ。俳句を読むことによって、決してハッピーな気持になるわけではない。でもここには、何物かの塊がある。

けし一輪かざして連れゆく白い象を

東京都薬用植物園では、「法律で栽培が禁止されているケシ」を特別に見ることができる。花の見ごろは五月ごろで、一メートルの高さに真っ白い花が咲く。白いけしをかざして白い象を連れてゆく。何処へ行くのか。行き場所はあるのかという不穏が座五の字余りである「を」の一字に集約されている。

椿落ちて狂女がつくる泥仏

椿の落ち方は人間の頸部のそれに似ている。真っ赤な椿が落ちる。泥の仏を作っているのは狂女だ。この句には狂った原因は書かれていない。子どもを亡くして狂ったのかもしれない、あるいは病気のせいで狂ったのかもしれない。いずれにせよ、一塊の泥は形があるようで、ない。大雨に濡れればまた土に戻ってしまう。救われなさがある。

大分県九重の飯田高原に「泣きがら原」はある。亡骸原、ではなく、泣きながら原、でもない。美しい薄原の広がる草原だという。


石牟礼道子全句集『泣きなが原』2015年/藤原書店

2022-10-02

宮本佳世乃【句集を読む】源氏の恋その他 太田うさぎ句集『また明日』

【句集を読む】
源氏の恋その他
太田うさぎ句集『また明日

宮本佳世乃
初出:『炎環』第502号・2022年4月

一九九七年から句作をはじめた作者の第一句集。私自身、彼女の句集を待ちに待っていた一人だ。装丁:佐野裕哉、解説:仁平勝。天アンカット。

うさぎさんに始めてお会いしたのは二〇〇六年くらいだと記憶しているが、俳句の第一印象で感じたのは「楽しいし、お洒落だなぁ」ということ。その印象は、句集になって「粋な人だなぁ」に深化した。

濡れてゐる道の遠くを藤の花  太田うさぎ(以下同)

最初の見開きに掲載されている句。何が原因で「濡れているのか」は要素が多くなるので句では述べていない。あえて言えば「空が見える道」と「春の空気のなかにあるうすむらさき」という質感を残すことで、実物とともにニュアンスを伝えている。

ほつそりと朝焼のまだ及ばぬ木

夏の朝ははやい。暁を経て、あけぐれを経て、朝焼がはじまった。

まだ布団のなかでぼんやりしながら外を見ているのか、それとも一泊したのか。「ほつそりと」は主観だが、ものがほっそり見えるとき、こころは豊かだ。

寿司桶に降りこむ雪の速さかな

家の会食で寿司をとった。黒とか臙脂色の寿司桶に雪が降る。いや、降りこむ。まるで雪が意識を持っているように、薄暗いなかに雪にハイビームが当たる。そしてロービームにあるものは、家の壁や人の足などの暮らしだ。

四隅より辞書は滅びぬ花ミモザ

右とか上とか言わずに「四隅」。確かに四隅は四隅なのだが、捲っていたり、部屋に置いたりしているからこそ「滅びる」。そう、古びるのではなく滅びる。大きな「花ミモザ」の色彩や生命感と相まみえて、辞書というものへの信頼が厚くなる。

眦を林檎畑が抜けてゆく

車道の景色だろうか。「あれは何の木かな」とわいわい話している。スピード感を持った気持ちの昂ぶりがいい。本句集には恋の句、赤をモチーフとした句がいくつかあった。そういうことを感じさせる句のつくりもいい。

舟溜誰そひるがほを投げ込みし

海か湖の舟。投げ込まれたひるがほに電流は通っていないかもしれないが、この光景をきっかけとして舟の揺らぎやひるがほのひらひらした様子が思い浮かぶ。静かだけれども、意思がある。

春雨や源氏の恋を貝の内

手櫛して爪衰うる桜の夜

艶めきが隣り合う。貝合わせの遊びも、髪の長さも示唆的だ。いつだったか、句会に白地に紺の浴衣姿で現れたうさぎさんを思い出した。


太田うさぎ句集『また明日』2020年/左右社 ≫版元ウェブサイト

2022-05-08

宮本佳世乃さんインタビュー 小川楓子

宮本佳世乃さんインタビュー

2020年3月15日収録
(新型コロナウィルス感染症が現在ほど身近でなかった頃の東京駅にて)

小川楓子佳世乃さんの作品は地元感のようなものがあるように思います。ご出身はどちらですか。

宮本佳世乃四人家族の長女として東京の多摩地区で生まれました。小中高、看護学校も地元。今もそう遠くないところに住んでいます。学生時代に演劇をしていて、田島健一と知り合いました。当時はキャラメルボックスが流行っていて戯曲をやったりしていましたね。田島君は本当に表現力が豊かで演劇が上手かった。

小川高校の頃の同級生がキャラメルボックス俳優教室に通っていました。お芝居も観に行ったことがあります。演劇の仲間ってずっと近所に住んでいたり、仲良しの印象があるんですがどうですか。

宮本たしかに演劇の仲間は今でも近所に住んでます。演劇ってずっと一緒に練習するから家族的なところがあります。「オルガン」も家族みたいな感じに近いかも。

小川俳句は田島さんの影響で始められたんですか。

宮本田島君以外の演劇仲間も俳句をしていたんです。29歳で俳句を始めてから、いろいろな人と出会って、結社や同人誌に入ったり、同人誌を始めたり、自分の居場所、世界がぐんと広がりました。

小川『三〇一号室』には、医療関係者と思われる作品がありますが、実際いかがですか。

宮本こどもの頃から一人で生きていけるようにと、何をすれば自活できるかと思い浮かんだのがナースか学校の先生でした。看護学校を卒業してから七年間看護師をして、今は看護学校で働いています。どちらかというと働くことが好きで苦にならない性格ですね。年間三分の二くらいは実習で現場に行っているのですが、そこで見たものや感じたことが何より俳句に影響していると思います。

小川俳句は、どうやって作っていますか。

宮本机上で作ることが多いです。机上で作る時でも自身の体験をもとに作っています。それほど推敲派ではないと思います。「炎環」が取り合わせの句が多い結社なのでそこから変わって行きたいという気持ちもあり、最近は句が変わってきたように思います。

