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2026-06-14

中内火星と現代俳句 中内火星句集『シュルレアリスム』を読む 広瀬ちえみ【句集を読む】

【句集を読む】
中内火星と現代俳句
中内火星句集『シュルレアリスム』を読む

広瀬ちえみ
『垂人』第46号(2024年9月)より転載

中内火星の句はそう難解ではない。社会で起きている不都合なことや、この世の男や女が(男でも女でもない人がいるかもしれないが)起こす取るに足らぬ出来事が題材だからである。しかしながら機知に富んでおり、読者がふむふむと気楽に読んでいると、大外刈りで転がされる。そんな愉快があちこちに潜んでいる句集『シュルレアリスム』。火星の言葉は少しひねくれていて、それがまた的を射ているので楽しく読んだ。

句の中の火星を絵に描いたら決して具象画にはならないだろう。ピカソやマチスのような線で変顔に描かれるに違いない。

季語の使い方がありふれていない。雅が俳句なら火星の俳句は美しくない。季語というより言葉という感じがして、季語の歴史とかその世界を壊してもいるようだ。それが成功しているものもあれば成功していないものもある、というのが私の感想である。あくまでも川柳人の私の感想である。

  紅葉がいよいよ危険になります

  病名は枝垂桜だった

  薫風を飛ばしてしまうほどの風

  親に見放されるくらい花吹雪

  曼珠沙華それでいて血圧正常

  高きに登ったまま降りてこない人

紅葉の赤を単なる景として詠むのではなく、火星はこの世の、例えば現在起きている戦争、温暖化などを憂えており、紅葉の赤にさえ火星は恐怖心をおぼえるのだ。季語の紅葉は不穏で、全山紅葉が今にも爆発しそうである。

破調の句の「病名」と「枝垂桜」はどういうことで結びつくのか意表を突かれる。病名は「枝垂桜」と告げられうなだれる人間まで見えてくる。 

薫風という美しい季語が、欽ちゃんに飛ばされるコント55号のギャグのようだ、と感心してしまう。

連句での「花」は位の高い位置におかれるが、子どもの反抗が、言い聞かせても言い聞かせても収まらない花吹雪として描かれる。こんな無礼をへとも思わない火星に拍手を送ろう。

曼珠沙華は「死人花」ともいわれる。若いときは、低血圧でふらふらしていたが、最近少しずつ上がってきて先日は124と言われる。100くらいしかなかったのだから怖くなり医者に問うと「正常です。低血圧がいいのではないですよ」と。いつ死んでもおかしくない年齢なのだが、血圧はひとつの安心材料だ。 

「高きに登る」は秋の季語で、中国の古俗で重陽の日に茱萸を入れた袋を持って高い丘などに登ることだそうだ。その人が戻ってこない、と火星は季語の本意本情をひっくり返してみせる。人生はそんなものさというように。句会などで本意本情と俳人の口から出るとき、私は身構える。

  ここんとこ頭の中の霞草

  爪切と爪のカーブやリラの花

この二句は私にはつまらない。先に引用した句とちがって「霞草」「リラの花」には読み手として心を動かされない。脳が衰えてきた実感をこのように表現するのは、川柳にもたくさんある。オンパレードと言っても過言ではない。「リラの花」でいわゆる切れている、ということなのだろうが、意味を見いだせない。意味などというと否定されるが、私はつかず離れず、その微妙な関係を読みたいと思う。

  靴屋きてわが体内に棲むという  石部明

そう、頭の中にも何かを棲ませたいと思ったのだ。

  団栗という独立      

     どうりで冬至

句集は十句前後の数に題がつけられて26もある。これもめずらしい。こんなに題がある句集は見たことがない。その中の「簡潔」という題がつけられた15句のうちの二句である。題のとおりそれは短い。しかし、世界が物語のようにあるいは詩のように成り立っている。短いゆえに読み手の心に浮かぶさまざまな事象を呼び起こす。垂人の作品は三行にわたり極端に長い(たぶん火星はこれも俳句だと言うだろう)が、火星の句の定義は規定がないということなのだろう。

団栗と独立、「ど」の韻を踏んでいるこの句は、あの小さな木の実でさえ、一粒ずつ土に埋もれ芽を出し自分の国を作る。それにくらべて我々は、他国に侵攻し、人を殺す。大昔迫害されたユダヤ人が今度は迫害する側となっている。人間の愚かさは死んでも治らない。

「どうりで」が世界を拡げてくれる。柚子風呂だったり、小豆南瓜が出てきたり、外は真っ暗だし、どうりでどうりで冬至だった。そして「冬至」でなければならない、寒くなければならない、とその必然があり、暖かかったら詩にも物語にもならないだろう。

