【句集を読む】
正気と邪気のアマルガム・正統と異端のキメラ
上野葉月『enjoy』を読む
西原天気
冒頭は、この句。
オリーヴを息子の妻となる人へ 上野葉月
なんて素敵なオトナだろう。
ページをめくりはじめてまずこの句を目にした人は、穏健で円満な壮年の作者を想像するだろう。人生の節目や日常の風景を過不足なくきらめかせてくれるような句が並ぶと期待を大きくするかもしれない。
だが、それは、ちがう。
いや、もちろん、作者は素敵なのですよ。この句集に立ち現れる作者は(リアルの作者にの話はしない。句集レビューの場なので)、素敵なのです。穏健で円満かどうかは知らないけれど、素敵なのです(三回言った)。でも、みなさんが思うような素敵さとは、ちがう。
ここで、すこしの迂遠を許してください。作者・上野葉月氏がリアルな俳句世間の交流の場で(ここはリアルの話です)「保守系無所属」を自称するのを、筆者はいくたびか目に耳にしている。ながらく『豆の木』同人である作者を「無所属」と呼んでいいのかどうか。それはさておき、「保守系」? 「保守系」とは?
政治的脈絡ではないのだろうし、一方、「伝統」という俳句の世界においてある種パテント化した範疇(ホトトギス系)への帰属を宣言して彼らを刺激するつもりもないのだと思う。きっと、ファッション用語としての「コンサバ」くらいのふわっとした用法なのだろう。
「保守系無所属」という/肩書キャッチフレーズを忖度すれば、つまり、俳句の歴史的堆積・レガシーを尊重した作句手法に則って、いわゆる「俳句らしい俳句」をつくる、それでいて大結社に所属してコツコツやってるわけじゃないですよ、ということだろう。それはしかし、俳句世間の巨大マジョリティのひとりだと言っているに過ぎないのだが、それはそれとして、あとで見るように、言ってることは本当なのだろうか。そんな疑念はつきまとう。
ところで、多数派とは、しばしば無辜の民、善良なる民衆といった概念と関連する。俳句業界において、無辜とは、善良とは、例えば季節の移ろいを定型に書きとめ、日常の些事をこのましくかいつまむ、のに悪い人はいない、といった平穏な詩的世界の住人である。一般市民と乱暴に短く言ってしまってもいい。
「保守系」と自称するこの人は、自分が一般市民であると言いたいのか?(あくまで作品の話です。人としての話じゃないです。ときどき作品に引き戻ねばならないから、めんどくせえなあ)
もう結論を言っちゃおう。
この句集は、「保守系」とは程遠いのだ。
随所にヘンで(いい意味です)、随所にふざけていて(いい意味です)、随所に異常だ(いい意味です)。
例えば、集中、この作者は、四度にもわたって、葱を振っている/振らせている。
秋深し追憶の葱振りにけり 上野葉月(以下同)
葱刻む前に戸口で葱を振る
木の下でセーラー服が葱を振る
新年の後ろ姿へ葱を振る
もちろんを葱を振って悪いことはない。その姿を想像すると、なにかこう、懐かしい、昔の日本映画の一シーンを思い出す……わけがなかろう。異常行動でしょ、これは。
もちろん、いわゆるフツーの句もあるにはある。
春浅し交番にきく登山口
などは、じゅうぶんに感じがよく、公民館などでやっている善男善女の句会に出てくるような句だ。フツーの句集にも、きちんと行儀よく収まるだろう。
だが、こうした穏当なな句は、句群として目立つわけではない。かき消されて見えないほどに、ヘンな句、穏やかではない句がたくさんある。
例えば、このような怪異な句。
烏山肛門科クリニックああ俳句のやうだ
叙述対象を俳句に定めて「メタ俳句」的と言えなくもないが、それだからいいとわけではない。
固有名詞とか肛門とかカタカナ語とか。ほんと、なんなんだよ、これ。怒り出す俳人がいっぱいいると思うよ、葉月さん。一生かけて俳句に取り組もうという若者には絶対見せられない(私はきらいじゃないけど、この句)。
ところで、この句、元ネタが《蟻が蝶の羽をひいて行くああヨットのやうだ 三好達治》であることを、作者自身が「あとがき」でを明示しているから、そっちのほうに話を進めると、「先行句」へのオマージュとして、次の3句も併せて挙げている。《パトカーをぐるぐる巻きにして素敵 上野葉月》←《マフラーをぐるぐる巻きにして無敵 近恵》、《新妻を並べておけばわかるなり 上野葉月》←《人参を並べておけばわかるなり 鴇田智哉》、《一月の女医一月の風邪の中 上野葉月》←《一月の川一月の谷の中 飯田龍太》。