小川『三〇一号室』には東日本大震災を思わせる章があるのですが、今も現地に行かれているのでしょうか。

宮本いわきには年に1回くらい毎年行っています。最初に訪れた2012年頃は、まだ瓦礫が残っていたり、中学校が震災ごみの廃棄場になっていたりしました。四ツ谷龍さんが発行人の俳句創作集『いわきへ』という本を作るために五十句を提出する必要があったのですが、ショックで詠むことができない気持ちでした。相子智恵さんに泣きながら電話したり
してどうにか30句作ることが出来ました。

小川東日本大震災といえば、たまたま知り合った宮城県の塩竃市出身の方の話が私にとって印象的で。彼は、当時大学生で東京にいたので震災を塩竃で経験していない。家族には「あなたは体験していないでしょう」と言われるし、知らない人に塩竃の出身だと言うと「震災大変だったでしょう」と言われて複雑な思いがある。それを乗り越えるのにモニュメントが必要と発言していて。モニュメントで解決することなのかなとちょっと疑問に思いました。

宮本モニュメントにも意義がある場合もあるかもしれません。私は看護師になって二年目から地元の合唱団に入っているのですが、毎年、四月四日の第二次世界大戦下の立川空襲を歌い継ぐ活動をしています。自身も両親も経験していない戦争ですが、慰霊碑に刻まれている名前を見ながら、「〇〇ちゃんは妹と弟を連れて防空壕に入って亡くなった」など当時を知っている人の話を聴くとやはりありありと戦争のなかの個人が思われます。

小川天災と震災の違いはあるかもしれませんが、震災も人災の面もありますから、モニュメントが活きる場面もあるかもしれません。

宮本モニュメントが100%なにかを伝えられるわけではないけれど、人によって様々に感じ取ってもらえるのはよいと思います。

小川ところで『三〇一号室』の装幀は版元になにか希望は出されましたか。

宮本第一句集は自分で紙や色などすべてを決めたので第二句集は少し任せてみようと思いました。とはいえ、ハードカバーにすることや見返し、スピンの色などは今回も自分で決めました。挿画は港の人から提案されたもので最初は意外でしたがとても気に入っています。

小川ノンブルを入れる位置に意外性がありますよね。

宮本内側にノンブルを入れるというのも自分で考えました。ちょっとカッコつけてみたくて(笑)。まず160ページで句集を作ることを決め、三句組にして、章のタイトルがどれも右ページに来るように台割を考えました。句の下の余白が大きいのは以前から気に入っていたスタイルです。本の最初と最後の三句はあらかじめ決めておいて並べ出し、有季→無季→有季→無季の構成としました。

小川流す三人八ミリで撮る散骨〉はご家族がモチーフですか。

宮本亡くなった夫のことです。夫が好きだったインドで散骨をしました。第一句集にも夫の句はあるのですが、「フリスク」という章立てをしたのは今回が初めてです。死そのものはなかなか俳句にはできていませんが。

小川散骨がお連れ合いとは存じ上げませんでした。そのような喪失が俳句の糧になると感じますか。

宮本はっきり感じますね。

小川俳句は死者と生きてゆくのにいい詩形ですよね。亡くなったひとに言葉を投げかけるにちょうどよいサイズ。

宮本私もそう思います。楓子さんは、そういうふうに感じるきっかけはあったんですか。

小川誰かの死に影響を受けたというより、わたし自身が子供の頃から入院して、何度か死にかけたりしたので、死んでいたかもしれない人生と今生きている人生がいつも寄り添っているように思います。

宮本私は、職業柄死が遠いものではないし、ある程度冷静に見つめることができるのかな、と。さみしいし、かなしいことだけれど皆に起きること。生と死が並行になっているかもしれない。生死のごく淡い境目からどちらに曲がってゆくかわからないと思いますね。だから俳句をやっているのかもしれない。

小川「女性俳句」についてどのように思いますか。

宮本求められる所作があるような気がして「女性俳句」という言い方は、あまり好きではないですね。外圧のように思うこともあります。男性か女性かで分けるとどこか読みが浅くなる気がします。男性の俳句ってなんだろうと思ったり。

小川 マッチョ系なら金子兜太とかが思い浮かぶけれど、男性の例としてはちょっと違う気がしますね。

宮本あまり思い浮かばないけれど、もしかしたらどこかで求められることもあるのかもしれません。

小川その可能性もありますね。でも、俳句がすでに男性を前提としているから女流という言い方になるのかもしれないですね。

宮本女性的役割をするべきかと思うことはありますね。

小川冷房にドリンク剤をさつと配る〉はご自身の行動ですか。

宮本これは配られた句なので違いますね。仮設住宅に上がらせてもらった時にさっと配られたんです。仕事の時には女性的な役割について求められることはないし、考えたことはないけれど、俳句の時はあるかもしれない。でも、もともと性別役割意識など、帰属的に考えるのは好きではないですね。

小川私もそう思います。今までお見掛けしてもほとんどお話することがなかった佳世乃さんと、今日はじっくりお話できてよかったです。ありがとうございました。

宮本私も、自分についてこんなに話したのは初めてかもしれません。ありがとうございました。


小川楓子【句集を読む】宮本佳世乃『三〇一号室』ふたたび

【句集を読む】
宮本佳世乃『三〇一号室』ふたたび

小川楓子


『三〇一号室』は宮本佳世乃の第二句集として2019年に刊行された。新型コロナウィルス感染症の蔓延という状況下で変わったもの、変わらないものが次第に見え始めているなかで、コロナ禍以前の句集『三〇一号室』を振り返ってみたい。

三句組の句集冒頭から、どこか摑みどころのない世界へ読者は、足を踏み入れてゆくことになる。そこは、少し怖い童話のような、見知らぬ森に迷い込んでしまったような不穏さを漂わせている。

来る勿れ露草は空映したる

キツネノカミソリ金網の向うは水

からすうり里の朝から母を逃す

まずページを開き一句目が禁止である句集はめずらしい。立ち入り防止看板や柵があるという景を思い描くこともできるが、天からの啓示のようにも読める。「来る勿れ」という措辞は『三〇一号室』という作品世界の深みを覗き込もうとする者への警告のようである。しかし、人は来るなと言われれば、行きたくなってしまうものであり、瑞々しい露草を映したような晴れやかな空の広がる世界への誘いに応じてしまう。

