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2026-03-15

わたしは俳句が上手にできない 宮﨑莉々香

わたしは俳句が上手にできない

宮﨑莉々香

(「オルガン42号 2025 summer」より転載)


わたしは俳句が上手にはできない、下手な方だと自分で思う。

中学二年生の秋に、文章を組み立てる能力が上がるかもしれないし俳句をやってみたら、と国語の先生に言われて俳句をはじめた。わたしが俳句と思いたいものは他のみんなとは違っているらしい、ということは高校生の頃からだった。阿部青鞋が三橋鷹女が好きだった。高柳重信の「読みつつ書く行為」が俳句を読みつつ書く支えだった。かつての俳句研究が愛読書だった。わたしが俳句と思いたいものは俳句甲子園という勝ち負けの世界には合わなかった。十年経って、二十九歳になった今も変わらないのかも。賞との相性は絶望的に良くない。俳句だと思いたいものと、みんなが俳句だと思うものは今でも違っているみたいに思う。

二十三歳の頃に俳句を読むのも書くのも出来なくなった。十四歳の頃から俳句が好きでその時わたしが俳句だと思いたいものを俳句として書いていたけれど、わたしが俳句と思いたい俳句の眼鏡で世界を見ているのではないか、という疑問が出てきた。世界を本当の意味で見ることが出来ていないのではないか、という疑問。俳句と思いたい眼鏡は俳句という共同体の眼鏡でもあったように思う。その花を見たらあの俳句が思い浮かぶ、その頭の働き方が煩わしくて仕方なかった。

少なくとも俳句が好きでガチで俳句を書いていた。句会も好きだったし、俳句に熱心だった。だけど、季語という世界を通すことで見えなくなっている美しさや文学ということから取りこぼされた、わたしが取りこぼしてきてしまった世界の何かが、世界の見方が、わたしが俳句では書けないとその時判断したなにかが、そこにはある気がした。俳句が好きだったからこそ見ないことに出来ていた世界の見方に気づいた時、俳句が読めなくなった。書けなくなった。この読みの共同体で発表することを辞めたくなった。絶望した。

あの時から、わたしが俳句だと思いたいものは、俳句ではなくなってしまった。オルガンも円錐も退会し、東京に持ってきていたダンボール数箱分の俳句の本は全て大塚凱に渡した。大塚くんは莉々香が帰ってくるまで預かっておくよと言っていたが、そんな日は来るのかなと思った。

読めないし書けないし、作品は発表しないことに決めていたけれど、わたしの中に残った俳句の残り滓がわたしに俳句を書かせた。時々送られてくる円錐やオルガンを開いてみたりもした。なんだか少しその残り滓に書かされた俳句を発表したい気持ちになって、ウラハイに発表した。

そんな時、オルガンで吟行するから良かったらおいでよ、とオルガンのみんなに吟行に誘われて行くことにした。立川の飲み屋で鴇田さんにオルガンに戻っておいでよ、と言われて発表する場に戻る気持ちがはじめて芽生えた。

澤好摩さん、わたしは澤さんと呼んでいた、莉々香さんと呼ばれていた。澤さんと大学四年生の春に一緒に九州に二人で旅行に行った。飛行機が嫌いだと言う澤さんに連れられて新幹線で。行きの新幹線の中で、食べてみるかい、うまいんだよ、とか言われながら柿の葉寿司を分け合って食べた。新幹線の中で二人で句会をした。澤さんは写真を撮って現像したものをわたしに送ってくれた。鰭酒の美味しさを教えてくれた。

オルガンに復帰しますと手紙を送った時も、俳句を離れることはないと思っていました、と葉書を送ってくれた。それから三ヶ月くらいした七夕の日、澤さんが亡くなったという知らせが届いた。

今でも俳句になのか、俳句の集団になのか、絶望しながら俳句を続けている。けれどあの頃と違うのは、絶望しながら俳句を書いている、読んでいる、続けているという点かもしれない。

大塚くんからは俳句の本が大量に返送されてきて、空き部屋の押し入れはぎゅうぎゅうになった。澤さんは亡くなってしまったけれど、わたしの中には声が残っている気がする。

日常に疲れた時に自然を見て心が洗われる瞬間を俳句にするのではなく、ありのままの生活を、ありのままに見た世界を書き残したい。だけど、意味としての俳句や日記としてでなく、書き言葉としてだ。声・パロールの世界を出来事の俳句としての言葉(喃語俳句)で書き残していきたいと思う。それらをわたしは俳句と思いたい。八割の俳句とされるものには嫌な気持ちを覚えながら、二割のこれも俳句なのかと思える切実さのために書き続けていたい。そうとしか言いようがない出来事を、そうとしか言いようがない言葉で書き続け、読み続けていたいのだ。だからこそ、わたしの俳句は下手なのだ。

2018-08-19

2017落選展を読む 12. 「宮﨑莉々香 うそぶく」 上田信治

2017落選展を読む 
12.「宮﨑莉々香 うそぶく」

上田信治

宮﨑莉々香 「うそぶく」 ≫読む 

この人が「円錐」「オルガン」に書くものと手応えがだいぶちがって、読めば書かれているとおり、そのままの意味で頭に入ってくる。

散文のような、日常言語に通じる構文意識で書かれているようだ。とすれば、それが、どこで俳句になるか、が勝負になってくるのだけれど。なかなかむずかしい。

昼は春みんなで銀杏をわける
球根をならべもどれないんだよもう
ささやかにつつじを捨ててあるきだす


十七音を、カットアップされた映像の断片のように使って、言葉足らずを逆手にとっている。字数が足りなくなりがちな口語俳句では、ときどき試される方法だ。

TVドラマのアヴァンのような、断片的カット。動詞の時制はひたすら現在形終始。その前後で、何が起こっているかは分からない。本編の全体を作らなくてよいのだから、なんでも好きに書けるようだけれど、じゃあ、たとえば少女漫画の1コマだけ描いて、それを成立させられるかといえば、それは、ずいぶんむずかしいわけで。

どうだろう、これ。俳句としての構造を獲得している句は、あるだろうか。

ノートとるほんとつまらないね虹たち
手をつなぎむなしくなつてゐる白鳥
パンジーを見るもごもごとしてしまふ


きっと、これは「高校生やつし」の50句なのだろう。タイトルも「うそ・ぶく」だし。

「虹たち」の「たち」は、ちょっと面白い。

正月が来てなんとなく食べる海苔
機械からうごかなくなつてつちふる


さいごのほうで、すこし面白くなってみたりしている。

くたびれて夏野を最高に行かう 

これなんかは、ちょっとよかった。

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2017角川俳句賞「落選展」

2017-11-05

2017角川俳句賞「落選展」第3室

■2017角川俳句賞「落選展」第3室■

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11. ハードエッジ 豚カツ














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12. 宮﨑莉々香 うそぶく













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13. 柳元佑太 教科書のをはり (*)













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14. 薮内小鈴 東都














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2017角川俳句賞「落選展」第3室 テキスト

■2017角川俳句賞「落選展」第3室■

テキスト

11. ハードエッジ 豚カツ

大いなるシーツが飛んで花吹雪
花ふぶき張子の虎も吠ゆるかな
鬼さんもこちらへござれ花の宴
一族は亀鳴く村に住むと云ふ
かりそめの蜜にふくるる蜂の腹
ぴちやぴちやと水の音して恋の猫
噛み抱くは子猫の時のタオルなり
砂浜のこれより岩場松の芯
薄紅の唇硬し桜鯛
子鯨も乳呑むころか朧月
行く春を乗せたる象の歩みかな
花だけで終ることなく花は葉に
瀬戸内の駘蕩たるも花蜜柑
半玉のキャベツ売らるる仰向に
買ふべしや黴除の護符なるものを
客布団黴を寄せじと絢爛に
十薬に白鷺城の見ゆるかな
強きもの力あるもの雲の峰
待ちかねし快音バット缶ビール
日焼子の鼻の頭の仔細かな
金魚玉割れんばかりに赤子泣く
美しき黒の剥落揚羽蝶
ビニールも儚かりしが蛇の衣
水音の縞の浴衣でありにけり
打ち捨てて次なる町へ夕立行
蝉燃えて黒くなりたる原爆忌
寂しさに音ありとせば遠花火
白狐もとより踊上手なり
青虫の腸青き機嫌かな
さらはれて菊人形の傍らに
遠浅の刈田ありけり日が沈む
ひとつ買ひその他の虫は聞き捨てに
南瓜煮て一晩寝かす手紙かな
流星や古墳に神の剣あり
朝々に木の葉が舞へば雀らも
包まれてコロッケ熱し初時雨
木枯に金鈴を買ふ銀座かな
干布団枯野の見ゆる丘の上
ぼろ市のこれは波斯の市場より
懐しき善男善女日記買ふ
聖しこの夜の厨の煮凝よ
水族館に海の一族注連飾
女の神も乗せて目出度し宝船
この山に氷の瀧の幾柱
ゆるやかに階段状の雪として
硝子戸の外に置かれて雪兎
水仙を切つてぽたぽたしてゐたる
水仙を生けて古りゆくものばかり
老先生大学を去る桃の花
豚カツを母が作るよ春休


