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2016-11-06

週刊俳句 第498号 2016年11月5日



第498号
2016年11月6日



堀下翔まるごとプロデュース
学生特集号 



斉藤志歩 馬の貌 10句 ≫読む
(第8回石田波郷新人賞受賞第一作)

平井湊 梨は惑星 10句 ≫読む
……………………………………………

鷲谷七菜子の真意
第一句集『黄炎』論……瀬名杏香 ≫読む

松島の月……三村凌霄 ≫読む

久保田万太郎戯曲の展開
……福井拓也 ≫読む

中村汀女・星野立子に見るヒロイン像
『中村汀女・星野立子互選句集』……坂入菜月 ≫読む

あふれでるもの
碧梧桐の長律句について
……青本瑞季 ≫読む



特集 私の好きな五句
海外の俳句の魅力……コロナ・エルジビエタ ≫読む

瓢箪から句が出る……淺津大雅 ≫読む

禽獸拾遺……安里琉太 ≫読む


【週俳9月の俳句を読む】
青本柚紀 小澤實の中の川 ≫読む
森優希乃 同じ言葉から、同じモチーフから ≫読む
翁長徹 澤街の観察日記 ≫読む
大橋佳歩 初俳句鑑賞文 ≫読む



座談会
リアルでガチな学生俳句の世界
……樫本由貴×小鳥遊栄樹×川村貴子×堀下翔 ≫読む



〔今週号の表紙〕 
第498号 無題……成影力 ≫読む


後記+執筆者プロフィール ……堀下翔 ≫読む

禽獸拾遺 安里琉太

禽獸拾遺

安里琉太



好きな俳句を五句挙げてそれについて書けとのご用命であるが、好きな俳句はなかなか多く、〆切まで数時間が迫った原稿に目途が立たない。雑多に並べられた本棚を何となく眺めると東浩紀『動物化するポストモダン』があって、そこから著者が「蛇笏」「鷹女」「鳳作」「鷹羽狩行」が並んでいる。一先ず書きださないことにはと思って、今回は動物が詠みこまれた俳句という縛りを設けて、書きだしてみる。「鳳作」は、空想上の生き物であるが、まあ其の辺は言いっこなしである。
百千鳥雌蕊雄蕊を囃すなり 飯田龍太
第十句集『遲速󠄁』(立風書房・一九九一年)に収載されている句である。龍太にとって、これが最後の句集となる。その昔、何かの鼎談で筑紫磐井が〈鳥雲に蛻の殻の乳母車〉〈よろこびの顔が真暗盆の墓〉の句を挙げながら、この句集がとても変な句集であると評していたのを思い出す。誠に同感で、それまでの龍太の端正さと同時に、独自の境地がある。

しかし、私がこの句を初めて読んだのは、小林恭二の『俳句という遊び―句会の空間―』(岩波新書・一九九一年)においてだった。二日目の句会にて、百千鳥がやや浮いて見える感じや少し理が勝ったようなところに批判があったが、この句を採った三橋敏雄が「作ったという感じのする句ではあるね」と述べながら、それらをやんわりと懐柔していたのが印象深い。龍太はそこで、「春の富士沸々と鬱麓より」といった句を同時に出していて、やはり変ではあるが、その変な具合に艶みがある感じもする。「好き」という領域から語れるのは、これ位までかと思うので、これより先について考えるのは次の機会にしたい。

虫鳥のくるしき春を無為 高橋睦郎 
*原文は「無為」に「なにもせず」とルビ――引用者注

これも龍太の句同様『俳句という遊び―句会の空間―』に掲載されている。「春」の題詠で持ち寄られた句であったと思うが、文体の典雅にドスンと腹を突かれた。「春」というとともすれば甘く緩くなりがちな時候の季語に対して、上五中七の措辞に意表を突かれ、涅槃図のなかにいるような気さえする。下五の漢詩を思わされる表現もその世界を押しているようである。

春自体を詠んだ句としては、平井照敏の「「はる」といふことばの春がきてをりぬ」(『石濤』・一九九七年)を思い出す。その句に触発されて、川崎展宏の「冬と云ふ口笛を吹くやうにフユ」(『秋』・一九九七年)も思い出される。展宏の句は音の仕掛けが、冬と口笛という取り合わせをブラッシュアップしている。一方、照敏の句は「はるといふことば」等でなく「はるといふことば」が大変に鮮烈で、春という概念とそれに伴う認識とを思わされる。照敏の句を思う時、やはり「虫鳥のくるしき春を無為」の重厚な世界に、再度圧倒されるのである。
大き鳥さみだれうををくはへ飛ぶ 田中裕明
第二句集『花閒一壷』(牧羊社・一九八五年)収載。「さみだれうを」に瞠目するほかなかった。「大き鳥」は鳥の大きさを言いながらも、相対的に鳥の飛んでいる五月雨の空間をも思わされる。「さみだれうを」の色や質感が、空間へと流れて同質の色彩になるように思われる。
蛇踏んでひるから木曾は大曇 宇佐美魚目
第三句集『天地存問』(角川書店・一九八〇年)収載。魚目の句で好きな句は、ほかにも「空蝉をのせて銀扇くもりけり」(『崖』・一九五九年)や「棹立ちの馬の高さに氷るもの」(『草心』・一九八九年)、「白昼を能見て過す蓬かな」(『天地存問』・一九八〇年)等多くある。
 
木曾は歌枕で和歌から詠まれているが、現代においても、金子兜太の「木曾のなあ木曾の炭馬並び糞る」(『少年』・一九五五年)、裕明の「二百十日木曾に寝覚といふところ」(『花閒一壷』・一九八五年)等、作例がある。楯英雄「木曽を詠んだ詩歌と地名歌、地名句 : 木曽の観光の基礎的文献」(http://ci.nii.ac.jp/naid/120002771649)にもあるように、木曾歩きは文人が好んで嗜むところである。

俳句を始めた頃、部活の顧問の先生は「大」を付ける添削を好んだ。例えば、「~西日かな」を「~大西日」といったような具合である。安易で緩い「かな」を省き、よりダイナミズムへと句を傾倒させた方が印象として残るという考えだったのかもしれないが、へそ曲がりであった私は、寧ろ「かな」が効果的に働く文体にしてやろうと躍起になった。そういうこともあって、大云々という句はあまり好きではないのだが、「大曇」の灰白色一枚の空は納得させられるのである。
炎天の犬捕り低く唄ひだす  西東三鬼
第三句集『今日』(天狼俳句会・一九五二年)収載。『現代俳句』(角川書店・一九二一年)で、山本健吉は『ハムレット』の一齣を連想しながら、この句をヒューマニズムから解釈している。その辺の読みぶりは山本健吉に任せておく。

三鬼の「炎天」に対する不穏な印象は、「炎天に鉄船叩くことを止めず」、「炎天の映る鏡に帰り来ず」、「炎天の人なき焚火ふりかへる」(『夜の桃』・一九四八年/句は掲載順に羅列)のように、前句集である『夜の桃』からの傾向としてある。初めの「鉄船」の物象から「鏡」という人を映す用途のものへ移り、人が育んでいたであろう「焚火」、そして「犬捕り」という人へ至るところを見ると、山本健吉がこの句を選び、そのような鑑賞を行った意味を改めて同時代的な文学の潮流から考えなおす価値があるように思いもする。

今年の三月に刊行した琉球大学俳句研究会雑誌『a la carte』に、「好きな俳句を語る」という座談会録を掲載した。だから今回は、その座談会で用いてしまった十句を用いることができなかった。また、師の句に関しては、挙げれば限がなくなってしまうので、泣く泣く割愛するほかなかった。もし、興味を示して下さる方がいらっしゃれば、来年『銀化』で一年間連載する予定の「道夫俳句を読む」に期待して頂ければ幸いである。


 ↓


























































































































~Secret・Track~
「好きな俳句」を語る書き手について

安里琉太


さて、あらゆる制約を設けてみても、私にとっての「好きな俳句」は尽きることがなかった。そこに故人の俳句の潤沢さを見ることも出来たし、寧ろ、そこから漏れた「そうでもなかった俳句」について、検討し直すこともできたが、そうはしなかった。

そもそも今回、堀下から与えられたテーマである「好きな句」という領域は、聖典化される「私の思う名句」のそれとは違う。それは、角川『俳句』(2012.7)大特集「極めつき!平成の名句600」や『現代詩手帖』(2010.6)髙柳克弘氏選アンソロジー「ゼロ年代の俳句一〇〇選」、詩歌文藝誌『GANYMEDE』60号(2014.4)関悦史氏選「平成百人一句」等のような、アンソロジーから俳壇の一時代の傾向を言い当て、新たな俳句の時代を企図するものより、もっと「極私」的なフェティシズムの告白になることが予想される。

それは、「猫の出てくる句が好きだ」というような句材(乱暴に言えば)のフェチ、「思いもしなかった飛躍がある句が好きだ」というような句意のフェチについて、或いは「上五の「や」切れ、しかも季語でない名詞が置かれた句が好きだ」(〈中年や遠くみのれる夜の桃〉三鬼『夜の桃』)、「文法上は繋がっていても切れている句が好きだ」(〈手をつけて海のつめたき桜かな〉尚毅『舜』)というような文体のフェチについての二つがあるのかもしれない。

だから、今回の「好きな俳句」に挙げられた句こそが、次世代の俳人の聖典であるだの、世代に蔓延する云々を観測することが出来るだのといった半ばオカルトチックな妄言に寄与するものではなかろう、とも言い難い。

話しは変わるが、「好き」なものについて語るとき、なぜこうも恥ずかしさを伴うのか。それは、前述した通り、自らのフェティシズムを告白する行為だからである。

合コンの時の、「私、○○って言います。猫が好きです。寂しがり屋さんだからかな~。えへへ~。あ、でも気まぐれっていうよりは、尽くしたいって感じで、どっちかっていうとMで、Sっ気のある人が好きです」という自己紹介を思い出す、または想像してほしい。この薄ら寒い会話を思い出すだけで、十分恥ずかしくなれるが、留意したいのはそこではない。ここに表れている告白は、果たして本当に、私たちが思う告白ということばが指す感情的な行為ではない。さらに言うのであれば、本当に「好き」なのではない。この独白は、内面を吐露する行為ではなく、求められるであろう欲望に対するポーズであって、〈こころ〉なるものは真顔である。若しくは、「告白」することによって、内面を作り出す行為ともいえるだろう。「Mです」ということによって、Mである内面性を後々作り出している。

私は、この文中で〈語る書き手〉という一見矛盾した語の連なりを採用してきた。それは、これらの原稿が告白するという衝動的で感情的な内面〈こころ〉に根差した行為を行いながら、その一方でその告白を自ら追認し、理性的に考える書く方法を用いているからだ。ここに二重の捻じれがある。それは、ものすごく恥ずかしい捻じれである。ラブレターのそれに似ている。父をあらゆる要因で死なしめた寺山修司に似ている。寺山が書き留めてきた名言集『ポケットに名言を』が、寺山へと還元されるようなものである。詰まるところ、自己演出にすぎない。

好きな俳句を〈語る書き手〉は、同時代的(≠同世代的)に共有されているフェチの言説を軸に、自らのフェチを如何に告白するのだろうか。その句を「好き」がどのように好きであるかを書き手が語るとき、〈語る書き手〉の俳句観を形作っている言説を垣間見ることが出来るのである。そうした言説を読み取るとき、「極私」的なフェティシズムは、十分に何処かに蔓延する云々を観測するものに成り得る。