二句目は、一句目の印象を引き継ぎ、金網はあたかも読者の侵入を拒むかのようである。キツネノカミソリは、おとぎばなしに出てくるような名でありながら有毒植物である。金網との取り合わせによって句中において、硬質で鋭利な印象を帯びるキツネノカミソリ。その向こうに見えている水は幻想を湛えるかのよう黙しながら、どこか不穏である。〈キツネノカミソリ轍とは幻肢痛〉という宮本の第一句集『鳥飛ぶ仕組み』の「触れてはいけない世界の扉」のような作品が思い出される。

三句目、別名キツネノマクラとも呼ばれる烏瓜のある里の朝が描かれる。「ムラ社会」的な里の朝から、妻として母親としての役割を果たしてきた句中の母は、何者かによって逃される。逃された母はしがらみから解き放たれた女性としての存在に立ち戻るのことができるのだろうか。「母を逃す」と下五字余りの強調からは、死者も含めたあまたの母としての女性たちというものを浮かび上がらせる。

それでは、様々な傾向のみられる本句集をテーマごとに読み進めてゆく。

Ⅰ 女性とはなにか

橇にゐる母のざらざらしてきたる 

前述の〈からすうり里の朝から母を逃す〉を彷彿とさせる作品である。人生の決められたコースに乗せられた「橇にゐる母」が「ざらざら」と弾力を失ってゆく様子は、死に近い。そのような母に対して目をそらさず、触れ続けている主体はどこまでも冷静である。辺りの雪は、踏み固められ、凍ってざらざらとしているのだろうか。女性はときおり社会において母性的、保護的、補佐的であることを求められるが、宮本は「逃す」ことでこうした既存の女性像に静かに立ち向かっているのかもしれない。

林檎ざくざく片方の靴きつし

続く掲句では、現代に生きる女性の心情が映し出されている。

旧約聖書の『創世記』では、蛇にそそのかされたイヴが禁断の果実を食べ、アダムにも分け与え、男女ともに楽園から追放される。どんな果実を食べたのかは記されていないが、林檎として描かれているものがある。神はそれぞれに対して罰を与えるがイヴへの罰の一つが「お前は男を求め彼はお前を支配する」である。句集の刊行と同じ2019年に #KuToo という女性がハイヒールなどの着用を義務づける職場に抗議する社会運動が盛り上がった。左右の足の大きさは誰しも少し違うため、大きい足の方の靴先をただきつく感じたという発見の作品なのかもしれないが、こうした変わらない社会が「ざくざく」という濁音とともに、掲句を取り巻いていることは見逃せないように思う。

Ⅱ 空とはなにか

木蓮の濡れ階段室へ夜空

星月夜ひとり喫煙ひとりは空

一句目、雨上がり、夜の木蓮の風情を引き立てるには、団地などの無機質で古びたコンクリートの階段室が似合う。木蓮の咲く春夜の空気が漂う一人の充実した時間。濡れた木蓮の白が夜空へ伝ってゆくような、なだらかな破調の韻律が心地よい。動作の起点をはっきりと示す「から」などではなく「へ」という大まかな方向を示す助詞によって階段室に浮遊感が生まれている。二句目、喫煙者と非喫煙者が並んでいる。とくに会話する様子にはない。たまたまその場にいる二人かもしれないし、友人同士かもしれない。それぞれの愉しみは分かち合われず、個々の満ち足りた時間と共に夜は更けてゆく。下五の字余りに空
を満喫する気持ちが籠っている。

2012年刊行の宮本の第一句集『鳥飛ぶ仕組み』にも空に関する作品は多い。

はつなつの麒麟は空を授かりぬ

夏至の日の暮れゆく空にある手帳

ふくろふや空がひらいてきて落ちる    

一句目、初夏の空は祝福のように麒麟に授けられる。二句目、何気なく開かれる手帳の白いページが、長い昼を思わせ、昼のなごりを残しながら暮れてゆく夏至の空が思い浮かぶ。三句目、空を扉のように開閉するものとして捉えており、童話的なたのしい景と思える背後に、どことなく落下の恐怖が垣間見られるように感じる。

第一句集における空は「目をつむった時に見える空」第二句集における空は「目を開けた時に見える空」なのではないだろうか。より現実の対象と向き合って作られたのが、第二句集であると感じる。

Ⅲ 死とはなにか

蜜柑山はやく帰つてはやく死ぬ

手のひらにをさまりさうな蜜柑山

黄の果実のある景に登場する死。一句目において、死は突き放すように書かれながらも、二句目に表されている作者が手のひらに納めたいほどに心惹かれる景に抱擁されている。生と死はそれ程遠いものではなく、早く帰ることと早く死ぬことは、そう変わりないと医療に携わっている作者は感じているのかもしれない。描かれた死には、幻想が加味されておらず、ただ土に帰ってゆくという乾いた印象がある。「はやく」が二回あることで、死者は様々ながら、死というものは誰にでも等しく訪れ、繰り返され、それ自体は特段の意味を持たない日常であるということを突き付けられる。

『鳥飛ぶ仕組み』においても〈夏の墓何もしないで帰つてくる〉のように感傷的でなく死というものと向き合っている様子が見られるが、第二句集では、より表現に深みを増している。死は作者がときに冷静に見つめる現世〈録音のやうな初音のなかにゐる〉〈永き日をよけて汚れた手を洗ふ〉からの解放という側面があるのかもしれない。

 Ⅳ 異界とはなにか

顔ぢゆうが金木犀の森となり

指先の鶺鴒となるあかるさに

掌が枇杷となるまで触れてゐる

一句目、金木犀の香りに顔が包まれる様子。そこから、顔中に金木犀が生えてしまったような恐ろしさ、うっとりするような芳しさという、相反する心地を得る。どことなくジュゼッペ・アルチンボルドの油彩画を想起する。〈木犀と硬貨を替へてやつれたる〉〈立体となりゆく昼の金木犀〉においても本句のような唐突に異界が現れる不思議さが木犀にはあると作者は感じているようである。