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12. 宮﨑莉々香 うそぶく

飴なめる舌のびのびと花ぐもり
昼は春みんなで銀杏をわける
球根をならべもどれないんだよもう
文学が都市とは別にあるつばめ
どこでもないわかめのながれつくひなた
やさしさが僕をはなれて芹に水
ささやかにつつじを捨ててあるきだす
ノートとるほんとつまらないね虹たち
感情を消してはちすのむれになじむ
はないばらあとがきを書き終へひとり
グラジオラスふちどる雨が幕のやう
夏つばめ文字が全員をあやつる
雲のみね電車でめくるめくページ
飛び込んで足にじいろになつてゐる
まつりまちなみその後をもどかしくうそぶく
ほうせん花鯉をみつめてゐてしやがむ  
なぜだらう朝顔にゆるむくちもと
狂ひつつ口がすいかをたひらげる
つくつくぼーしいつものコーヒーをたのむ
コスモスばたけみんながねぢまきでうごく
九月きつとこれはだれかのための夜景
霧ふかいところ真顔になる紳士
無意識の銀河が声なんだすべて
こほろぎをつかんで匂ふ普通の手
秋のゆうやけかばんから出すボルヘス
或る林檎どこか演劇めく窓辺
くつわむしはりがねじぶんからまがる
消しゴムで消したくらいに白い月
怪我をしてなにもがみにくくてささなき
寒林をいつかの書庫としてあゆむ
たき火してゐる息をしてゐるすばらしさ
なにもかも記してもとのすがたしぐれる
手をつなぎむなしくなつてゐる白鳥
ポインセチア地面に鳴らす傘の先
ハサミてざはりのつめたい花を出す
正月が来てなんとなく食べる海苔
歌留多のなかに日の丸と部屋がある
はるの青ぞら少しだけ生きながらへる
機械からうごかなくなつてつちふる
パンジーを見るもごもごとしてしまふ
あ、風船。アパートの平坦な壁
立ちどまるなかをさくらがふつてゆく
暗やみがくくたちのすべてのひとひ
なのはなにほほゑみはあるけれどない
楡の花実家の子ども部屋のくらさ
麦の秋鳴るだけのピストルを撃つ
虹を見てゐて片方の手で振り合ふ
かたつむり家族ふるびていくところ
くるぶしほうたるわかりあへないとつぶやく
くたびれて夏野を最高に行かう
 

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13. 柳元佑太 教科書のをはり (*)

教科書のおもての照りや春疾風
たはぶれの詩句が遺稿の余寒あり
薄氷のうへの冷たきにはたづみ
苗札やその陰に芽をかかやかし
うららかや贋作のあをうつくしく
化けさうな猫に子猫のありにけり
春の夜の字幕の愛のつたなけれ
バベル以後塔のかなしさつばくらめ
さはれずの墓たちのぼる紫雲英田は
函館に花前線がぶつかりぬ
その人の喪が白藤のをはりどき
見えてゐる藤のかをりを云ふべしや
翻訳を経て名文やおじぎ草
はつなつや布を帆と呼ぶこころあり
影為すにものとひかりぞ夏雲雀
陽炎とおもふあたりの揺らぎやう
チョコ溝のチョコ片を吹く涼しさよ
夜明まだ夜のごとくあり柿青く
サルビアや絵は船旅を経て額に
なみおとになみたはぶれてなつのくれ
夏たけなは丘全景に墓の照り
舐めて酸き己がくちびる炎天下
夏痩を灯なき蝋燭にもおもへ
さるすべり佳き平仮名にぐりとぐら
けふよりの旅靴に竹落葉かな
柚子の花骨壺に骨ひとりぶん
たなごころいちめん早稲となりてゐし
うす布に月を磨けば淋しからむ
その裏にみづうみ澄めり盲学校
かりそめの黄泉かとおもふ苅田かな
まなうらの大いなる稲刈られざる
濡れ椅子拭く濡れ雑巾や運動会
気化それに伴ふ冷えの苅田道
たふたしや月の入江に月の波
さはらずの琴ありにけり秋出水
蔵書庫におほきな柱秋深む
その人をかたどるに菊つめたかり
湯捨てれば曇る鏡に冬たちぬ
その前に雪だるまあり百貨店
終に火の崩すは焚火自身かな
寒き世の挿絵をつぎつぎとカリブー
かの寺へ雪目童子を負うてゆく
なはとびの淋しき人となりにけり
凍星なつかし利器灯し確かめよ時刻
一月の日は凍てながら落ちにけり
しかうして田はいつも雪ふるところ
月光の中に浮かびし冬の月
かつて軍都ビルのあはひを雪とべる
冬の夜の小指の纏ふうすあかり
教科書のをはりの雪の詩なりけり


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14. 薮内小鈴 東都

呉爾羅へと巻く朝顔が窓のそと
台風の橋桁あまた翼寄す
つくつくし淡き声する旅人も
祭帯締め合ひけふの秋薊
見覚えし路また鰯雲へ向き
おもかげの島は葦原鯊を釣る
青蜜柑ゆふべの卓に汐微か
キーボード閉ぢ芋虫の如く指
磨硝子ごしに瓢箪濡れ初むる
入口と出口の猫や秋の径
鉄骨を組めばゆらりと芒原
天の川珈琲売の去りしあと
きはやかにお釜語飛びぬ秋時雨
蒲団干すラーマ九世逝去して
神留守のふと思ひたる狐穴
色の羽根なけれど亀に落葉かな
冬川やむかうに塔の影とどき
指先をつまみ手袋拾ひけり
羽ばたける井の頭なり檻の鷲
富士山の先に日の入る冬至かな
骨董屋カトレアは星雲めきぬ
揚げたての白子が震へ寒の入
北風や金柑夜へくすみゆく
髪に髭に日の透けてゐる枯木立
湾口の深き谷ぞこ鮫古び
鳩ぴしと散らしたる店浅き春
そのままに春菊ぱらり滴落つ
仕立屋の足踏ミシン梅の花
日光より猿来りけり春の土
遠霞揺れる電車のまつすぐに
つちふるも夢を過ぎつつ鸛
お彼岸や渋滞解けて花の夕
影浴びるほどは仰がず桜かな
崖縁の巣箱や下に記念館
次次と石鹸玉いで静けさよ
看板の青みたる路地水草生ふ
海渡り橋はもぐりぬ月朧
若楓みじかき裾の集ひては
噛みがちのラップを越えて水馬
茂りゆく端に自転車籠の触れ
夏燕もう魚市場灯るらむ
音涼し下水落ちゐる富士見坂
あぢさゐを辿り天井桟敷かな
梅雨菌長耳ありし犬とほく
渦よつつ冷し中華の文字へ振り
南風に貝殻そへて鉢数多
羽田から入る密林西日さす
祭への潮きこゆや獅子頭
月見草カリー屋今は伽藍堂と
一客の湯呑置かるる雲の峰


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(*)一次予選通過作品

2017-05-07

【週俳3月の俳句を読む】宮﨑莉々香 音とことばの印象から

【週俳3月の俳句を読む】
音とことばの印象から

宮﨑莉々香


俳句は切れだと思い実作しているので、音の点から俳句を考えている事が多い。以前このコーナーで書かせていただいた際は「ことばの印象」から作品を辿っていったが、今回は音とことばの印象の二点から観察していきたい。

天窓の落葉溜りや駅舎に日  榮 猿丸

榮猿丸の句には五七五を飛び越えようとする音の自由さがある。その点に私は興味を持っている。例えばこの「日」のあり方は日が駅舎に差し込んでいることを表しており、やや強調して「エキシャニヒ」と読みたい。「日」の音としての在り方は「や」で切ることにより発生するのではないかと考察する。福田若之の〈伝説のロックンロール! カンナの、黄!〉の〈黄!〉の部分のように読みたい。

うぐひすもちの粉あをし粘着ローラーに  同

〈粘着ローラー〉に〈鶯餅の粉〉が〈青くくっついている〉の語順にするならば、「粘着ローラうぐひすもちの粉あをく」のようになるのだろうが、のびのびと型を崩して言い切っている点に興味を持った。この俳句を声に出してみた際、音数で分けるならば「うぐひす餅の/粉あをし粘着/ローラーに」となる。この時の中七は「粉あをしネンチャク」のように「粘着」の部分を短く読む。「粘着」ということばが、「粉あをし」以前にちょこんと、くっついているように在る点に面白さがある。

けさらんぱさらん黒くない外套を着て  佐藤智子

確かに「けせらんぱさらん」という物体はあるのだが、ここでは「けせらんぱさらん」という音の響きに注目したい。乱暴な読みかもしれないが、「けせらんぱさらん」を意味のない呪文のように捉えると、黒くない外套って一体どんなんだろう、と楽しくなってくる。この作者には他にも〈春浅しぽとぽととクリームパスタ〉のような句があり、オノマトペに特徴が見られる。

かまぼこに山葵すわりのわるい昼  同

「かまぼこに山葵」で一度切れるのかと思いきや「山葵すわりのわるい」と、かまぼこの上の山葵がぐらつくことを続いて言っている点になるほどと思う。ここでは山葵が「かまぼこに」と「すわりのわるい」の重なり合う部分として在る。

