【句集を読む】
理知的かつあたたかい
飯田晴『ゆめの変り目』
宮本佳世乃
初出:『炎環』第461号・2018年11月
二〇一〇年から二〇一八年春までの句をまとめた「雲」の主宰の第三句集。あとがきに「生者死者、水も石も人のほとりに棲む生きものも、思わぬ近さに感じながらの一集になったように思います」とある。
盆唄は水に浮きつつ来りけり 飯田晴(以下同)
むかうから見れば夜になる曼殊沙華
二〇一〇年~二〇一一年の作品。佃の念仏踊りだろうか。かたまったときの水の重さ、怖ろしさの上に死者を供養する盆唄が浮く。そして、日時を知っているかのように咲き始める曼殊沙華の一群。「むかう」は、彼方か、曼殊沙華の目線か。いずれにせよ人びとの歴史よりも古くからある記憶と自然が結びついている。
噴水にゆめの変り目ありにけり
ふいに手の出て藤房をひとなです
二〇一二年~二〇一三年の作品。噴水は地下などを循環して様相の変化を起こす。水群がふっと変わる瞬間を「ゆめ」と詠んだ。二句目は、藤の花が誇らしげに垂れている頃(藤のトンネルなどか)、ふっと誰かの手が伸びてくる景。面白いのは、この二句が同じページに並んでいること。「地下から手が伸びてきたのではないか」などユニークな読みもできる。二句組の句集ならではの相互作用だ。
腰かけてそれから秋の顔になる
北風やきつねうどんはきつねから
二〇一四年。腰かけて、やっと一息をつける、秋の日。夏には感じられない秋の風、秋の余裕。「それから」に実感がある。きつねうどんの句は頭韻を踏むことで寒さを表す。きつねが甘そうでいい。
秋風の野を脱ぎ捨てるやう逝けり
鳥渡る三朗の骨みな壺に
二〇一五年の秋。夫であり、「雲」の元主宰の鳥居三朗氏が急逝された。秋風の野をたらふく歩いて我が家に帰り、野の匂いを纏った服を脱ぐ。身ひとつの、「いる」姿。二句目からは、こころにずーんとかなしみが飛び込んでくる。生きている姿、哀しさ、愛しさ。
花追うてみんなで山の雨にあふ
風の名を言うて緑を分かちけり
菊食うて夜といふなめらかな川
みんなは、みんなだ。そこに居る人も、虫も、土も石も葉も。山桜が可憐にそこに生る。風の中で緑を分かつとは、なんと豊かなのだろうか。あめつちで、すべてと交感しようとする。三句目も、誰かと菊で一献やっている。「もってのほか」のおいしさは計りしれない。
本句集は編年体になっている。作者の師である今井杏太郎、夫である鳥居三朗両氏の死をはさみながら、日々を生きつつ、足で歩きながら作った俳句たちだ。句集として一気に読んだが、たとえお二方の死がなかったとしても、もともと作者には、ものに近づき、交感しようとする思いやすべがあるように感じた。理知的、かつあたたかい本だ。
『ゆめの変り目』飯田晴(平成三十年、ふらんす堂)
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