【週俳9月の俳句を読む】
ことばの印象から
宮﨑莉々香
はじめに。澤、街の両結社の作家と言われると、唐突な名詞や、それを補う動詞のことばの組み合わせによる面白さの印象が私の中にあったのだが、以下に挙げるものの中には、修飾のことばによって句の印象を変化させる句が見られ、とても刺激を受けた。以下、ことばの持つ印象から物語を辿っていきたい。
羊刈る羊の顎を股挟み 池田瑠那
羊刈る仕上げの鋏しやりと鳴る 同
「羊刈る」からはじまり、動詞で終わるという構造が類似した2句であるが、まったく異なる味わいを持つのが魅力である。何をどうすると言っておいて、その「何」について細かく述べる(ここでは羊を述べておいて、羊のどこを刈るかを述べている)構造は確かにあるかもしれないが、「羊の顎を股挟み」と言い切る露骨さがいい。一方で、羊を刈り終えた時の鋏へと意識を飛ばした一句。ふわふわした羊がだんだん痩せて、刈る毛が少なくなる一方で、鋏の音は爽やかに鳴る。前者の俳句から〈バリカン当てられ羊前肢に宙を蹴る〉を挟み、後者の俳句へと続く。この過程には、「股挟み(マタ・ハサミ)」から「鋏(ハサミ)」へとつながる茶目っ気も見られる。7句の中でこの2句が存在する、ひとつの作品としての面白さも兼ね備えている。
暴風雨の真中が楽し新豆腐 茸地 寒
台風の目の中は晴れている、そんな様子を思う。「暴風雨の」と少し重々しい雰囲気のまま読み進めていくと、「楽し」に突き当たる。最後に「新豆腐」。このように、三段に分けた時、それぞれのことばの持つ印象が全く異なることに注目したい。しかし、不思議なことに、バラバラな印象を持つことば同士であるが、それぞれが響き合っている。唐突な「楽し」に、私たちは少し共感し、最後に登場する「新豆腐」には少しツッコミたくなる。新豆腐は新しい大豆で作った豆腐で、味わいにも豆の印象が強い。どこか落ち着いた雰囲気の中に存在し、詠まれることが多いが、新豆腐も暴風雨の(真中だが)中で詠まれるとは思わなかっただろう。
歯を磨くシャワーバシバシ胸に浴び 川又憲次郎
「何が好き?」「ボクはやつぱり鮭の皮」 同
1句目。面倒くさがりなのだろうか、歯を磨きながらシャワーを浴びている景。ここでは、「バシバシ」の効果に注目したい。例えば「今日はシャワーをバシバシ浴びてきた」と言っても少しオヤジくさいが、それでも伝わるほど、「バシバシ」という形容は私たちにとって身近であるだろう。それはきっと、「お日様がさんさん輝く」の「さんさん」と同じ程ではないだろうか。
この句では「歯を磨く」もあいまって、日常生活をそのままのことばで表現する徹底した姿勢があらわれている。余談ではあるが、「街」121号の中には、〈キッコンキッコンキッコンとバス停まる炎天 茸地寒〉という句がある。この句もまた、いつものことばで日常のある光景を表現した句であるだろう。いつも使うことばで書こうとする意識はリアルで嘘がない。
2句目も同様。いかにもありそうな会話を書き直す意識。この句での「やつぱり」の使い方は自然でありながら、ひと息を置くフックになっている。「何が好き?」と聞かれて、別のものを考える一瞬があった後に鮭の皮が好きなのだと言う。色々考えたけど、が含まれる「やつぱり」は、その人が、鮭が好きなことを、ほんとうであることにしている。「ボク」の表記まで徹底されているのもいい。
白コスモス圧し折る天が発情す 奉鈴絵
コスモスは茎も細いので、小さく可愛らしい花として見られ、また、それを取り囲むのどかな風景が詠まれることが多いが、コスモスの景を表現の力で野太いように見せているところがこの句の面白さである。白コスモスを圧し折ると、空の様子が変わったことを発情と捉えているのだろうか。「〜して、〜になった」の2つの組み合わせに異なるものを配合することで、詩をちらつかせる句は目にすることがあるかもしれないが、ここでは「〜になった」に「発情す」という、スパイスを加えている。しかしながら、この「発情す」は唐突でありながらも、「圧し折る」との関係に、力強さとや人間らしさという共通点を持った中で、成立している。白コスモスの「白」は圧し折られる運命にありながらも、ただそこに凛と佇む印象を与える。
浜辺に吹くトランペットや曼珠沙華 嶋田恵一
最後の、曼珠沙華の裏切りに惹かれる句である。浜辺で、私はトランペットを吹いている。曼珠沙華の赤い色が海の色、浜辺の砂の色とも合いまり、色彩的にも美しい。
敬老日波をイメージしたダンス 竹内宗一郎
敬老日の効果により、「波をイメージしたダンス」はある方向に動き出す。子どものお遊戯会にもありそうな光景であるが、ここでは敬老日。腕がゆっくりと動いている様子が浮かぶ。あることばにより、後のことばのイメージが動き出す句はどこか不思議な印象を受ける。諧謔の込められた句である。
笑はない家族九月の砂の上 今井聖
永遠に下る九月の明るい坂 同
それぞれ一箇所ずつ精神的屈折がみられる。1句目は「笑はない」で、2句目は「永遠に」だろう。家族で砂の上で遊んでいるのか、写真を取られているのか、いずれにしても一緒にいることに変わりはないのだが、彼らは確かに笑っていない。彼らは幸せなのだろうか、笑うことがなくても、一緒にいるとそれは家族と言えるのだろうか。私たちが普通だと思っていることを覆しにくるシニカルさに、どきっとした。
2句目。そこにいる私存在を強く感じさせる句である。なぜ「私」を強く感じるかと言うと、私たちがこの句を読む時には、「九月の坂を下る」以外の形容は作中の人物へと掛かるからである。永遠だと思っているのも、坂に明るさを見出しているのもそこにいる「私」なのである。私は、今、坂を下っていることを永遠と感じながら、また、永遠に下っていると感じてしまう坂が明るいと言っている。疲れ果てて、その果てに対象を美しく感じてしまうような、そこに書かれている、俳句にされていることば自体は「下る」以外はすべて明るいものであるはずなのに、それらを組み合わせた時に不気味な明るさが表出している。
寿司出前専門店やスクータ据ゑ 小澤實
あったままの光景を描いているのだが、その書かれ方に特徴がある。「寿司出前専門店や」と言われ、普通の寿司屋ではない店を思い浮かべようとする。しかし、「寿司出前専門店」と言われても、普通の寿司屋と外装等は同じなのではないかと私たちは立ち止まってしまう。そんな中で「スクータ据ゑ」によって、ここは寿司出前専門店なのであると確証を持てる訳である。
「据ゑ」の字余りの印象はそこにスクータがぽつんとある印象と重なる。書かれてあることばの順序が印象を引き出し、景と重なりあうことで、私たちに句を読み解く手がかりを与えてくれる。
2016-10-09
【週俳9月の俳句を読む】ことばの印象から 宮﨑莉々香
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