晩春の唾液を溜めるかたつむり  丑丸敬史

この句でのかたつむりの在り方を考えてみると、かたつむりの字面はまるまるとしており、「かたつむり」の部分だけが「在る」ような印象を覚える。字面の印象は前部での「唾液を溜める」と裏側でつながってき、いかにも駐屯しているようにも感じられる。

春光や姪の娘の束ね髪  伴場とく子

少しだけ十句作品の全体像に触れる。まず、この作品群は動詞で終わる俳句のかたちが多いのだなぁと思いながら読んだ。その中でも唯一体言止めであり、名詞の力が強い俳句をここに挙げた。姪の娘という点に屈折があり面白く、春光と束ね髪の組み合わせからは、いきいきとした娘の姿が浮かぶ。

駄菓子屋の前のとまれに春の雪  木田智美

道路の地面に見かける白い文字で書かれた「とまれ」のことと取り、その白い「とまれ」にぽつぽつと春先に雪が降っているという句。駄菓子屋の前の「とまれ」なのだと敢えて場所も指定し、その上で白い線に向かって雪が降っているのだという細かさがばかばかしくていい。例えば同作者の〈シーソーは錆びた水色ぎいばたん〉や〈ふとん屋の看板猫の名はさくら〉と挙句が異なるのは単なる報告に終わっていない点だろう。作者のそのような俳句がもっとみたい。


第515号 2017年3月5日
■榮 猿丸 奪ひ愛、冬 10句 ≫読む
■佐藤智子 けさらんぱさらん 10句 ≫読む

■丑丸敬史 ふるさとに置き忘れたる春に寄す歌 10句 ≫読む

■伴場とく子 束ね髪 10句 ≫読む

■木田智美 ウォーターゲーム 10句 ≫読む

2016-10-30

逆説的に考える 宮﨑莉々香

逆説的に考える

宮﨑莉々香 



〈はじめに〉 


「特に指定はしないので、私の5句をあげてください」と言われたが、何について書けばいいのか到底わからず、しばらく頭を抱えることとなった。「気になる俳句」と言われても、そこには少なくとも私の主観が入ってしまう。その点がどうも引っ掛かった。しばらく考えて、広島大学の樫本由貴に「あなたがどのような俳句をいいと思っているのかわからないから、それをどこかに書くべきだ」と言われたことを思い出した。「何をもっていいと思っているのか」を完全に論理立てて述べることのできる自信など到底ないが、私が今、どのような観点から俳句を見ているのか、何に興味を持っているかなど、書きながら整理できたらと思う。


はじめに、私が俳句を見る根底にあるのは、俳句から伝わるそれ自体の魅力と、その俳句を形成する言葉の組み合わせや、言葉同士による音の響き合いによる魅力のふたつである。一方はそこに書かれている作品「もの」でありながら、一方はそれを形成している言葉「こと」であるからである。

その中でも今の興味の対象にあるのは、言葉の逆説の範囲を広げることである。具体的には、普通は「あるもの」に対して修飾せず、異なるものを修飾するその言葉をあえて、その「あるもの」に対して使うことや、その「あるもの」の性質を他の言葉の効果により広げること、ある事柄を書き、その事柄とは反対のことを思わせることである。簡単に言うと、普通はNGだと言われている言葉の組み合わせを違和感のないように見せることに挑戦しているものを指す。例えば、高屋窓秋の〈頭の中で白い夏野となつてゐる〉の「白い夏野」のような言葉の組み合わせ方。本当は、夏野に対して「白い」などという修飾はしないが、「頭の中」という状況を付加することにより、普通はあり得ない言葉の組み合わせが景として立ち上がる。

もう一点気になっていることは、例えば、「流れる」という言葉は「星が流れる」や「水を流す」など、ものを動かしたり、もの自体が動くことに対して使う。そのものが、つまり「〜が流れる」と言わずに、「〜(もの)が、〜(どうして)、目を流れる」というように敢えて一歩踏みとどまらせる書き方による「何がどうした」だけではない、「何がどうした+α」を見せる効果である。

以上のような言葉的組み合わせの面白さを書くことを満たしながら、しっかりとその事物が見える俳句になっていることを見つめたい。確かに言葉には、ひとつの今ある使われ方や在り方があるかもれないが、その在り方は私たちと社会の在り方によって、変化していくものであり、その言葉の持つ意味や、組み合わされる言葉同士の表現の範囲も広がっていくものであると考えている。文法の大切さや言葉の本意を守ることも身にしみて感じているのだが、一方でそれらを理解し、少しずつ例外を認める必要性も感じている。



〈私の5句〉

以上に述べた事柄により、私が俳句を見ているという前提を認めた上で、5つの俳句を挙げたい。5句はそれぞれ異なる観点からアプローチし、読み進めることを前提として選んだ。

①ひとつの作品として気になる俳句(名詞だけに徹底して書き、事物を浮かび上がらせる技)

ある作家が気になることと、作家のある作品が気になることは同じではないと考えている。ある作家が気になることは、「素敵な作品を書くその人らしさが気になる」ということで、その人らしさを探るために私たちは句集を読む。反対に、作家のある作品が気になるというのは、その人の作品をいくつか読んだ上で、「いつもとは違う、この人のこういう部分もいいなぁ」としみじみすることだと思う。 

はじめてのみちのほそみち犬ふぐり 鷹羽狩行 (『六花』1981年) 

「はじめての」と来ると、その後に続く言葉は何なのか、何がはじめてに当たるのかと思いながら読み進める。なるほど、私が歩いているのは、はじめての道なのか。この後、はじめての道にある「もの」もしくは、その場所で起こった、そこでその人のこころが受け取った「こと」を想像するが、そのような書き方は成されず、その道は「ほそみち」であるのだという、道自身の記述が続く。ふと、犬ふぐりが目に入る。ここまで歩いてきたけれど、派手な大きなものが待ち構えている訳でもなく、さりげない緑が風に揺られている。

名詞だけで書く時、私たちは十分に考えなければならない。なぜなら、その「もの」がそこにあるだけの「もの」として働いてしまう可能性があるからである。この句からは動詞を使わずに、とぼとぼと歩いて来る人の姿を想像することが可能である。「はじめてのみちのほそみち」のフレーズの平仮名はどれも曲線的で、述べ方もぐねぐね道を来ているような印象がある。名詞だけに徹底して、事物を動かす技術が巧である。

②川柳的な俳句

最近、名詞だけで作った俳句の中に、どこか川柳的なオチの可笑しみを感じる句を見かける機会が多いような気がしている。いつも使う言葉で書かれた、俗的生活に根ざした俳句は確かに嘘がないが、一方でその俗性にオチを感じてしまうことがある。「9月の俳句を読む」で取り上げた〈寿司出前専門店やスクータ据ゑ  小澤實〉は、「スクータ据ゑ」によりそこに置かれているスクータの様子が浮かび上がってくる印象を受ける反面で、寿司出前専門店に笑わされ、その笑いが「スクータ据ゑ」に引き継がれている印象も受ける。俗語による笑いが次の言葉へと引き継がれていると考えると、ここでの「スクータ据ゑ」はどこかオチ的にも感じてしまう部分が少なからずあるだろう。

同様に、〈「何が好き?」「ボクはやつぱり鮭の皮」 川又憲次郎〉の嘘のないそのままさが好きな反面、鮭の皮の落とし方には、オチ的な笑いが含まれるような気がしてならない。 

日に焼けし手首に輪ゴムそんな主婦 京極杞陽(『但馬住』1961年) 

俳句におけるどこか川柳的というのはいつからだろうと思い、ホトトギス同人であった京極杞陽に注目した。フフッと笑ってしまうような句は〈エレガントプリテイ薔薇はみな褪せし〉や〈木の葉髪あはれゲーリークーパーも〉〈今のめがねの前のめがねの秋の旅〉など特徴的に見られるのだが、掲句は「そんな主婦」のまとめ方がどうにも引っ掛かる。日に焼けた手首に輪ゴムをしているという、手だけに注目してく。「そんな主婦」により、その手が誰のものであるかがわかる。「そんな主婦」の「そんな」はあまりにもぼんやりとしていて、「そんな」を想像することは読者の想像に任されるのだが、そんな主婦は、奥様ではない主婦なのか、はたまた奥様でないようなこと(日焼けの手首に輪ゴムをしていること)をしている奥様なのか。「そんな主婦」に対する想像を繰り返すうちに、フフッと可笑しみがこみ上げてくるような。何が、川柳的にさせているのか、微妙な三段切れがそうさせるのだろうか。

京極杞陽の「そんな主婦」は、どこかその人が普段日常会話に使う言葉の一部であるだろう。普段の言葉遣いをそのまま書く、もしくは、目にした俗物を書くことにはそれがリアルであるという反面、ある一種類の笑いに落ち着いてしまうことが言えるだろう。

③上手な脚本のような俳句

上手な脚本は伝えたいメッセージと物語自体の構造が異なり、お話の中で、じんわりとそのメッセージを受け取ることができるものである。私の言うきゅうっとなる俳句は上手な脚本に似ているのではないかと考えている。読み下した時に、胸のどこかが、きゅうっとなる俳句。そのきゅうっ、は単に「せつない」や「さびしい」という言葉を使わなくとも伝わってくる。物語的刹那を「どういう気持だ」と直接的に言わずして伝える手法である。直接的に言わずしてものを使って滲み出すというのは俳句においては当たり前だとされるかもしれないが、以下の俳句を見てみたい。 