二句目は、長い尾の美しい鶺鴒となったあかるい指先が登場する。夜の場面と想像しても景が映え「日本書紀」のくだりを重ねればほのかにエロスも感じる。

三句目、小さな掌の人でもすっぽりと覆うことのできる細い毛に包まれている果実。傷んで変色しやすい枇杷という果実ゆえ、そっと触り続けているのであろう。触れるもの、触れられるものが皮に覆われた別々の存在ながら、だんだんその境界が曖昧になってゆくような感覚を導かれる。

Ⅴ 枯れとはなにか

竹煮草の実のかさかさと電車くる

踏切のゆつくり枯れてをりにけり

歩いても枯紫陽花の浮かびくる

集中に頻出するのが「枯れ」というモチーフである。一句目、荒れ地などに生える竹煮草の実の印象が電車へと繋がっている。わびしい郊外を想起させるかさかさとした竹煮草の実の風景が、どこか生者と死者の世界の交わりの場と感じられるのは〈鬼籍から枯木めがけて入る人〉という枯れと死者の結びついた作品が印象的であるからだろう。

二句目、電車に乗っている時、踏切に電車が近づくと、踏切の警報音は高く聞こえ、遠ざかると低く聞こえる。こうした警報音の高低を「枯れてをりにけり」と表したのだろうか。一日に何度も通過する電車の速さに対して、植物が枯れ、秋が進んでゆく速度ははるかに遅い。そうした枯れのゆっくりとした速度が、踏切というものを覆って、電車が次第にスローモーションに見えてくるような気さえしてくる。〈ぼんやりと踏切のある時雨かな〉も同様の景を思わせる作品である。

三句目では、歩く身体への意識が枯紫陽花のイメージに覆われてゆく。紫陽花は枯れてもみずみずしかった時の姿に近いままであることが多く、どことなく美しい骸骨のような印象がある。その残像とともに歩みを進める様子には、死と寄り添いながら、ぼんやりと自らの生の質感を確かめているように思われる。

「その他は」の章にある〈その他はブルーシートに覆はるる〉は東日本大震災の被災地である福島を詠み「フリスク」の章の〈流す三人八ミリで撮る散骨〉は作者の亡夫を詠んだものである。二句ともに無季でしか表せなかったゆえにかえってその切実さが滲んでいる。しかし、災害や身近な人の死に対してさえも嘆きは「ブルーシート」や「散骨」に託され、悲嘆に暮れる作者の表情は見えない。

本句集は一貫して、いわゆる女性的な情緒や情念を思わせる作品はない。「女性や妻の佇まい」として社会から求められることのあるものを詠まないという意思が作者にはつよくあるのかもしれない。

さて、三句組の最初と最後のページの句をあらかじめ決めてから句集を編んだという最後の三句について見てゆこう。

天井の高くてうちだけがおでん

朽野に黄色い空を見にゆかむ

二階建てバスの二階にゐるおはやう

一句目、おでんの匂いの中で、個人の満ち足りた気持ちが表されている。天井の高さによって、おでん鍋を取り巻く空間が広がり、立ち上る湯気まで見えてくる。さらには、見上げる視点と見下ろす視点の両方を読者は行き来することで「うち」以外の部屋も見えてくる。

二句目、戦後、詩誌「荒地」が刊行され「荒地派」と呼ばれる数々の詩人を生み出した。戦後復興のエネルギーに満ちた時代の「荒地」に対して、祝祭が終わった後のような「朽野」は今という時代にふさわしいように思う。「黄色い空」は朝焼だろうか夕焼だろうか。黄昏の迫る夕暮れが「朽野」という措辞には馴染むように思う。

三句目、東京観光用の屋根なしの二階建てバスを想像した。誰に「おはやう」と投げかけているのだろう。頭上に広がる空へ、あるいは目には見えていないすべての生者、死者への投げかけなのかもしれない。〈来る勿れ露草は空映したる〉で始まった句集であるが、最後に「おはやう」と声をかけられることで、深い森のような世界から読者は、帰還することができる。二階建てバスの二階から投げかけられる誰に向けたのか自身にもわからないだろう「おはやう」の切実さによって。

このように、「女性というもの」「生と死」「幻想と現実の物の存在」などを中心にして読み進めてきた。宮本佳世乃の作品は、連作で読むことにより、一層の深みにふれることのできるものである。しかしながら、一連で得た印象をあえて拭い去って、一句としての読みに立ち戻りたくもなる。

なぜなら、孤独な時間、常に寄り添うようにある生死、ときには辛い現実世界を遠ざけるための想像世界、現代の都市で生きる女性の心情や生きづらさといった事柄は、コロナ禍においても変わらず、それどころか、より私たちに肉薄するものとなったからである。一句ずつを丹念に紐解いてゆくとまたコロナ以前とは違った世界が見えてくるに違いない。作者の様々な思いを湛えた『三〇一号室』の扉はいつまでも「来る勿れ」と私たちを誘っている。

( 了 )

2021-05-30

【宮本佳世乃✕中嶋憲武の音楽千夜一夜】奥田民生「イージュー★ライダー」

【宮本佳世乃✕中嶋憲武の音楽千夜一夜】

奥田民生「イージュー★ライダー」


憲武●今日はゲストに宮本佳世乃さんをお迎えしています。

佳世乃●宮本佳世乃です。えーとわたしのお薦めは奥田民生の「イージュー★ライダー」です。


佳世乃●奥田民生って余裕があって、年がら年中短パンで昼酒飲んで川べりで昼寝して、たまに釣りして、という勝手なイメージ。自由に生きている感じがしてうらやましいんです。1993年にユニコーンが解散して翌年ソロになってから、余裕度が増した感じ。

憲武●奥田民生のことは実はあまりよく知らないんです。井上陽水とのコラボレーションのCDを持ってるくらい。あと、PUFFYのプロデュースなどからビートルズが好きなんだなというのは分かります。

佳世乃●そうそう、ビートルズが好きで、民生がひとりでビートルズっぽく演奏している「リー!リー!リー!」って曲なんかもあったり。

憲武●面白いですね。メンバー全員奥田民生。「リー!リー!リー!」というタイトル。特徴をよく掴んでますね。ちょっとジョン・レノンのギターの位置が低いかな?って思いますが。

佳世乃●ねー。彼はこういう遊びっぷりが絶妙なんです。それで、「イージュー★ライダー」の話に戻ると、この曲、もう20年以上前の曲なのに、今もCMに起用されたりしてて。壮年や中年から見ると、時間的展望がたっぷりあって、何にでもなれる気がした青年期を遠い目で思い出しちゃう。

