特集「女性」と俳句
ガイノクリティックスってなんだろう
小林苑を
岡田一実さんが現代俳句評論賞を受賞したというので早速拝読した直後、たまたま松本に出かけることになった。久女の代表句の場所であり、季節なのだ。
紫陽花に秋冷いたる信濃かな
少し青を残した枯れ紫陽花かもしれない。乾いた空気と山に囲まれた信濃という響き、久女の生理的感受性とそれを表す言葉選びの鋭さを実感した。
杉田久女ほどさまざまに書かれた俳人はいないのではと思う。評論だけではなく、小説にも幾度となく取り上げられている。ひとつには俳句作品がそれだけ魅力的なのであり、もうひとつはその言動が俳句界にとって枠を外れたものとして受け止められたから、なのだろう。
加えて言えば、その枠を超えて突進する相手が「大悪党」を名乗って見せる虚子だったから。この評論を読むまでは殊更に久女に向き合うことはなかったのに、手元の伊藤敬子『久女の百句』を読み返し、『鑑賞 女性俳句の世界』の坂本宮尾「美と格調 杉田久女」や田辺聖子『花衣ぬぐやまつわる…』を開き、すっかり久女句に嵌ってしまった。
久女の俳句をガイノクリティックス(女性の文脈から捉える女性文学の分析)の視点から読み直すことは、「女性性」に拘りすぎる男性ジェンダー化した批評の相を眺め直し、新たな側面を見出す方法となり得よう、と岡田さんは「はじめに」で言う。
なぜ久女なのかについても、①彼女が自ら「女性性」をテーマとして打ち出した俳句は有名であるが、それ以外の視点から俳句芸術の高さを志向したと見られる珠玉の佳句があまり知られていないのではないか、②山本健吉をはじめ、特に男性評者が、久女の「情の濃さ」を主軸に照らしながら、「男をたじたじとさせる息吹」を賞めつつ評価を下位に置いたり、その真摯な姿を茶化して評したりするところがあった。それは正当性に欠け、俳句表現の味わいを貧しくする可能性が高いのではないか、というふたつの懸念を挙げる。
人口に膾炙した久女の句は女性ならではのものに集中し、さらに男性目線で低めに評価されてやしませんか、というのだ。確かに、久女伝説に相応しい句が取り上げられやすく印象的ということはあると思う。さらに、低めと言うより「女性とはこうだ」の男性目線で解釈され、それが定着している感も否めないが、低くはどうだろう。「いま」も、そうなのだろうか。
久女に嵌りつつ、フェミニズムやジェンダーやガイノクリティシズムの意味を考えてみる。ウーマン・リブ(女性解放運動)なんて言葉をいまの人は知らないかもしれないが、1970年前後、それは(少なくとも日本では)からかいをもって使われたりした。それでも国連が1975年を国際婦人(女性)年としたときには変化の兆しを感じたけれど、半世紀たって、あまり変わってない気がする(ことに日本では)。
足袋つぐやノラともならず教師妻
1975年のそのまた半世紀前に『ホトトギス』に掲載された句。百年経ってもこの気分は伝わってくる。まさに「女性性をテーマとした」句であり、かつ、いかにも「男性ジェンダー化した批評」者のバッシングを受けそうな句だ。「出来不出来はともかく、こういう女は面倒なんだよな」という冷笑が聞こえそう。しかし、そんなことには頓着せず直球を投げる久女、その表現力の確かさは読み手にはズシンとくる。忘れられなくなる。
花衣脱ぐやまつわる紐いろ〳〵
初期の代表作であり、「女の句として男子の模倣を許さぬ特別の位置」と虚子の評価を受けることになったに掲句について、山本健吉は「閨情と言ってもよい本然的な女の匂いが濃厚である」と書いた、と岡田さんは記す。その後の評者も着目するのは女性ならでのところで、田辺聖子も「ナルシシズム」と指摘する。俳壇とは縁のない読者である私は、よく言えば先入観なしなので、この句に出会ったとき閨情など浮かびもしなかった。もちろん花衣の華やぎや疲労感を伴う陶酔はあるけれども、「まつわる」紐のリアリティに感嘆し、それらを脱いだホッとする感覚やそれでも「まつわる」面倒な紐のリアリティ、さらに「脱ぐや」の切れのスピード感ときたら。
評論の最後には、久女の俳句作品そのものの丈の高さは正当に再評価されるべきと「英彦山六句」が置かれている。これらは次の有名句で始まり、いずれも背筋のピンと立った句である。
谺して山ほととぎすほしいまゝ
この六句は…、語り出したらキリがなくなりそう。この稿に求められているものを逸脱していくようなので筆を止めよう。まっさらで読む、俳句の楽しみはそこよね、と岡田さんに語りかけながら。
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