  言語化したときに滝は凍りつく

場所によっては冬には凍て滝になるところもあるが、本来、滝はゴーゴーと轟きながら滝壺に向かって落ちるのが一番滝が滝である姿だろう。そこに変な言葉は不要である。私たちも他者から「あなたって○○ね」と言語化されることがある。思いも寄らぬ言葉で語られることも。

何かを言語化することはとても難しい。それでも私たちは表現の世界を持った。見たことあったことを日々言語化する。もしかしたら他者を傷つけたり罪作りをしているかもしれない。言葉は武器でもある。   

あとがきで火星は、「こんな輩を受け入れてくれる世界がわたしにとって現代俳句の世界に他ならない。」と書いている。「俳句」ではなく「現代俳句」と述べるその〝現代〟とは何を指しているのだろう。

私はいつもこの〝現代〟が気になる。現代○○、というフレーズがあちこちに見られる。現代って歴史的にいえばどこからなのか、あるいはどんなことに対しての現代なのかあいまいで落ち着かない。

たとえば〝前衛〟という言葉がある。あらゆる芸術でこう呼ばれているジャンルは、対するものがあるから〝前衛〟というのだろう。あちらとは違っている〝前衛〟という意識である。〝現代〟という言葉も確かに同じニュアンスがあるというのが私見だ。俳句にも川柳にも〝現代〟がある。何に対しての〝現代〟なのか、境界はあいまいだ。

  現代俳句協会はチューインガム

  白妙の現代雪女協会に春

火星は現代俳句協会に所属し重要な仕事をされている。協会には属しているが、作品はどこにも属さない意思があることを表明した。俳句界の協会の詳しいことは知らないが、現代俳句協会というからにはそれぞれの協会に意識の中で違いがあるのだろう。味がなくなるまで噛み続けなければなるまい。

火星にとっての〝現代〟とは、季語からも定型からも自由になり、つまりはおもむくままの表現(シュルレアリスム)をすることなのだろう。

ある川柳人はやりたい放題のことをしている句集だと評した。季語や切れの後ろ盾もない本来自由なはずの川柳から見ても、火星の句の奔放な世界は刺激的だ。

  誰かが死んだそして蚯蚓が鳴いた

  花吹雪途方もないほどの孤独

この年齢になるとどんどんさびしくなるものだという実感がある。友人が亡くなる。先日はCDプレイヤーが壊れ、今度はビデオデッキが壊れ、物置の扉がおかしくなった。これから壊れるものもまだまだある。物が壊れるのは当然だけどさびしいと娘に言ったら笑われ、「さびしくなったら遊びにおいで~」との返事。それはありがたいことだがそれでも解決不能のさびしさがある。自分という孤独そのものを突き付けられて。

  山河越えどこでもないところに出る

私たちの年代には最後の大仕事が待っている。


中内火星句集『シュルレアリスム』(2024年/文學の森)

星vs星 大友逸星と中内火星のいんぴん度 広瀬ちえみ【句集を読む】

【句集を読む】
星vs星
大友逸星と中内火星のいんぴん度

広瀬ちえみ
『晴』第8号(2025年2月)より転載

中内火星の俳句集『シュルレアリスム』を読んだとき、川柳同人誌「杜人(とじん)」(戦後すぐ一九四七年創刊、二〇二〇年まで七三年間続いた)に生涯にわたり同人として川柳作品を発表してきた大友逸星(一九二四~二〇一一年)の作品のありように似ていることに衝撃を受けた。二人の作品の根源には同じものが流れていると思った。

大まかに言えば、社会や世界への異議申し立て、権力に対する反骨精神に貫かれている。それとともに自分も含めて人間が為出かすことに憐憫の情をもって俯瞰していることだろう。そしてそれに相反するかのように作品はひねくれている。これが大変な曲者なのである。ひねくれ度が半端じゃない。けれども底辺にはやさしさがあるのだ。いつしか苦笑、あろうことかすがすがしい気分にさえさせられ術中にはまってしまう。

性格はコスモスもらっても捨てる  火星

ほら、こんなにひねくれているのである。でも知っている。秋桜を摘んでラッピングしてあげたら、鼻の下をのばすことを。照れかもしれないが、こんな自己紹介があるだろうか。可愛くない……けど……可愛い……。

時間通りに来る男には水やらぬ  逸星

眼鏡屋が死んで一・五に戻る  逸星

男を、眼鏡屋を見る目は意地悪ばあさんであるが、可笑しさに真実を認識させられる。七三の髪型の涼しい顔で来る男より、汗だくで走って来る男の方が絶対に可愛い。

大友逸星を語る「いんぴん論」がある。仙台に住む俳人が「大友逸星はいんぴんだ!」と述べた、その「いんぴん」とは仙台弁でむんつん(ひねくれている)ということだ。

単に気難しく臍曲がりという意味でもなく「いんぴん」の微妙さを正確に説明できないのがもどかしいけれど、この仙台弁の「いんぴん」は逸星にいちばんふさわしい言葉だ。逸星の「いんぴん」は人間観察によってそれが人間愛となって表現されている。鳥の目で見ており汚いところをすべて受け入れているようなやさしい眼差しがある。