憲武●サビの部分を聞いて、聞いたことあるって思いました。確かに歌詞、いいです。

佳世乃●●歌詞の話すると、もう泣けてきます。1番は「僕らの自由を 僕らの青春を」って青年時代の目線なんですが、2番になると「僕らは自由を 僕らは青春を」と、大人の目線にかわる。もうあの頃に戻れないことや、いつの時代にも感じる生きづらさをうたっているのかなぁ。

憲武●「の」と「は」の使い方で、読み方が変わってきますね。

佳世乃●この曲は音の高低差があるにはあるんですが、サビでミやド#やラ音が連続してまっすぐに歌っているので、一見簡単そうに聞こえるんです。でもカラオケで歌ってみるとそう簡単でもないというか。

憲武●なるほど。

佳世乃●民生の曲って、半音ずつの上下がふらふらしている感じがあります。音がさまよっていて、そこが魅力なんです。この曲は、歌詞に入る直前の2小節がそう。

憲武●佳世乃さんは合唱をやられているんですよね。聴き方が音楽をやられてる方の聴き方です。分析してますね。

佳世乃●この曲の気持ちよさは何か、みたいなことは考えているかも。でね、憲武さんと話すんで、「イージュー★ライダー」っていうタイトルについてもちょっと調べてみたんです。

憲武●おお、聞きたいですね。

佳世乃●映画「イージー・ライダー」は私も知っていて、単なるもじりかと思っていたんですが、イージュー(E10)って、音楽業界で30っていう意味みたいなんです。どうやら本人が30歳の時に作った曲だと。

憲武●僕も見てみたんですが、ドレミをコードで表すと3番目のミにあたるのがEで、「イー」は3、「ジュー」は10で合わせると30。三十路のバイク乗りってことですね。この曲のリリースが1996年ですから、ちょうど30歳の頃ですね。

佳世乃●この曲は、30歳の奥田民生からの、すべての年代の人たちに対する、ちょっと照れ臭い生の肯定のような気がします。生きていると、映画のようにぱっと死んじゃうこともある。そんな道のりを俯瞰で見ているような、きっとそういうことだろうと。


(最終回まで、あと805夜)

2020-10-11

【句集を読む】さみしいのかたち 宮本佳世乃『三〇一号室』を読む 小林苑を

【句集を読む】
さみしいのかたち
宮本佳世乃三〇一号室』を読む

小林苑を


蜜柑山はやく帰つてはやく死ぬ  宮本佳世乃

初出はどこに掲載されたのだったか、どう受け止めればいいのか戸惑った記憶がある。同時に「ああ、わかる」とも思ったのだが、書こうとすると上手く書けない。でも気になって、一句なら他にいくつも浮かぶのにこの句から離れられない。

『三〇一号室』は「二階建てバスの二階にゐるおはやう」で締めくくられる。この句には佳世乃句のすべてがある。ひかりに溢れているけど冷んやりしていて、呼びかけ(挨拶)がある。特定の誰かではなくみんなへの呼び掛け。この掛けずにいられない共感性・迷いのなさの清潔感。これが佳世乃句の魅力だ。そして、宮本佳世乃の明るくて清潔な世界はほんの少し危うい。

みんなさみしい明けましておめでたう  同

さみしいは佳世乃句のキーワードだと思う。ひかりに溢れているけど冷んやりはさみしいのかたちなのだ。目の前の光景を見詰めていると同じなのに違うように見えてくる。たとえば印象派の画家に光の粒子が見えるように、だろうか。見えるだけではなくて肌に触れてきたりするんじゃないか。其処から言葉にしてゆく俳句の感性が宮本佳世乃にはある。

ところで『三〇一号室』とは「あとがき」にある著者が住んでいた部屋だろうか。病室かもしれない。強引に掲句に引き寄せるなら、そこは帰る場所であり人生を終わらせる場所なのだ。密柑山は晴れていて海が見えるのかもしれない。そんな明るい場所だからこその此処は居場所ではないという違和感。「はやく帰つて」はよく分かる。さらに「はやく死ぬ」と言われて立ち竦む。いずれ人は死ぬ。死にたいと死にたくないは同じだとも思う。でもこんなにも清々しく潔く死がそこに置かれている。ふいにこの解釈は違うかもしれないという気がしてくる。もしかしたら部屋の窓から蜜柑山が見えるのかもしれないし、帰るのはあの明るくて冷んやりした蜜柑山なのではないか。不穏なのに安らぎのある不思議な一句。

こどもつぎつぎ胡桃の谷へ入りゆく  同

陽当たりのちがふ黄色い菊畑  同

透明な傘をすべつてゆく秋よ  同

空蟬は耳のかたさよ眠くなる  同

夏痩せてたまたま顔のある煮干  同

その他はブルーシートで覆はるる  同


宮本佳世乃『三〇一号室』2019年12月/港の人 ≫amazon




2020-05-03

【句集を読む】ずっぷりと夢魔 宮本佳世乃『三〇一号室』の一句 西原天気

【句集を読む】
ずっぷりと夢魔
宮本佳世乃三〇一号室』の一句

西原天気


もう鍵盤がない息のない土竜  宮本佳世乃

否定・不在・欠落=《ない》を含むふたつの部品がならんだ、と読んでよいのでしょう。

もう鍵盤がない//息のない土竜

前半を用言の言い切りで処理し、後半を体言止めでブツとして句を止める。ちょっとした変化/展開/趣向で、読みにコクが出ますね。

さて、この句に何があるのかを見ていきましょう。構造の話から、内容へと話を進めるわけです。

まず、前半。

《もう》の二文字が、脈絡を確定する方向に働くようです。俳句は短くて、舌足らずなことも多いので、脈絡なんて言っても、だいたいにおいて読み手が勝手に連想したりして確定するに過ぎないのですが(つまり、多くのファビュラス〔*〕な句は脈絡などを持たず、いわば宙に浮いたまま魅了する)、そうは言っても、《もう鍵盤がない》のフレーズが意味として伝えるものがあるはずで、そのとき、ただ《鍵盤がない》とした場合と、《もう》がある場合、きっと違いは、ある。前者の茫漠さを、《もう》はやや緩和するというか、その程度の意味。

