2022-05-08

小川楓子【句集を読む】宮本佳世乃『三〇一号室』ふたたび

【句集を読む】
宮本佳世乃『三〇一号室』ふたたび

小川楓子


『三〇一号室』は宮本佳世乃の第二句集として2019年に刊行された。新型コロナウィルス感染症の蔓延という状況下で変わったもの、変わらないものが次第に見え始めているなかで、コロナ禍以前の句集『三〇一号室』を振り返ってみたい。

三句組の句集冒頭から、どこか摑みどころのない世界へ読者は、足を踏み入れてゆくことになる。そこは、少し怖い童話のような、見知らぬ森に迷い込んでしまったような不穏さを漂わせている。

来る勿れ露草は空映したる

キツネノカミソリ金網の向うは水

からすうり里の朝から母を逃す

まずページを開き一句目が禁止である句集はめずらしい。立ち入り防止看板や柵があるという景を思い描くこともできるが、天からの啓示のようにも読める。「来る勿れ」という措辞は『三〇一号室』という作品世界の深みを覗き込もうとする者への警告のようである。しかし、人は来るなと言われれば、行きたくなってしまうものであり、瑞々しい露草を映したような晴れやかな空の広がる世界への誘いに応じてしまう。

二句目は、一句目の印象を引き継ぎ、金網はあたかも読者の侵入を拒むかのようである。キツネノカミソリは、おとぎばなしに出てくるような名でありながら有毒植物である。金網との取り合わせによって句中において、硬質で鋭利な印象を帯びるキツネノカミソリ。その向こうに見えている水は幻想を湛えるかのよう黙しながら、どこか不穏である。〈キツネノカミソリ轍とは幻肢痛〉という宮本の第一句集『鳥飛ぶ仕組み』の「触れてはいけない世界の扉」のような作品が思い出される。

三句目、別名キツネノマクラとも呼ばれる烏瓜のある里の朝が描かれる。「ムラ社会」的な里の朝から、妻として母親としての役割を果たしてきた句中の母は、何者かによって逃される。逃された母はしがらみから解き放たれた女性としての存在に立ち戻るのことができるのだろうか。「母を逃す」と下五字余りの強調からは、死者も含めたあまたの母としての女性たちというものを浮かび上がらせる。

それでは、様々な傾向のみられる本句集をテーマごとに読み進めてゆく。

Ⅰ 女性とはなにか

橇にゐる母のざらざらしてきたる 

前述の〈からすうり里の朝から母を逃す〉を彷彿とさせる作品である。人生の決められたコースに乗せられた「橇にゐる母」が「ざらざら」と弾力を失ってゆく様子は、死に近い。そのような母に対して目をそらさず、触れ続けている主体はどこまでも冷静である。辺りの雪は、踏み固められ、凍ってざらざらとしているのだろうか。女性はときおり社会において母性的、保護的、補佐的であることを求められるが、宮本は「逃す」ことでこうした既存の女性像に静かに立ち向かっているのかもしれない。

林檎ざくざく片方の靴きつし

続く掲句では、現代に生きる女性の心情が映し出されている。

旧約聖書の『創世記』では、蛇にそそのかされたイヴが禁断の果実を食べ、アダムにも分け与え、男女ともに楽園から追放される。どんな果実を食べたのかは記されていないが、林檎として描かれているものがある。神はそれぞれに対して罰を与えるがイヴへの罰の一つが「お前は男を求め彼はお前を支配する」である。句集の刊行と同じ2019年に #KuToo という女性がハイヒールなどの着用を義務づける職場に抗議する社会運動が盛り上がった。左右の足の大きさは誰しも少し違うため、大きい足の方の靴先をただきつく感じたという発見の作品なのかもしれないが、こうした変わらない社会が「ざくざく」という濁音とともに、掲句を取り巻いていることは見逃せないように思う。