五百羅漢数えて五百一になる  逸星

四百九十九体までが羅漢像  火星

この二句を発見したとき、ここまで同じか! と思った。いんぴん度で言えば火星句の方が座布団一枚プラスだろうか。逸星句はこっそり五百の中に紛れ込む。どうせ五百も五百一も誰にもわかりゃあしない。ところが火星句の方は五百のうちの一つをどこかにほかし知らん振りで並ぶのだ。何ということをするのか! どちらにせよ、目のいい人は生臭い奴が一人いるぞと気づくはずだ。

火事ですね四、五人風を集めましょう  逸星

薫風を飛ばしてしまうほどの風  火星

こんな無茶苦茶な句はあるだろうか。ロサンゼルスの山火事を見るがいい。風薫るこのひとときをよくも台無しにしてくれたわね。だけど面白いと思ってしまうのは痛烈なひねくれには確固たる観察眼があるからだ。ちょっとした火種が大事になることが今世界中で起きている。戦争の火種はいつでもちろちろしている。トランプの演説を聞いただろうか。憲法まで変えられると思っている大統領だ。SNSの誹謗中傷はとどまる所知らず。そこに四、五人集まればすぐに炎上、死人まで出てしまう。風にはブーフーウーのウーのように強く賢くならなければならない。

大久保で口説いていた頃の春の月  火星

人に見られぬよう蛞蝓さわる  火星

手袋をしたまま触っていいか訊く  火星

うっかりと握り返してしまったが  逸星

雲さんは女でしたか手を入れて  逸星

踊り子の痒いところが解らない  逸星

人(男や女)の心の機微を男目線で詠んだこれらに少しうらやましくなる。私には決して詠めない世界だから(だけどこういうことは昔あった笑)。男って得だなと思う(ハラスメントになっていたらごめんなさい)。べたべたしていないけど〝どきどき〟がある物語になっている。〝ほのぼの感〟もある。しみじみと懐かしくなる思い出もある。そしてバカだなと思うところもある。

蛞蝓の句はただ単純に蛞蝓にさわっているのかもしれないが、人の目を気にしているその姿を想像するとやはり怪しい。そしてこの句群に入れると「さわる」はさらに意味深になる。

「雲さん」は私が杜人を編集しているときの作品で「雲さん」のところは実在する名前になっていたので、クレームをつけた。たった一度直させた逸星作品で思い出深い。「雲ではどうだ」「うん良くなったじゃない」。

でもどうなのだろう。こういう句群は俳句では受け入れられるのだろうか。いやもっとすごい単語が並ぶ俳句を見たこともあるしなあ。まあいいか、少しも問題じゃない。

パジャマでは戦えないが逃げられる  火星

軍服の下はパジャマですみません  ちえみ

伸び縮みする軍服を着て歩く  逸星

ずうずうしく私の句も仲間に入れてもらった。逸星の軍服はジャージーだろうか。いずれも戦意まるで無しの情けない句だが、戦意などない方がいい。これら情けない句によって、今、戦車に乗り銃を持つ兵士たちのリアルな姿が逆に思い起こされる。パジャマで眠れる日が彼らにはいつ来るのだろう。北朝鮮人がロシア軍にかりだされているという。他の国の兵士もいるだろう(日本人も?)。世界戦争になりかねないこの現況は深刻だ。
ではもう少し二人の異議申し立てを見ていこう。

と述べるにとどまりました原爆忌  火星

アメリカのパンツを穿いて動けない  逸星

戦争を知らない国に成り果てる  逸星

戦後はいずれ戦前黒揚羽  火星

日記買いにいく戦前はこれから  火星

戦死者に国旗を着せて終わるのか  逸星

国のため床屋に行って来たところ  逸星

私は平和記念式典で述べられる言葉が嫌いだ。子どもたちに誓わせることも。「と述べる」にとどまる言葉は誰の胸にも届かない。昨年、日本原水爆被害者団体協議会がノーベル平和賞を受賞したが、これで今年の式典はどう変わるだろう。「アメリカのパンツ」は言い得ているなと思う。

「美しい国」を掲げて安倍政権が誕生したとき、戦争経験者の伯母は、「戦前は今のようだったわよ」と言ったことがある。スローガンの言葉に国民が向かわせられることを言ったのだろう。戦後はいつも戦前であることを感じさせられる昨今、「黒揚羽」という季語が心情にぴたりと嵌まっていると私は感じたが、イメージがつきすぎという意見もあると考えられる。火星の季語の扱い方の多くは、フツーの俳句から逸脱して使われているように思え、このように姿正しく着地している作品は少ないというのが私の感想だ。