こうした時、「好きな俳句」を語ることは、自らを如何に語るか(/書くか)という難解性と暴力性とに満ち溢れたものになっていると気づかされる。そして、そもそも俳句において衝動的な「好き」が可能なのかという問にさえ、ひっそりとした道を開くことが出来るのではなかろうかと思う。

「好きな俳句」に並んだ〈語る書き手〉は、一体他に誰がこの企画を担当するのかを全く知らない、目隠しをされた状態である。「私はどのように書き、どのような形式をとることで、他者と触れ合うことのできるフェチ、若しくは孤高のフェチとして屹立できるか」、という不思議な欲望が、ほんの少しでも頭によぎったはずである。

そして、この企画をプロデュースし、依頼を割り当てた堀下翔(彼は時折、Twitterでネカマっぽいことをする。寧ろ、そういう風に自己演出を行っていると私は思う)は、人に告白させることで欲望を充足させているに違いない。であるから、「好きな俳句」に対するフェティッシュな欲望が問として浮上した時、最も初めに問われなければならないのは、堀下自身の「書かれたもの」に対する欲望なのである。

瓢箪から句が出る 淺津大雅

瓢箪から句が出る

淺津大雅


この数ヶ月くらいだろうか、実作からも読むことからも少し離れていたので、かつて自分が好きだと胸を張って言えたであろう俳句たちを、さてそのまま取り上げて「好きな俳句です」と差し出しても良いものだろうか、と少し弱った。

試しに書き出してみると、確かに好きではあるが、同時に、「小さい頃に好きだったスーパーファミコンを押入の奥から引っ張りだしてきて、目の前に置いた時のような違和感」がある。

件のスーファミをテレビにつなぐと、ちゃんと動いた。久しぶりにやるストリートファイターⅡは確かに面白いのだが、ヨガファイヤーしてくる兄貴にボコボコにされていた当時と全く同じ気持で楽しめているかというと、それは違う。新たな趣を見つけた気分である。ザンギエフもエドモンド本田も当時よりかっこ良く見える。

しかし、やはり最新のプレステ4も欲しい。最近新価格になったようであるが、お金がないので買うことができず悲しい。

閑話休題。

そういうわけで、「私の好きな五句」という課題をちょっとずらしてみる。まず「好きだったし、今は別の魅力を感じる三句」を読みたい。その後で、「最近好きになった二句」を読む。良い機会だから自身の趣味趣向の変化を振り返ってみよう。

鳥の巣に鳥が入つてゆくところ 波多野爽波(『舗道の花』)
滝の上に水現れて落ちにけり 後藤夜半(『翠黛』)


お手本のような写生句として挙げられることが多いこれらの句であるが、描かれるモノに違いはあれど、描き方とその主題とするところ(俳句に「主題」なんて似つかわしくないかもしれないが)にかなり似通ったところがあると最近気づいた。

鳥の巣に鳥が入る。滝の上に水が現れ、落ちる。共に「あるべきところにあるべきものが動きとして出現する」という構造を持っている。「あるべきとろにあるべきもの」は、まとまりとして一つであるから、景はとてもシンプルになる。そのなかで表現される「動き」は、なぜかスローモーション、あるいは何度も再生される映像のように反復される動きとして感じられる。躍動感を感じさせる絵、というものがあるが、まさにそれと似ている。静止のなかに表現された動きであるから、我々がいちいち再生ボタンを押さずとも、ずっと動いているGIF画像のようなものである。(という例えは風情がないか。)

南風石包丁に穴ふたつ 岸野桃子(『星果てる光Ⅱ―広島高校文芸部第二句集―』掲載「虹と私」)

初出は俳句甲子園だったように記憶しているが、その時以来なぜか忘れられない句である。忘れがたい句というのは良し悪しをさしおいて価値のある句であると思う。さて、どうやら前傾の二句ともども、私は「あたりまえ俳句」が好きらしい。あたりまえすぎて誰もわざわざ言わないようなことを言ってしまう、そしてそれがはっとするような新鮮さを与えてくれる俳句である。「あたりまえ」を新たな角度から切り込むことで、真理を垣間見た気分にさせてくれる。

ただし、傾句は前傾の二句と比較すると、そこまで鋭い描写ではない。「石包丁」の「穴ふたつ」はあくまで静止している。動的な要素が盛り込まれているとすれば、「南風」であろう。穴に風というのはつきものかもしれない。穴が開けばそこを風が吹きぬける。土に空いた縦穴の場合は別かも知れないが。また、「風穴を開ける」という言葉もあるが、これはちょいと物騒である。

さておき、南風は湿って暑苦しい風であるから、自然の熱量を思わせる。石包丁は縄文時代から見つかり、弥生時代のものが大量に出土している磨製石器で、よく教科書に乗っている。二つの穴は、紐を通して、指に引っ掛けるために使われていたようだ。「石包丁に穴ふたつ」は純朴な描写だが、そこに「南風」の熱量が加わることで、弥生時代へ吹き飛ばされる。「穴ふたつ」が人間味を帯びてくる。

今読み返しても、以前とおおよそ同じ感じを受けるが、「南風」のあたりにまだいろいろな可能性を感じる。季語が動く、動かないって、なんだろう、という考えの種になりそうでもある。(そういう考えの種になりそうな句はたくさんあるが、季語の斡旋についてはまだまだ分からないことが多いので勉強していきたい。季語と措辞の関係性についてはまだまだ混沌とした部分が多く、いくらか整理が必要に感じる。)

さて、最近好きになった俳句であるが、その仕入先はちょっと変なところである。冒頭に「しばらく実作からも読むことからも離れていた」と書いたが、俳句以外に目を向けても、結局俳句に出くわしてしまうのは、一つの運命か。
 
橘やいつの野中の郭公 芭蕉(一字幽蘭集)

芭蕉の発句であるが、これを改めて面白いと感じたのは、九鬼周造(1888-1941)という哲学者の文学論においてである。彼の文学論は現代の詩歌実作者にとっても示唆するところが大きく面白いので、ぜひどこかでそのうちきちんと紹介したいと感じているのだが、いや、直接読んでいただいた方が早い。九鬼のこの句に対する鑑賞と評価を引用する。(それも、ほとんど彼によるプルーストの引用で言い尽くされてしまっているので、実質的にはプルーストの考えの借用ということになるが。)

芭蕉は花の匂いを嗅ぐ。かれは、野原でほととぎすが鳴くのを聴きながら、かつて同じ花の同じ匂いを嗅いだことのあるのを思い出している。それに次のような注釈を与えることを許されたい。「かつてすでに聴いたことのある一つの音、また嗅いだことのある一つの匂いが、現実的ではないのに実在的なものとして、抽象的ではないのに観念的なものとして現在と過去に同時に新たに蘇るとき、たちまちにして、いつもは事物のうちに隠されている永遠の本質が解放され、時には長い間死んでいたように思われていながら実は死んではいなかった我々の真の自己が目覚め、そして自己にもたらされた天上からの糧を受けながら生気をえるのである。時間の秩序から解放された一瞬が、それを感じるために時間の秩序から解放された人間を、われわれのうちに再創造したのである」(マルセル・プルースト『見出された時』Le temps retrouvé、第二巻、十六頁)。(以上は岩波文庫『時間論 他二篇』九鬼周造著、小浜善信編、2016、p48より引用)
無論、実際の句の表現に厳密に即して鑑賞していく立場からすると(そして以前の私はそういう立場に立とうとかたく決めていたのだが)、この句を「無限の表現」として読む九鬼の考えは容易には受け入れがたい。しかし、橘の香りと「いつの野中の」ほととぎすとの取り合わせが私に与えた印象を、九鬼の、またプルーストの言葉は確かに言い表してくれているように感じる。単純な景の描写には収まらない重層性が、俳句をより面白く読ませてくれるのかもしれない。よく「瞬間を切り取る文学としての俳句」ということが語られるが、時間性と俳句の交わりは、単純に一瞬、瞬間ということから語られると、浅く薄いものになってしまいがちである。実際に描写される瞬間と、そこから私たちが受ける印象としての時間には大きな差がある。掲句自体は、橘とほととぎすの取合せの具体的景の季節の実感を伴いながら、同時に「なにかを回想すること」の共感へ私たちを引き入れる強さを持っている。

こう考え込んでいくのも悪くないが、やはり読んだ時の第一印象というのは重要である。最後の句は、私が大学で所属しているサークルの会誌に投稿された、新入生の句である。

この句を読んだ際の状況を簡単に説明する。久しぶりに顔を出したサークルの例会でせっせと冊子をホチキス止めして、やっと終わった、と思って冊子を捲っていると、俳句が見つかった。普段は小説や漫画、イラストばかりのサークルなので以外に思いつつ句を読む。作者の一回生がすぐ目の前にいたことに、あとから気づいた。感動して声をかけた。

誰を見る ぢつと灼けてゐるゲバ字 八橋大社(創作サークル「名称未定」『幻想組曲vol.70』掲載「夏標Ⅰ」)

何より予想外のところから俳句をしている人が出てきてくれたのが嬉しかったのだが、それ以上に、簡単には型にはまらないのびのびとした句の面白さに心を奪われた。

良い物に出会った時は純粋な衝撃がはしる。主題も表現も、どこか京大俳句的なところ、あるいは新興俳句的なところを感じさせはする。しかし、十七音しかない俳句の中で、突然「誰を見る」と始まり、そこから「ぢつと灼けてゐるゲバ字」へと着地させる転回の上手さに驚いた。とても冷たい氷に触った時に「熱い」と思ってしまう、いや、実際には純粋な驚きがやってくるように、あまり見ることのないタイプの俳句に出会うと、その実態がどうあれ「驚き」が先に来る。そういう句は改めて読んだ時に「なぜ面白く感じたのだろうか」と疑問に思ってしまうことも少なくないのだが、掲句はそれに耐えた。

いったい誰が「誰を見」ているのだろう。それを問いかける作者の立ち位置はどこだ。「ぢつと灼けてゐるゲバ字」が、見る者か。見られるものは私たちか。じりじりとさす夏の日に照らされて熱くなるゲバ字の看板。実景としてはそうであるが、さまざまな(政治的・社会的な)意味を想像させてくれそうであり、同時にどのような解釈も素直には受け付けようとしない硬さがある。このくらいの情報不足は、案外俳句に馴染む。何度も読み返したくなる句である。

まだまだ俳句は面白い。これからも、面白いものに出会える。そういう救われた気分がした。金もないし、プレステ4の世話になるのは当分先になりそうだ。

海外の俳句の魅力 コロナ・エルジビエタ

海外の俳句の魅力 

コロナ・エルジビエタ


イントロダクション:

ポーランド人で日本文学を研究している者として、私の最初の俳句との出会いはポーランド人によるハイクでした。自分の好きな海外の作品を選んで、その魅力を紹介したいと思います。個人的な好みに沿って選びましたが、それを通して外国語のハイクの楽しさが伝われば何より嬉しいです。海外の俳句・ハイク・Haikuは言語、文学と文化の境界線を歩むとよくいわれています。しかし、それはいかに作品に現れるのか、見ていきましょう。

1.

