2022-09-24

まぼろしの女友達へ ……松本てふこ

特集「女性」と俳句

久女主宰誌「花衣」所属・宮本正子という俳人
まぼろしの女友達へ 

松本てふこ 


『俳句四季』2022年8月号での特集「誰もが安心できる句座のために-#️MeToo のその先へ」、『現代詩手帖』2022年8月号での特集「わたし/たちの声 詩、ジェンダー、フェミニズム」、そしてそのふたつの特集をつなぐ役割を果たした東京・下北沢の書店B&Bでのトークイベント「安心して書き続けるために」と、詩歌と女性・ジェンダー・フェミニズムに関わるトピックがこの夏は続いた。

7月に発表された第42回現代俳句評論賞の受賞作が岡田一実「『杉田久女句集』を読む―ガイノクリティックスの視点から」だったことも、インパクトある出来事だった。

女性の書き手へのエンパワメントを実作と評論において行っていた久女だったが、男尊女卑的な価値観からは逃れられず固定的なジェンダー規範を内面化していた。そして彼女の読まれ方にも、ジェンダーバイアスが大いにかかっていた。岡田はそういった点を細やかに指摘しながら、久女に貼られた「女性性の濃い作風」というレッテルを剥がしていった。久女の文学的苦闘に時を超えて応えた、意義深い評論であった。

では私がそういった流れに続くものを書くとして、何を書けばいいのだろうか。流れに続くものなのかはわからないが、句集は一冊もなく、句自体あまり残っていない、久女門であったひとりの女性俳人について書いていきたいと思う。

私が彼女に出会ったのは、角川『俳句』1976年3月号の誌上だった。

その号では石川桂郎の追悼特集が組まれていた。角川『俳句』の創刊70周年記念号での「俳句と時代 1952-2022」PART3の執筆準備のため取っかかりになりそうな企画を探していた私は、その特集をぱらぱらと眺めていた。

やや話は脱線するが、当時の俳人の追悼特集には家族ないしは近しい間柄の女性による介護日誌的な手記がしばしば載っており、その号にも手塚美佐による手記が掲載されていた。その前号の角川源義追悼特集では角川照子が、その翌年の秋元不死男追悼特集では義妹の清水径子が同様の手記を寄稿している。

石川桂郎への私のイメージは、新宿の老舗居酒屋「ぼるが」の常連客、小説と俳句の二足のわらじ。あと数年前に書評を書く機会をいただいた『師資相承 石田波郷と石塚友二』で紹介されていたエピソードで占められている。「鶴」の仲間であった女性俳人・籏ことの死を知って「俺の、たった一人の、女友達だったのに」と人目も憚らず号泣し続けたというものだ。追悼特集でも鈴木真砂女がこの話を書いており、ハンカチが涙でぐしょぐしょになったので真砂女が自分のハンカチを手渡したが、それでもまだ足りなかったと書いている。

桂郎の略年譜を何の気なしに眺めていた私は、とある記述に目を留めた。昭和八年、二十四歳の項にこんな記述を見つけたのである。

「杉田久女門、『ホトトギス』『玉藻』の俳人宮本正子左翼思想に走り九州より上京、桂郎と知り合う。」

翌年。昭和九年の項には「一月七日、宮本正子のすすめで生れてはじめて『あすからは嫁が君でない唯の鼠かな』の一句を作る。間もなく宮本正子は連れ戻されて九州福岡の亀田家具製造店に軟禁される。」とある。桂朗という俳号も正子がつけたとのこと(後に横光利一の助言により桂郎に改めた)。

久女にそんな弟子がいたのか、と驚きつつ読み進めると、さらに翌年の昭和十年の記述は驚くべきものだった。正子は自殺し、桂郎は正子の軟禁先である亀田家具製造店の娘であるかすみと文通の後に婚約し、結納まで交わすもかすみの結核発病と療養所入りのために破談となったというのだ。その後師事した石田波郷との出会いはその直後であるという。桂郎自身の短篇小説集『剃刀日記』に収録された「秋の花」という作品は年表の内容と重なる点が多く、ある程度この体験を基にしていると推察される。

桂郎の追悼特集には久女の長女・石昌子も寄稿している。桂郎が「俺は杉田久女門下、宮本正子から俳句に引き込まれたから、久女の孫弟子なんだ」とよく言っていた話から、昌子自身の正子との思い出、正子と久女との関係、正子の思い出を語る桂郎の語り口などについて綴っている。

桂郎は戦後「俳句研究」で久女特集を組みたいと昌子に持ちかけた際、正子存命時、彼女と共に昌子を横浜に訪ねようとしたがいつも途中で帰ってしまい、逢う機会がついになかったと語った。桂郎の俳号は正子が考えたと前述したが、それというのも彼の口癖だった「けえろう(帰ろう)」から正子が帰郷後につけたとのこと。もはや会うことが叶わなくなってからつけられた俳号であると聞くと、懐かしさと寂しさが混じり合った名前なのだろうと感じてしまう。

昌子は、久女特集や『杉田久女句集』が世に出るきっかけを作ってくれた恩人としての桂郎に感謝しつつ「久女―正子―桂郎と結んで考える時、虐げられ鬱屈した魂の目に見えない何かを感じる」と語る。桂郎は正子の思い出話を昌子に語っていたようで、頼まれて思想問題から守ってあげたのだとか、「あいつ(正子)は厭な奴だよ。前掛かけて、浅草の映画館の切符切りをしていたかと思うと、『玉藻』の句会に行くという時は、何処の令嬢かと、目を疑う様にパリッとしやがつて……、という風な事を言う。もつとひどい事を云う時もあつた」という桂郎の発言を昌子は書き残している。

