2026-06-14

星vs星 大友逸星と中内火星のいんぴん度 広瀬ちえみ【句集を読む】

【句集を読む】
星vs星
大友逸星と中内火星のいんぴん度

広瀬ちえみ
『晴』第8号(2025年2月)より転載

中内火星の俳句集『シュルレアリスム』を読んだとき、川柳同人誌「杜人(とじん)」(戦後すぐ一九四七年創刊、二〇二〇年まで七三年間続いた)に生涯にわたり同人として川柳作品を発表してきた大友逸星(一九二四~二〇一一年)の作品のありように似ていることに衝撃を受けた。二人の作品の根源には同じものが流れていると思った。

大まかに言えば、社会や世界への異議申し立て、権力に対する反骨精神に貫かれている。それとともに自分も含めて人間が為出かすことに憐憫の情をもって俯瞰していることだろう。そしてそれに相反するかのように作品はひねくれている。これが大変な曲者なのである。ひねくれ度が半端じゃない。けれども底辺にはやさしさがあるのだ。いつしか苦笑、あろうことかすがすがしい気分にさえさせられ術中にはまってしまう。

性格はコスモスもらっても捨てる  火星

ほら、こんなにひねくれているのである。でも知っている。秋桜を摘んでラッピングしてあげたら、鼻の下をのばすことを。照れかもしれないが、こんな自己紹介があるだろうか。可愛くない……けど……可愛い……。

時間通りに来る男には水やらぬ  逸星

眼鏡屋が死んで一・五に戻る  逸星

男を、眼鏡屋を見る目は意地悪ばあさんであるが、可笑しさに真実を認識させられる。七三の髪型の涼しい顔で来る男より、汗だくで走って来る男の方が絶対に可愛い。

大友逸星を語る「いんぴん論」がある。仙台に住む俳人が「大友逸星はいんぴんだ!」と述べた、その「いんぴん」とは仙台弁でむんつん(ひねくれている)ということだ。

単に気難しく臍曲がりという意味でもなく「いんぴん」の微妙さを正確に説明できないのがもどかしいけれど、この仙台弁の「いんぴん」は逸星にいちばんふさわしい言葉だ。逸星の「いんぴん」は人間観察によってそれが人間愛となって表現されている。鳥の目で見ており汚いところをすべて受け入れているようなやさしい眼差しがある。

五百羅漢数えて五百一になる  逸星

四百九十九体までが羅漢像  火星

この二句を発見したとき、ここまで同じか! と思った。いんぴん度で言えば火星句の方が座布団一枚プラスだろうか。逸星句はこっそり五百の中に紛れ込む。どうせ五百も五百一も誰にもわかりゃあしない。ところが火星句の方は五百のうちの一つをどこかにほかし知らん振りで並ぶのだ。何ということをするのか! どちらにせよ、目のいい人は生臭い奴が一人いるぞと気づくはずだ。

火事ですね四、五人風を集めましょう  逸星

薫風を飛ばしてしまうほどの風  火星

こんな無茶苦茶な句はあるだろうか。ロサンゼルスの山火事を見るがいい。風薫るこのひとときをよくも台無しにしてくれたわね。だけど面白いと思ってしまうのは痛烈なひねくれには確固たる観察眼があるからだ。ちょっとした火種が大事になることが今世界中で起きている。戦争の火種はいつでもちろちろしている。トランプの演説を聞いただろうか。憲法まで変えられると思っている大統領だ。SNSの誹謗中傷はとどまる所知らず。そこに四、五人集まればすぐに炎上、死人まで出てしまう。風にはブーフーウーのウーのように強く賢くならなければならない。

大久保で口説いていた頃の春の月  火星

人に見られぬよう蛞蝓さわる  火星

手袋をしたまま触っていいか訊く  火星

うっかりと握り返してしまったが  逸星

雲さんは女でしたか手を入れて  逸星

踊り子の痒いところが解らない  逸星

人(男や女)の心の機微を男目線で詠んだこれらに少しうらやましくなる。私には決して詠めない世界だから(だけどこういうことは昔あった笑)。男って得だなと思う(ハラスメントになっていたらごめんなさい)。べたべたしていないけど〝どきどき〟がある物語になっている。〝ほのぼの感〟もある。しみじみと懐かしくなる思い出もある。そしてバカだなと思うところもある。

蛞蝓の句はただ単純に蛞蝓にさわっているのかもしれないが、人の目を気にしているその姿を想像するとやはり怪しい。そしてこの句群に入れると「さわる」はさらに意味深になる。

「雲さん」は私が杜人を編集しているときの作品で「雲さん」のところは実在する名前になっていたので、クレームをつけた。たった一度直させた逸星作品で思い出深い。「雲ではどうだ」「うん良くなったじゃない」。