舞ふ雪や声掛けたくて相手なし 草間時彦 (『俳句研究』昭和52年3月号) 

『俳句研究』15句作品「くらがり」より。この句においては、何よりも「舞ふ雪や」が巧妙だろう。「雪舞つて」ではどこか理屈的になってしまう。雪の光景の中で誰かに声を掛けるシュチュエーションを感じながら、「アッ」と、声を掛けられずにいる私の姿、「相手なし」は、ぽつんとある、雪だるまのようにも見えてくる。雪の様子を描いただけではきゅうっ、とはならない。「声掛けたくて相手なし」によって描かれる一種の脚本的情景との組み合わせにより、効果が生じるのだが、ドラマ的光景におさまらない掲句のような、俳句の中の物語の在り方があるように考えている。

④ひとりの作家としての俳句

①で、俳句作品ひとつに絞って見るという観点からアプローチを行ったが、作家としての観点から作品を見たい。 

ひまはりかわれかひまはりかわれか灼く 三橋鷹女 (『羊歯地獄』1961年) 

三橋鷹女が好きな理由のひとつに、第一句集の印象が強い作家は多いが、彼女はそうではないということがある。第一句集『向日葵』には、〈夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり〉や〈みんな夢雪割草が咲いたのね〉など新鮮なものが並ぶが、晩年は自身の老いを見つめた〈白露や死んでゆく日も帯締めて〉等の俳句を書きながらも、作家としての変化を恐れず、ひとりの書き手としての在り方を貫いている。衰えることのない私性に確かなものを感じる。たしかにどの作家からも、その人の晩年の在り方や生き方がわかるのではないかと言われるかもしれないが、その人の名句と呼ばれるものが、その人らしさを保ちながらも、その人の名句としてのレベルを更新していくことはとても難しいことである。そのような自己更新の在り方を目指しながら書きたいと鷹女を読んでいると、身につまされる。

この句は言葉遊びのように「ひまはりかわれかひまはりかわれか」としどろもどろな述べ方をして、最後に「灼く」につながる。「向日葵とわたし、どっちが灼かれるのか、どっちだ、どっちだ」と展開を追う。「ひまはりかわれかひまはりかわれか」からは、向日葵の花が自分の顔と代わる代わるに浮かぶような印象も与える。ここでの「灼く」は向日葵よりも、私よりも、強いものとしてある。「灼く」の一点を目指して進む作りになっていながらも、「灼く」は独立する不思議を兼ね備えている。

⑤思い出を書き残すこと(思い出の俳句)

以下に挙げる俳句は少しだけ蛇足だと思われるかもしれない。しかし、その人の在り方を語ることが、ある句を読み返した時に少しだけ、違った見え方をすることがあるのではないだろうか。

私たちは一つのテクストとして俳句を読み進めるが、文章を読む時には、テクストの読みの掲示と同時にその俳句に関する語りを期待しているところがある。例えば、田中裕明の〈空へゆく階段のなし稲の花〉は白血病闘病の語りを付与することで、よりその句が心にしみわたっていくのではないだろうか。「人の思い出を聞かされても」と思うかもしれないが、その思い出を語ることは、時に、その人の俳句に寄り添うための鍵となるかもしれない。 

林が疎まつすぐ行けば水芭蕉  堀下翔(角川俳句賞応募作品より 2015年) 

堀下翔に、大学の近くの植物園でよく俳句を作っているからぜひ来てほしいと言われ、皆で足を運んだ。その時にはじめて、林を抜けた明るみにある、この水芭蕉の景色からこの句が生まれたのかと思った。

私が俳句をはじめた時には、もう既に亡くなられていた方が沢山おり、私がその人を知る手掛かりは残されているテクスト(俳句)しかない。そのテクストによってその人はどのようなことが書きたかったのかを推定することは出来るし、その方法が真摯であるようにも思う。しかし、一方でその人を知っている人から、昔話を聞くと、私と重なり合うことはなかったその人のことを少しだけ近くに感じられる。これまでは、書いたものに作家としての在り方が象徴されているような気がしていたが、その人物が時代の流れの中でどのような俳句的立ち振舞や行動をしたのかということも作家としての在り方に含まれる気がしている。


〈おわりに〉

以上の5句をそれぞれ異なる点から挙げながら、思うところを述べた。書き進めるうちに、「面白い」と思われている裏側には少し問題があることもあり、同じように、誰かが「つまらない」と思っていることには、違う人の「面白い」が含まれることもある、そのような逆説がそれぞれに含まれていると考える。私たちは、それが本当であるのかを懐疑することにより、物事を考えはじめるが、一様に考えた上で、異なる可能性を探ることが今必要とされていることではないだろうか。

2016-10-09

【週俳9月の俳句を読む】宮﨑莉々香 ことばの印象から

【週俳9月の俳句を読む】
ことばの印象から

宮﨑莉々香


はじめに。澤、街の両結社の作家と言われると、唐突な名詞や、それを補う動詞のことばの組み合わせによる面白さの印象が私の中にあったのだが、以下に挙げるものの中には、修飾のことばによって句の印象を変化させる句が見られ、とても刺激を受けた。以下、ことばの持つ印象から物語を辿っていきたい。

羊刈る羊の顎を股挟み        池田瑠那
羊刈る仕上げの鋏しやりと鳴る   同

「羊刈る」からはじまり、動詞で終わるという構造が類似した2句であるが、まったく異なる味わいを持つのが魅力である。何をどうすると言っておいて、その「何」について細かく述べる(ここでは羊を述べておいて、羊のどこを刈るかを述べている)構造は確かにあるかもしれないが、「羊の顎を股挟み」と言い切る露骨さがいい。一方で、羊を刈り終えた時の鋏へと意識を飛ばした一句。ふわふわした羊がだんだん痩せて、刈る毛が少なくなる一方で、鋏の音は爽やかに鳴る。前者の俳句から〈バリカン当てられ羊前肢に宙を蹴る〉を挟み、後者の俳句へと続く。この過程には、「股挟み(マタ・ハサミ)」から「鋏(ハサミ)」へとつながる茶目っ気も見られる。7句の中でこの2句が存在する、ひとつの作品としての面白さも兼ね備えている。

暴風雨の真中が楽し新豆腐  茸地 寒

台風の目の中は晴れている、そんな様子を思う。「暴風雨の」と少し重々しい雰囲気のまま読み進めていくと、「楽し」に突き当たる。最後に「新豆腐」。このように、三段に分けた時、それぞれのことばの持つ印象が全く異なることに注目したい。しかし、不思議なことに、バラバラな印象を持つことば同士であるが、それぞれが響き合っている。唐突な「楽し」に、私たちは少し共感し、最後に登場する「新豆腐」には少しツッコミたくなる。新豆腐は新しい大豆で作った豆腐で、味わいにも豆の印象が強い。どこか落ち着いた雰囲気の中に存在し、詠まれることが多いが、新豆腐も暴風雨の(真中だが)中で詠まれるとは思わなかっただろう。

歯を磨くシャワーバシバシ胸に浴び     川又憲次郎
「何が好き?」「ボクはやつぱり鮭の皮」  同

1句目。面倒くさがりなのだろうか、歯を磨きながらシャワーを浴びている景。ここでは、「バシバシ」の効果に注目したい。例えば「今日はシャワーをバシバシ浴びてきた」と言っても少しオヤジくさいが、それでも伝わるほど、「バシバシ」という形容は私たちにとって身近であるだろう。それはきっと、「お日様がさんさん輝く」の「さんさん」と同じ程ではないだろうか。

この句では「歯を磨く」もあいまって、日常生活をそのままのことばで表現する徹底した姿勢があらわれている。余談ではあるが、「街」121号の中には、〈キッコンキッコンキッコンとバス停まる炎天  茸地寒〉という句がある。この句もまた、いつものことばで日常のある光景を表現した句であるだろう。いつも使うことばで書こうとする意識はリアルで嘘がない。

2句目も同様。いかにもありそうな会話を書き直す意識。この句での「やつぱり」の使い方は自然でありながら、ひと息を置くフックになっている。「何が好き?」と聞かれて、別のものを考える一瞬があった後に鮭の皮が好きなのだと言う。色々考えたけど、が含まれる「やつぱり」は、その人が、鮭が好きなことを、ほんとうであることにしている。「ボク」の表記まで徹底されているのもいい。

白コスモス圧し折る天が発情す
  奉鈴絵

コスモスは茎も細いので、小さく可愛らしい花として見られ、また、それを取り囲むのどかな風景が詠まれることが多いが、コスモスの景を表現の力で野太いように見せているところがこの句の面白さである。白コスモスを圧し折ると、空の様子が変わったことを発情と捉えているのだろうか。「〜して、〜になった」の2つの組み合わせに異なるものを配合することで、詩をちらつかせる句は目にすることがあるかもしれないが、ここでは「〜になった」に「発情す」という、スパイスを加えている。しかしながら、この「発情す」は唐突でありながらも、「圧し折る」との関係に、力強さとや人間らしさという共通点を持った中で、成立している。白コスモスの「白」は圧し折られる運命にありながらも、ただそこに凛と佇む印象を与える。