ポーランド語で最初にHaikuと呼ばれた作品は1975年にLeszek Engelking レシェック・エンゲルキングによって作られました。エンゲルキングは日本の俳句の形式を模倣し、17シラブルの作品を作り始めました。彼の俳句の中で、私の好きな作品は以下です。

Autobus zimą
Kto napisał na szybie
Poemat bashō


Autobus do Hotelu Cytera, 1979
Antologia polskiego haiku, red. Ewa Tomaszewska, Nozomi, Warszawa 2001, str.56

上記の句の直訳は下記です。

冬のバス 
誰がガラスに書いたのか
芭蕉の句   

    
また、エンゲルキングの意図に従い翻訳を俳句の形式に変形すると、以下のような形が考えられます。
  
冬のバス
ガラスに書かれた
芭蕉の句     
         

想像できる風景は、おそらく冬の寒い日に暖房で曇った窓ガラスに誰かが芭蕉の句を書いたと言うことだと考えられます。窓ガラスの句は日本語の原文だったのか、それともポーランド語の翻訳だったのでしょうか。芭蕉のどの句だったのかは読み手に任されています。大切なのは、芭蕉の句を書いた者と、芭蕉の句を一目見て分かった者が知らないうちに寒いバスの中ですれ違ったことです。二人を繋げているのは400年前に詠まれた芭蕉による伝言のみです。その幸運の縁、いわゆるSerendipity、一期一会の感覚が句の中に込められています。

2.

現在、ポーランド語で俳句を詠む詩人がますます増加しています。その中で、代表的なのはリシャルド・クリニツキ(Ryszard Krynicki)(1943-)です。彼はポーランド人の詩人で、自分の出版社を経営しつつ、翻訳者としても活動しています。

2014年、クリニツキ自作の俳句と俳句の翻訳を集めた『俳句。名人の俳句』が出版されました。この作品集は三つの部分に分かれており、第一部の „Prawie haiku”(「俳句らしきもの」)と第二部の „Haiku z minionej zimy”(「去った冬からの俳句」)にはクリニツキが創作した詩と俳句が収められています。第三部の „Haiku mistrzów”(「名人の句」)は作品全体の半分以上を占め、クリニツキが訳した芭蕉・蕪村・一茶・子規の句集です。

クリニツキの短い詩の中で、様々な形式で現れたとしても、俳句の創作と翻訳の際には五七五シラブルの句の形を守っています。以上の句集から好きな句は以下の句です。

W skrzynce na listy –
dziś, prócz reklam, rachunków:
skulony pająk.

In the postbox –
Today, apart from bills, leaflets:
A curled up spider

郵便箱 ―
今日、請求書やチラシの他:
蜘蛛が身を丸める


ポーランド語らしい句ですね。ダッシュなどは切れ字の役割を果たします。句の味は、サプライズから生まれてきます。季節は秋と推測します。蜘蛛は隠れる場所を探し、郵便箱に身を丸めています。そして、私たちは郵便箱を開き、小さな、可愛らしい蜘蛛に驚き、日常生活の疲れから少し休息を取り、季節の変化に気づきます。

3.

さて、ポーランド語の17シラブルのハイクはたくさん作られていますが、ポーランド語で日本の俳句を詠むことは可能でしょうか。その質問にワルシャワのクズ・ハイク会(葛俳句会)に参加しているポーランドの詩人たちが答えようとしています。

ワルシャワのクズ・ハイク会というのは、アグニエシュカ・ジュワッブスカ=梅田が指導している詩人・俳人のグループです。アグニエシカ・ジュワフスカ=梅田(1950 - )はワルシャワ大学准教授で日本文学の翻訳者で、Poetyka szkoły Matsuo Bashō (lata 1684-1694), (Warszawa : Wydawnictwo Neriton, 2007)(『松尾芭蕉派の詩学(1684-1694)』)という研究論文を出版し、松尾芭蕉の『笈の小文』や『更級紀行』などをポーランド語に訳しました。

クズ・ハイク会は2009年の「日本文化の秋」と2010年の「日本文化の春」の際にワルシャワで行われたハイク・ワークショップをきっかけに始め、毎月開催される「Haiku School」(ハイク学校)になり、現在(2016年10月)も活動し続けています。その活動は日本の俳句と詩学講義、俳句の鑑賞などの他、東京の葛俳句会に日本語でポーランド語のハイクを投句することが中心となっています。 

クズ・ハイク会というのは、アグニエシュカ・ジュワッブスカ=梅田が指導している詩人・俳人のグループです。ポーランド語で書かれたハイクを日本語の俳句の理想に近づけるため、アグニエシュカ・ジュワッブスカ=梅田はハイクを翻訳し、日本人の関木瓜 (セキ・モッカ)という俳人の先生に送ります。 関木瓜は日本語訳を訂正し、日本人の俳人の観点から俳句の翻案を創作します。最後にジュワッブスカ=梅田はその日本語最終版を改めてポーランド語に翻訳し、ポーランド人の詩人に紹介します。その再翻訳に関してジュワッブスカ=梅田は「[投句を]なるべく詩的に、また言葉通りに直します。この段階で初めて原文と翻訳の空間に広がるそれぞれの文化の特徴を比較することが出来ます。」と述べています。

ジュワッブスカ=梅田はその翻訳のプロセスとそれによって作られている作品を「文化的な翻訳」と言っています。グループはその翻訳方法を利用して作品を磨くことを目的としています。

その翻訳的な実験の結果、複数の面が現れているHaiku・俳句の一句一句が言語の境界線を越えています。その句を集めた独特の俳句アンソロジー、Wiśnie i wierzby. Cherry trees and willows. Sakura to yanagi. Antologia polskiej szkoły klasycznego haiku『桜と柳。ポーランドのクラシック派の俳句アンソロジー』という作品集が2015年に出版されました。アンソロジーの中ではポーランド語の原作に英語訳と関木瓜の日本語の俳句翻案が加えられ、タイトルを初めとしてこのアンソロジーの全ては三ヶ国語に訳されました。

私は上記のアンソロジーから一つの作品を選びました。2015年2月のIrena Iris Szewczykによる作品です。

bezgraniczna mgła
z drugiej strony wraca
tylko przewodnik

a thick boundless fog
from the other shore returns
only the boatman

亡き兄の霞の果てに消えしまま (季語:霞)


ポーランド語の原作の直訳も紹介しましょう。

果てしない霞
向こう側から戻ってくるのは
渡し守だけ


原作とその英語訳はギリシャ神話に登場するカローンのイメージを連想します。生きている者に見えるのは果てしない霞しかありません。誰かが亡くなり、「向こう側」、つまり、冥界に消え去ってしまいました。

Mgła というポーランド語の訳し方として「霧」「霞」の両方は可能ですが、この句が詠まれた季節などを考えて「霞」のほうが相応しかったと関木瓜が判断したのでしょう。

ドナルド・キーンは、「日本の短詩型文学の魅力」という講義の中で、どうして外国人は俳句を創作しているのかのついて、こう語っています:

「外国人の詩人の中には、俳句でなければ自分の感情や感傷を表現できないという人さえいます。私は、正直なところ、外国人が俳句を作るのはただの遊びではないだろうか、また、日本語の俳句のように面白くもないため、あってもなくても同じことではないかと思っていました。しかし、ある時、知らないアメリカ人からいくつかの俳句をもらいました。その俳句は、亡くなった弟について詠っていました。彼は俳句の形で自分の深い感情を伝えていたのです。季語は入っていないのですが、彼は自分の表現する形として俳句が最も適当なものだと感じていたのです」。(ドナルド・キーン、ツベタナ・クリステワ 『日本の俳句はなぜ世界文学なのか』弦書房、2014年。)

Irena Iris Szewczykの句が作られたのは、作者のお兄様がなくなってからです。以上の引用の実例でもあります。

Wiśnie i wierzby. Cherry trees and willows. Sakura to yanagi. Antologia polskiej szkoły klasycznego haiku, red. Agnieszka Żuławska – Umeda, Polska Fundacja Japonistyczna, Warszawa 2015, str. 37

4.

来日してから、ボルヘスについての講義に参加し、スペイン語の俳句にも触れたことがありました。翻訳の実験を考えるのなら、ボルヘスのDiecisiete haiku「17俳句」の日本語訳を見逃してはなりません。そのスペイン語の句は「傳奇亭吟草」で二つの方法で山本空子と高橋陸郎によって翻訳されました。

私の一番心に突き刺さった句は7番です。

Desde aquel día
no he movido las piezas
en el tablero.

盤上を駒進まざる幾秋ぞ

その日このかた
私はチェス盤の上の
駒を動かしていない


17句のどれも素晴しい俳句の中から最も優れた作品を選ぶのは不可能です。

しかし、最も好きな作品を選ぶのであれば、迷うことはありません。

その俳句の魅力は、言葉の奥に潜む物語にあります。チェスの相手は誰だったのか。なぜ続けられなかったのか。続きが読者の想像力に任かされており謎めいています。

それだけではありません。チェスというものは、私にとって非常に懐かしいものです。子供の時、初めてのチェスの相手は父でした。今、海外に住んでいることもあり、会話をする時間が限られているため、その句は昔のことを思い出させてくれます。

前半は日本語の17音節の形を取り、季語が入っています。なぜ秋なのか、という疑問が浮かぶかもしれません。しかし、私にとって、ボルヘスの俳句に合うのは秋のみです。
秋は、「ああ、また一年が経ったな。」と思う季節です。そのため、句の切なさがより心に浸みわたります。

La cifra, 1ra ed. Buenos Aires, Emecé, 1981.
http://terebess.hu/english/haiku/borges.html

5.

最後に、好きな海外の句を考えると、「桜」を巡る俳句大会の句がおすすめです。桜は日本文化の象徴でもあり、「桜」という季語を選び、そのテーマに纏わる句を募集する国際大会は多くあります。

大会のハイクをすべて薦めるのは、ずるいといわれるかもしれません。しかし、その句は合わせて読むことが何より楽しいのです。なぜなら、そのコンテストに投句される作品からは人の体験を感じることができるからです。

子どもの遊び、結婚、子育て、癌との戦い、老婢、孤独などに渡り俳句は、私以外の人の経験のかけらです。今年のハイクは以下のサイトで見つけることができます。

特に記憶に残った句を紹介するとしたら、以下の作品を選びます。ブルガリアの国際ハイク大会の第二賞(second place)です。桜の魅力をどのように捉えることができるのか、というアーテイストのためらいを表しています。そして、冬の風景に相応しい白黒の木炭画は春の訪れにつれて水彩画に変えられて、色に満ちてきます。

Billy Antonio – Pangasinan, Philippines

cherry trees in bloom
he switches from charcoal
to watercolor
 


Били Антонио – Пангасинан, Филипините
 

разцъфтели вишни
той заменя въглена
с акварел


私が作った直訳と日本語の翻案を紹介します:

直訳:
さくら咲き
彼は木炭画から
水彩画に切り替える。

翻案:
さくら咲き
木炭画より
水彩画



ブルガリアの国際ハイク大会、2016年受賞句
https://vidahaiku.wordpress.com/2016/04/21/second-international-haiku-contest-cherry-blossom/
バンクーバー・ハイク大会、2016年の受賞句
http://www.vcbf.ca/community-event/2016-winning-haiku