Ⅱ 空とはなにか

木蓮の濡れ階段室へ夜空

星月夜ひとり喫煙ひとりは空

一句目、雨上がり、夜の木蓮の風情を引き立てるには、団地などの無機質で古びたコンクリートの階段室が似合う。木蓮の咲く春夜の空気が漂う一人の充実した時間。濡れた木蓮の白が夜空へ伝ってゆくような、なだらかな破調の韻律が心地よい。動作の起点をはっきりと示す「から」などではなく「へ」という大まかな方向を示す助詞によって階段室に浮遊感が生まれている。二句目、喫煙者と非喫煙者が並んでいる。とくに会話する様子にはない。たまたまその場にいる二人かもしれないし、友人同士かもしれない。それぞれの愉しみは分かち合われず、個々の満ち足りた時間と共に夜は更けてゆく。下五の字余りに空
を満喫する気持ちが籠っている。

2012年刊行の宮本の第一句集『鳥飛ぶ仕組み』にも空に関する作品は多い。

はつなつの麒麟は空を授かりぬ

夏至の日の暮れゆく空にある手帳

ふくろふや空がひらいてきて落ちる    

一句目、初夏の空は祝福のように麒麟に授けられる。二句目、何気なく開かれる手帳の白いページが、長い昼を思わせ、昼のなごりを残しながら暮れてゆく夏至の空が思い浮かぶ。三句目、空を扉のように開閉するものとして捉えており、童話的なたのしい景と思える背後に、どことなく落下の恐怖が垣間見られるように感じる。

第一句集における空は「目をつむった時に見える空」第二句集における空は「目を開けた時に見える空」なのではないだろうか。より現実の対象と向き合って作られたのが、第二句集であると感じる。

Ⅲ 死とはなにか

蜜柑山はやく帰つてはやく死ぬ

手のひらにをさまりさうな蜜柑山

黄の果実のある景に登場する死。一句目において、死は突き放すように書かれながらも、二句目に表されている作者が手のひらに納めたいほどに心惹かれる景に抱擁されている。生と死はそれ程遠いものではなく、早く帰ることと早く死ぬことは、そう変わりないと医療に携わっている作者は感じているのかもしれない。描かれた死には、幻想が加味されておらず、ただ土に帰ってゆくという乾いた印象がある。「はやく」が二回あることで、死者は様々ながら、死というものは誰にでも等しく訪れ、繰り返され、それ自体は特段の意味を持たない日常であるということを突き付けられる。

『鳥飛ぶ仕組み』においても〈夏の墓何もしないで帰つてくる〉のように感傷的でなく死というものと向き合っている様子が見られるが、第二句集では、より表現に深みを増している。死は作者がときに冷静に見つめる現世〈録音のやうな初音のなかにゐる〉〈永き日をよけて汚れた手を洗ふ〉からの解放という側面があるのかもしれない。

 Ⅳ 異界とはなにか

顔ぢゆうが金木犀の森となり

指先の鶺鴒となるあかるさに

掌が枇杷となるまで触れてゐる

一句目、金木犀の香りに顔が包まれる様子。そこから、顔中に金木犀が生えてしまったような恐ろしさ、うっとりするような芳しさという、相反する心地を得る。どことなくジュゼッペ・アルチンボルドの油彩画を想起する。〈木犀と硬貨を替へてやつれたる〉〈立体となりゆく昼の金木犀〉においても本句のような唐突に異界が現れる不思議さが木犀にはあると作者は感じているようである。

二句目は、長い尾の美しい鶺鴒となったあかるい指先が登場する。夜の場面と想像しても景が映え「日本書紀」のくだりを重ねればほのかにエロスも感じる。

三句目、小さな掌の人でもすっぽりと覆うことのできる細い毛に包まれている果実。傷んで変色しやすい枇杷という果実ゆえ、そっと触り続けているのであろう。触れるもの、触れられるものが皮に覆われた別々の存在ながら、だんだんその境界が曖昧になってゆくような感覚を導かれる。

Ⅴ 枯れとはなにか

竹煮草の実のかさかさと電車くる

踏切のゆつくり枯れてをりにけり

歩いても枯紫陽花の浮かびくる

集中に頻出するのが「枯れ」というモチーフである。一句目、荒れ地などに生える竹煮草の実の印象が電車へと繋がっている。わびしい郊外を想起させるかさかさとした竹煮草の実の風景が、どこか生者と死者の世界の交わりの場と感じられるのは〈鬼籍から枯木めがけて入る人〉という枯れと死者の結びついた作品が印象的であるからだろう。