浜辺に吹くトランペットや曼珠沙華  嶋田恵一

最後の、曼珠沙華の裏切りに惹かれる句である。浜辺で、私はトランペットを吹いている。曼珠沙華の赤い色が海の色、浜辺の砂の色とも合いまり、色彩的にも美しい。


敬老日波をイメージしたダンス 竹内宗一郎

敬老日の効果により、「波をイメージしたダンス」はある方向に動き出す。子どものお遊戯会にもありそうな光景であるが、ここでは敬老日。腕がゆっくりと動いている様子が浮かぶ。あることばにより、後のことばのイメージが動き出す句はどこか不思議な印象を受ける。諧謔の込められた句である。

笑はない家族九月の砂の上  今井聖
永遠に下る九月の明るい坂   同

それぞれ一箇所ずつ精神的屈折がみられる。1句目は「笑はない」で、2句目は「永遠に」だろう。家族で砂の上で遊んでいるのか、写真を取られているのか、いずれにしても一緒にいることに変わりはないのだが、彼らは確かに笑っていない。彼らは幸せなのだろうか、笑うことがなくても、一緒にいるとそれは家族と言えるのだろうか。私たちが普通だと思っていることを覆しにくるシニカルさに、どきっとした。

2句目。そこにいる私存在を強く感じさせる句である。なぜ「私」を強く感じるかと言うと、私たちがこの句を読む時には、「九月の坂を下る」以外の形容は作中の人物へと掛かるからである。永遠だと思っているのも、坂に明るさを見出しているのもそこにいる「私」なのである。私は、今、坂を下っていることを永遠と感じながら、また、永遠に下っていると感じてしまう坂が明るいと言っている。疲れ果てて、その果てに対象を美しく感じてしまうような、そこに書かれている、俳句にされていることば自体は「下る」以外はすべて明るいものであるはずなのに、それらを組み合わせた時に不気味な明るさが表出している。

寿司出前専門店やスクータ据ゑ  小澤實

あったままの光景を描いているのだが、その書かれ方に特徴がある。「寿司出前専門店や」と言われ、普通の寿司屋ではない店を思い浮かべようとする。しかし、「寿司出前専門店」と言われても、普通の寿司屋と外装等は同じなのではないかと私たちは立ち止まってしまう。そんな中で「スクータ据ゑ」によって、ここは寿司出前専門店なのであると確証を持てる訳である。

「据ゑ」の字余りの印象はそこにスクータがぽつんとある印象と重なる。書かれてあることばの順序が印象を引き出し、景と重なりあうことで、私たちに句を読み解く手がかりを与えてくれる。

「澤」
■池田瑠那 7句 ≫読む
■冬魚 7句 ≫読む
「街」
■金丸和代 7句 ≫読む
■茸地 寒 7句 ≫読む
「街」
■井上さち 7句 ≫読む
■玉田憲子 7句 ≫読む

「澤」
■岡本春水 7句 ≫読む
■川又憲次郎 7句 ≫読む

「澤」
■嶋田恵一 7句 ≫読む
■望月とし江 7句 ≫読む
「街」
■秦鈴絵 7句 ≫読む
■竹内宗一郎 7句 ≫読む
「街」■今井 聖 10句 ≫読む
「澤」■小澤 實 10句 ≫読む

2016-08-21

オルガンは書いている 宮﨑莉々香

オルガンは書いている

宮﨑莉々香


人はものごとを考える時、分類を行いながら、事がらを整理していく。分類すること自体はとても自然の行為である。だから、わたしは「石田郷子ライン」とか、「オルガン調」という言葉がインターネットの海を飛び回ることも、とても普通のことのように思っているし、そのような分類をすることが悪いことであるとも断言しない。しかし、括る見方にこだわりすぎて、ひとり、ひとり、のかけがえのなさが薄まっているのを見ると、それはなんだかちがうことのようにも思ってしまう。 

わたしにとってのオルガンとは、たしかな、ひとり、ひとりである。オルガンっぽい俳句が意味するものもわからなくはないし、お互いに影響をし合っている部分もそれはそれであるのだが、それでもひとり、ひとりだ。けれど、そのひとりひとりは俳句を「書く」という行為そのものから見たときに、オルガンというひとつとして見ることができるのではないかというのがわたしの思うところである。 

わたしは俳句を書くという意識のもとで俳句を書いているつもりである。オルガンの5人も俳句の形式に書かされている人たちではない。見方によっては、そもそもわたしたちは俳句形式によって書くことをあたえられているとも言えるかもしれないが、それは俳句がある一定の形式やルールを持っていることを指す。わたしが言いたい、俳句を「書く」行為とは、一種の作家意識によるものである。「書く」ことに、なにかしらの、あたらしさが付随しないと「書く」にならないということではない。わたしの言う俳句を「書く」姿勢とは、俳句形式に書かされることを危ぶんでいるかどうかである。 

オルガンのひとり、鴇田智哉は『鴇田智哉インタビュー季語・もの足りること・しらいし』(2016年6月26日「週刊俳句」)の中で、有季定型の眼鏡をはずして俳句を見るということを言っている。詳しくは記事を読んでいただきたいが、わたしの解釈では、季語が入っていない句を、有季定型眼鏡をはずして見た時に、「もの」がより一層「もの」化されると言いたいのではないかと感じた。わたしたちが「書く」ことには、ことばが必要で、そのことば自体は「こと」だが、書く対象(「もの」)をより「もの」化するためには、時折季語の持つ情感や本意という「もの」をとりまく事柄(「こと」)が余計になってしまう場合があるだろう。鴇田氏は同インタビューの中で「季語をネタにして、一句についてそれなりに鑑賞文ができあがってしまう。この「一丁上がり感」は嫌だなあと、私は思っています。」とも言っているのだが、季語によって書かされることを静かにこばむ姿勢がうかがえる。なにかを書く、ときに、なにを書くか、そしてどのように書くかを考えることは、ほんとうの意味での、ものを「書く」ことであるように思う。余談ではあるが、オルガン第1号の最初のページにある、オルガンのことばには「俳句を、するのではなく、俳句がするのだ。」ともあるから、俳句を書きながら、俳句が書いているのかもしれない。しかし、それは俳句に書かれている、では決してない。 

この文章の意味するところは、オルガンは俳句作家のあつまりであるということなのだが、うまく伝わっているだろうか。俳句に書かれてしまうことを危ぶんで書いている、ひとりひとりがいる。今、オルガン調という言葉が世の中を漂っているのなら、わたしは、オルガンの中の俳句作家ひとり、ひとり、を見てほしいと節に思う。 

4号の「ささやきの心に襖たっている」や、5号の「蜂の巣に太陽は減りつづけている」「菜の花はこのまま出来事になるよ」など、田島健一句における、名詞組み合わせマジックが今はとても気になっている。

2016-04-10

落選展2015を読む〔2〕 大塚凱×堀下翔

落選展2015を読む〔2〕

大塚凱×堀下翔




»承前

●杉原祐之「日乗」

大塚:
畦塗の準備のままの猫車
遠足の子の聖堂に静まれる
明らかに人手不足の神輿来る
リビングの隅の聖樹の消し忘れ
などに印をつけています。文体が優しい印象でした。それだけに、順当な句に感じられてしまう部分もあります。〈夕立の気配に露店畳みだす〉〈報知器の響き渡れる厄日かな〉〈廃校の窓に小鳥の来ては去り〉など、正直に言ってしまうと面白いとは思えなかった。類想や季語のイメージに接近しすぎているということだと思います。
でも、冒頭に掲げた4句のようなおおらかな捉え方が魅力です。良い句には裏切りがある。それぞれ「準備のまま」、「遠足が静まる」、「人手不足」、「消し忘れ」というところにハッとさせられます。

堀下:
遊船や屋根を開きて橋潜る
明らかに人手不足の神輿来る
天の川濃くなり冷えて来りけり
土管より頭を出せば秋高し
あたりを取っています。突飛なことを言おうとしないで、目に見えるものを大切に書いていこうとする志向が充実した50句だと思います。読んでいると名詞の多いことに気が付きました。名詞が多い、ということはともすれば手抜きである場合も多いと僕は思います。とりあえず言葉を繋いで、それから季語を取り合わせて、みたいな。でも杉原さんの場合は、名詞が描写のために尽くされている。〈遊船や屋根を開きて橋潜る〉を見ると分かりやすいんですが、これは「遊船」というものを写生するために「屋根」とか「橋」とかの名詞が費やされる。念入りな描写って個性が出るんです。用言的に把握するのか、体言的に把握するのか、付属語的に把握するのか。杉原さんの句は体言的な把握が文体としてしっかり確立されている。凱君は「順当」な句が多いという印象を持ったようですが、それもこのあたりから来ている筈です。目に見えるモノをひたすら挙げていく、というのが杉原さんの書き方ですから。〈空港の管理用地の薄かな〉とか、取ってませんけど、根性を感じます。