参照文献・大会のウェブサイトは各章中に記載しました。

リアルでガチな学生俳句の世界 樫本由貴×小鳥遊栄樹×川村貴子×堀下翔

リアルでガチな学生俳句の世界 

樫本由貴×小鳥遊栄樹×川村貴子×堀下翔


座談会は二〇一六年一〇月一六日、Skypeのチャット機能を利用して収録された。

堀下:では改めまして、そろそろ始めたいと思います。今日は朝早くから集合してくださりありがとうございます。「週刊俳句」で学生特集をやらせてもらえるということで、僕が各地の学生に原稿依頼をしているところですが、この座談会はその企画のひとつです。各地方で書いている学生であつまって、近況を交流したりなんだりしたいと思います。

樫本:じゃあ私から自己紹介を。樫本由貴といいます。一九九四年生まれ、広島市在住。広島大学三年生です。所属結社は「小熊座」。今年の二月から書かせていただいています。俳句を始めたきっかけは高校二年生の時、第十四回俳句甲子園に出場するためでした。あと、広島大学俳句研究会の代表です! よろしくお願いします。

小鳥遊:小鳥遊栄樹です。一九九五年生まれ、沖縄県出身、現在は大阪府で通信制の大学に籍を置きつつフリーターをしています。「里」と「群青」、それから関西学生俳句会「ふらここ」に所属しています。高校三年生の時に俳句甲子園の人数合わせに誘われたのが俳句を始めるきっかけでした。よろしくお願いします。

川村:川村貴子といいます。一九九七年生まれ、高知県出身、高知大学二年です。俳誌「蝶」の同人をしています。高校一年生のときに、俳句をしていた同級生の宮﨑玲奈(現:宮﨑莉々香)さんから、俳句甲子園に出ないかと誘われて、俳句を始めました。大学に入ってからは、四万十で「かっぱ句会」を立ち上げました。よろしくお願いします。

堀下:面識のある方もない方もおられますが、せっかくなのでここで仲良くなっていってください(笑)で、司会は堀下翔です。一九九五年生まれで筑波大学の三年生です。やっぱり僕も俳句甲子園組で、高校時代に小鳥遊さんとは会っています。高校二年生のときに「里」に入って、そのあと「群青」が三年生の時に出来たので、安里琉太に誘われて入りました。大学のサークルとしては東大俳句会に顔をだしていまして、でも茨城で句会をやりたいと思い、玉城涼と一緒に筑波大学俳句会を立ち上げて、なんとか月例会を続けられるくらいでやっています。

○どうして俳句を続けているか

堀下:みなさんとりあえずは俳句甲子園が出発だと思いますが、当時のこと、出場のきっかけ、なぜ今も続けているかなども含めて思い出話をおねがいします。

樫本:げ~十七歳のころとか。もう六年くらい前のことですかね、東日本大震災の年だったはずです。それで、俳句甲子園の地方予選が投句審査だけになったので、チャンスとばかりに出場を決めたわけです。その前年から顧問だった恩師がずっと俳句甲子園出場させてきていた先生だったので。なぜ今も続けているかって言ったらその時の不完全燃焼が続いてるからだと思います。NHKの取材が私の高校、というか私に密着したんですよ。震災の年に、ヒロシマにすんで、初出場の女子高生、はとてもいい被写体ですから。

堀下:NHKは毎年数名の高校生に密着取材しますね。

樫本:私の時は原爆俳句や震災句を要求されましたが結局作れず、同級生だった部長に迷惑をかけました。そのときから「要求されている原爆俳句」と「書きたい原爆俳句」の齟齬と自分の持ってる力の及ばなさが引っかかっていて(というとかっこいいけど悔しかっただけです。大人に言われるままのものを書くうすら寒さとか)今も続けてます。青いな~~~~~(笑)

堀下:そんな事情だったとは知りませんでした。そんな話、普段しないでしょう。

樫本:ダサいからね。こういうものすごく社会的な動機でものを書いてる人を見たら引きませんか?

川村: 私は普段、社会的な俳句をほとんど作りませんが、高知の句会でも八月になるとよく戦争の句を見かけます。原爆を知らない世代が、体験した世代から受け継ぐ文化の意味は大きいと思います。

小鳥遊:「要求されてる俳句」と「自分の詠みたい俳句」が違うって共感できるところがあります。僕も社会的な俳句はほとんど詠みませんが引いたりとか別にそういうのはないですね。

樫本:わ~よかった。

堀下:「小熊座」読みましたよ。〈ひろびろと泉のほとり原爆以後〉(二〇一六・八)。

樫本:予習されてて怖い……。

堀下:じゃあ小鳥遊さんのお話を伺いましょうか。

小鳥遊:僕の場合は、震災で俳句甲子園の地方予選が投句だけになった年に先輩方が上がれずにそのまま引退しまして。部員が三人になったところを小学校から一緒だった部長に「愛媛に行けば蛇口からポンジュースが飲める」と誘われて俳句を始めました。松山のタクシーの運転手に聞いたら、そんなことはないと言われたのを覚えています。夢が砕け散りました。高校生の頃は俳句甲子園OBの本木隼人さんに俳句を教わっていました。

樫本:きっかけ自体はよくあるパターンのやつですね。蛇口から……ではありませんが、ポンジュースが飲み放題というのは私も当時言われました。

川村:私も俳句甲子園でたら飲み放題だと言って友達を誘った記憶があります。

小鳥遊:何故今も続けているかというと、やめるほどでもなかったっていうのが一番しっくりきますね。僕の場合は進学で関西に出てきて「ふらここ」に入ったので、続ける場がないとかであまり悩まずに自然に俳句を続けられました。

樫本:やめるほどでもなかった、というのは私も同感です。続ける場があるのは関西のいいところですね。広島は結構苦労しています。

川村:私の場合は、高校時代お世話になった俳人の皆さんに支えられてなんとか続けています。小鳥遊さんのように、場所を移っても俳句に関わり続けるのはすごいことだなと思います。

樫本:えーきさん、私の中では関西に出てからも俳句一筋って感じ。ふつうはわき目とか浮気とか、他に興味が出てきちゃいそうですが。

小鳥遊:浮気というかなんというか、神戸大学短歌会に所属して短歌も少しだけ齧っていたりします。

堀下:川村さんは俳句甲子園に出たあと地元の「蝶」で続けてますよね。「蝶」に入った経緯などはどうなんでしょう。

川村:高校時代に指導してくださった味元昭次先生が「蝶」の代表で、同人になる前から何度か俳句を掲載していただいていました。大学に入ってすぐに、先生に入らないかとお誘いを受け、そのまま入らせていただいたという感じです。

堀下:自然な流れだったんですね。結社の定例句会とかには行ってるんですか。

川村:年に一度の大会には参加させていただいています。あとは、味元主宰の、月に一度開かれる兎鹿野(とがの)句会に参加しています。

堀下:なるほど。樫本さんは「小熊座」ですけれど、小熊座って宮城の結社じゃないですか。なんでまた広島の人が入ったんですか。

樫本:俳句甲子園や全国高校生文芸コンクールで高野ムツオの存在は知ってました。『萬の翅』が出て、「車にも仰臥という死春の月」をみて、高野ムツオという人間ほど土地と土地にかかる圧倒的なイメージを考え続ける人はいないだろうなと思って。去年の十月に夏井いつきの俳句のイベントが松山であった時にお会いして、ぜひともとご挨拶しました。あとこれは裏の理由第一位ですが顔が好みです。

小鳥遊:裏の理由(笑)

樫本: 大事ですよwww 自分で選んで入ったので、句会とかにはいけませんがよかったと思っています。今の「小熊座」ほど震災句を書き続けている雑誌はないですから。

小鳥遊:僕は十八歳の時に、毎年一月に行われる「里」の寒稽古に参加して、その時に「里」にも「群青」にも所属されている櫂未知子さんと仲寒蝉さんにお誘いを受けて入会することにしました。

堀下:あ、同時入会だったんですね。「里」は関西の句会多いですが、通ってますか。

小鳥遊:関西で開かれている月例の句会は三つですが、アルバイトが休みのタイミングでしか参加できていません……。なかなか土日に休みがとりづらく……悔しい……。

○平成九年度俳句会とは?

樫本:これからの学生界隈は「平成九年度俳句会」のメンバーがどうするかだと思うけどね。

堀下:でた、「平成九年度俳句会」。

樫本:出さないとダメでしょwww

小鳥遊:めちゃくちゃおもろいのに外部に全然出回らないからなぁ……。もったいない。

堀下:浪人生の上川拓真や早稲田の青山ゆりえあたりが全国の同年度生まれに声を掛けて作った集団で、季刊で会誌を出していますが、閲覧を会員に限定した同人誌ということで、外部の人に全く行き渡らず、知る人ぞ知る、という感じになっています。

小鳥遊:もったいない。

樫本:「平成九年度俳句会」は年始にまとめ号が出るらしくて、それは外部も購入可能なようです。ここの功績は地方に散らばった学生をほぼ網羅しているところだと思います。若手が多いと言われてる「里」や「群青」でもまだ地域には偏りがあります。「どこに誰がいるの?!」という、黒岩徳将一人だけが解決しようと奮闘してきた大問題(堀下註:「いつき組」の黒岩は高校生・大学生の動向にやたら詳しい)をアッサリ……SNS世代を感じます。ダメなところは何やってるかわからないところ。

川村:最近Twitterで存在を知りましたが、確かに部外者からすると活動内容は見えてこないですね。

堀下:会員制でやるならそれでいいと思うんですが、出し惜しみする割にTwitterで「締め切りだ~」とか「入稿しました」とか盛り上がってるので外野がウズウズするんです。

小鳥遊:今までの学生俳人って、結社や同人誌、進学先、例えば広島なら広島大学俳句研究会、関西なら関西俳句会「ふらここ」、沖縄なら琉球大学俳句研究会「a la carte」、関東なら各大学の俳句会にそのまま入会するのが普通だったと思うんですが、H9俳句会って同期で集まって立ち上げた会だから、直接会って句会するのは難しいかもしれないけど、全国にいる自分と同年代の俳人の俳句が読めるんですよね。それってすごい大きいことだと思うし、なんなら僕の代にも欲しいくらい。

樫本:新しい集まり方を提供したのは革新的だと思いますよ。

堀下:気安い仲間の中で年に四回も会誌を出すとなると、内部で充足して、他のコミュニティとの交流に興味が向かないのでは、という気はします。

樫本:編集長(青山ゆりえ)は外に出したいみたいだもんね。広島大にも「平成九年度俳句会」の子がいるのでいろんな情報教えてくれます。載せられる人の俳句だけでも公式Twitterアカウントでちょっと出せばいいのにね。

堀下:中の人に聞いてみると、なかなか足並みがそろわないそうです。

樫本:人数いるとそういう問題が起きるんだよねえ。

堀下:新人賞に出したいから作品は未発表にしておきたいけど、こういう集まりには協力したい、そういう声があって「外部には見せない紙媒体」というちょっと珍しい形になったとか。新人賞に出そうという人が何を甘ったれたことを言っているのかと思いましたが。

小鳥遊:多作多捨や。

樫本:多作多捨俳人こわ……。全学年が分かる機関紙みたいなのもあるといいですね。

堀下:短歌の方だと合同合宿が機能していて、年に二回くらい、学生が学年を問わず結集しているみたいですね。俳句にも合宿とか年刊の会誌みたいなのがあると面白そうです。

○かっぱ句会

堀下:川村さんがやっておられる「かっぱ句会」のお話を伺いたいです。

川村:兎鹿野句会では、俳句だけではなく、昭和を生き抜いてこられた七〇、八〇代の方々からたくさんのことを教わります。こういう世代間コミュニケーションがもっと多くのシニアや若者の間で活発になれば、地域で生きる人たちの心がより豊かになるんじゃないか、そういう活動をしてみたいと、大学入学後より漠然と考えてはいました。 今年八月、四万十町にある海洋堂・かっぱ館の隣に、かっぱ館の宮脇館長が、茅葺屋根の古民家を造られました。宮脇館長に、その古民家で世代間交流を行える句会を開催したいと相談したところ、ご快諾いただき、俳句の先生や海洋堂のスタッフの方々にもご協力いただきながら、九月二十五日に三十三人が参加するかっぱ句会を実施することができました。このかっぱ句会を実施して、小学生から八十八歳までの世代の人たちが揃って俳句を楽しみながら交流ができると実感できました。

樫本:館長の方とはもともとお知り合いだったんですか?