でもどうなのだろう。こういう句群は俳句では受け入れられるのだろうか。いやもっとすごい単語が並ぶ俳句を見たこともあるしなあ。まあいいか、少しも問題じゃない。

パジャマでは戦えないが逃げられる  火星

軍服の下はパジャマですみません  ちえみ

伸び縮みする軍服を着て歩く  逸星

ずうずうしく私の句も仲間に入れてもらった。逸星の軍服はジャージーだろうか。いずれも戦意まるで無しの情けない句だが、戦意などない方がいい。これら情けない句によって、今、戦車に乗り銃を持つ兵士たちのリアルな姿が逆に思い起こされる。パジャマで眠れる日が彼らにはいつ来るのだろう。北朝鮮人がロシア軍にかりだされているという。他の国の兵士もいるだろう(日本人も?)。世界戦争になりかねないこの現況は深刻だ。
ではもう少し二人の異議申し立てを見ていこう。

と述べるにとどまりました原爆忌  火星

アメリカのパンツを穿いて動けない  逸星

戦争を知らない国に成り果てる  逸星

戦後はいずれ戦前黒揚羽  火星

日記買いにいく戦前はこれから  火星

戦死者に国旗を着せて終わるのか  逸星

国のため床屋に行って来たところ  逸星

私は平和記念式典で述べられる言葉が嫌いだ。子どもたちに誓わせることも。「と述べる」にとどまる言葉は誰の胸にも届かない。昨年、日本原水爆被害者団体協議会がノーベル平和賞を受賞したが、これで今年の式典はどう変わるだろう。「アメリカのパンツ」は言い得ているなと思う。

「美しい国」を掲げて安倍政権が誕生したとき、戦争経験者の伯母は、「戦前は今のようだったわよ」と言ったことがある。スローガンの言葉に国民が向かわせられることを言ったのだろう。戦後はいつも戦前であることを感じさせられる昨今、「黒揚羽」という季語が心情にぴたりと嵌まっていると私は感じたが、イメージがつきすぎという意見もあると考えられる。火星の季語の扱い方の多くは、フツーの俳句から逸脱して使われているように思え、このように姿正しく着地している作品は少ないというのが私の感想だ。

髪の毛が薄くなったせいか、息子が短く刈り坊主頭に近い姿で来たとき思わず「何だか出征するような感じだね」と言ってしまった。彼には母の気持ちが解るだろうか。バンザイで送り出した母たちがいたこと、その気持ちを……。

股間から憲法九条そそり立つ  逸星

「憲法九条」をこのように端的に表す句を私は見たことがない。この九条に守られて戦後八十年があるのだ。「戦争はしません、ただあなたを愛したいのです」という。九条は愛だと知らされる。見よ! この愛を!(汗・笑)

鰻食う役所に何も届けない  火星

議事堂じゃない食堂に用がある  逸星

鳥の巣やぎょうせいしえんなどない  火星

鰻を食べることぐらい役所に届ける必要なし。議事堂の食堂はおいしんだよ。何か国会もめてるぞ。「楽しい日本」だって。僕には関係なし。でも食べるのは楽しいぞ。

先日、十四年使ったエコキュートを取り替えた。「ぎょうせいしえん」があったのだ! ある日チラシでエコキュートを取り替える人に補助金が出るということを知った。エコを広めるためらしい。あとで銀行に補助金十万円が振り込まれた。補助金をもらっておきながら何だか腹が立ってきた。こんなふうに国の金をばらまき、「だから原発が必要だ」というところにもっていきたいのか。陰謀では? 使わなければならないところにこそ使うべきだと思った。

僕死んでみんな鼾をかいている  逸星

誰かが死んだそして蚯蚓が鳴いた  火星

私が死んでも残された者は鼾をかいているし、誰も泣かず鳴くはずのない蚯蚓が鳴いている。世の中や他者はこういうものだと多少の皮肉があるが、それでいいのだ、みんな元気でいろよというメッセージがある。私も拍手で見送ってほしいと思うが、そういう生き方をしているかと問われれば自信がない。明日からいや今日から心を変えて一所懸命生きようと思う。その日は必ず来るのだから。

人生の主要なところが痒い  火星

おめおめと帰ってきて冷蔵庫を開ける  火星

海を見ていた帰り道はもうない  火星

山河越えどこでもないところに出る  火星

火星が俳句だというから俳句だ。ごちゃごちゃ言うのをやめよう。人生の節目にあった痒い出来事は恥とも言えるだろう。負け戦をしてきてのこのこ帰るしかない日々の繰り返し。ドラマでも必ず冷蔵庫を開ける。ビールの缶をプシュッとすれば明日は来る。明日は来るけど、明日行く道を戻ることはない。靄っている前があるだけだ。変なことをいっぱい書いているけれど火星作品の本質はこの諦念にあるのかもしれない。

パンデミック見て神は言う「のどかじゃのう」  火星

目に余る事を神様してくれる  逸星

階段を落ちる神さま痛いじゃないの  ちえみ

失った四年間と言われるコロナ禍。特に子どもたちは経験しなければならないことを経験せずに大きくなった。会社に行かなくても、人と対面で話さなくても画面と画面で仕事が出来ることがわかった。でも神様、それでほんとうにいいのですか? 神はいないと思うような出来事に何度も遭遇した。そのたび自分を見失わないで生きようと思った。背中の骨折はほんとうに痛かったわ、神さま。逸星は二〇一一・三・一一 東日本大震災の揺れを病院でしっかり体験して四月十六日に逝った。