大塚:
結局は語りたい10作品のうちにこの作品を選びましたが、それはその確立した文体に惹かれたのだと思います。ただ、50句作品は、書き手がいかに読者を飽きさせないかという腕の見せ所でもありますよね。執拗な写生はそれはそれで惹かれるのですが、やっぱり50句となるとワンダーというか、ハッとさせられる前掲のような作品がもっとあると、よりドキドキします。堀下くんの「体言的」という指摘は頷けました。

後半に〈演習の土嚢の積まれ枯野原〉から〈キャタピラの轍の残り厚氷〉まで、急に戦争俳句みたいになっているのは意図があるのでしょうか。句の善し悪しは別として、そこまで続いてきた流れがぶっ飛んでしまって残念でした。

堀下:
戦争俳句というか、自衛隊のイベントか何かに行ったんじゃないですかね。展示を見ながら書いた一種の吟行句かなと思いました。一般論としては、全部の句ではなくて一部分が連作ふうになっているという纏め方は特段気になりません。とはいえこの句はたしかに流れが全然違ってきてしまっていますね。視点が変わっていますから。

大塚:
ここらへんの連作としての感覚は人それぞれでしょうか。一部分が連作になっているからダメだ、なんて横暴は考えていませんけれど、これは50句のテーマ性というか、ゆるやかに連鎖する作品性が結構ブレてしまったんじゃないかという気がしたのです。結局は程度問題かとは思いますが。



●折勝家鴨「塔」

大塚:
冬銀河子が減り子守唄が減り
寒柝の耳にイヤホンありにけり
風ひとをさびしくさせるパセリかな
日盛や鳩を散らして人を待つ
虫の夜や遅れて消ゆる車内灯
どこかシニカルな雰囲気の漂う作品でした。〈冬銀河子が減り子守唄が減り〉といった捉え方、〈日盛や鳩を散らして人を待つ〉といった心の動きに惹かれます。他にも、季語の配し方が面白いと思います。掲句では、「寒柝」「パセリ」でうまく裏切られた感じ。その一方で、上五が「○○○○や」の句が多いなと。そこらへんは単調に感じます。

堀下:
冬銀河子が減り子守唄が減り
臘梅や水を掃きたる竹箒
声出して心戻しぬ草の花
などが好きです。完成された取り合わせの句が並んでいて、これはいいなと思いました。「鷹」が培った型の強みを感じました。季語のつけ口で句のイメージがぽーんと変わってゆく面白さ。簡潔だけど緻密な12音を書く作業、そこに新しいイメージを関わらせてゆく作業、その根気の50句だと思います。

こういう書き方をする場合、意味の切り取り方に新しさが必要だと思いますが、たとえば
理科室の棚に鍵あり梅の花
空席に木の影ありし五月かな
少年の夏自転車を分解す
あたりの句はどうでしょう、この「理科室-鍵」「空席-木の影-五月」「少年-夏-分解」といった組み合わせから喚起されるイメージは、もう読者の方でも共有ずみではないかと思います。「少年-夏」という組み合わせが陳腐なのは言うまでもありませんが、そこに加わる「分解」というイメージもまた、実は今となっては「少年」に内包されてしまっている部分なのではないかなと。この種の平凡な展開をしている句がいくつか見られたのが気になりました。

大塚:
作者の意識としては、「理科室」に「梅の花」を取り合わせることに面白さを志向したのではないかと思います。二句目は「空席」、三句目は「分解」という言葉のワンポイントで勝負したかったのではないでしょうか。それがあまり意外性の方向へ弾んで行かなかった、と。だからといって大きなキズでもないですし。フレーズに季語をぶつけるという「型」は強みでもありますし、一方でみんな読みなれている方法論ですから、高い完成度でいかに固定化されたイメージを裏切りつつけるかという根気勝負になっていくと思います。

この方法論は文体の自由度がどうしても低くなりがちです。取り合わせにおける文体をいかに更新していくか、僕も耕していきたい余地だと考えています。

堀下:
そうなんです。文体の不自由さがネックなんです。助詞や助動詞でくふうしたり、あるいは律を崩したり、取り合わせ文体の更新はやっていかないといけない。一方でこの50句の場合は、そういう革新を目論んでいるのではなくて、すでに確立した型の中で完成度を高めていこうとしている。細部の強度が必要な書き方です。たしかに「梅の花」「空席」「分解」あたりの語には瞬発力が感じられもするのですが、それ以外の部分がひどく無防備だと思いました。



●高梨章「明るい部屋」

大塚:
炎天やみるみる泣くぞ泣くぞ泣く
目刺くふ子もくはぬ子もきて坐る
空き箱をかかへて春の微熱かな
雨の日を昼寝してゐる漂流記
三月は木陰のやうに来てゐたり
文体・発想がのびのびしていてとても面白かったです。手を変え品を変え楽しませてくれている印象でした。その一方で、季節が行ったり来たりするのには疲れます。秋の句が極端に少なかったり、一句目の「炎天」から「春の月」に季節が戻るところでまず読みづらくなってしまう。50句作品のテーマ性にまで踏み込むとさらに良い作品になっていくと思いました。母の句が著しく多いですが、あまり他の句と有機的には絡んでいない気がします。

堀下:
空き箱をかかへて春の微熱かな
ずるいなあと母のつぶやく春の山
雨の日を昼寝してゐる漂流記
三月は木蔭のやうに来てゐたり
俳句らしい型を意識しない文体。毎年気になっている方です。平易な語彙の選択、ひらがなの多用、ずらしたり繋げたりする技術、いろんな要素が調和をとって、この流線的な印象を達成しています。発想としては飛躍の大きいものもありますが、それらを生のままぶつけるのではなく、冗語をさしはさんだり、時には過度に口語的に言ったりして、ゆるやかに結びつけていこうとする。言葉の密度は低いながらもイメージの結びつき方が緊密な句にいい句があると思います。ただ極端に字余り・句またがりが多いですね。その曖昧なリズムに価値を見出しているのか分かりませんが、もう少し定型感があると、より文体の自由度が際立つと思います。文体の自由度と律の自由度は別問題ですから。

大塚:
やはり、律の良し悪しも読後の疲労度に関わってきますよね。個人的には字余りや句またがりは好きなのであまり嫌な印象はありませんでしたが、堀下くんがそう言うのも納得はします。詩のことばはつまり暗喩に還元されると言えますが、この作者も取り合わせにおける文体をいかに個性的に、いかに書き手の味方につけるかという部分で勝負している。そうしていると、読んでいて疲れるような、律の問題が生まれてくるという側面もあるのかもしれません。この方法で作品がどこへいけるのか見てみたい。一句における韻律と意味が噛み合った時のパワー、その可能性を感じます。



●ハードエッジ「ブルータス」

堀下:
白梅のかたき莟の香なりけり
大学も大学院も春休
十薬やひと雨にふる雨の粒
遠ざかる一つの時代天の川
平明な読みぶりが気持ちよいです。この方も毎年気になっている作者です。
池に雨松の手入も済みたるよ 2014
運動会その翌日が土砂降りで 2013
と、これは過去の「落選展」の句ですが、どうでしょう、僕、好きなんです。口当たりのよさと言いますか、すらすらと口をついて出てきたような感じがあります。去年の落選展のときにも書いた気がしますが、はじめからこの形だったんだろうな、という素直さを感じます。〈白梅のかたき莟の香なりけり〉〈十薬やひと雨にふる雨の粒〉のような素朴な写生句を50句揃えたらかなり読みごたえが出てきそうな。一句目、「かたき莟の香」がいいですね。硬さと匂いなんてほんとうは順接で関係づくものじゃないのに、でも、あのあおくさい莟の匂いはたしかに「かたき」の感じがあります。二句目は実はどういうことを言おうとしているのか模糊としている、でも、ざあっと降った雨の一粒がありありと目に入ってきます。雨粒を描写するために雨降りを持ちだす、という単純だけど念入りな書き方。

大塚:
正直、採った句はそれほど多くない作品でした。理屈っぽさがどうしても拭えなかったから、当初は平明という印象ではありませんでした。ただ、読んでいくうちにそのなかに堀下くんの言うような面白い作品があったので頂いたという次第です。

堀下:
理屈っぽさというと、
新聞も三月三日ひなまつり
ものを煮ることなき水が噴水に
「盆踊雨天中止」が雨に濡れ
あるモチーフの意味性を取り出して、その意味から少しずらしたモチーフをもう一つ横に置く、という作り方。意味のリフレインとでも言いましょうか。でも、いや、それは面白くない。

大塚:
そうですね。〈空蝉と例へば空の段ボール〉とか、「そこで空って言う!?」って思いました。因果を感じたくないな、と思いながら俳句を読みますが、発想につながりが見えるともう因果に引きずられてしまって言葉が理知的な理解で留まってしまうような感覚です。自然の大きさと時間感覚というテーマ性においては先行句は無いとは言えませんが、〈枯野行く少し狂ひし腕時計〉なんかには因果関係がなくて好感を持ちました。それから、〈蟻の巣に入らぬものを壊しをる〉〈大根も抜きたる穴も濡れてをる〉にも素直な詠みぶりの良さを感じます。変に発想を飛ばしたり空想っぽいのものを詠んだりすると、やっぱり理知的な作り方になってしまっていると思います。