川村:館長とは、母が仕事で付き合いがあって、紹介してもらいました。

樫本:なるほど。

川村:今回のやり方で継続するだけでは参加者が熟練の俳人に偏っていくかもとも感じています。NHKの学生俳句チャンピオンのようにエンターテイメント性なども取り入れて、俳句に興味のない若い人たちでも興味を持ってくれるような仕掛けが必要だという気もしますが、そうすると今後はシニアの参加が厳しくなる。そのあたりのバランスを考えつつ、今後、大学で協力者を募りながら、高知だからこそできる新しい俳句交流のスタイルを模索している段階です。

樫本:地域での自分の役割は私も思うところがあります 世代間の交流なんか特に。原爆体験の継承の問題がありますから……。広島で一番長く続いていた「火皿」という詩の雑誌に入っていたのですが、世代間の「原爆体験」にはもちろん齟齬があって、その中で私の詩や俳句は、若手が原爆体験を書いたという事実、あるいは「原爆」という文字が入っていること、それだけで評価されてしまうんですよね。地域活性化のための句座と、詩歌のレベルアップの場を両立させていくのは難しい問題だなあと痛感しています。川村さんとしては今後何を一番にかっぱ句会やりたいですか。

川村:そうですね。まずは、俳句に興味がない若い人たちに俳句に触れてもらう場としてかっぱ句会を行いたいと思っています。

樫本:一人で大勢のおじいちゃんおばあちゃんの期待の目にさらされるのはしんどいものがありますからね(笑)

川村:高知は、昔は文芸が盛んだったのですが、今は漫画やサブカルチャー寄りになってしまっています。若い人が俳句、あるいは文学というジャンルを前にしたとき、とても敬遠している気がします。なので、フィギュアを取り扱う海洋堂と協力したのは若手をターゲットとしたときに大きい意味を持つと考えています。

樫本:そうか、海洋堂ってフィギュアの!

川村:今回のかっぱ句会でも、参加賞に岡本太郎のフィギュア、特選句と高得点句にレアフィギュアを館長がご用意くださっていて、とても反響がありました。

樫本:カルチャー教室になっていきそう。でも地方はそういうのからスタートしてまず人口増やさないと話になりませんもんね。「火皿」も歴史ある詩誌でしたが高齢化で今年廃刊します。

川村:理想は、一方的なカルチャー教室というよりはサブカルな句を作る若者と伝統的な句を創るシニアの間の対等な交流の場を作ろうと思っています。

堀下:小鳥遊さんのいる関西はそういった若手の不在はなさそうですが、逆に年配層との交流はどれくらいあるのでしょうか。

小鳥遊:「ふらここ」の場合はほとんど学生や若手だけで句会をしていますね。関西現代俳句協会や「里」などの句会に行くと年配層と交流がありますが。

堀下:「ふらここ」の定例句会ですと学生はどれくらい集まりますか。

小鳥遊: 多い時で八・九人くらいかなぁ……。定例会以外だと、僕や黒岩さんは関西の結社句会に参加しています。「青垣」、「南風」、「秋草」、「船団」など、バイトの休みに合わせて。黒岩さんはこれプラス「街」(関東)と「火星」かな。

樫本: ひえ~さすが。私はメール句会が精いっぱいで(笑)

小鳥遊: あとは毎月第一土曜に「銀化」の小池康生さんが主催されている枚岡句会にも参加させていただいてます。 関西・関東はほんとに句会がたくさんありますね。沖縄では考えられないです。

堀下:だんだん地方の様子が見えてきました(笑) ちなみに東京は東大と早稲田がインカレで学生を吸収している他、現代俳句協会の勉強会や本の出版記念イベントなど、句会以外の集まりも多いです。

川村:いいですね……。

堀下:一方、そうした距離を超えて、いまはSNSがありますし、俳句甲子園の手伝いや「学生俳句チャンピオン」の収録など、大人数が集結するイベントも多くて、地方を問わない同世代意識みたいなものもあるんじゃないかと思うんですが、その辺どうですか。

樫本:私の同世代(平成六年度)は平井湊、宇野究、小鳥遊栄樹、工藤玲音と力のある学生がいます イベントがなかったら出会いませんでしたし、SNSで彼らの活動がより目に見える形になりました。

小鳥遊:SNSでのつながりが年々濃くなっているように感じます。俳句甲子園に観戦に行けばオフ会みたいなことになったりもします。インターネット上で簡単に句合わせや句会ができたりするのもとてもいいと思いますが、マナーやモラルが若干心配なところもちらほら……。

樫本:ネットマナーについて同感です。私も時々参加してしまいますが、若手はTwitterで論議をしがちですよね。

堀下:このあいだは「週刊俳句」コメント欄からBL俳句に対する問題提起が起って、それがTwitterに飛び火しましたが、そもそもが「週刊俳句」の記事から始まった話だと知らないで論争に参加していた人を数名見かけました。

川村:今、IoTが一般化していますが、その技術で今日のような座談会も実現しています。全てのものがどこにいても誰とでもつながる時代。そういう考え、技術が俳句の新たな世界でも活かされるべきだと思っています。言うなれば、オープンカルチャー?(笑) 玄人も初心者も同じネットワーク内でつながることで新しいものを生み出していく、それが地域の力にもなればと思っています。

堀下:あ、そうですね、ネットの便利さを享受しているのは若い人だけではないですね。

小鳥遊:最近では句会でご一緒する年配の方々ともTwitterでつながれるし。

○気になる学生は

樫本:座談会はこの四人ですが、みなさんの気になってる学生を知りたいですね。

小鳥遊:そうですね、今年ふらここに入会した名古屋高校OBの柴田健くん、松山西OGの大瀬戸絢子さん、あとは徳山OGの野名紅里・美咲姉妹あたりが面白いかなと思ってます。全員「平成九年度俳句会」に在籍していて、ええと、どうしよう、句の引用ができない……(笑)

樫本:関係者見てるか! これだよ! これ!

堀下:だからH9はさっさと本出せって……。

小鳥遊:もう少し僕たちに近い学年のところでいえば愛大俳句会の羽倉拓摩くんとか脇坂拓海くんとかも面白い俳句を詠むと思います。あと一押しは京都の淺津大雅。

樫本:愛大は外せませんね、たしかに。脇坂くんは句が面白い。九州には森優希乃と山崎七海がいます。山崎七海はぱっとでてきてパッと消えるんですよ。このあいだ関西現代俳句協会青年部のホームページに出していた「羽もたぬ背」(http://www.kangempai.jp/seinenbu/haiku/2016/08yamazaki.html)とかね。作品だけ出して(笑)

川村:森優希乃さんは、俳句甲子園の同じ時期に出場して以来、とても気になっています。〈鰐の背にたまつてをりし冬の水〉(第十六回神奈川大学全国高校生俳句大賞)は衝撃的でしたね。また彼女の鋭い観察眼の句が読みたいです。

堀下:和歌山の辻本鷹之はしばらく名前を見ませんでしたが、今年に入ってまた「銀化」に出しているようです。〈天球にさくらのはじめをはりかな〉(「銀化」二〇一六・七)。

小鳥遊:辻本君は学校が忙しそうだもんね…

堀下:同じく「銀化」の学生では永山智郎がこのあいだ巻頭をとったりしていて外せません。これはその時の句ではないんですが、〈流れざる星空に春尽きにけり〉(「銀化」二〇一六・七)という近作が好きで、よく口ずさんでいます。この他、東京では「狩」の川島ひろの〈蟬時雨父の書斎に本を借り〉(二〇一六・十)や「海程」の六本木いつき〈噴水よ僕は子どもでオオカミで〉(二〇一六・十)も好きです。

樫本:「海程」にも若手が……。

堀下:「海程」には、もう大学は卒業しちゃいましたけど早稲田俳研の伝説的なOB高田獄舎もいます。〈貧乏は巨大な島のごとく 夏〉(二〇一六・十)。この人も少し前に巻頭を取っていました。

小鳥遊::獄舎さんはネットプリント「東京愚輪」がすごかったですね。沖縄は浦添OGの西原ゆうきさん、首里OGの福村みなみさんなどが頑張っています。二人とも沖縄国際大学の俳句サークルに所属しています。あとは浦添OBの吉田たくまが、沖縄で高校を卒業しても俳句を続けてる人たちを集めて同人誌のようなものを作りたいと言っていて、ちょっと期待しています。

堀下:「樹氷」の工藤玲音は学生ながらファンも付くくらいに注目されています。

川村:私も玲音さんのファンの一人です(笑) ツイッターでは私生活の一部のように短歌や俳句も呟かれていますから、こちら側が文芸を文芸と構えることなく読めるところが素敵です。

樫本:俳句というもののイメージを一新する存在だと思います。現代的で、あかるく、コミュニケーション力があって、どんな人にも「俳句」っていう文芸ジャンルを広められるキャラクターを持ってる。

小鳥遊:お会いしたことはないんですが、周りの先輩も同期も後輩もいい人だって言ってるし、俳句も短歌も面白いと思います。個人的にはツイッターがキラキラしすぎてて勝手に苦手意識を持っていますが……(ごめんなさい)。

堀下:平井湊と〈港は雨〉というネットプリントを出していましたが、俳句が載っていなかったので賛否両論を呼びました。総合誌や新聞の露出度でいうと学生トップなんですが、「樹氷」(隔月)の方を見ると欠詠ばかりなので「俳句を読ませてくれ~」と思っています。

樫本:「スピカ」の連載は読みましたか? 本人にも自覚があるようですが、〈芍薬は号泣をするやうに散る〉(二〇一六・六・一)のように比喩表現の一手に頼りがちで、気になりました。それは短歌にも現れてます。〈いちご縦に切った断面ぬれていてちいさな炎の模様 せつない〉(ネットプリント「ひかりに満ちる生米」)。

小鳥遊:今座談会の傍らで連載を読んでいて〈比喩に飽きここにゆらせばゆれるゼリー〉(二〇一六・六・一四)に行き当たりました。個人的には〈受話器から耳に降る東京の梅雨〉(二〇一六・六・一八)が一番好きかな。

川村:確かに比喩表現の句が多い印象はありますね。でも、〈春風みたいにしますねと美容師笑ふ〉(「週刊俳句」二〇一六・四・一七)、〈ライバルに会ひ夏風邪を移された〉(「スピカ」二〇一六・六・四)……こういった生活を切り取った句は、十七音を短歌の流れるような心地よさで彼女の世界観にしていてとても好きです。

