【句集を読む】
宇多喜代子『森へ』を読む
宮本佳世乃
初出:『炎環』第465号・2019年3月
「草樹」の会員代表、現代俳句協会特別顧問の宇多喜代子氏の第八句集。二〇一四年から二〇一八年までの五年間の句が収められている。作者は昭和十年生まれ。
もの言わぬ人ら月下の白黒に 宇多喜代子(以下同)
月は白眼中の月あくまで白
多摩川の毒かあぶくか月光か
幻のかたちとはこれ秋の川
爽やかや源流人を寄せつけず
前書きに「写真家 江成常夫 五句」とある。江成常夫は、昭和の戦争や環境問題など、国家や時代を問う作品を創造する写真家である。
戦争などのモノクロの写真から感情が揺さぶられる経験をするということは、誰にでもあるだろう。右のような句を読むと、俳句作家の眼で見たものが俳句となるときに、言葉により喚起される事実のイメージが、定型の作用によって強化され、個人の経験として上書きされているように思う。ただ「見た」「感じた」だけでは体験に過ぎないが、それを俳句とするときに「経験」に変換されるわけである。
連作一句目の「もの言わぬ人」のかなしみや矜持が音を立てずに伝わってくる。月の夜、眼だけが光るようでもある。二句目も月。「眼中の月あくまで白」と言い切っているところから、問答無用にそう思うしかない世界を想像した。残り三句は多摩川の環境汚染の句。生活排水や廃棄物、高度経済成長期の工業の進出によって汚染された多摩川。奥多摩の源流は神々しいほど清廉であることがわかる。
本句集は「森へ」という名前が冠されている。あとがきには「息苦しくなると原生の森を安息の場と思念し、再生のよすがとします」と書かれている。森そのものが見える句としては、山や土、樹々の句もあるが、ある強さの象徴として梟を描いたものが散見される。
親を喰う梟を見るだけの旅
瞑目のままの梟の剛毅
終わりなき戦に梟を送り込む
江戸時代以前の梟は不吉な鳥として扱われてきた。本句集の梟は、不気味さではない。「剛毅」という言葉からもわかるように、容易には屈しない意志、そしてかなしみを表しているのだろう。
八月はまことに真夏永久に真夏
金輪際死児が見開く夏や夏
芒にも中村草田男の墓にも雨
患わず冬あたたかな日に逝けり
青芒隠れ遊びのいつまでぞ
この「意志」は、戦争、沖縄だけではなく、師である桂信子、和田悟朗、中村草田男、急逝した弟、金子兜太などの身近な存在を詠むときの通奏低音になっている。
死の話いつしか葬儀の話で雪
秋袷死なずに生きていずれ死ぬ
雑煮餅それとなく余生のかたち
これらには、自己の死に対する視線が描かれている。「雪」や「秋袷」といった季節の移ろいは、日々を暮らすエネルギーでもある。雑煮餅の輪郭が不鮮明になっていくところに、来し方行方を思う。作者の視線の先に、生死が再生されていく。
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