ただ鍵盤がないのではなく、《もう》なのだから、それは、尽きた、ということでしょうか。

鍵盤といっても、何の、どの楽器の、あるいはもっと違う器械の、といった確定のしかたは無粋であって、まあ、ピアノとしましょう(オルガンでもいいけどね)、それが《もう》ということは、例えば、鍵盤の在庫が尽きたので、組み立てられない、という脈絡を思いつくかもしれない。けれども、待て。そんな工場・工房の出来事みたいな読みは、やはり不自然で、指でスケール(音階)をのぼっていき、さらにのぼっていき、高音部の鍵盤が尽きてしまった。その景のほうが、まだしも、でしょう。つまり、工場・工房の景よりも、実感が湧く(ピアノを弾かない読者であっても)。88鍵のピアノの最高音部はかなり高いので、それ以上に高い音なんて要るのか? とも思うが、ともかく《もう鍵盤がない》。

このように読んでいくと、あれれ、これ、ちょっと、奇妙。現実の出来事には思えなくなってきます。一歩踏むと、そこに地面がなくて、堕ちていく。かのような。

右手の指が、《ない》《鍵盤》を踏み外す。ような。

《鍵盤がない》に《もう》の二文字がくわわると、夢のなかの出来事のような感触を帯びるのです。

後半。

《息のない土竜》は、呼吸の欠落のほか、土竜の属性として土中=視覚の欠落を召喚し、前半の夢魔が深まります。

息をしていない土竜は、ブツというよりも現象、もっといえば観念に近く、土竜というブツで止めておきながら、ちょっとした茫漠の味わいが読者に残りますから、夢から覚める働きは持たない。鍵盤の夢から覚めたら、土竜という闇を携えた事物の無呼吸≒死を間近にする。これもまた、さらに深い夢のようです。

覚めてみれば、ああ、あれは夢だったのだ。という「夢オチ」(胡蝶の夢から現代の閑話にいたる広汎なモチーフ)というスタイルから、この句は遠く、句の徹頭徹尾がずっぷりと夢に捕らえられている。現(うつつ)に帰ってくることがない。


余談ですが、そういう句、つまり句ごと夢魔に包まれた句って、いわゆる俳句らしい俳句というのとはまったく違っていて、そういえば、この句には季語がない。「土竜打は新年の季語だよ」と教えてくれる人がいそうだが、地面を打ったら、土中の土竜が息を引き取った、というわけでもないでしょう。


〔*〕ファビュラスの語を使ってみたかっただけです。戦慄かなの氏にならって。


宮本佳世乃『三〇一号室』2020年1月/港の人



2020-02-02

【週俳12月の俳句を読む】ひとりではなく 宮本佳世乃

【週俳12月の俳句を読む】
ひとりではなく

宮本佳世乃



湯豆腐の豆腐揺らして遊びけり  井口加奈

ひとりではなく、ふたりで過ごすゆうらりとした時間。ふたりの関係はいま始まったばかりではなく、少しこなれた頃の寄り添い方。

旅に来てシャンプー安しシクラメン  松本てふこ

旅行連作10句。それほど遠くない海辺への小旅行で、ふらっと温泉に寄った。一回分のシャンプーは安いけれども、おそらくは使いきれない。赤いシクラメンが日常感を醸し出し「安し」を引き立てている。

神様がゐないみなとみらいライン  浅沼 璞

この10句は一句目から十句目までがことばと音で連結されている。神の留守→神様がゐない→きしりきしり→蓄音機のような分かりやすいラインがひとつ。また、ゐる/ゐない、病気/環境、純真/贋物、孤心/陶酔のライン。仕掛けが分かるごとに面白みが増す。
この句は音の楽しさ。たぶん、此処にはこれまでもこれからも神様はいない。

重箱の底は開かなくなっている  樋口由紀子

8句すべてに「そうかも」と思う瞬間がある。ちょっとした隙や、本物(本当)ではないものなどが並ぶことで、正月の非日常さをパネルをひらくように構成していく。日常に対して、非日常はたぶん必要だけれども、いかんせん心はわくわくはしない。もう、とっくに。だって底が開いてしまったら終わっちゃうから。

果汁一パーセントのジュース冬の星  相子智恵

京都の少年か。冬の夜に子どもが飲むジュースはうすくて十分だ。甘いものを飲めればそれで嬉しい。この句は「一」や長音、「ジュウ」が冬の星っぽくって楽しい。

かわせみが雪の景色の枝に待つ  福田若之

たしかに川の付近に行くと、この季節でも翡翠がいるときがある。雪景色のモノクロームみの多い世界では、かわせみさえもモノクロームに寄った色の鳥として、目に映るだろうか。そして、このかわせみの待っている出来事は、やってくるのであろうか。待つという「こと」が目的になってしまったようなこの句からも、10句全体からも、本来の時間とは別の、時間経過のながさを感じた。時間の経過に向けられる、そのときの作者の知覚が思われた。

降誕祭ワカケホンセイインコ群れ  岡田由季

カタカナヒョウキに目を惹いた。ワカケホンセイインコってどんなインコか調べたら、身体が黄緑でくちばしが赤。たとえば夢に出てきたらだいぶ怖い。しかも群れているし。そういう意味では、句のスタイルと内容が一致して、ワカケホンセイインコっぽい。


 井口可奈 好きだと決めたから愛します 10句 ≫読む
松本てふこ 家族旅行 10句 ≫読む
浅沼 璞 冬季十韻 10句 ≫読む
樋口由紀子 もうすぐお正月 10句 ≫読む
相子智恵 少年 10句 ≫読む
福田若之 推敲 10句 ≫読む
岡田由季 内勤 10句 ≫読む

2018-10-21

【週俳600号に寄せて】ひとときの夢とか、いつものこととか 宮本佳世乃

【週俳600号に寄せて】
ひとときの夢とか、いつものこととか

宮本佳世乃



週刊俳句第600号、おめでとうございます。

単純に考えると、日曜日が600回やってきたということ。1年間の日曜日はほぼ52回なので、週刊俳句が生まれてから11年半です。生まれたてのこどもがもう6年生、思春期に差し掛かってきたなぁ、とも思います。