正子は日露戦争の傷痍軍人である退役陸軍大佐の娘で、昌子の一歳年上(桂郎の一歳年下)。久女が卒業生やその父兄にフランス刺繍の指導などを行ったこともある京都郡行橋の高等女学校の出身である。

女学校卒業後、杉田家に行儀作法、料理、フランス刺繍、俳句などを習いに毎週来ていた正子を、昌子は「人に好かれる性の人」と称した。正子の上京は交友関係の清算という要素もあったというが、中村汀女の紹介で横浜に職を得ていた昌子の寮にふらりと現れ、数日から一週間ほど居座ってはいなくなったりしていたようだ。

正子は、桂郎と知り合う前年に創刊/廃刊された久女の主宰誌「花衣」にも投句していた。〈兄寝ねしあとの火種をそだてけり〉(創刊号)〈針祭終へて師の間に集ひけり〉(2号)〈桜貝乾けば色のうすれけり〉(4号)などの句が掲載されている。多佳子を小倉に再び迎えての句会報が掲載されている5号にも「正子」の名前で三句掲載されている。「花衣」には他に同名の会員は見当たらないので、宮本正子である可能性が高い。

「玉藻」では〈白菊の汚れし日和続きけり〉(昭和7年1月号)〈つるし柿日毎に色を変へにけり〉(昭和7年3月号)、「ホトトギス」では〈紅梅に空よく晴れてゐたりけり〉(昭和7年6月号)、〈萩の枝地に流れをる長さかな〉(昭和7年12月号)などの投句が確認できた。〈飾られし面を上げぬ初荷馬〉は両誌に投句している(いずれも昭和7年4月号)。

帰郷後、桂郎からの手紙の端に書かれていた〈坂にそひてどこまでもゆく夕燕〉〈夏帽や簡閲点呼終りけり〉〈はやければ木の実と見えず木の実独楽〉(いずれも昭和九年)を正子が「玉藻」に投句し、入選したこともあったようだ。

久女もまた、正子を気にかけ続けていた。小倉の町で彼女を探し回り、見つけたら家に連れて帰ることもあったようだ。正子は場末の玉突き場にいたりしていたようである。奔放な娘を世間体のために圧迫したり、軟禁したりする宮本家のやり方に久女は反対し、軟禁先に通い、正子の両親に意見もした。

「ホトトギス」昭和9年6月号に〈泣けてくる師のみ言葉や小夜火鉢〉という正子の句が掲載されている。自分の苦しみに寄り添ってくれる師の言葉と夜の火鉢に心が温められるのと同時に、抑えてきた感情を迸らせる作中主体がひたすらに不憫な一句である。

同年10月号の「ホトトギス」では〈帰省せる妹にも逢はずかくれ住む〉という句が載っており、膠着状態が続いていることが窺える。

翌年の昭和10年に発表された「九州の女流俳人を語る」というエッセイで久女は『花衣』廃刊後の小倉周辺の女流俳人の動きを評し「各地の女流が私を中心として殖え来り熱心に句作する機運に向って来た。」と書き、有望なメンバーのひとりとして正子の名前を挙げている。彼女へのエールという思いもあったのだろう。

しかし、「九州の女流俳人を語る」発表とほぼ同時期に正子は多量のホルマリンを飲み、鉄道自殺した。「ホトトギス」昭和10年7月号には正子の句〈牡丹に嫁ぐと決めし薄化粧〉〈父母に逢へる日を待ち蓬摘む〉(蓬摘むの句は昭和9年8月号にも掲載)が二句欄で掲載され、「宮本正子は四月二十一日死去、薄倖な彼女の慰藉はたゞ俳句だけで御座いました。」という久女の一文が添えられている。正子は久女に遺書で感謝の気持ちを綴っていたという。久女の「ホトトギス」除名はこの翌年である。

桂郎は第二句集『竹取』(昭和44年)にて「松本城山墓地に杉田久女の墓建つ、即ち納骨に列して」の前書きと共に〈花冷や姉妹が遺骨持ちかふる〉〈納骨の唐櫃へ落ち花ひとひら〉〈墓に散る花や久女の死とは遠し〉の三句を並べている。花冷の句は久女の長女である昌子と、次女の光子の姿であろうか。その他〈降り出て雨の久女忌華やかに〉という句も収録している。正子を通じて久女を知ったであろう桂郎の、親近感、敬い、緊張感、恥じらいが少しずつ込められたトーンが印象的だ。


私は結社を決める時、久女が「花衣」を続けていたり別の結社を立ち上げて長く続けていたらよかったのにな、とぼんやり考えていた。だからだろうか、久女が後進の女性俳人を育てようとしていたり、弟子との関係にまつわるエピソードを知るとなんだか嬉しいような、寂しいような気分になって夢中になって掘り下げてしまうのだ。

私はその系譜に直接的にはつながることはできなかったけれど、知ることで疑似体験することができる。そして、正子のように「慰藉はたゞ俳句だけ」だった、たくさんの名もない女たちの友達になれるのだ。


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