髪の毛が薄くなったせいか、息子が短く刈り坊主頭に近い姿で来たとき思わず「何だか出征するような感じだね」と言ってしまった。彼には母の気持ちが解るだろうか。バンザイで送り出した母たちがいたこと、その気持ちを……。

股間から憲法九条そそり立つ  逸星

「憲法九条」をこのように端的に表す句を私は見たことがない。この九条に守られて戦後八十年があるのだ。「戦争はしません、ただあなたを愛したいのです」という。九条は愛だと知らされる。見よ! この愛を!(汗・笑)

鰻食う役所に何も届けない  火星

議事堂じゃない食堂に用がある  逸星

鳥の巣やぎょうせいしえんなどない  火星

鰻を食べることぐらい役所に届ける必要なし。議事堂の食堂はおいしんだよ。何か国会もめてるぞ。「楽しい日本」だって。僕には関係なし。でも食べるのは楽しいぞ。

先日、十四年使ったエコキュートを取り替えた。「ぎょうせいしえん」があったのだ! ある日チラシでエコキュートを取り替える人に補助金が出るということを知った。エコを広めるためらしい。あとで銀行に補助金十万円が振り込まれた。補助金をもらっておきながら何だか腹が立ってきた。こんなふうに国の金をばらまき、「だから原発が必要だ」というところにもっていきたいのか。陰謀では? 使わなければならないところにこそ使うべきだと思った。

僕死んでみんな鼾をかいている  逸星

誰かが死んだそして蚯蚓が鳴いた  火星

私が死んでも残された者は鼾をかいているし、誰も泣かず鳴くはずのない蚯蚓が鳴いている。世の中や他者はこういうものだと多少の皮肉があるが、それでいいのだ、みんな元気でいろよというメッセージがある。私も拍手で見送ってほしいと思うが、そういう生き方をしているかと問われれば自信がない。明日からいや今日から心を変えて一所懸命生きようと思う。その日は必ず来るのだから。

人生の主要なところが痒い  火星

おめおめと帰ってきて冷蔵庫を開ける  火星

海を見ていた帰り道はもうない  火星

山河越えどこでもないところに出る  火星

火星が俳句だというから俳句だ。ごちゃごちゃ言うのをやめよう。人生の節目にあった痒い出来事は恥とも言えるだろう。負け戦をしてきてのこのこ帰るしかない日々の繰り返し。ドラマでも必ず冷蔵庫を開ける。ビールの缶をプシュッとすれば明日は来る。明日は来るけど、明日行く道を戻ることはない。靄っている前があるだけだ。変なことをいっぱい書いているけれど火星作品の本質はこの諦念にあるのかもしれない。

パンデミック見て神は言う「のどかじゃのう」  火星

目に余る事を神様してくれる  逸星

階段を落ちる神さま痛いじゃないの  ちえみ

失った四年間と言われるコロナ禍。特に子どもたちは経験しなければならないことを経験せずに大きくなった。会社に行かなくても、人と対面で話さなくても画面と画面で仕事が出来ることがわかった。でも神様、それでほんとうにいいのですか? 神はいないと思うような出来事に何度も遭遇した。そのたび自分を見失わないで生きようと思った。背中の骨折はほんとうに痛かったわ、神さま。逸星は二〇一一・三・一一 東日本大震災の揺れを病院でしっかり体験して四月十六日に逝った。

少年とひとつ違いのかぶと虫  逸星

蟬と少年の続柄を問うている  火星

幼子に向ける愛と憐憫の視線にやさしさがある作品だ。何の技巧もないように見えるが「ひとつ違い」「続柄」の言葉の見つけが効いている。世代が違うのに、この二人はなぜ句に流れているものが似ているのだろう。

虫の言葉がわかる少年という時期はほんとに短い。虫と少年は兄弟なのだ。虫は弟だろうか。

と、やさしさに油断していると、

人間でなければいいが夜の鋸  逸星

蠅はとても元気で裏山にある秘密  火星

何と恐ろしい句だろう。蠅が群がっているところに埋められている(あるいは転がされている)ものとは? サイコスリラー映画を観ているような気味悪さだが、現実でもある。二人の句にはいつも現実の出来事が貼り付いている。

紅葉がいよいよ危険になります  火星

病名は枝垂桜だった  火星

富士山頂で爪切り借りて爪を切る  火星

「紅葉」と「枝垂桜」はその言葉だけを考えるなら季語である。しかし、この二句は季語ではあるが、火星はそれに別の働きを加えているように思えてならない。歳時記にある美しい紅葉は日ごと色濃くなりやがて危険を感じるという。常日頃火星は、温暖化など地球環境に問題意識を持っている。そんなことが加味されているのではなかろうか。全山紅葉は今にも爆発しそう、みなさんご注意あそばせ。「きれいね」とみていると今に……。