パロディ化されるたびに、その句は名句の地位を確固たるものにしていくという側面がある。龍太句《一月の~》はすでに多くのパロディが生産されているはず。
智哉句《人参を~》は、「四音を並べておけばわかるなり」と言いたくなるほど、無限に置換/パロディが可能だ。候補は無数にある。そんななか、この作者は《新妻》を選んだ。《女医》もそうだが、リビドーと直結せざるを得ない語を選んだ。「保守系」俳人がやることではないですよ。私は怒らないけど、伝統俳句自警団や文芸倫理協会の人には、確実に叱られる。
こう書いていて、穏当で善良な俳人諸氏に白い目で見られるという悲惨を味わうは、作者だけでなく、私もだ、と気づいた。とんだとばっちり! を喰うのもイヤなので、ここでは、先行句→パロディ化は、語/モチーフの置換/代入によって、参照元の叙情/理知/措辞の妥当性をたやすく破壊することができる、というシンプルな俳句的事実をいまさらのように述べるにとどめたい。
と、ここで終わってもいいのだが、こうした怪物的に奇妙な句作、この作者にとって、昨日今日のことではない。年季が入っている。
証拠に『週刊俳句』第296号(2012年12月23日)に掲載されたこの10句作品。
《酢漿草の葉が苦いぜよボブ》は句集『enjoy』においては《求人の誤植が寒いぜよボブ》に、《殲滅の凍土おつかさん部隊》は《極月のポスターおつかさん部隊》に換えられてはいるものの、《ボブ》やら《おつかさん部隊》という奇妙なモチーフは、すでに充分な時間の経過を生き延びて、作者の中にひつこく存在しているらしい。ついでにいえば《女医》も歴史が長そうだ。
(これらは一種マクガフィンといえるかもしれない。脈絡とは別に気になってしかたがない。作者は、これらに嗜好としてのこだわりがありそうだが、別物の代替は可能だ。)
だが、私が注目するのは、こうしたヘンな事物を前面に押し出した、一見してヘンな句よりもむしろ、「保守系」を名乗るに充分な、とてもりっぱな句のほうだ。
瀧蒼く氷爪の鷹放ちけり 上野葉月「オペレーション」
かっこいい。
《氷爪(ひょうそう》の語が文字どおり鋭利にこの句を屹立させて、すごくいい。と思う。だが、今回の句集『enjoy』からは洩れた。
おそらくだが、作者は、「保守系」の名に恥じぬ手堅い句群と、そして、そんことはぜんぜんない(すなわちおおいに恥ずべき)奇妙で怪物的、あるいは善良とは程遠く邪悪な句群を同居させたいのではなかろうか。一般市民を装いながら、奇行(いい意味です)を繰り返す。ちょっとした悪戯なのかもしれない。
でも、ぜんぜん装えていない。(俳句的)変態性を隠せていない。言い換えれば、保守系と破壊系は同居するものの、圧倒的に後者が目につく。
でもね。そのような、正気と邪気のアマルガム、正統と異端のキメラ、本流と外道の併走、本道と外連の混淆、規範と逸脱の往還的ダイナミズムといったことは、読者にとってそれほど重要ではない。批評のための腑分けであり、なんちゃって分析に過ぎない。
私は(悪い癖だとつくづく思うが)ヘンテコリンな俳句が好きです。どこかが壊れてしまったような句が大好物です(もちろん、そうじゃない、ちゃんとした句も好き)。
作者本人がどういうつもりで句をつくっているのかわからないが、手を替え品を替え、ヘンなことをしてくれるのは大歓迎だ。そのなかから、たまに「怪物的」と称賛しうるような句が出現するだろう。これからも、そこをエンジョイさせてもらう。
もうこのへんでいいだろう。さっきも言ったが、私までヘンな人と思われちゃいそうだ。
作者は、これらも御健吟を。じゃなかった、もっともっと不健全に、俳句に関わり続けてください。
俳句愛好家諸氏は、どうぞ、怖いもの見たさでもなんでもいいから、電子書籍のみでの頒布、500円と安価なこの句集、ちょっと覗いてみることをオススメします。きっと読者それぞれに、すばらしく奇妙な句が見つかります(と、ここは断崖を飛び降りるつもりで断言しておこう)。
本当の葉月はあなたの心に 上野葉月
怖いよ。
サイコホラーか。
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