少年とひとつ違いのかぶと虫  逸星

蟬と少年の続柄を問うている  火星

幼子に向ける愛と憐憫の視線にやさしさがある作品だ。何の技巧もないように見えるが「ひとつ違い」「続柄」の言葉の見つけが効いている。世代が違うのに、この二人はなぜ句に流れているものが似ているのだろう。

虫の言葉がわかる少年という時期はほんとに短い。虫と少年は兄弟なのだ。虫は弟だろうか。

と、やさしさに油断していると、

人間でなければいいが夜の鋸  逸星

蠅はとても元気で裏山にある秘密  火星

何と恐ろしい句だろう。蠅が群がっているところに埋められている(あるいは転がされている)ものとは? サイコスリラー映画を観ているような気味悪さだが、現実でもある。二人の句にはいつも現実の出来事が貼り付いている。

紅葉がいよいよ危険になります  火星

病名は枝垂桜だった  火星

富士山頂で爪切り借りて爪を切る  火星

「紅葉」と「枝垂桜」はその言葉だけを考えるなら季語である。しかし、この二句は季語ではあるが、火星はそれに別の働きを加えているように思えてならない。歳時記にある美しい紅葉は日ごと色濃くなりやがて危険を感じるという。常日頃火星は、温暖化など地球環境に問題意識を持っている。そんなことが加味されているのではなかろうか。全山紅葉は今にも爆発しそう、みなさんご注意あそばせ。「きれいね」とみていると今に……。

「病名」が「枝垂桜」とはいったいどういうことか。「しだれる」桜の様を読み手に別の意味で読むよう誘導している。何かが垂れる病気とは何だろうと考えてみるといろいろ想像できる。年齢的に内臓や泌尿器、鼻水、腰、首等々。しかし、そんなことを具体的に言ってしまったらつまらない句になるところを「枝垂桜」にそれらすべての代表にさせて非常に面白い句になっている。七七ではないが十四音でまとめているところがまた技巧的だ。

富士山という大きな景に爪を切るという日常の些末な行為を組み合わせることで可笑しさが生まれた。山は何が起きるか分からないので爪切りを持っている人もいるだろう。伸びていた爪が何かの拍子に割れることも。手ではなく足の爪かもしれない。「ああ俺、爪切りあるよ」「貸してよ」。達成感を満喫せずに何やら爪を切っている変な人がいる。それを見て笑いながら、そんなことを富士山でする⁈ って少しでも思わせたら作者の勝ちである。私は負けた。

では、逸星の作品を読みながらまとめに進もう。

どんぶりが嫌と言わないから入れる  逸星

バス停をずらす誰も居ないので  逸星

猫たちは犬が笑ったのでわらう  逸星

どこにも難しい言葉はないのにどうしてこんな可笑しいことを書けるのだろう。ノーと言えない私たち。どっしりと立っているバス停(別の物でも)に対してふと湧く出来心。面白くもないのに同調せざるを得ない場面。人の心の動きへの観察眼が鋭く、逸星の前に立つのが怖くなる。

しばらくはあなたの季語を考える  逸星

逸星は極力、季語になる言葉を使わなかった。もし、あったとしてもそれは季節を重視していない。「俳句になるのが嫌だから季語は使わない」と逸星はきっぱり言った。

渡り遅れる 凄まじい二羽  逸星

「鳥渡る」や「渡り鳥」を使ったら俳句になる。それを堪えた一句ではないだろうか。確かに季節は秋だと誰しも思うだろうが、逸星の書きたかったことは、あわてふためく形相の「凄まじい二羽」なのだ。

逸星は俳句にならないよう言葉を選んだ。かたや火星はあらゆる文芸の技法を駆使して俳句たらんとしている。

二人の句集を読み合わせることは楽しい時間だった。

戦争と地震のどちらかに○を  逸星



大友逸星(おおとも・いっせい)1924-2011
合同句集『杜』(川柳杜人社1978年)、句集『なまけもののうた』(私家版1990年)、句集『寝待ちの月』(私家版1993年)、共著『新世紀の現代川柳20人集』(北宋社2001年)。
〔参考文献〕
『川柳人生60年 大友逸星 高田寄生木 記念句集』川柳触光舎・野沢省悟編/2009年)『大友逸星遺句集 逸』(川柳杜人社・広瀬ちえみ編/2012年)

中内火星(なかうち・かせい)1949-
句集『シュルレアリスム』(文學の森/2024年)。東京都区現代俳句協会副会長、現代俳句オープンカレッジ講師、『瓏玲』編集長、「つどい句会」「新業平句会」「垂人」「豆の木」「ロマネコンティ」「What’s」「ぶらり句会」参加。



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