2026-06-14

ホンジツモテイネンヲシキネムルナリ 中内火星句集『シュルレアリスム』評 広瀬ちえみ【句集を読む】

【句集を読む】
ホンジツモテイネンヲシキネムルナリ
中内火星句集『シュルレアリスム』評

広瀬ちえみ
『豆の木』第29号(2025年6月)より転載

中内火星句集『シュルレアリスム』について鑑賞文を書くのは三度目である。一つの句集に三回も書くということは初めてだ。こんなことはよそでもあることだろうか。

一回目は『垂人46』(中西ひろ美・広瀬ちえみ編集発行)に「火星と現代俳句」のタイトルで普通に句集を読み、火星が自作を俳句ではなく現代俳句と強調していることに視点をおいて読んだつもりだ。

二回目は『晴』vol.8(樋口由紀子編集発行)に「星vs星 大友逸星と中内火星のいんぴん度」と題して川柳人の大友逸星と中内火星の発想の根源にあるものが似ているという私の印象批評をたどった。

「いんぴん」とは仙台弁で「へそ曲がり」「ひねくれ」のことだが、その微妙なニュアンスを伝えるのが難しく、「いんぴん」としか言いようがない。ふたりとも似たようにひねくれている。「ひねくれ」は「穿ち」と言ってもいいのかもしれないが私は「穿ち」ということばを使いたくなかった。

火星は鳥の目で人間を見ており、人間の為出かすことを憐憫の情を持って空から覗く。その表現には俳句だけではなくあらゆる文芸の技法を使っている。

句集を読み三回も書くことで辿り着いた私の感想は、火星のひねくれを支えているのはやさしさであり、そして諦念であるということだ。この稿はそのことについて書こうと思う。

性格はコスモスもらっても捨てる

素直になれぬアスパラガスを見ている

自分のことか他者のことか定かではないが、このようにひねくれていることをちゃんと認めて挨拶しているところがおかしい。まるで三歳児のようなごね方である。許しがたいひねくれではなく許してしまうひねくれである。

メールで時折、作品の評をすると驚くことに「そうやってボクは広瀬ちえみに作られる」という返事がきたことがある。私はその言葉にほんとうに驚愕してしまった。普通「へえ、そんなふうに読んだのだね。ありがとう」だろう。ところが「作られる」である。まるで作られることを嫌っているようではないか。私はそのことにおどおどしてしまった。でもひねくれているからなあと反対のことを考えた。

「瓏玲22号」に、第六十一回現代俳句全国大会で秀逸賞・久保純夫特選

つくられたわたしをセーターごと脱ぐ

が載っている。

作品を鑑賞するということはある意味、一つの「中内火星像」を作ることである。しかし作者像は一つでは片をつけられないものであり、複雑怪奇で、それがおもしろさにつながっている。そしてなお深いところに読者の手の届かないものを持っており、知られてたまるか、とほくそ笑んでいるような気がする。句集とはそういうものではないだろうか。

全共斗で損したがやさしくなれた

と述べるにとどまりました原爆忌

叶わぬことのコップ一杯の水

戦後はいずれ戦前黒揚羽

日記買いにいく戦前はこれから

パジャマでは戦えないが逃げられる

鳥の巣やぎょうせいしえんなどない

全共斗世代(火星は斗を使っている)の火星はゲバ棒を持ち、石を投げたのだろうか。私は怖くて入れなかったけれど、それはそれで出来なかったという挫折感がある。それぞれの大学への異議申し立てを発端に、熱いマグマになりセクト間の争いもあった。やがては高校にまで波及していく。バリケードを築き授業もなくあれは何だったのだろうと今でもときどき思い出す。自己表現の一つだったと言ったら怒られるだろうか。なぜなら卒業するとみな企業へ就職していき、挫折感と折合いをつけ企業戦士になっていったのだから。そしてなかにはうまく立ち回れず損をした人もいる。この世代の人々にとって全共斗と書かれたヘルメットは挫折を味わった青春のシンボリックな意味をもっているのではなかろうか。

ロシアによるウクライナへの軍事侵攻もあり、火星は日本(世界)の今は戦前だという。いつ戦争に巻き込まれるか分からない世界情勢を憂えている。

『晴』には(私は平和記念式典で述べられる言葉が嫌いだ。子どもたちに誓わせることも。世界唯一戦争被爆国でありながら「と述べる」にとどまる言葉は誰の胸にも届かない。昨年、日本原水爆被害者団体協議会がノーベル平和賞を受賞したが、これで今年の式典はどう変わるだろう。)と書いた。アメリカの核の傘から出られない日本である。

黒揚羽は不吉な未来を感じさせ、新しい日記にも火星の憂いが書かれるだろう。戦争に行く年齢ではないし、戦闘態勢になればせいぜいパジャマ姿で逃げるしかない。今のウクライナやガザの人々はそういう状況に置かれているが、手を差し伸べる術を持たない。たぶんウクライナやガザでも鳥たちはそれでも営々と巣作りをし雛を育てているだろう。何の支援も受けず鳥は賢く生きている。鳥の姿を借りて火星は人間の愚かさを痛烈に批判するのではなくあくまでも飄々と言う。かと思うと次のような句が軽く書かれている。