樫本::彼女の句から、はずっと神野紗希と似ている印象を受けます。神野紗希〈書き置きのメモが落ち葉の光り方〉〈はつなつの音符のような寝癖かな〉(「俳句あるふぁ」二〇一六・四-五)と工藤玲音〈あぢさゐや忘却は巨大なひかり〉(「スピカ」二〇一六・六・.二四)、それから神野紗希〈咲きたてのポピーしわしわ風の中〉(同前)と工藤玲音〈島民を乗せて彼岸の船つやつや〉(「週刊俳句」二〇一六・四・一七)。うまく言えないんだけど、神野紗希が示した表現や感性の領域を越えられてないような……。

堀下:面白い指摘です。こういうふうに同世代で批評しあいたいですね。アクセスしやすい作品が増えると批評も成り立ってきます。このあいだは大塚凱も総合誌に出ていました。

○最近の興味

堀下:これまで同世代の話をしてきましたが、目を移して、上の世代ではどんな人に興味がありますか。最近読んだ句集とか……。

川村:最近だと藺草慶子さんの『櫻翳』です。まず、印象強かったのがこの二句。〈いづこへもいのちつらなる冬泉〉〈一対のものみないとし冬籠〉……泉は命の源を湧き出し続けます。命があちこちで動き回る季節には見過ごしてしまいますが、厳冬、命の動きが止まった時に、その存在に気付く。そして泉は命が爆発する春に備えて、冬の間も沸き続ける。この一句の完成度の高さに感動しました。後者の句、一対のものはどことなく安心感があります。耳、目、手足など。温かな土の中で様々な生き物が一対の体の部位を慈しむように折りたたみ春を待つ景が愛おしく見えてきます。

堀下:実は僕も最近の句集では『櫻翳』(二〇一五)にいちばん驚きました。

川村:前述の二句は前向きな句のイメージがありますが、次の二句には美しさの後ろにある闇に心が惹きつけられました。〈その翳の匂ひなりけり藤の花〉〈白靴や奈落といふは風の音〉。藤の翳が匂うとは! サラサラと揺れる藤の花房の一つ一つが、六条の御息所のような女性を想像させて、翳の香りに絡み取られる様な感覚に落ち入ります。後者、白靴、と言われて自分の足元を見る。すると、目下には真っ暗な奈落があって風だけがそよいでいる。一瞬で景が浮かぶと同時に、得体の知れない闇に対峙したような気持ちになりました。

堀下:日本の古典美を思わせたり、伝統俳句の上質な写生句を思わせたり、かと思えば川村さんが初めに挙げた二句のように、抽象性が高かったり、いろんな句が入っている句集だと思います。

川村:ライトな句もありますね。〈着ぶくれて監視カメラの街歩く〉。たくさん着込んで、その内側に良からぬものや気持ちを隠し置く。そうして、いつでもどこでも見張っている監視カメラに挑むようにして歩く。句から見える作者の悪戯心が他の句とはテイストが違っていて新鮮でした。〈沈まむとしてまろまろと海月の子〉は、「まろまろ」ってオノマトペ、良くないですか! 海月の子が一生懸命沈もうとする姿がとってもキュート。

樫本:私は池田澄子の『思ってます』(二〇一六)ですね。もともと、作者の伸びやかで時折ドキッとするような指摘のある句風は大好きだったので。例えば〈アマリリスあしたあたしは雨でも行く〉〈水羊羹そちらむかぬはNO!ってこと〉なんかは、ぱっと目を引きます。少女らしさを存分に、表現に挑戦するという意味でも、無邪気で何物も恐れまいとするまなざしを感じます。「泣くときの唇伸びて月夜かな」「春昼の鯉の機嫌の泥けむり」「口のなか涼しく欠伸はじまりぬ」などの句は、発見と季語の調和が優しい。一句目の「伸びて」の観察の確かさ。二句目の「機嫌の泥けむり」の「の」は普通だったら「や」にしちゃうかもしれないんだけど実際か本当に「の」が正しいですよね。三句目はひらがなの配置のうまさ。たまらないです」

川村:アマリリスの句、アマリリス・あした・あたし・雨という連続したア音が意図的に、でもいやらしくなく入っていることで、無邪気な少女が見えてきて良いなーと思います。

堀下:池田さんが言葉の細部にどういう気の遣い方をしているのかよく分かる句集になっていました。

樫本:〈春寒の灯を消す思ってます思ってます〉や〈缶詰の鯖の辛抱あすは秋〉などは震災詠でしょうか、でもそれ以外の文脈でも立ち上がります。後者、貧困にあえぐ現代の若者の感じを受けました。こんなふうにどのような文脈ででも成立するよさ。何というか、救われますね。

小鳥遊:僕は藤井あかりさんの『封緘』(二〇一五)です。

堀下:ああ、『封緘』もよかった。

小鳥遊:肩に力の入っていない、ゆったりした作風が読んでいて心地よかったです。〈自転車の人くぐり来し桐一葉〉〈坂の上に秋夕焼の始まりぬ〉秋の章の冒頭の二句ですが、言っていることはほんとになんでもないんですよね。自転車に乗った人が桐一葉をくぐっている景や、坂の上から見える秋夕焼、どれも自然な景で難しいことは言ってないんですよね。でも句にゆとり、想像する余地がたくさん残っていて。

堀下:藤井さんは独特の余白の取り方をしますよね。

小鳥遊:勝手な想像なんですが、一句目の自転車は多分銀色のママチャリで籠に鞄が乗っていたりして。二句目は部活帰りの少年たちが坂の上に見える秋夕焼に向かって帰っていくような感じ。想像する余地がたくさんある句って、読んでいて楽しいですね。比喩の句も面白いんですよ。〈蝶々のつぐなふごとし草の花〉〈彫るごとく柿剝いてゐる漢かな〉。一句目、草の花から草の花をよろよろと飛び移る蝶、蝶が花へ俯きがちに留まる様子は言われてみれば確かに償っているように見えますよね。二句目、黙々と柿を剝いている漢を、彫ると言うことで、なんでもない柿を剥いている様子に臨場感や緊張感、漢の真剣な顔までが見えてくるように感じます。前述の二句は広くふんわり景が見えてくるような句、この二句は句材に焦点が絞られてはっきり景が見えてくるような句に感じます。

堀下:なるほど。みなさんの関心が分かって興味深いです。ここで言い尽くせなかった分はそのうちSkypeで読書会を開いて消化しましょう(笑) 本日は長時間にわたってありがとうございました。

あふれでるもの 碧梧桐の長律句について 青本瑞季

あふれでるもの
碧梧桐の長律句について


青本瑞季


赤い椿白い椿と落ちにけり 『新俳句』(明治29年)
白足袋にいと薄き紺のゆかりかな (同)
この道の富士になり行く芒かな 『春夏秋冬』(明治33年)
虚空より戻りて黍の蜻蛉かな 『新傾向句集』(明治39年)
思はずもヒヨコ生まれぬ冬薔薇 (同)
木蓮が蘇鉄の側に咲くところ 『新傾向句集』(明治44年)
林檎をつまみ云ひ尽くしてもくりかへさねばならぬ 『八年間』(大正7年)
曳かれる牛が辻でずつと見廻した秋空だ (同)
ポケツトからキヤラメルと木の葉を出した 『碧』(大正13年)
チゝアン女像にミモーザはローマの春のゆたに挿し (前書きに「ローマ回想」) 『三昧』(昭和5年)  *原文は「女像」に「ヲンナ」とルビ――引用者注
紫苑野分今日とし反れば反る虻音まさる 『三昧』(昭和6年)  *原文は「野分今日」に「キノフケフ」、「反」に「ノ」、「虻音」に「ネ」とルビ――引用者注
老妻若やぐと見るゆふべの金婚式に話題りつぐ 『海紅堂昭和日記』(昭和12年)  *原文は「金婚式」に「コト」、「話題」に「カタ」とルビ――引用者注


これらは子規生前から新傾向俳句や自由律化を経てルビ俳句から俳壇引退後の絶筆にいたるまでの河東碧梧桐の俳句だ。ざっと眺めわたしても碧梧桐の句風は大きく変わっていてどれか一つからその作家性を語るのはむずかしい。統一された碧梧桐らしさというものがあるなら、作品そのものよりその作句姿勢に通底する理念のうちにあるだろう。

『新傾向大要』(明治41年)の最後に、

文学の堕落は多く形式に拘泥するに始まる。〔…〕当代の俳句も多数作者の句を見ると、已にある形式に囚われた感がある。陳腐山をなし、平凡海をなす。この現状の打破は矢張「真に返れ」の声より外にはない。個性の研究はやがて事相の真を捕えることである。
とある。また、『二十年間の迷妄』(大正14年「三昧」創刊号)では、定型から離れ始めた時期を振り返って、
俳句の堕落した前轍をふむ径路に気づかなければ、明日にでも天保調とは別な、形を変えた明治の月並みになってしまう、というのが私の最初の悩みだった。〔…〕
始めて光明を認めたような気がしたのは、それまで絶対であった、五七五の定型を破壊し突破する運動だった。つまり私の悩みは、既成芸術の伝統性が爛熟した権威を持つようになれば、そこに自己を無視した概念化が生れ、同時にその滋味に溺れる遊戯化が匂って来る。自己の心情を詐わり、自己の要求を抛棄しても、それは詩に対する当然の犠牲だと考える、その危険性に対する目覚めだった。自己表現の芸術の要諦に立って、我が個性を純化する要求に萌していた。一言にして尽くせば、真を求める心だった。
と書いている。『新傾向大要』『二十年間の迷妄』の間には十七年経っているが一貫して”個性”、”真の追求”というものを重要視している。同じく『二十年間の迷妄』に〈真を求めることは、我々の生活に流れている感情の実体を求めることである〉ともあるので、自己の感情を純化して表現したところに個性があらわれるような書き方を理想としていたといえるだろう。その俳論を追っていくと、碧梧桐の俳句に真骨頂というものがあるとすれば、型の遵守をやめて自己感情を書くことに重きを置きだしたところ、抒情があふれるように韻律もまた定型をあふれていくような俳句を書くようになったところにあるのではないだろうか。

そういうわけで、前置きが長くなってしまったけれど碧梧桐の長律(辞書的な意味とは違うが便宜上この文章の中ではそう呼ぶ)の俳句を見てゆきたい。碧梧桐の長律句を読んでいくと時間に関わる表現が多いのに気づく。

牛飼の声がずつとの落窪で旱空なのだ 『八年間』(大正7年)
お前に長い手紙がかけてけふ芙蓉の下草を刈つた (同)
曳かれる牛が辻でずつと見廻した秋空だ (同)
梨売りが卒倒したのを知るのに間があつた 『八年間』(大正8年)
ミモーザを活けて一日留守にしたベツドの白く 『八年間』(大正10年)
散らばつてゐる雲の白さの冬はもう来る 『碧』(大正13年)


〈牛飼いの声〉〈曳かれる牛〉の句の中の”ずつと”には定点として描かれた今からはみ出して、過去と未来にひきのばされてゆく時間がある。牛飼いの声も曳かれてゆく牛も描かれる前からそこに長くあったし、描かれたあとにいつまでもある。じりじりと乾く窪地の中に牛飼いの声だけがずっとあるような、人に曳かれる牛の視線の痕跡がいつまでも残るようなせつない時間。反対に、〈梨売りが〉の時間は短い。眼前の梨売りがいきなり倒れ、その驚きでその瞬間は事態がのみこめていないが、また次の瞬間に梨売りが倒れたそれは卒倒だったのだとわかり、それから最初の瞬間に立ちかえって驚きによる認識の遅れを認識する。驚きが認識の時間をわずかにずらした刹那の時間だけがそこにある。