「病名」が「枝垂桜」とはいったいどういうことか。「しだれる」桜の様を読み手に別の意味で読むよう誘導している。何かが垂れる病気とは何だろうと考えてみるといろいろ想像できる。年齢的に内臓や泌尿器、鼻水、腰、首等々。しかし、そんなことを具体的に言ってしまったらつまらない句になるところを「枝垂桜」にそれらすべての代表にさせて非常に面白い句になっている。七七ではないが十四音でまとめているところがまた技巧的だ。

富士山という大きな景に爪を切るという日常の些末な行為を組み合わせることで可笑しさが生まれた。山は何が起きるか分からないので爪切りを持っている人もいるだろう。伸びていた爪が何かの拍子に割れることも。手ではなく足の爪かもしれない。「ああ俺、爪切りあるよ」「貸してよ」。達成感を満喫せずに何やら爪を切っている変な人がいる。それを見て笑いながら、そんなことを富士山でする⁈ って少しでも思わせたら作者の勝ちである。私は負けた。

では、逸星の作品を読みながらまとめに進もう。

どんぶりが嫌と言わないから入れる  逸星

バス停をずらす誰も居ないので  逸星

猫たちは犬が笑ったのでわらう  逸星

どこにも難しい言葉はないのにどうしてこんな可笑しいことを書けるのだろう。ノーと言えない私たち。どっしりと立っているバス停(別の物でも)に対してふと湧く出来心。面白くもないのに同調せざるを得ない場面。人の心の動きへの観察眼が鋭く、逸星の前に立つのが怖くなる。

しばらくはあなたの季語を考える  逸星

逸星は極力、季語になる言葉を使わなかった。もし、あったとしてもそれは季節を重視していない。「俳句になるのが嫌だから季語は使わない」と逸星はきっぱり言った。

渡り遅れる 凄まじい二羽  逸星

「鳥渡る」や「渡り鳥」を使ったら俳句になる。それを堪えた一句ではないだろうか。確かに季節は秋だと誰しも思うだろうが、逸星の書きたかったことは、あわてふためく形相の「凄まじい二羽」なのだ。

逸星は俳句にならないよう言葉を選んだ。かたや火星はあらゆる文芸の技法を駆使して俳句たらんとしている。

二人の句集を読み合わせることは楽しい時間だった。

戦争と地震のどちらかに○を  逸星



大友逸星(おおとも・いっせい)1924-2011
合同句集『杜』(川柳杜人社1978年)、句集『なまけもののうた』(私家版1990年)、句集『寝待ちの月』(私家版1993年)、共著『新世紀の現代川柳20人集』(北宋社2001年)。
〔参考文献〕
『川柳人生60年 大友逸星 高田寄生木 記念句集』川柳触光舎・野沢省悟編/2009年)『大友逸星遺句集 逸』(川柳杜人社・広瀬ちえみ編/2012年)

中内火星(なかうち・かせい)1949-
句集『シュルレアリスム』(文學の森/2024年)。東京都区現代俳句協会副会長、現代俳句オープンカレッジ講師、『瓏玲』編集長、「つどい句会」「新業平句会」「垂人」「豆の木」「ロマネコンティ」「What’s」「ぶらり句会」参加。



ホンジツモテイネンヲシキネムルナリ 中内火星句集『シュルレアリスム』評 広瀬ちえみ【句集を読む】

【句集を読む】
ホンジツモテイネンヲシキネムルナリ
中内火星句集『シュルレアリスム』評

広瀬ちえみ
『豆の木』第29号(2025年6月)より転載

中内火星句集『シュルレアリスム』について鑑賞文を書くのは三度目である。一つの句集に三回も書くということは初めてだ。こんなことはよそでもあることだろうか。

一回目は『垂人46』(中西ひろ美・広瀬ちえみ編集発行)に「火星と現代俳句」のタイトルで普通に句集を読み、火星が自作を俳句ではなく現代俳句と強調していることに視点をおいて読んだつもりだ。

二回目は『晴』vol.8(樋口由紀子編集発行)に「星vs星 大友逸星と中内火星のいんぴん度」と題して川柳人の大友逸星と中内火星の発想の根源にあるものが似ているという私の印象批評をたどった。

「いんぴん」とは仙台弁で「へそ曲がり」「ひねくれ」のことだが、その微妙なニュアンスを伝えるのが難しく、「いんぴん」としか言いようがない。ふたりとも似たようにひねくれている。「ひねくれ」は「穿ち」と言ってもいいのかもしれないが私は「穿ち」ということばを使いたくなかった。

