【句集を読む】
中内火星と現代俳句
中内火星句集『シュルレアリスム』を読む
広瀬ちえみ
『垂人』第46号(2024年9月)より転載
中内火星の句はそう難解ではない。社会で起きている不都合なことや、この世の男や女が(男でも女でもない人がいるかもしれないが)起こす取るに足らぬ出来事が題材だからである。しかしながら機知に富んでおり、読者がふむふむと気楽に読んでいると、大外刈りで転がされる。そんな愉快があちこちに潜んでいる句集『シュルレアリスム』。火星の言葉は少しひねくれていて、それがまた的を射ているので楽しく読んだ。
句の中の火星を絵に描いたら決して具象画にはならないだろう。ピカソやマチスのような線で変顔に描かれるに違いない。
季語の使い方がありふれていない。雅が俳句なら火星の俳句は美しくない。季語というより言葉という感じがして、季語の歴史とかその世界を壊してもいるようだ。それが成功しているものもあれば成功していないものもある、というのが私の感想である。あくまでも川柳人の私の感想である。
紅葉がいよいよ危険になります
病名は枝垂桜だった
薫風を飛ばしてしまうほどの風
親に見放されるくらい花吹雪
曼珠沙華それでいて血圧正常
高きに登ったまま降りてこない人
紅葉の赤を単なる景として詠むのではなく、火星はこの世の、例えば現在起きている戦争、温暖化などを憂えており、紅葉の赤にさえ火星は恐怖心をおぼえるのだ。季語の紅葉は不穏で、全山紅葉が今にも爆発しそうである。
破調の句の「病名」と「枝垂桜」はどういうことで結びつくのか意表を突かれる。病名は「枝垂桜」と告げられうなだれる人間まで見えてくる。
薫風という美しい季語が、欽ちゃんに飛ばされるコント55号のギャグのようだ、と感心してしまう。
連句での「花」は位の高い位置におかれるが、子どもの反抗が、言い聞かせても言い聞かせても収まらない花吹雪として描かれる。こんな無礼をへとも思わない火星に拍手を送ろう。
曼珠沙華は「死人花」ともいわれる。若いときは、低血圧でふらふらしていたが、最近少しずつ上がってきて先日は124と言われる。100くらいしかなかったのだから怖くなり医者に問うと「正常です。低血圧がいいのではないですよ」と。いつ死んでもおかしくない年齢なのだが、血圧はひとつの安心材料だ。
「高きに登る」は秋の季語で、中国の古俗で重陽の日に茱萸を入れた袋を持って高い丘などに登ることだそうだ。その人が戻ってこない、と火星は季語の本意本情をひっくり返してみせる。人生はそんなものさというように。句会などで本意本情と俳人の口から出るとき、私は身構える。
ここんとこ頭の中の霞草
爪切と爪のカーブやリラの花
この二句は私にはつまらない。先に引用した句とちがって「霞草」「リラの花」には読み手として心を動かされない。脳が衰えてきた実感をこのように表現するのは、川柳にもたくさんある。オンパレードと言っても過言ではない。「リラの花」でいわゆる切れている、ということなのだろうが、意味を見いだせない。意味などというと否定されるが、私はつかず離れず、その微妙な関係を読みたいと思う。
靴屋きてわが体内に棲むという 石部明
そう、頭の中にも何かを棲ませたいと思ったのだ。
団栗という独立
どうりで冬至
句集は十句前後の数に題がつけられて26もある。これもめずらしい。こんなに題がある句集は見たことがない。その中の「簡潔」という題がつけられた15句のうちの二句である。題のとおりそれは短い。しかし、世界が物語のようにあるいは詩のように成り立っている。短いゆえに読み手の心に浮かぶさまざまな事象を呼び起こす。垂人の作品は三行にわたり極端に長い(たぶん火星はこれも俳句だと言うだろう)が、火星の句の定義は規定がないということなのだろう。
団栗と独立、「ど」の韻を踏んでいるこの句は、あの小さな木の実でさえ、一粒ずつ土に埋もれ芽を出し自分の国を作る。それにくらべて我々は、他国に侵攻し、人を殺す。大昔迫害されたユダヤ人が今度は迫害する側となっている。人間の愚かさは死んでも治らない。
「どうりで」が世界を拡げてくれる。柚子風呂だったり、小豆南瓜が出てきたり、外は真っ暗だし、どうりでどうりで冬至だった。そして「冬至」でなければならない、寒くなければならない、とその必然があり、暖かかったら詩にも物語にもならないだろう。
言語化したときに滝は凍りつく
場所によっては冬には凍て滝になるところもあるが、本来、滝はゴーゴーと轟きながら滝壺に向かって落ちるのが一番滝が滝である姿だろう。そこに変な言葉は不要である。私たちも他者から「あなたって○○ね」と言語化されることがある。思いも寄らぬ言葉で語られることも。
何かを言語化することはとても難しい。それでも私たちは表現の世界を持った。見たことあったことを日々言語化する。もしかしたら他者を傷つけたり罪作りをしているかもしれない。言葉は武器でもある。
あとがきで火星は、「こんな輩を受け入れてくれる世界がわたしにとって現代俳句の世界に他ならない。」と書いている。「俳句」ではなく「現代俳句」と述べるその〝現代〟とは何を指しているのだろう。
私はいつもこの〝現代〟が気になる。現代○○、というフレーズがあちこちに見られる。現代って歴史的にいえばどこからなのか、あるいはどんなことに対しての現代なのかあいまいで落ち着かない。
たとえば〝前衛〟という言葉がある。あらゆる芸術でこう呼ばれているジャンルは、対するものがあるから〝前衛〟というのだろう。あちらとは違っている〝前衛〟という意識である。〝現代〟という言葉も確かに同じニュアンスがあるというのが私見だ。俳句にも川柳にも〝現代〟がある。何に対しての〝現代〟なのか、境界はあいまいだ。
現代俳句協会はチューインガム
白妙の現代雪女協会に春
火星は現代俳句協会に所属し重要な仕事をされている。協会には属しているが、作品はどこにも属さない意思があることを表明した。俳句界の協会の詳しいことは知らないが、現代俳句協会というからにはそれぞれの協会に意識の中で違いがあるのだろう。味がなくなるまで噛み続けなければなるまい。
火星にとっての〝現代〟とは、季語からも定型からも自由になり、つまりはおもむくままの表現(シュルレアリスム)をすることなのだろう。
ある川柳人はやりたい放題のことをしている句集だと評した。季語や切れの後ろ盾もない本来自由なはずの川柳から見ても、火星の句の奔放な世界は刺激的だ。
誰かが死んだそして蚯蚓が鳴いた
花吹雪途方もないほどの孤独
この年齢になるとどんどんさびしくなるものだという実感がある。友人が亡くなる。先日はCDプレイヤーが壊れ、今度はビデオデッキが壊れ、物置の扉がおかしくなった。これから壊れるものもまだまだある。物が壊れるのは当然だけどさびしいと娘に言ったら笑われ、「さびしくなったら遊びにおいで~」との返事。それはありがたいことだがそれでも解決不能のさびしさがある。自分という孤独そのものを突き付けられて。
山河越えどこでもないところに出る
私たちの年代には最後の大仕事が待っている。
中内火星句集『シュルレアリスム』(2024年/文學の森)
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