〈お前に長い手紙が〉〈ミモーザを活けて〉の場合、その中で描かれるのは”けふ”、”一日”という限定された時間だ。抑制からわずかにあふれた書きぶりで、手紙を書いた時の感情がそのまま下草を刈るときまで続いている、そんな幸福感に今日という日が満たされていく。また、宿の自室に戻って歩き回って疲れたところにミモザの黄とベッドのシーツの白が鮮やかであって一日が旅愁の中に思い出される。振りかえられるとき抒情とともに一日の時間がさかのぼられてゆく。

〈散らばつている〉の句は、”もう”を除いてしまって”冬は来る”を”冬が来る”にしてしまえば上五が字余りにはなるが違和感なくほぼ定型に近いかたちで読むことができる。だが、それでは、”来る”という表現の仕方からしてそもそも冬は描かれた時点にはまだ存在しないものであるのに、”もう”によってはっきりと示される冬とのわずかな隔たりが見えにくくなってしまう。“もう”があることで、感慨の対象が冬が来ること自体から、冬の訪れまで間がないことにうつるのだ。この俳句は定型に即していては捉えきれなかったであろう時間的な隔たりをしっかりと捉えている。

定型をはみだすことは表現の過剰によって句の抒情を損ねたり、視線の繊細さを隠してしまったりする危険を冒すことでもあるが、碧梧桐の長律の句は饒舌になることをまぬがれて定型にとどまって書くのとはまた別の抒情を獲得することに成功しているのだ。

※文中の碧梧桐の俳句はすべて岩波文庫の栗田靖編『碧梧桐俳句集』による。

中村汀女・星野立子に見るヒロイン像 『中村汀女・星野立子互選句集』 坂入菜月

中村汀女・星野立子に見るヒロイン像
『中村汀女・星野立子互選句集』

坂入菜月


戦後間もない昭和22年に発行された『中村汀女・星野立子互選句集』という句集がある。内容はごくシンプルなもので、まず立子選の汀女116句と立子による「汀女さんの句」という文章があり、後半に汀女選の立子108句と汀女による「立子さんのこと」という文章があるという構成だ。まえがきもあとがきもなく、ともすると二人の間だけで完結しているような本である。

だが、この二人を結び付けているのは単なる友情だけではない。というのも、二人を姉妹扱いし、かつてお互いが独立して出した句集についても「姉妹句集」として同じ序文を書いた仕掛け人がいるのだ。高浜虚子である。そもそも近代俳句における女性俳句の発展は、その大方が虚子の仕掛けたところによるものであり、大正9年の『ホトトギス』8月号において「短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてつちまおか)」を含む竹下しづの女の7句を巻頭に取り上げて以来、長谷川かな女や杉田久女など女性俳句の源流となった俳人をバックアップしてきたのは他でもない虚子なのである。

汀女と立子はその虚子の手によって引き合わせられ、姉妹のような関係を色濃く売り出された。大正初期から昭和初期にかけて活躍した俗に言う4T(中村汀女・星野立子・橋本多佳子・三橋鷹女)、そして同時期の他の女性俳人を見渡しても、このような「セット売り」を施された者は汀女と立子の他にはいなかった。なぜこの二人だったのか。筆者はこの二人のヒロイン性に注目した。二人が同時に作品を発表することで、それぞれの持つ異なったヒロイン性がひとつの像を成し、戦前・戦後の社会にあった女性たちの現実と憧れを両立させた女性像が現れるのではないだろうか。虚子のもくろみを意識しながら、戦後・ヒロイン性をキーワードに、互選句集をひもといていこうと思う。

汀女と立子には根本的な性質の違いがあり、どちらもそれが作風にもあらわれている。

うたたねをわが許されて蜜柑咲く  汀女

汀女は生活からの取材に重きをおいて作句をしてきた。電気釜も洗濯機もない時代の女性の生活といえば、家事育児をこなすことに終始していたことだろう。俳句を含め、女性が趣味に時間を割くことは容易ではなかった。女性の俳句に対して「台所俳句」という揶揄の言葉が生まれた背景には「家事もほどほどに自分の趣味にかまけているなんて」という皮肉があったのかもしれない。そういう時代に汀女は俳句を書いていた。それが戦後の女性たちに親近感を持たせた。汀女の作品にはリアルな女性の面が表れており、しかもそれが詩によって生き生きと描かれている。上記の句の「許されて」という表現にはそういった時代の事情が読み取れる。それだけでは風刺的な意味合いを強めるだけであるが、季語に蜜柑の花を持ってくることで、家事の合間の束の間の休息にささやかな幸福感を醸し出す。汀女の持ち味は、当時の女性のリアルな顔を持ち且つ世の女性たちが女性俳人に親近感を覚える生活からの取材だったのではないだろうか。汀女の俳句に描かれる女性は、当時の女性にとって自己投影の対象になり得たのだ。

一方立子は当時の女性の憧れを一手に担うというヒロイン性を持つ。

近よれば髪の上まで萩の花  立子

天真爛漫な詠みぶりが特徴的な立子の句は、汀女の句と比べて圧倒的に生活感がない。立子は虚子の次女であり、兄弟の中で唯一虚子に俳句を勧められた。しかし作句開始は意外にも遅く、結婚した次の年(大正15年)からであった。

ちなみに汀女は大正9年に結婚し、次の年に夫と上京。その年から約10年もの間句作を休止する。作句休止のはっきりとした理由は語られることが少ないが、汀女の結婚直前に杉田久女が汀女のもとを訪れていることを考えると家事に専念するためだったと推測できる。というのも、当時の久女は夫と不仲の状況にあり、その一因となった俳句を一時的に休止していたのだ。そんな久女が汀女に結婚生活について何らかのアドバイスをするはごく当然なことである。かくして汀女は最後まで円満な家庭を営むことができたのであった。

この点において汀女と立子は真逆である。立子は結婚してから俳句を始めた。作家の父を持つ夫のもと、それが許される環境であった。立子の描き出す天真爛漫とした自由な女性像はまさしく当時の女性たちの憧れであっただろう。あるいは、俳句をやってみたいと思う女性たちにとっての憧れであったと考えられる。先の句でも、ここに「髪の上まで」という把握を用いるのは立子ならではの明るさである。かといってナルシシズムに傾倒することもなく、あくまでさっぱりと「いい女」を書き上げてくれる。これが女性たちには響くのであった。

立子は「汀女さんの句」の終わりにこんなことを書いている。

汀女さんの句と恐らく一番反対な私の句とが同じ一冊の本の中に組まれてこんにち世に出るといふことは、不思議のやうでありながら、私には当然のことのやうな気持ちもする。
立子は、自分の句が汀女の句と対称的な位置にあることを指摘し、それが「当然のことのやう」にも感じられると書いている。果たして本当に「一番反対」であったのだろうか。汀女と「一番反対」だったのは立子ではなくむしろ久女だったように思う。そもそも汀女が立子と出会ったとき、立子は既に俳誌「玉藻」の主宰をしており、肩書的には「ホトトギス」同人でしかなかった汀女より俳人としていくつか上のステージにいた。一方久女は「ホトトギス」同人となった時期は汀女と同じである。また汀女はかねてより久女を慕っており、句作を始めたばかりのころにファンレターを送ったこともあるくらいであった。作風に関しても、汀女の素朴な家庭の女性像と久女の優艶でナルシスティックな女性像とでかなり対称的な関係にあり、それこそ「一番反対」と言うに相応しい位置関係ではないだろうか。

久女の俳句には、戦後の変わりゆく社会の女性に発信するメッセージに決定的に向かない性質があった。久女の句は力強く女らしい女性を連想させるが、その裏には常に男性からの抑制への反発があった。

戯曲よむ冬夜の食器浸けしまゝ  久女 (『ホトトギス』大正11年2月)

こういった句では、汀女の句と並べても新しい時代の自由な女性の像は立ち上がってこない。このことからも、立子と汀女を組み合わせた虚子のもくろみとして、新時代の自由な女性像を女性俳句のシンボルにしようとする意図があったことがわかる。

もちろん、虚子が久女を採用しなかったことには、その間にある確執が関わっていないとも言い切れない。が、今回のテーマからは話が逸れるのでその件はまた別の機会に考察することとする。

囀にぼそと人語をさしはさむ  汀女
囀をこぼさじと抱く大樹かな  立子


戦後の女性たちは、汀女の句に現在の自分を肯定され、立子の句に憧れを抱いた。囀という同じ句材の句を並べてみると、その関係性が顕著に表れる。汀女の方は、その切り取り方こそ汀女ならではの趣があるが書いている事象自体はごくありふれたことであり、誰もが経験したことのあることである。それに対して立子の方は、自分の知らない美しい囀・荘厳な大樹を立子さんは知っておられるのだなあという感慨に至る。未だ見ぬ自由を知っている女性を想起させるのだ。

汀女は「立子さんのこと」の中で次のようなことを綴っている。
やはり(立子と)二人で一緒に作ることは有り難かつた。二人並んで座ると落ちついた気持ちになつて居た。お互いに持たないもの、ちがつたものを見せて貰へることはほんとに幸せと思ふ。
二人は「持っている」だけでなく、ちょうどお互いに「持っていなかった」。汀女には自由さが足りなかったし、立子には生活感が足りなかった。それは至極当然のことである。なぜなら二人は自らが前時代の女性だからである。一人では新時代の女性の理想像になどなり得るはずもなかった。それを確と見抜き、汀女と立子を姉妹的な関係として売り出すことで、いち早く新しい女性の像を立ち上げた虚子はやはり偉大である。

この互選句集からだけでは汀女と立子にまつわる虚子の考えの全てを解き明かすことはできないが、この考察を足掛かりにさらに女性俳句の歴史について研究していけたらと思う。

【参考文献】
・『中村汀女星野立子互選句集』著者代表:中村汀女 昭和22年4月15日 文藝春秋新社 発行
・『女性俳句の世界』著者:上野さち子 平成元年10月20日 岩波書店 発行

久保田万太郎戯曲の展開 福井拓也

久保田万太郎戯曲の展開

福井拓也


初出:「春燈」(2016.9/部分転載)。転載に当たって加筆修正。2016年5月6日に実施された〈久保田万太郎研究会〉の講演録。「春燈」が年に一度開催している同研究会では、研究発表のほか役者による戯曲のリーディングが行われる。

本日は「久保田万太郎戯曲の展開」と題して、少しお話をしていきたいと思います。万太郎は自らの俳句を「「心境小説」の素」(『ゆきげがは』双雅房、昭11・8)と自注しておりますが、ここでの話は私にとっていわば「「研究論文」の素」とでもいうべきもので、論文にするにはもう少し細かく調べて色々と考えねばならないことを、〝おおざっぱ〟に考えていきたいと思います。