火星は鳥の目で人間を見ており、人間の為出かすことを憐憫の情を持って空から覗く。その表現には俳句だけではなくあらゆる文芸の技法を使っている。

句集を読み三回も書くことで辿り着いた私の感想は、火星のひねくれを支えているのはやさしさであり、そして諦念であるということだ。この稿はそのことについて書こうと思う。

性格はコスモスもらっても捨てる

素直になれぬアスパラガスを見ている

自分のことか他者のことか定かではないが、このようにひねくれていることをちゃんと認めて挨拶しているところがおかしい。まるで三歳児のようなごね方である。許しがたいひねくれではなく許してしまうひねくれである。

メールで時折、作品の評をすると驚くことに「そうやってボクは広瀬ちえみに作られる」という返事がきたことがある。私はその言葉にほんとうに驚愕してしまった。普通「へえ、そんなふうに読んだのだね。ありがとう」だろう。ところが「作られる」である。まるで作られることを嫌っているようではないか。私はそのことにおどおどしてしまった。でもひねくれているからなあと反対のことを考えた。

「瓏玲22号」に、第六十一回現代俳句全国大会で秀逸賞・久保純夫特選

つくられたわたしをセーターごと脱ぐ

が載っている。

作品を鑑賞するということはある意味、一つの「中内火星像」を作ることである。しかし作者像は一つでは片をつけられないものであり、複雑怪奇で、それがおもしろさにつながっている。そしてなお深いところに読者の手の届かないものを持っており、知られてたまるか、とほくそ笑んでいるような気がする。句集とはそういうものではないだろうか。

全共斗で損したがやさしくなれた

と述べるにとどまりました原爆忌

叶わぬことのコップ一杯の水

戦後はいずれ戦前黒揚羽

日記買いにいく戦前はこれから

パジャマでは戦えないが逃げられる

鳥の巣やぎょうせいしえんなどない

全共斗世代(火星は斗を使っている)の火星はゲバ棒を持ち、石を投げたのだろうか。私は怖くて入れなかったけれど、それはそれで出来なかったという挫折感がある。それぞれの大学への異議申し立てを発端に、熱いマグマになりセクト間の争いもあった。やがては高校にまで波及していく。バリケードを築き授業もなくあれは何だったのだろうと今でもときどき思い出す。自己表現の一つだったと言ったら怒られるだろうか。なぜなら卒業するとみな企業へ就職していき、挫折感と折合いをつけ企業戦士になっていったのだから。そしてなかにはうまく立ち回れず損をした人もいる。この世代の人々にとって全共斗と書かれたヘルメットは挫折を味わった青春のシンボリックな意味をもっているのではなかろうか。

ロシアによるウクライナへの軍事侵攻もあり、火星は日本(世界)の今は戦前だという。いつ戦争に巻き込まれるか分からない世界情勢を憂えている。

『晴』には(私は平和記念式典で述べられる言葉が嫌いだ。子どもたちに誓わせることも。世界唯一戦争被爆国でありながら「と述べる」にとどまる言葉は誰の胸にも届かない。昨年、日本原水爆被害者団体協議会がノーベル平和賞を受賞したが、これで今年の式典はどう変わるだろう。)と書いた。アメリカの核の傘から出られない日本である。

黒揚羽は不吉な未来を感じさせ、新しい日記にも火星の憂いが書かれるだろう。戦争に行く年齢ではないし、戦闘態勢になればせいぜいパジャマ姿で逃げるしかない。今のウクライナやガザの人々はそういう状況に置かれているが、手を差し伸べる術を持たない。たぶんウクライナやガザでも鳥たちはそれでも営々と巣作りをし雛を育てているだろう。何の支援も受けず鳥は賢く生きている。鳥の姿を借りて火星は人間の愚かさを痛烈に批判するのではなくあくまでも飄々と言う。かと思うと次のような句が軽く書かれている。

大久保で口説いていた頃の春の月

人に見られぬよう蛞蝓さわる

手袋をしたまま触っていいか訊く

私は、学生運動と恋愛は連動していたと思う。これは私のストリーによって作られる世界であり、火星がそうだったということではない。見ている方向が同じということに若者が燃えた時代、友人たちのいくつもの恋愛を見た。実った人もいれば実らなかった人もいる。誤解を恐れずに言えば現代の若者の恋愛とは確実に違っていたように思える。このような鑑賞こそ「作られる」ということだろう。だから大久保での出来事も、蛞蝓も全く別物で詠まれたものかもしれない。ただ、恥ずかしそうな済まなさそうな情けない姿がおかしく、私はそこに青春を感じたのだ。

