【週俳10月・11月の俳句・川柳を読む】
(いま)(わたし)たいやきかもしれない
小林苑を
たいへん丁重ではあったのですが、つまりなんか書けっていうから、いいよって返事をした。返事をしたからには書かなきゃいけないんですが、困った。なんどもなんども読んでいるうちに、『およげたいやきくん』が頭の中で鳴りだしたというか、止まらなくなった。
そもそもはわかめのせいかもしれない。端から (なな子、社長ほか代用可) とあるので、つまり誰でもわかめなんですよ、ということなんだろう。なんで断りが入れてあるのか、なな子はともかく、社長なぁ。社長にもいろいろあるし、それなりに辛いこともあるんだろう、なったことないけど。
わかめはひねくれているし、ぬるぬるしてるし、もちろんふるえる。エロッぽくもあるわけで、しかも、泣いているらしい。それにわかめっていっぽんじゃなくて、「わかめわかめ」となんぼんもゆらいでいる気がする。そして、ゆらゆらと増殖する。顔のないわかめたち。あのひとのようでも、このひとのようでもあるけど、誰でもない。泣いていると言われれば泣いているし、笑っていると言われたら笑っているようでもある。だけど、こんな風に言うのが妙にくっきりと聞こえる。
なんでやねんうち新宿のわかめやし 榊 陽子 「ふるえるわかめ」
啖呵であり、抵抗であり、主張だ。関西弁のようだけど、異国語だって構わないのだ。どこでもない「新宿」のわかめだと「うち(わたし)」が言うからにはそうなのだ。新宿の場末感・無国籍感がリアリティを与えてくれる。ゆらゆら同じようにゆれていたって、(いま)(わたし)はここにいるんだといわれると、嬉しくなる。
そういう根性はないので、とりあえず無数のわかめのいっぽんとしてゆらいでいようとすると、「進(スス)メ非時(トキジク)悲(ヒ)ノ霊(タマ)ダ」と言われる。ゴメンなさい。なにを言われたのかよくわからないけど、ゆらゆらしている場合じゃないらしいのだ。火の玉となれとか、、パーマネントはやめましょうとか、贅沢は敵だとか聞こえたようだけど、違うかもしれない。でもなんか、そういう時代がありましたなんてことではないらしい。「ときじく」ってのは「いつも」で、いつもってことは(いま)なんだろうか。
たくさんの人が取り巻く国会議事堂にいたことがある。わかめが揺らいでいたともいえるし、鮫が回遊していたともいえるし、ひとりぽっちだったともいえる。そこは確かに海の底のようではあった。気がつくと (わたし)たいやきで、たいやきは泳げないし、海に飛び込んだらどうなるのか。そこんとこに気がつきさえしなければ、とっても気持ちがいいもん♪ で、手を振って♪ もらったりしていた。
竹馬を基地のフェンスに立てかける 竹岡一郎 「進(スス)メ非時(トキジク)悲(ヒ)ノ霊(タマ)ダ」
広い米軍基地のフェンスに竹馬を立てかけるのだという。竹馬は、明るい自然の色をしたまっすぐな子供の遊具だ。みんなが竹馬で遊ぶことを忘れてしまっても、永遠の子供のようにそこにありつづける気がする。
凍星のどこかでペンを置く教師 千倉 由穂 「器のかたち」
たいやきには凍星がよく似合う。いつのまにか(わたし)は安心できる場所に戻っており、どこかで教師がペンを置いたらしい。なんだか懐かしくてほっとする。ほっとしながら、それは既に失われた場面だと感じる。たとえば、家族という器は(いま)ひび割れているのではと不安になる。
追記 たいやきは冬の季語。冷めると不味い。
後篇:
番外篇:正義は詩じゃないなら自らの悪を詠い造兵廠の株価鰻上り
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