個人的には、週刊俳句の誕生のころからの記事は、いろいろなことが思い出となっています。

まぁそういうことは飲みながらゆっくり話すとして、

第501号から今号までのあいだにあったことをアーカイブでみてみました。

 10周年記念のオフ会(≫こちら

 金原まさ子さん、金子兜太さんの死去(≫こちら ≫こちら

 ku+クプラス3号が週刊俳句で終刊(≫こちら

新シリーズとして

 中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜(≫こちら

 ○○さんへの10の質問(≫こちら

などなど。

この間、エポックとなりうる句集も刊行され、「句集を読む」も充実しています。

読者としては、ひとときの夢のようなできごとも記事も、ふだんの息づかいもうれしい。

なによりも、アーカイブで600号までの記事をすぐに参照できる、すきなときにすきなだけ手に取れることもありがたい。

続ける、続くということ。手が届く、ということ。

今晩もお酒がおいしそうです。

また、ゆっくり飲みましょう。


2018-07-08

器に手を当てる 宮本佳世乃「ぽつねんと」における〈風景〉の構図 小津夜景

器に手を当てる
宮本佳世乃「ぽつねんと」における〈風景〉の構図

小津夜景

『豆の木』第19号(2018年5月20日)より
転載(改稿あり)

俗に「オルガン調」と言われる俳句がある。

この呼称はきわめて気分的なもので、実際どれほどの内実があるのか検証されてもいないが、多くの場合、同人誌「オルガン」の中心的人物と見做されている鴇田智哉の作品との類像性ないし影響関係が感じられる句をそう呼ぶようだ。具体的な特色についてはいくつか考えられるが、その中でも確実と思われる一例を宮本佳世乃「ぽつねんと」から引用してみよう。

 くちなはに枝の綻びつつまはる

 ふくろふのまんなかに木の虚のある

もしも上の句が〈くちなはの枝に綻びつつまはる〉〈木の虚のまんなかにふくろふのある〉であれば話はかんたんだ。しかし宮本はそうは書かない。

ここでまず確認したいこと、それは文法上・論理上の語順を入れ替えることによって詩趣を生み出すこの技法が鴇田智哉の考案ではないという基本的事実である。この種のレトリックは俳諧の成立過程においてすでに存在し、具体的には杜甫の倒装法を芭蕉が真似たことに由来している〔*〕

 香稲啄余鸚鵡粒  香稲、啄み余す鸚鵡の粒、
 碧梧棲老鳳凰枝  碧梧、棲み老ゆ鳳凰の枝。
 (杜甫「秋興」)

 鐘消えて花の香は撞く夕べかな  芭蕉
 吹き飛ばす石は浅間の野分哉  〃
 海暮れて鴨の声ほのかに白し  〃

仮に杜甫「秋興」の頷聯「香稲、啄み余す鸚鵡の粒/碧梧、棲み老ゆ鳳凰の枝」を実際の光景である「鸚鵡、啄み余す香稲の粒/鳳凰、棲み老ゆ碧梧の枝」に戻すと、句の中心となる名詞が「鸚鵡」「鳳凰」に固定されてしまい、人間の目に世界が立ち上がる際の動態性が失われることがわかる。加えて句の内容が〈風景〉ではなく〈景観〉にすぎなくなるため感興にも乏しい。

〈風景〉とは体験である。それは客観的・科学的な〈景観〉や〈環境〉と異なり、心と感覚の働きに起因する個人的かつ一回性の出来事として文学および美学の領域で論じられてきた。ここで杜甫が行ったことも、読者の知性を前提とした上で語順を錯綜させて、意味における虚と実との大胆な共存を図りつつその交じわる点に一回性としての〈風景〉を出現させる試みとして捉えることができる。そしてまた芭蕉もこれに倣い、通常ならば〈鐘撞いて花の香消ゆる夕べかな〉〈石を吹き飛ばす浅間の野分哉〉と書くところを倒装法によって語の位置をアクロバティックに入れ換えたのだ。

また倒装法は「鍵となる語の交錯」と「修飾語の交錯」とのパターンに大きく分類されるが、芭蕉における後者の例としては〈海暮れて鴨の声ほのかに白し〉がわかりやすい。これを実際の光景に戻すと〈海暮れてほのかに白し鴨の声〉となる。ただしそれは「実」の景であっても「真」の景であるとは言いがたく、なにより現象を把握する折々に生じる五感の分かちがたさといった〈真に生きられた体験〉が抜け落ちている。そんなわけで芭蕉は〈海暮れて鴨の声ほのかに白し〉と書いた--のかどうかは今となっては正直推し量り難いけれども、少なくとも残された句は、理屈によって世界が整理されてしまう以前の純粋経験を描いたそれとなった。共感覚的風景を産み出すのにも便利な--ときに便利すぎることも否めない--この類の代換法(=転移修飾語)は漢詩文以外でも珍しくないレトリックの構文である。

話を最初に戻すと、俗に「オルガン調」と言われる方法の内のひとつはこの倒装法のヴァリエーションであり、その意味で冒頭に引用したふたつの句も俳諧の伝統をすこやかに受け継いでいる。すなわち、ここにおいて宮本が描こうとしたのは、風景が生成する過程における意識の動き、つまり作者が実際に生きた時空そのものの描写であるため、あのような語順が妥当であったのだ。

その他「ぽつねんと」で目につく特徴といえば切れ字の少なさで、全30句のうち〈雪晴や器械から音楽の出て〉と〈十六夜の髪にこぼるる鋏かな〉の2句にあらわれるのみである。代わりに宮本は切れ字以外の方法で一句を構造化することを目指すのだが、そのひとつが今説明した倒装法によって句に〈虚実の奥行き〉を付与する方法と、もうひとつが〈器〉ないし〈扉〉のイメージによって句の〈内外の奥行き〉を演出する方法だ。

 うすばかげろふおとうとの肺に棲む

 こゑ新しくあぢさゐに閉ざさるる

 湧いてくる闇武蔵五日市のダリア

 蜥蜴一本かほより岩へ入る

 ふくろふのまんなかに木の虚のある

ここでは「うすばかげろふ」「こゑ」「闇」「蜥蜴」「ふくろふ」がそれぞれ「肺」「あぢさゐ」「ダリア」「岩」「木の虚」といった〈器〉を出入りする様子が描かれており、後の語群と前の語群との間には包含の構図が存在する。〈ふくろふのまんなかに木の虚のある〉については「ふくろふ」という〈器〉の中に「木の虚」があると読んでも差し支えない(今重要なのはふたつの語が包含関係にあるということだから)。こうした構図は「ぽつねんと」のいたるところに溢れている。