祭から黄泉まで立ちっぱなしなんだよ

月曜が休みの人の飼う金魚

丸つけた人から順に桃食べる

着ぶくれて如何様師という経歴

ちょっと距離感おこうぜみたいな冬の犬

私は川柳人なので、季語について述べる見識は全くもって有していない。けれども俳人との交流によって少しは読めるようになってきたと思う。川柳人はそれが季語だとは知らずに言葉として使っていることが多い。だから意識せずに季重なりになったり、たとえばあるはずのない「冬陽炎」などに詩を感じて使ったりする。だからこれは季語かな? と思ったら辞書をひくようになった。

ここに季語のある火星句を並べてみる。そうすると季語の世界を優先するのではなく、その前後の言葉が火星のおかしく哀切な物語の世界を作っているように思える。

「立ちっぱなしなんだよ」という話し口調。「月曜が休みの人」、「丸つけた人」、「如何様師」の特別に選ばれた感のある人の動作。「距離感おこうぜ」の現代語感覚。読み手はそちらの方に意識を持っていかれるのである。

祭が楽しくてならなかった子どもの頃からずっと立ちっぱなし。なんとご愁傷様な句だろう。私たちはやはり最後にはご愁傷様と言われるために生きているのだと、切なくなる。図書館や美術館等の仕事をしている人が飼う金魚。普通は土日が家族団らんの日だろうが月曜日という見つけが効いている。金魚という季語ではなく犬猫なども考えられるが、べったり感があり、つれない金魚とのつかず離れずの距離感がいい。距離感でいえばやはり冬の犬である。あちらのうらぶれた犬に重ねてしまうこちらの犬。できるなら見なかったことにしたい。昔の如何様師は今や歳をとり着ぶくれており、背中の丸くなった姿を自嘲する。桃を食べられる順番は今もまだ回ってこない。それでも並んでいる。

このように哀切極まりない火星物語を無理なく読める。ところが、次の三句はどうだろう。

薫風を飛ばしてしまうほどの風

紅葉がいよいよ危険になります

病名は枝垂桜だった

季語を大切にしない俳人はいないだろうし、もちろん俳人・火星にとっても季語は宝物のはずだ。

優雅な季語を優雅には使わないこともあるのだよという火星の意思をここに見た気がする。初夏のおだやかな「薫風」を蹴飛ばすプロレスのヒール役のような風が主役にしている。日に日に色濃くなっていく紅葉は危険物扱いで爆発寸前。やがて全山紅葉の上にドカーンと破裂音が劇画タッチで描かれるだろう。また、桜というこの上もない季語を病名にしてしまう。その病気とは体から何かが垂れる病であろうか。俳句界ではどのように受け取られるのか知らないが、大いに笑わせてもらった。

人生の主要なところが痒い

軍手するのは戦っているつもり

誰かが死んだそして蚯蚓が鳴いた

おめおめと帰ってきて冷蔵庫を開ける

海を見ていた帰り道はもうない

山河越えどこでもないところに出る

パンデミック見て神は言う「のどかじゃのう」

富士山頂で爪切り借りて爪を切る

どこでもないところ(たぶん黄泉の国)に出るまでの、来し方をふり返れば、ずいぶんとおかしなことを為出かして来たものだという感慨。誰かに何かに勝ったことなどなく(ときどきは入賞するらしい)、おめおめと帰るしかない自分の人生を達観する。富士山で爪を切るという変な出来事にも遭遇し、驚くことに爪切りを貸してくれる人にも出会った。これを僥倖というのではなかろうか。あとは靄っている前があるのみだ。どれくらい残っているかはおまかせするしかない。

さきに、火星のひねくれを支えているのはやさしさと諦念だと述べた。いまここに選んだ作品はすべて諦念であると言っても過言ではない。

火星の本質は諦念にあり、だからこそ好き勝手にできるのだ。誰のためにでもない俳句だから、大口も軽口もたたく。書きたいことを自由に書いているそれを批判する人がいたら、たぶん火星は「そうやってボクを作らないでよ」と言うだろう。

2020-09-20

【句集を読む】広瀬ちえみ『雨曜日』の一句 小林苑を

【句集を読む】
ほっこり
広瀬ちえみ雨曜日』の一句

小林苑を


めんどりがあたためているさようなら  広瀬ちえみ『雨曜日』

川柳の話をしようとすると緊張する。俳句は深読みを嫌ったりするのだが、川柳は寓意と(誰に言われたわけでもないのに)思い込んでる節があり、なにかを汲み取らなければと虚心になれないらしい。なのに俳句の深読みは大好き。