大久保で口説いていた頃の春の月

人に見られぬよう蛞蝓さわる

手袋をしたまま触っていいか訊く

私は、学生運動と恋愛は連動していたと思う。これは私のストリーによって作られる世界であり、火星がそうだったということではない。見ている方向が同じということに若者が燃えた時代、友人たちのいくつもの恋愛を見た。実った人もいれば実らなかった人もいる。誤解を恐れずに言えば現代の若者の恋愛とは確実に違っていたように思える。このような鑑賞こそ「作られる」ということだろう。だから大久保での出来事も、蛞蝓も全く別物で詠まれたものかもしれない。ただ、恥ずかしそうな済まなさそうな情けない姿がおかしく、私はそこに青春を感じたのだ。

祭から黄泉まで立ちっぱなしなんだよ

月曜が休みの人の飼う金魚

丸つけた人から順に桃食べる

着ぶくれて如何様師という経歴

ちょっと距離感おこうぜみたいな冬の犬

私は川柳人なので、季語について述べる見識は全くもって有していない。けれども俳人との交流によって少しは読めるようになってきたと思う。川柳人はそれが季語だとは知らずに言葉として使っていることが多い。だから意識せずに季重なりになったり、たとえばあるはずのない「冬陽炎」などに詩を感じて使ったりする。だからこれは季語かな? と思ったら辞書をひくようになった。

ここに季語のある火星句を並べてみる。そうすると季語の世界を優先するのではなく、その前後の言葉が火星のおかしく哀切な物語の世界を作っているように思える。

「立ちっぱなしなんだよ」という話し口調。「月曜が休みの人」、「丸つけた人」、「如何様師」の特別に選ばれた感のある人の動作。「距離感おこうぜ」の現代語感覚。読み手はそちらの方に意識を持っていかれるのである。

祭が楽しくてならなかった子どもの頃からずっと立ちっぱなし。なんとご愁傷様な句だろう。私たちはやはり最後にはご愁傷様と言われるために生きているのだと、切なくなる。図書館や美術館等の仕事をしている人が飼う金魚。普通は土日が家族団らんの日だろうが月曜日という見つけが効いている。金魚という季語ではなく犬猫なども考えられるが、べったり感があり、つれない金魚とのつかず離れずの距離感がいい。距離感でいえばやはり冬の犬である。あちらのうらぶれた犬に重ねてしまうこちらの犬。できるなら見なかったことにしたい。昔の如何様師は今や歳をとり着ぶくれており、背中の丸くなった姿を自嘲する。桃を食べられる順番は今もまだ回ってこない。それでも並んでいる。

このように哀切極まりない火星物語を無理なく読める。ところが、次の三句はどうだろう。

薫風を飛ばしてしまうほどの風

紅葉がいよいよ危険になります

病名は枝垂桜だった

季語を大切にしない俳人はいないだろうし、もちろん俳人・火星にとっても季語は宝物のはずだ。

優雅な季語を優雅には使わないこともあるのだよという火星の意思をここに見た気がする。初夏のおだやかな「薫風」を蹴飛ばすプロレスのヒール役のような風が主役にしている。日に日に色濃くなっていく紅葉は危険物扱いで爆発寸前。やがて全山紅葉の上にドカーンと破裂音が劇画タッチで描かれるだろう。また、桜というこの上もない季語を病名にしてしまう。その病気とは体から何かが垂れる病であろうか。俳句界ではどのように受け取られるのか知らないが、大いに笑わせてもらった。

人生の主要なところが痒い

軍手するのは戦っているつもり

誰かが死んだそして蚯蚓が鳴いた

おめおめと帰ってきて冷蔵庫を開ける

海を見ていた帰り道はもうない

山河越えどこでもないところに出る

パンデミック見て神は言う「のどかじゃのう」

富士山頂で爪切り借りて爪を切る

どこでもないところ(たぶん黄泉の国)に出るまでの、来し方をふり返れば、ずいぶんとおかしなことを為出かして来たものだという感慨。誰かに何かに勝ったことなどなく(ときどきは入賞するらしい)、おめおめと帰るしかない自分の人生を達観する。富士山で爪を切るという変な出来事にも遭遇し、驚くことに爪切りを貸してくれる人にも出会った。これを僥倖というのではなかろうか。あとは靄っている前があるのみだ。どれくらい残っているかはおまかせするしかない。

さきに、火星のひねくれを支えているのはやさしさと諦念だと述べた。いまここに選んだ作品はすべて諦念であると言っても過言ではない。

火星の本質は諦念にあり、だからこそ好き勝手にできるのだ。誰のためにでもない俳句だから、大口も軽口もたたく。書きたいことを自由に書いているそれを批判する人がいたら、たぶん火星は「そうやってボクを作らないでよ」と言うだろう。

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