堀下:
いわゆる写生句のように見えている素朴な句も、じつは理知的に作り上げられたものなのかもしれません(だったらダメだということではないですよ、為念)。というのも、さいきん素十の句を読みなおしているのですが、写生の神様と思われているこの人の句の一部が、妙に構成的な印象を発していることに気づいたのです。
柊の花一本の香かな 高野素十『初鴉』
という句、これ、いいですよね。花の香りがする、というただそれだけのことを言った句です。素十の作品世界のつつましさ、すなわち、俳句はこれだけでいいんだ、という倫理が感ぜられます。花の香りがする、という以上のことは言わなくてもいいんです。だから柊の花なんていう長ったらしい季語にずいぶん音数を取られてしまったあとも、まだ余白がある。何も言わなくていいのだけど、十七音には足りませんから何か言わなくてはいけない。そういうときに素十は「一本」ということを書くんです。こんなこと言わなくていいじゃないですか。「柊」と書かれた時点でわれわれに「一本」は見えています。だから「一本」と言い足したところで情報量は増えません。とはいえ素十の眼の前の柊の木はたしかに「一本」ですから素十はそれを写生しているわけです。捉える対象を絞った結果、却ってヘンなものが取り沙汰されている。客観写生の威力とはつまりこういうことでしょう。

でも、この句、読みようによってはたいへん構成性に富んだ句です。小さな花があって、それをつけた木があって、その木のまわりが匂っているという、三段構えの図式がある。

彼の代表句、
くもの糸一すぢよぎる百合の前 高野素十『初鴉』
における「前」というのもそうなのですが、平明な句、強烈な美意識を盛り込まない句を書こうとすると、位置関係を把握するという方向にしばしばなるんです。となると、いま「関係」という言葉が出てきましたとおり、理屈抜きで書いた筈が、変に理屈っぽく読めてしまう、ということが起こります。重要なのは逆も然りだということです。われわれは一見写生句のような句を理屈で書くことができる。ハードエッジさんの〈白梅のかたき莟の香なりけり〉〈十薬やひと雨にふる雨の粒〉、これ僕大好きなんですが、もしかするとこれらは「かたき-莟-香」「雨-雨粒」の関係性によって書かれた理屈の句かもしれない、とそんなことを思いました。



●堀下翔「鯉の息」

大塚:
また中へ戻るはちすのうへの蠅
林が疎まつすぐ行けば水芭蕉
日時計の石痩せにけり秋燕
蟻穴を出てすぐ横にちがふ穴
深秋やさうかと思ふ竹林
好きな句がいろいろとありました。やはりなんといっても文体が確立している強さです。〈また中へ〉〈蟻穴を出て〉の句は第6回石田波郷新人賞受賞作にある〈茎を蟻登り来てまた引き返す〉などに通ずるある種のゆるい馬鹿馬鹿しさ、だけれど対象を執拗に眺めているという目線。あるいは、〈林が疎〉というフレーズに代表される表現の密度。その両者、つまり対象への目線の密度と表現の密度が中心にあります。堀下くんの堀下くんたる表現は、その助詞の用い方でしょう。〈をさなくて春暮れゆくに遅れをる〉〈こひいつもその日のことの燕かな〉のように、敢えてワンポイント的に「に」「の」などの助詞を用いています。どの助詞を用いるかで、前後の動詞や切れの置き方にも影響が出てきます。あたかも助詞から一句を組み立てていくような感覚が、堀下翔のもつ心地よさの大きな部分を占めていると僕は感じています。

堀下:
取ってくれてありがとう。僕はおしゃべりが好きなので自分の句ですが気兼ねなく書かせてもらいます。神は細部に宿るといいますか、助詞とか補助動詞とか助動詞とか、そういう部分で表現の精度を上げていくのがまず自分の仕事かな、と思っています。そういう意味で自分は言葉派と思われてもいい。でも技巧が風景に先んじているのではないということはぜひ言っておきたいです。どうも僕は外を歩くのが好きで、特に花があまり咲かない土地で育ったものですから、草木のうつくしさには心を奪われます。花を見ておどろいた気持ちをそのまま書きたい。美しいものを「美しい」と書いたところで何の足しにもならないのでしぜん言葉の細部で補強してゆかなければならない。机上派と言葉派は同義語ではないんです。さいきん気になっている句集に千葉皓史『郊外』があります。千葉の扱う題材は、多くは身辺や自然で、派手なところはありません。どの句をとっても、風景・表現ともにシンプルなんです。でも、こういう句があります。
東京に人影は秋来てゐたり
この助詞への気の配り方、はっとします。同句集所収では〈裸子がわれの裸をよろこべり〉といった句の方が有名でしょう。「裸子が」の句の助詞は一見平凡です。でも、動かない。この風景を再現するための最適解なんです。どの助詞も緻密に鍛え抜かれている。僕もこういう態度を取りたい。正直にいえば今年の角川の50句は今となっては甘い句ばかりで、読み直して赤面しています。もっともっと確かな句を書いてゆきたいです。
肉声の日々なり麦が笛になる
林が疎まつすぐ行けば水芭蕉
柿の花石白く水湧きにけり
あたりは、とりあえず残してもいいかな、という気がします。


大塚:
肉声の句なんかはさっき堀下くんが言ってた「理屈」の話に近いものを感じます(笑)

これは位置関係の句ではないけれど、平明なふりをして一種の理屈としても読めてしまう部分もあるかもしれない。敢えて批判をするとすれば、やや観念的であったり意味が取りづらくなっていたりしてもその韻律にごかまされてしまいそうになるときがある(笑)〈めくるめく史実を春の暑さとも〉などは「史実」という言葉が身に迫るかといわれるとそうではない。〈視力たのしく走りたり麦の中〉の「視力」なども挑戦は面白いけれど、「たのしく」への語彙選択に無理が生じてしまっている感があります。それを押し通してしまいかねない韻律の力強さはあるけれども、成功しているかといわれるとそうではないと思う。

堀下:
あはは、ごまかすつもりはないんだよ(笑) でも確かに観念的な句が交じっているのはよくないねえ。もっと即物的に書く根気強さを身に着けたいと思います。

大塚:
話がズレますが、「理屈」や「観念」という言葉においては、それをときにアレルギー的に忌み嫌い、ときに抗生物質を投与するような安易さで作品の評価に用いているという側面があるのではないかと懸念しています。これらの言葉の定義も曖昧ではあるのですが。「ホトトギス」昭和8年4月号に山口誓子が「詩人の視線」という題のアフォリズム的文章を寄せています。要するに京大俳句草創期に、婉曲的な表現を用いながらホトトギスひいては高浜虚子批判をした離脱表明とも受け取れる文章なのですが、そこには「選者はいまかいまかとその句を選から外そうとしているのだ」というような文脈があるのです。誓子の指す「選者」は虚子のことですが、われわれひとりひとりも〈選者〉だと拡大解釈するならば、その句を選ばなかった場合には理由を後付けているような気がしていて、「理屈」や「観念」といった言葉はそのような場合に多く用いられているような感覚が僕にはあります。これらの言葉には注意しないといけない。きっと「理屈」「観念」にも石に玉が混じっているような気がしていて、これらのことばで句を切り捨ててしまうことには反省がつきまとっています。本当に話がズレました。

堀下:
耳が痛い話です。「理屈」とか「観念」とか、あるいは僕は似た文脈で「意味」という言葉をよくネガティブワードとして使いますが、ほんとうにこれって切り捨てていいものなのか、切り捨ててしまうのは早計なのではないか、ときどきそんなことに思い至って真顔になります。「理屈」「観念」を否定するのが後付けの理由であるとは僕には言い切れません。俳句のポエジーはそういったものではないのだ、というフレーミングを長いあいだ俳句作者たちが重ねてきた結果だと思います。でも、そうではなくて、われわれが「理屈」だとか「観念」だとかと呼んで“いない”ものの中に、実は「理屈」「観念」に相当するものがあって、時としてそれを面白がっているのではないか、そういう虞を感じるのです。たとえば「この句は味があるね」というときの「味」なんかその最たるです。いったいポエジーとはどこに発生しているのか、きちんと選り分けて行かないと、うっかり「理屈」「観念」を暴力的に切り捨ててしまうことになりかねない。言葉というものそれ自体が観念の上にあるので、ほんとうは理屈がない、観念がない言葉というのはありえないんです。そこから目を逸らすのは戒めないといけない。以上の点、今年はもっと冷静に考えてみたいと思います。でも、やっぱり「理屈」は嫌いです(笑)



●前北かおる 「光れるもの」

堀下:
手堅い句が多いと思いました。
立春の水を掬つて顔に
花冷の学生服の背中かな
五本づつ炉火に挿し足す串のもの

要素が多めで、ともすれば焦点がぼやけがちではありますが、新奇さを狙わず、淡々と書き進めていく感じに惹かれました。一句目は要素が多いうえに述べ方も悠長なんですが、そのゆるゆるとした感じが景と合っています。二句目は季語がいいですね。三句目の即物性も大好きです。〈山の雨降りて明るき泉かな〉のような、自然をポエティックな印象で書きとどめようとする句よりも、掲出句のような、人間生活を着実に言葉にしていく句の方に味があります。