 ふれてみし冬の泉の割れて櫛

 ゆふがたを紋白蝶の溜まる息

 雪晴や器械から音楽の出て

 瓶を持つ手のふたたびの霧の中

 金網のおほかた錆びてかひやぐら

ここでは「泉」が「櫛」を、「息」が「紋白蝶」を、「器械」が「音楽」をそれぞれ包みこんでおり、なかでも〈ゆふがたを紋白蝶の溜まる息〉は紋白蝶をたくわえた息の質感がえもいわれぬ詩趣を発して心地よい。またまた「霧」や「かひやぐら」は、先の〈湧いてくる闇武蔵五日市のダリア〉において「闇」が「ダリア」から湧いたように、「瓶」や「金網」から湧いていると読むこともできる。さらに、

 古代より来し青鷺の部屋の前

 遊びたる鶴うつりたる自動ドア

ここにも「青鷺」が「部屋」を、また「鶴」が「自動ドア」を出入りする構図が隠されている。この2句については「古代より来し/遊びたる」および「部屋の前/うつりたる自動ドア」など意味も似通っており、共通の構図のみならず共通の機微の下で書かれていることがわかる。「ぽつねんと」にただよう沈潜的な香りは、こうした〈内外の奥行き〉によって生み出される潜在的領域を一句がさりげなく隠し持つことで実現されているようだ。

 手を当てるとき数学はからすうり

「数学」とは形而上学、すなわち純粋経験そのものであり、掲句ではその「数学」が「からすうり」という小さな〈器〉に包含される(あるいは全く同等である)と語られる。このささやかな神秘。そのひっそりと奥深い美しさ。思うに「からすうり」に「手を当てる」とは、おそらく〈真に生きられた体験〉としての〈風景〉がそのつど〈器〉の中に潜在していることを祈りつつ信じる仕草なのだろう。


【註】
〔*〕芭蕉以外の俳人による倒装法として、蕪村〈夜やいつの長良の鵜飼かつて見し〉を例に挙げる。この句の実の形は〈いつの夜や長良の鵜飼かつて見し〉となる。

【参考文献】
・佐藤信夫『レトリックの意味論―意味の弾性』 講談社学術文庫
・芥川龍之介「芭蕉雑記」
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/23_15267.html
・久保忠夫「芭蕉の発句と倒装法」 『連歌俳諧研究』1956年1956巻12号p. 61-68 https://doi.org/10.11180/haibun1951.1956.12_61

2018-07-01

『オルガン』、大阪へ

『オルガン』、大阪へ

宮本佳世乃 聞き手:西原天気


天気●この夏、『オルガン』の同人5人で大阪に行くんですって?

佳世乃●はい。7月22日(日)は、梅田の蔦屋書店で公開句会をします。詳細はこちらです。
http://real.tsite.jp/umeda/event/2018/06/event-0722.html

『オルガン』の仲間では、ふだん句会を一緒にしたりするんですが、開かれた場所で、お客さんも交えて行うっていうのが今からドキドキです。

天気●句会は自由参加? それともオルガン+久留島さん?

佳世乃●自由参加です。句は3句までなんですが、句を出さないで見学だけでも大丈夫です。あ、もちろんオルガンも久留島さんも参加します。オルガンの仲間も句風が違うし、初めての方との句会なので、当日どんな句が出てくるのかわからないぶん、楽しみです。

天気●「トーク」とも書いてありますが、これは? なにかテーマを決めて?

佳世乃●句会をしていくなかで、俳句についてのトークになるかと。句会に出す俳句や選に、おのずと俳句観みたいなものが出てくるんじゃないかな。

天気●俳句観! なんかエラそう。

佳世乃●たしかに(笑)

天気●でも、まあ、句会で実際の句を材料に話すのは、とっつきがいいし、わかりやすいでしょうね。ところで、梅田の蔦屋書店って、大阪駅の中にあるんですね。佳世乃さん、大阪は?

佳世乃●親戚がいて、若いころは一年に一回くらい行っていました。そういえば、大阪に行くと、なぜかうどんを食べています。

天気●「なぜか」じゃなくて、とうぜん、うどんでしょう。うどん一本化でもいいくらい。

佳世乃●えっ、そうなんですか? 私は何で毎回うどんなんだろうって思ってました。関東と関西の違いなんですかね。

天気●で、前日の21日(土)は、関西現代俳句協会青年部勉強会「句集はどこへ行くのか」。
http://kangempai.jp/seinenbu/event/2018/0721.html

佳世乃●そうなんですよー。午前中に新幹線に乗って、葉ね文庫さんにご挨拶して、午後から勉強会の予定です。

天気●句集がどこへ? って、書棚とダンボール箱以外あるの? とか思ってしまったけれど、イベント紹介のページに「出版不況といわれ、町の本屋が姿を消しつつある一方、新たな試みをする個性的な書店も増えています。」とあって、なるほど、実感です。

佳世乃●句集を出すことについては、福田若之『自生地』の刊行に合わせて『オルガン11号』でもメンバーで話をしているんです。個性的な書店は、句集だけではなくて、同人誌なんかも置いてくれていてうれしいです。

天気●東京・三鷹の水中書店で、『オルガン』を見ました。古書店・新刊書店にかかわらず、個性的な書店が増えて、かつての「町の本屋さん」のイメージが大きく変わっています。句集が置かれるロケーションにも変化がありますね。

佳世乃●ほんとほんと。個性的な書店は、句集の置きかた・見せかたなども工夫されていますよね。

天気●それにしても、このイベント、登壇者が多いですね。『オルガン』の5名以外にも、関西在住の皆さんなんですね、5名のほか、とあります。いろいろな話が飛び出しそうです。

佳世乃●私としては、お会いしたい方がたくさんいるので同じ空間にいるのはワクワクします。みんなで円座を組んで、地べたに座って、むかしのシンポシオンのように語ってもいいですね。ワインは持ち込めないかもしれませんが。