【句集を読む】
佐藤智子句集『ぜんぶ残して湖へ』を読む
小林苑を
『平』第13号(2022年2月)より転載(若干の改稿アリ)
確か上田信治さんの仮名句会で佐藤智子さんを知ったんだと思う。佐藤さんの句は新鮮で心地よく、この年象は『ぜんぶ残して湖へ』でも変らない。
どこがどう新しいかは、週刊俳句 第769号で若い論客が書いている。ここでは数句紹介して、その清新さを伝えられたらと思う。
句の素材は「いま」身近にあるもの、食べ物や飲み物がよく出てくる。表現も「いつもの」喋り方、つまり私からすれば若い世代の口語調なのだけれど、俳句という型に丁寧に入れることで、伝わってくるのは日常の写生ではなく日常に潜む違和、言い換えると揺らぎのようなもの。
タイトルの『ぜんぶ残して湖へ』は、そんな違和を「ぜんぶ」置いて、広くて明るくてからだが軽くなる非日常の湖へ、ということなのだろうか。海、ではなく湖というのに納得する。冒険の旅ではなく、緑に囲まれた水辺で深呼吸なんかする。そう、水の匂い。それだけ「いま」が息苦しく不安な、あるいは一人が楽な、そんな時代なのかもしれない。
夜の梅水辺のように腰かける
水辺といえば句集にはこの句。まだ少し肌寒い闇のむこうに湖(うみ)を感じている。梅って古風な風情だなんて、勝手に思い込んでいただけなのだ。微かな梅の香りも、どこでもドアを開けてくれるアイテムになる。
お茶を持って二階や春と春の雨
玄関に米置いたまま春の闇
まだパジャマ紫陽花が野菜みたいで
たとえばこんな春から初夏へ。よくある日常の場面と違和を感じさせる季語の配置。切れや韻や喩などを駆使して、つまり俳句の技法を使うことで少しだけ時間が流れ、それが揺らぎを生む。
薫風や今メンバー紹介のとこ
梅雨を祝う椅子の回転を使って
魚焼きグリルを洗う琵琶の家
こんなさり気ない句にも時間は流れて、それは自分だけの流れ方なのだ。
朝蜘蛛やテニスボールのおろしたて
冷やし珈琲耳にかけずに残す毛束
くいぶちについてのはなし黒ビール
朝蜘蛛・冷やし珈琲・黒ビール。ここでも季語は季節を示すよりも切れを生かして「いま」の気分(揺らぎ)を表現するワードとして選ばれる。
花水木やたらさパンを買って生きる
ペリエ真水に偲ぶだれをだれが
いい葱はコンソメで煮るまだ泣くよ
生きる・偲ぶ・泣く、下手するといまやクサくなるワードなのにさり気ない。二物衝撃だけれどもっと軽く、さり気なく「いま」らしさをぶつけてくる。
明日降る初雪台所でしゃがむ
給水塔寒さを脳に通さずに
佐藤智子が突然登場したとは思わない。この前に鴇田智哉も佐藤文香も上田信治も…、そうか、俳句はまだまだ新しくなると思わせくれる句集なのだ。
佐藤智子句集『ぜんぶ残して湖へ』2021年11月/左右社
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