二句目、電車に乗っている時、踏切に電車が近づくと、踏切の警報音は高く聞こえ、遠ざかると低く聞こえる。こうした警報音の高低を「枯れてをりにけり」と表したのだろうか。一日に何度も通過する電車の速さに対して、植物が枯れ、秋が進んでゆく速度ははるかに遅い。そうした枯れのゆっくりとした速度が、踏切というものを覆って、電車が次第にスローモーションに見えてくるような気さえしてくる。〈ぼんやりと踏切のある時雨かな〉も同様の景を思わせる作品である。

三句目では、歩く身体への意識が枯紫陽花のイメージに覆われてゆく。紫陽花は枯れてもみずみずしかった時の姿に近いままであることが多く、どことなく美しい骸骨のような印象がある。その残像とともに歩みを進める様子には、死と寄り添いながら、ぼんやりと自らの生の質感を確かめているように思われる。

「その他は」の章にある〈その他はブルーシートに覆はるる〉は東日本大震災の被災地である福島を詠み「フリスク」の章の〈流す三人八ミリで撮る散骨〉は作者の亡夫を詠んだものである。二句ともに無季でしか表せなかったゆえにかえってその切実さが滲んでいる。しかし、災害や身近な人の死に対してさえも嘆きは「ブルーシート」や「散骨」に託され、悲嘆に暮れる作者の表情は見えない。

本句集は一貫して、いわゆる女性的な情緒や情念を思わせる作品はない。「女性や妻の佇まい」として社会から求められることのあるものを詠まないという意思が作者にはつよくあるのかもしれない。

さて、三句組の最初と最後のページの句をあらかじめ決めてから句集を編んだという最後の三句について見てゆこう。

天井の高くてうちだけがおでん

朽野に黄色い空を見にゆかむ

二階建てバスの二階にゐるおはやう

一句目、おでんの匂いの中で、個人の満ち足りた気持ちが表されている。天井の高さによって、おでん鍋を取り巻く空間が広がり、立ち上る湯気まで見えてくる。さらには、見上げる視点と見下ろす視点の両方を読者は行き来することで「うち」以外の部屋も見えてくる。

二句目、戦後、詩誌「荒地」が刊行され「荒地派」と呼ばれる数々の詩人を生み出した。戦後復興のエネルギーに満ちた時代の「荒地」に対して、祝祭が終わった後のような「朽野」は今という時代にふさわしいように思う。「黄色い空」は朝焼だろうか夕焼だろうか。黄昏の迫る夕暮れが「朽野」という措辞には馴染むように思う。

三句目、東京観光用の屋根なしの二階建てバスを想像した。誰に「おはやう」と投げかけているのだろう。頭上に広がる空へ、あるいは目には見えていないすべての生者、死者への投げかけなのかもしれない。〈来る勿れ露草は空映したる〉で始まった句集であるが、最後に「おはやう」と声をかけられることで、深い森のような世界から読者は、帰還することができる。二階建てバスの二階から投げかけられる誰に向けたのか自身にもわからないだろう「おはやう」の切実さによって。

このように、「女性というもの」「生と死」「幻想と現実の物の存在」などを中心にして読み進めてきた。宮本佳世乃の作品は、連作で読むことにより、一層の深みにふれることのできるものである。しかしながら、一連で得た印象をあえて拭い去って、一句としての読みに立ち戻りたくもなる。

なぜなら、孤独な時間、常に寄り添うようにある生死、ときには辛い現実世界を遠ざけるための想像世界、現代の都市で生きる女性の心情や生きづらさといった事柄は、コロナ禍においても変わらず、それどころか、より私たちに肉薄するものとなったからである。一句ずつを丹念に紐解いてゆくとまたコロナ以前とは違った世界が見えてくるに違いない。作者の様々な思いを湛えた『三〇一号室』の扉はいつまでも「来る勿れ」と私たちを誘っている。

( 了 )

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