【句集を読む】
生活感
石田郷子『草の王』
宮本佳世乃
初出:『炎環』第459号・2018年9月
『秋の顔』『木の名前』に続く十一年ぶりの第三句集。昭和三三年生れの俳人である。昭和三〇年以降に生まれた特に女性俳人は「生活感がない」と言われることがある。ある結社の記念誌で、揶揄的に石田の名前を使われたこともある。ところで、本当に「生活感がない」のだろうか。少し前置きが長くなったが、句集を読んでいきたい。
四万六千日人混にまぎれねば 石田郷子
句集冒頭の句。この日に参拝すると四万六千日の功徳が授かると言われている。まぎれなければならないという切迫感があるが、まぎれたとしても孤独はぬぐい切れない。師である山口みづえの〈四万六千日子忘れの日を賜らず〉を意識したとも思われる。
まみえけり青水無月のなきがらに
寝冷せし手足を伸ばす父亡き朝
父の死を詠んだ句である。「まみえけり」で見る、見られるの関係を描いた。なきがらを前にした「こと」を書きながら、もう一度心のなかで反芻し、「まみえけり」が生まれたのだろう。二句目は、父の臨終後に実家で眠った後の光景。読み手にすーと入って来るようで、何かが引っ掛かる。それは、死を題材にしているからではない。
トースターちんと鳴つたる枯木かな
この「ちんと鳴つたる」の何とも言えぬ軽み。「鳴りたる」では全く成り立たない。中七で一回切れて、背景にある枯木を描き、場面を転換させる。枯木と言えども、もちろん木は生きていることが分かる。
思はざるところにも雪つもりたる
ここにもそこにも、雪が積もっている。こんなところまで! という茶目っ気が「にも」の二文字で描かれている。
芒原たちまち空の奈落にて
地面はどこかというのは同じだが、どこからが空なのかは、人によってとらえ方が違う。芒原にいたら、この場所が空にとっての地獄のように思えた。視座を変えることによって世界を逆転させる。
泉までさびしき人を連れてゆく
前世も淋しかりしと夏帽子
さみしい、のではなく、さびしい。息が吹いて、つぶやくように、さびしい。泉まで身体を連れてゆく。前世から夏帽子までさびしさで満たされている、豊かな句。
啓蟄の扉が開いて閉まりけり
青空のうすくなりたる網戸かな
一句目、ダブルミーニング。わらわらと虫たちが出てくる「扉」が開き、すぐに閉まる。もしくは、啓蟄の日の部屋の扉が開いて閉まった。二句目は、網戸を閉めたら青空がうすくなったように思った。ただそれだけのことだ。「生活感」などというものは様々あっていいはずで、仕事や身体や死生や家の中を描いたから「生活」なわけではないだろう。大切なのはこれで一句とした、と決めることではないか。
石田郷子『草の王』(平成二七年、ふらんす堂)
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