大塚:
僕も似た印象でした。採れる句が多かったです。なぜ10作品に入れなかったかというと言い訳めくのですが、文体に新奇性をあまり感じなかったからでしょうか。必ずしも新奇であればなんでもいいというわけではなく、それならそれで手堅さで勝負するタイプの作品も尊いものだと感じますが、それでもって強くインスピレーションを受けるほどの派手さは感じなかったです。〈立秋の候と書きさし窓の外を〉などの景色に惹かれましたが、いい意味で裏切られるような感覚はなかった。例えば花冷の句なども採ってはいるのですが、「花」の成分が「学生服」とマッチしていて、「冷」の成分が「背中」とマッチしているような感じ。句としてはいいとは思うのですが、あくまで「納得する」というレベルでの配合だったかなと思います。ちょっと順当さが拭えませんでした。

堀下:
なるほど、花冷の句の分析、納得します。たしかにその要素ごとの対応は「納得」を生むものです。一句の中にそういったいくつかの力関係があるんですよね。言葉の引力が、べっとりと全体を塗りつぶさず、微妙に拮抗している句にいいものがあると思います。



●宮﨑莉々香「眠る水」

大塚:
最初に取り上げた青本柚紀さんと同年齢ですが、あちらが象徴性の作家だとしたらこちらは切実さの抒情で読ませる書き手です(寒蟬さん信治さんの対談の方で僕と堀下くんも同年齢とされていましたが、正確には僕と堀下くんは1歳上です)。実体に対して仮想や観念を発想するという方法で作られています。

完成度が高いとは言えませんでしたが、面白くなりそうな句がありました。〈おおきな良夜のちいさなコンビニの聖書〉は「おおきな」と「ちいさな」がすごく勿体無いけれど、目の付け所はいい。〈鯛焼きを分け合い星に歴史かな〉〈春雨のあとの静かな象舎かな〉なども面白いと思いました。ただ、表現が粗かったり発想が安易である句も多いのは確かです。一般に「俳句的」ではない語彙、表現を用いようという志向があるのだと思いますし、そこに可能性を感じます。〈嵐や風の転校生は鹿をみる〉など独特なリズムに惹かれました。一方で、無理やり言葉を飼おうとしてしまっている感があって、言いたいことがたぶんうまく表現できていない。そこのバランスが取れるようになってくると、もっともっと面白くなると思います。

堀下:
鯛焼きを分け合い星に歴史かな
実感や詩のように飛ぶ春の蜂
あげまんぢゅうのぢが好きなのだ春の虫
あたりが面白いと思いました。言葉に懸けようとしていながらも、肝心の言葉の精度があまり高くないのは否めないと思います。この人のやろうとしていることは「切なさ」ですよね。平凡なものを見ている筈なのにそれが切なくて仕方がない。その切なさを、お前には分からないんだ、と言って逃げてしまうのではなくて、できるだけ分かりやすい形で相手に差し出そうとしているんだと思います。でも、言いきれていない。あるいは、いや、そんなに大したポエジーではないぞ、というケースもあります。稚拙な情感をこのひと流の文体に流し込んでしまうと、独り相撲の滑稽さになる。そういう意味で〈鯛焼きを分け合い星に歴史かな〉なんかは、情が過多といえばそうなんですが、「歴史」という言葉の軽さに見るものがありますし、それが「星」という詩語と結びついて、大がかりなようでいて実はポップに仕上がっているのも面白い。二句目の「実感や」もキているでしょう。「春の蜂」でいいのかと言われればちょっとダメだと思いますが。三句目は「春の虫」でどうにかなっているような気がしないでもないです。
卒業や写真にうつる大きな木
親戚や同じかたちの雑煮餅
みたいな、王道的すぎる詩情は、一周回ってるのが分かっている人ならばいいのですが、読者はそれほど親切じゃありませんからね。この作者と親しいわれわれなら、両句の「や」の馬鹿丁寧さあたりからその機微を察せますが、ハタから見たらやばい人になりかねません。

大塚:
堀下くんの言うように「なんでこれを面白がってるんだろう」と思う句もありますけれど、あんまりそれを指摘しても意味がないような、50句を読んでそんな気がしています。それよりも、この人にはキてる作品を書いてもらいたい。観念といえば観念の構造なのですが、それが面白い観念だという場合がある。50句作品という単位での完成度では他の方に譲る部分が大きいですが、ときどきキてる句が見られたのは幸せでした。

堀下:
卓抜した展開で揃った50句が見たいですね。そのときのために読者の方もきちんと批評できる言葉を用意しておかないと。「キてる」じゃあんまり享楽的な読者ですから。

大塚:
それは反省ですね。口走りすぎました(笑) とにかく、今後の作品が楽しみです。



●利普苑るな 「否」

堀下:
型の強みで取りました。
転校は履歴書に無し蓼の花
はいかにも蓼っぽいし、
和紙にある草のぬくみや時雨来ぬ
はいかにも時雨っぽい(あとこれは「来ぬ」もいいですね)。季語が動かないのもよさです。

あと、
鳰鳴くや鎌田實をポケットに
というのも、ちょっと俗っぽすぎるかもしれませんが、意外な感じがして好きです。優等生らしすぎるのが却ってばかばかしいような。
西国より届く白桃父米寿
の「父米寿」や
白玉や野良猫三代盛衰記
の「盛衰記」
光満ちたり花虻のホバリング
の「ホバリング」

は、その一語に俳句の面白味を求めすぎで、丁寧に書いてほしいです。

大塚:
利普苑さんも実感の書き手かとお見受けしました。

〈料峭やてつぺん見えぬ螺旋階〉、螺旋階段をそう略して伝わるのか微妙に思いましたけれど意外性があります。〈囀や応募葉書に貼るシール〉なんかも生活詠としていいところだと思います。その一方で〈漕ぎ出せば川岸長き薄暑かな〉〈てのひらに硬き切符や冬ぬくし〉など、実感はあるけど既視感の強い作品、パターン的な季語の付け方を感じました。ここら辺が残念に思います。これらを〈転校は履歴書に無し蓼の花〉と比べると、やはりフレーズの視点、季語の配合ともに単純な物足りなさを感じてしまいます。

堀下:
ああ、切符がどうのこうのというのは、やっぱりねえ……。〈漕ぎ出せば川岸長き薄暑かな〉も、薄暑だと、もうなんにも残らないですね。一昨年の秋に出た利普苑さんの第一句集『舵』、いいんですよ。
一行の編集後記夏来る
引算の答さみしや蟻の列
あつけなく猫の逝きたる桜かな
季語のつけ筋がはっきりしているし、他の12音の方も強度がある。さっぱりとした喪失感を書いた句がとてもいいんです。これはまあファンのわがままですけれど、今年の50句は情や生活臭が強すぎるのかな、という気がします。そういうわけで〈転校は履歴書に無し蓼の花〉が一押しでした。



●小池康生「一睡」

大塚:
手袋もをのこも行方不明なり
ゆきぐものよこにあをぞら法隆寺
降り残す雨を今ごろ椎若葉
花水木住めば覚える人の顔
安心して読めた一連でした。それはおそらく、用言を中心とした無理のない句作りによるものでしょう。緻密な写生という句柄ではなく、ものごとを大掴みなフレーズに練り上げ、季語と取り合わせるという手法です。その把握が例えば〈ゆきぐものよこにあをぞら〉というリアリティを生んでいます。その句柄は「降り残す雨」の物理的な動きを描くのではなく、「雨を今ごろ」というおおらかな言葉から椎若葉らしさを描き出しています。しかし、〈鳥交る片方だけが無表情〉や〈生身魂あの世の下見済んだらし〉などは作者が思っているよりも面白くはないと思いました。描くというよりは述べてしまっているような、身に迫る表現にはなっていないと思います。〈新暦の方の二月を愛しをり〉という暦の概念までいってしまうと、正直ついていけないという思いでした。

堀下:
ゆきぐものよこにあをぞら法隆寺
描きかけの消防車なり出動す
花水木住めば覚える人の顔 
降り残す雨を今ごろ椎若葉
あ、選がだいぶん被りました。やっぱりこのへんがいいですよね。大らかな味わいを大らかに書く句にいいものがあります。類想感の強い句(〈男湯と女湯代はる去年今年〉〈台詞なき場面のつづく涼しさよ〉あたりです)や現実世界の「あるある」をそのまま俳句にしただけの句(〈立春のトールサイズといふカップ〉〈一本も観ずに延滞春の雨〉あたり)、それから凱君が指摘したそれほど面白くない句を丁寧により分けていくと、重心のしっかりとした句が残って、それらに明確な共通点があるわけでもないようなのですが、どれも大粒で面白かったです。たぶん人情だとか通俗的なかっこよさに別段の面白味を感じて書いている作者だと思うのですが、それをそのまま俳句にするよりも、その恰好のつけ方、まなざしの持ち方で俳句的素材を扱った句のほうが成功しています。

大塚:
先ほど安定感と言いましたが、それは句末がとくに名詞で着地する傾向とも関連していると思います。読後にキッパリとする感じは、この効果による部分も大きいかと思います。