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2022-10-30

宮本佳世乃【句集を読む】理知的かつあたたかい 飯田晴『ゆめの変り目』

【句集を読む】
理知的かつあたたかい
飯田晴『ゆめの変り目』

宮本佳世乃

初出:『炎環』第461号・2018年11月

二〇一〇年から二〇一八年春までの句をまとめた「雲」の主宰の第三句集。あとがきに「生者死者、水も石も人のほとりに棲む生きものも、思わぬ近さに感じながらの一集になったように思います」とある。

盆唄は水に浮きつつ来りけり  飯田晴(以下同)

むかうから見れば夜になる曼殊沙華

二〇一〇年~二〇一一年の作品。佃の念仏踊りだろうか。かたまったときの水の重さ、怖ろしさの上に死者を供養する盆唄が浮く。そして、日時を知っているかのように咲き始める曼殊沙華の一群。「むかう」は、彼方か、曼殊沙華の目線か。いずれにせよ人びとの歴史よりも古くからある記憶と自然が結びついている。

噴水にゆめの変り目ありにけり

ふいに手の出て藤房をひとなです

二〇一二年~二〇一三年の作品。噴水は地下などを循環して様相の変化を起こす。水群がふっと変わる瞬間を「ゆめ」と詠んだ。二句目は、藤の花が誇らしげに垂れている頃(藤のトンネルなどか)、ふっと誰かの手が伸びてくる景。面白いのは、この二句が同じページに並んでいること。「地下から手が伸びてきたのではないか」などユニークな読みもできる。二句組の句集ならではの相互作用だ。

腰かけてそれから秋の顔になる

北風やきつねうどんはきつねから

二〇一四年。腰かけて、やっと一息をつける、秋の日。夏には感じられない秋の風、秋の余裕。「それから」に実感がある。きつねうどんの句は頭韻を踏むことで寒さを表す。きつねが甘そうでいい。

秋風の野を脱ぎ捨てるやう逝けり

鳥渡る三朗の骨みな壺に

二〇一五年の秋。夫であり、「雲」の元主宰の鳥居三朗氏が急逝された。秋風の野をたらふく歩いて我が家に帰り、野の匂いを纏った服を脱ぐ。身ひとつの、「いる」姿。二句目からは、こころにずーんとかなしみが飛び込んでくる。生きている姿、哀しさ、愛しさ。

花追うてみんなで山の雨にあふ

風の名を言うて緑を分かちけり

菊食うて夜といふなめらかな川

みんなは、みんなだ。そこに居る人も、虫も、土も石も葉も。山桜が可憐にそこに生る。風の中で緑を分かつとは、なんと豊かなのだろうか。あめつちで、すべてと交感しようとする。三句目も、誰かと菊で一献やっている。「もってのほか」のおいしさは計りしれない。

本句集は編年体になっている。作者の師である今井杏太郎、夫である鳥居三朗両氏の死をはさみながら、日々を生きつつ、足で歩きながら作った俳句たちだ。句集として一気に読んだが、たとえお二方の死がなかったとしても、もともと作者には、ものに近づき、交感しようとする思いやすべがあるように感じた。理知的、かつあたたかい本だ。


『ゆめの変り目』飯田晴(平成三十年、ふらんす堂)

2018-10-28

【句集を読む】なめらかな夜に 飯田晴句集『ゆめの変り目』の一句 西原天気

【句集を読む】
なめらかな夜に
飯田晴句集『ゆめの変り目』の一句

西原天気


夜は、物質ではありません。簡単にいえば、時間です(物質と時間の関係といったややこしい問題はさておき)。

ところが、肌理・質感を持っているような気がします。夜全般ではなく、ある夜。ある特定のその夜は。

菊食うて夜といふなめらかな川  飯田 晴

この「夜」は、なんと「川」であるというのです。それも「なめらかな」。不定形で、流れゆくもの。官能を感じる読者もいることでしょう(例えば私)。

この喩は、いかにもそうと読者が首肯するたぐいの喩ではありません。夜とは(この言い方は夜全般です)そういうものだと腑に落ちるようなものではない。腑に落ちきらない機微が残ります。そこがこの句の大きな魅力です。

ところで、菊を食すること、夜がなめらかな川であること、このふたつには、いくつかの関係が見いだせます。

1 無関係

2 因果(といっても句の傷としての因果ではありません)

3 融合

これだけだと、なんのことだかわからないので、ちょっと説明します。

1 無関係

作者が(ある人が)菊を食することと、川がなめらかな夜であることは、別の事情です。いわゆる二物が衝撃的に同居して、互いになんらかの効果を生んでいるというやつです。

2 因果

無関係なようでいて、かすかな因果は見いだせます。菊は食べものとしてカロリー摂取から遠い(無粋に理屈っぽい言い方ですね)。それゆえ、薬効的に、というより幻術的に、身体と精神に作用を及ぼすような気もしてきます。それは後半の官能的な喩によってもたらされるものでもあるのですが、ともかく、ほかの食べものでは、この句にしっくりきません。ごはんはムードが台無しだし、薯蕷(とろろ)だと「なめらか」に身も蓋もなく即(つ)いてしまいます。果実は、この句の夢魔的な側面にそぐわない。

3 融合

これについて説明が難しいのですが、無関係な二物としてぶつかり、それでも同時に、かすかな、しかし効果的な因果をまといつつ、結果として、ふたつが溶け合う感じがあります。前半の身体が、後半の川と夜の質感へと没入していく。ああ、この句の「夜」に包まれたような気になりませんか。

私がこの句を読んだときの愉悦は、1≫2≫3とことばの効果が連鎖したわけですが、このみっつは、句の中で同時に鳴っています。つまり多声的(ポリフォニック)。多義的ではありません。為念。多声をもって、私(たち)を魅了する句です。

さて、最後に、いくぶん付加的に、川のこと。

川は物質です。抵抗感のある言い方ですが、重さも容積も温度もある。夜が時間であって、物質ではないのと対照的です。ところが、川は時間でもあるようです。流れるものである以上、時間的なのですが、それ以上に、この句においては〈意識の中の時間〉の様相を呈しています。それは、「夜の川」ではなく、〈夜という川〉〈夜=川〉とした、この句の効果のような気がします。

とすると、多声であると同時に、モノと時間が往還するダイナミズムも、この句の魅力のひとつのようです。


飯田晴句集『ゆめの変り目』(2018年9月/ふらんす堂)