句集名がなんともお洒落な『雨曜日』。中には「たまたまもまたまたもあり鳥堕ちる」「午後からは豹が降るかもしれません」等のことば遊びなんかもあって、思いの外するすると読み進められた。ところが、帯が気になる。
かって…沼があった…木立が繁り…いまは見えない。ちえみを探したければ、そこに行けばいい (中西ひろ美) 
こんな謎めいたこと帯に書きます? 句柄が変わった? 著者のあとがきにも沼が出てくるし、句集にも「梅雨に入るからだが沼の匂いして」「笑ってもよろしいかしら沼ですが」がある。

手元に『セレクション柳人』全巻。正直『柳人』は捲った程度のものが多いのだが、それではと『広瀬ちえみ集』を開いてみる。どうも、と私は思う。女であることが面倒なとき、広瀬ちえみの句はいきいきするようだ。おかげさまで、と私は呟く。面倒にはこと欠かなかったもんね。著者とは面識がないが、ひとつだけ分かっているのは同世代ということ。

どんどん長くなりそうなので端折りに端折ってひとつだけ。『柳人』にも『雨曜日』にも父の句がいくつかある。『柳人』なら「父を食べ尽くして軽く口を拭く」とか。娘にとって父は男という存在の入口。面倒始め。好きだけど嫌い。

掲句に戻らねば。雌鶏が自然の営為として卵を抱く。とても大切に。ところが、あたためているのが「さようなら」だとしたら。人生にはいくつもの「さようなら」、いちど切りの特別な「さようなら」、最期の「さようなら」もある。女である面倒の源はこのあたためる役割なのかもしれないし、いつか「さようなら」するんだと(怖いんだぞ)決意を育てているようでもある。そうかそうかと雌鶏を思い浮かべると、これがなんともほっこりした姿なのだ。

ぶるぶるっとことばまみれを振り落とす  同

尋問を受ける突起があるために  同

胎内の大きな合歓の木が揺れて  同

物干しの父を取り込むのを忘れ  同

いらっしゃいませどの鳴き声になさいます?  同


広瀬ちえみ『雨曜日』2020年5月/文學の森





2020-06-14

【句集を読む】ゴーヤ坊やとモシモ氏の去就 広瀬ちえみ『雨曜日』を読む 西原天気

【句集を読む】
ゴーヤ坊やとモシモ氏の去就
広瀬ちえみ雨曜日』を読む

西原天気


午後からは豹が降るかもしれません  広瀬ちえみ

雹(ひょう)ではなく豹が、おそらく何千何万頭の豹が空から降ってくるという予報。漢字変換ミスに過ぎなくもないが、ことばになれば、一句になれば、《現に》それが起こる(ことばの現実が現実に優先されるのが句の決まりなのであしからず)。

音の相同が、意味を折り曲げ、意味の常識的なつながりを断絶して、常ならぬ出来事が生じるという事態(お馴染みの古い言い方をすれば、シニフィアンの偶然の一致が、関連のないシニフィエを連結し、そこに事故が起きる、さらにカジュアルな言い方をすれば、ダジャレが生み出す非現実)は、句集『雨曜日』のそこここにある。

ダジャレにかぎらず、地口・軽口、語呂合わせのたぐい。

昼も夜も泣いてゴーヤの坊やなり  同

正月のビンボーリンボーダンスなり  同

いわゆる「ことば遊び」と総称され、ことばを遊ぶ、ことばで遊ぶ、というから、それは愉しく素晴らしいことだろう、と思っていたら、どうもしばしばそうではなく、貶められ蔑まれることしばしば。

そうした迫害(ことば遊びいじめ)は、文学・文芸において、ひいては世間において、少なくとも俳句において。

川柳においてはどうなのだろう? 不案内だが、俳句ほどには迫害を受けていない気もする。

もちろん、ダジャレ、地口軽口、語呂合わせが盛り込まれてさえいればいい、素晴らしいというわけではなく、そこには造作の洗練や味わい、また読み手の好みもあるから、ことばを遊べばぜんぶがオッケーというわけではない。ぜんぶ成功というわけには行かない。

モシモ氏とシカシ氏が来るよく晴れて  同

わけではないにしても、わけには行かないにしても、生き生きとことばが遊ばれるとき、私たち読者はちょっと自由になれる。〈意味〉は鎖だから。そこからひととき解き放たれる。

考えてみれば、川柳は、俳句は、〈意味〉に使役することにばかりに意を払いすぎている。

〈意味〉という主人、いなくちゃ困るからそれなりに重要なんだろうけれどしばしば傲慢すぎる〈意味〉という主人から離れる、お暇をいただくことも必要なんじゃないか。『雨曜日』の頁を繰りながら、そのように思ったことでしたよ。


広瀬ちえみ『雨曜日』2020年5月/文學の森



2010-03-07

広瀬ちえみ 鹿肉を食べた 7句

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週 刊俳句第150号 2010-3-7 広瀬ちえみ 鹿肉を食べた
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