まず初めにみてみたいのは「暮れがた」という戯曲の、幕開けの部分のト書きの書き出しです。作家デビューの翌年、明治45年1月「スバル」に発表されたもので、ここには以後の万太郎戯曲の特徴がハッキリと表われています。
賑やかな祭の囃子が遠くゆるやかに聞える。――その遠いゆるやかな囃子の調子が更にだんだん遠くゆるやかになつて続く。音もなくしづかに幕開く。
「遠くゆるやかに聞える」「賑やかな祭の囃子」の音を背景に「三社祭の二日目の午後」の情調が――「誰も皆賑やかな花やかな心持に疲れてしまつて、何かもの足りないやうな心持」が提示されるわけです。こうした情調にもとづいて劇を展開するという手法、これは万太郎自らも述べたように、木下杢太郎の「和泉屋染物店」(「スバル」明44・3)に影響されてのものです。
田原町の生れた家にまだゐたころで、子供の時分から経験して来た祭礼の夕方のとめどない寂寥を芝居にしようとわたしは企てた。だが、その半年ほどまへにあつて木下杢太郎氏の『和泉屋染物店』が発表されなかつたならば、おそらくわたしにこの作を書く運びはつかなかつたらう。〔……〕〝和泉屋染物店〟の作者によつて、人物の性格、運命、機会等を劇的に発展させるよりも、むしろ、科、表情、情調等によつてそれの暗示せらるべきだといふ方法を提示され、心から〝なるほど〟と感じ入つたのである。(『久保田万太郎全集』第六巻、好学社、昭23・8)
ですから、万太郎は劇的葛藤ですとか、そのカタルシスというものは「祭礼の夕方のとめどない寂寥」によって「暗指」されるものにとどめ、舞台のうえには「祭」の情調を定着させることに専心したわけです。この「暮れがた」について川崎明は、
こゝ(引用者注―「暮れがた」)では一見して、全然無意味な、詰まらぬことだらけの日常的、風俗的なエピソードを描きながら、主人公が感じたり、悩んだりなどする時代の風俗と生活の典型的状況を示しているのである。それ故、『和泉屋染物店』に見られるような、社会意識に目覚め、社会悪に昂然と挑戦して行くような青年の性格描写、強調された特殊なせりふなどは見当らない。〔……〕『和泉屋染物店』には社会への関心が既にうかがわれるのに反し、万太郎の作品にはむしろ環境や風土と結びついた人間生活に対する関心が強く、その点俳諧的であるといゝ得る。(「久保田万太郎における戯曲の方法―初期の作品について―」(「文芸研究/日本文芸研究会」昭35・3)
と述べています。「和泉屋染物店」という戯曲は当時の鉱山問題ですとか、大逆事件ですとかを匂わした作で、それに比べて「暮れがた」は「俳諧的」であるというのですね。「三社祭」という舞台の設定からも、そうした志向は読みとれるでしょうが、ここではそうした作劇法が万太郎戯曲にいくつかの問題をもたらすという点こそが、重要なように思われます。

まずは対話によって終わりが導かれないという制約が生じてきます。「暮れがた」の結末をみてみましょう。
おりゑ (思ひ出したやうに)ああ先刻方降り出しさうだつたが、どうしたらう。善
次郎持ち直しやあしないか。
半造 (門口から外を見る。)莫迦にしてゐやあがる。すつかり霽れて星が出てゐる。
おりゑ おや、さうかい。
善次郎 そんなもんだ。
居合はす人々がふと賑やかに笑ふ。(おせんもまた何時の間にか見世へ帰つて来てゐる。)末吉は提灯をつける。囃子の音。――門口の外はもう全く暗くなつてゐる。(幕)
「暮れがた」において、始終言及されるのが天気です。「なんだか嫌に暗くなつて来たんだね」「雨が降つちやあ御難でご座いますからなあ」「さうでございます。今の雨は陰気でくさくさしてしまひます」などと、「暮れがた」全編を通して人物たちは雨が降ることを恐れます。しかし最後になって、あにはからんや、雨が降るどころか星が出るわけです。

これは、一見楽観的な結末といえます。「何時か一度はきつと、またいい時が来ますよ」と、おりゑは落魄して、土地から離れてしまった庄太郎という人物を慰めていたのですが、その言葉を裏付けるかのように「すつかり霽れて星」が出たのだと解釈することができるわけです。

しかし同時に、この結末はアンビヴァレントなものであります。それは次の嘉介の台詞がこの結末に響いているからです。
いえ是ならどうにか今夜位は持つかも知れません。だけど三社様はきつと一日は降らなきやあ承知しないんだから困ります。いつでしたかな。二日ともまるつきり潰れてしまつて十九日に神輿が廻つた事がありましたが。
嘉介のいう「二日ともまるつきり潰れてしまつて十九日に神輿が廻つた」のは「一昨々年」のこと。おりゑが「この四五年といふものは山車はおろかお揃ひだつてまんそくに出来や致しません」と述べていることから知られるように、丁度このころを境に「祭」は「さびれて」来てしまったと、劇中で話題にされています。とすれば「きつと一日は降らなきやあ承知しない」「三社祭」にもかかわらず結末において雨の降らないということは、「祭」のまさに「さびれて」しまったこと、昔日の栄華はもはや戻りはしないことを示すのだと、解釈する余地も生れてしまうわけです。このとき「昔」にすがりつく庄太郎の思いは空しいものとなります。

「暮れがた」のこの両義的な結末は、ある特定の情調をつくりだすことに専心した万太郎の作劇法の限界といえるものといえます。舞台上に直接「人物の性格、運命、機会等を劇的に発展させる」ことをしないために、その必然的な帰結としての終わりを導くことができないわけです。だから以後の万太郎戯曲は、いわゆるデウス・エクス・マーキナ、雑な言い方をすればとってつけたような終わり方が目立つようになります。つまり、劇における対話それ自体が結末を導くことはないわけです。たとえば「雪」(「太陽」明45・5)や「凶」(「中央公論」大3・8)など、そうした観点から読んでみますと、また違ったおもしろさがあるかと存じます。

おそらくこうした制約がもう一つの問題を招きます(もちろん理由はそれだけではなく、当時の劇壇のあり方というものも考えなければならないのですが)。それは上演されない、というものです。すなわちレーゼ・ドラマとして理解されてしまうわけです。たとえば「暮れがた」は明治45年4月、土曜劇場によって公演されたのですが、小宮豊隆にこんな劇評があります。
「暮れがた」の作者は劇作家と云ふよりも会話の詩人である、ある種の階級が有する言葉に対して驚くべき敏感を持つた作者が其天賚を恣にして会話の上に漂よふ気分を覘つて書いた脚本である。役者は江戸詞が流暢に使へなくてはならないと同時に、其の江戸詞が有する色調を自在に味はい分け味はゝせ分ける耳と口と心持とがなければならない。然かもかくして出来上がつた全体が苦心の割に淡い感じの世界であるとすれば、役者自身自己の労に酬いられたと云ふ心持が嘸経験され難いことであらう。(「読売新聞」明45・4・26)*原文は「劇作家」に「ドラマテイスト」、「会話の詩人」に「ポエツト、オブ、ダイアログ」、「色調」に「ニユアンス」とルビ――引用者注
この小宮の劇評はずいぶんと万太郎に甘いものではありますが、「会話の上に漂よふ気分を覘つて書いた脚本」が「淡い感じの世界」をつくりあげるというだけでは、あえて舞台にあげずとも読めばよいのだといった理解が、「会話の詩人」という評価の背後に潜んでいるかと存じます。ほかに戯曲評として、これは「雪」についてのものですが、

取り立てゝ云ふほどの舞台を捉へて来たのでは無いが、しんみりとした情調が万遍なく行き亘つて、筋が少しも無理がなく運ばれて行く、雪の降らうとする寂しい物悲しい気分を、巧みに反照して行つたのも好い、平凡な事件だけに、人生の一角を宛らに見る感じはするが、然し脚本よりは寧ろ小説になるべき質のものだ。(時評記者「最近文壇(四月中旬より五月中旬まで)の記録」(「文章世界」明45・6))

なんてのがあります。「脚本よりは寧ろ小説になるべき質のものだ」とは、なかなか手痛い批評ですね。

ここにみられるジャンルの混淆は、後に述べていきますようにその後の万太郎の創作をつらぬく大問題の一つですが、明治末という万太郎デビュー当時の文壇というものは、戯曲というものが雑誌の創作欄に顔を連ね始めた時期で、改めて戯曲と小説とは、あるいは戯曲と劇とはどのような差異をもつものか、ということが意識されるようになってきた時代であったということができます。万太郎の盟友である水上瀧太郎の戯曲「嵐」(「スバル」明44・10)に対して次のような評が付されたことは示唆的なのではないでしょうか。
我々は所謂「見る劇」に於て何の感興も起らない劇を見せられる以上、「読む劇」に於て感銘の深いものを与へられる事によつて満足を買はねばならぬ記者は此劇を小説を読む心持で読んだ。(「十月の小説と戯曲」(「三田文学」明44・11))
さて、こうした作劇法に「雨空」(「人間」大9・6)においては大きな変化がみられることになります。本来であれば、どうして次に述べるような表現上の屈折が万太郎にもたらされることになったのか、という点がもっとも興味深いものでありまた検討しなければならないものですが、今回はそこについては飛ばしてしまいます。この「雨空」における屈折というのは、以前より指摘されてきたもので、先にも名を上げました川崎明は次のように述べています。
『暮れがた』から、再出発を図った『雨空』に至る一幕物が、個々の劇的なエピソードでなく、生活の流れを舞台上に描き尽くそうと志向したものであることは、次のことで一層明らかになる。即ち『雪』や『宵の空』においては、未だその結末が急テンポに人生の一断面を覗かせる劇的エピソードに走っていたのが、『雨空』に至ると、劇的に何ら意味づけられ、特に選び出された印象的なエピソードというものは何ら表われていないということである。この『雨空』は、それ以前の戯曲に見られた余計なものはすつかり捨て去り、主要人物の周辺に基本行動を集中し、行動の展開に関与するのに必要な程度に、日常的な会話を綴つた戯曲である。それで人物の内的世界の描写に一段と極端な注意が払われている。(前掲)
「再出発を図った」というのは、何にもとづいた言葉であるか明らかではありませんが、「雨空」における屈折を的確にとらえたものでありましょう。ただし「『雨空』に至ると、劇的に何ら意味づけられ、特に選び出された印象的なエピソードというものは何ら表われていない」というのはあまり賛成できませんが……この点については追々考察していきましょう。

同時代においても「雨空」における屈折は確認されたようです。万太郎自身が「『雨空』のあとに」という文章で、次のように述べています。
自分にすると、いつもとそれほど違つたつもりはないのだつたが、でも、読んだ人たちはわたしが従来の境地から一歩ふみ出したかのものゝやうにいつて呉れた。同時に、わたしのものとして、悪くいろけのあるものだと方々で冷かされた。(「人間」大10・1)
「悪くいろけのある」とは、後年の万太郎戯曲も知っている現代の読者にはなかなか理解しがたいものですが、万太郎戯曲を全集にそって読み進めるのであれば、うなずけるものです。「自分にすると、いつもとそれほど違つたつもりはないのだつたが」というのははたして本音か、あるいは韜晦か……作者自身意図せず新たな何かを達成するというのは、文学の世界で別段めずらしくもないことですから、余り気にせず進めていきましょう。
おさき。 母親(登場せず)
おきく。 お末の姉。(すでに他家へ縁付きたるもの。――二十四五)
お 末。 おきくの妹。(二十二三)
幸 三。 指物職人。(二十七八)
長 平。 浅草の芝居に出てゐる古い書生役者(四十四五)
使の男。
これが「雨空」の登場人物です。「暮れがた」にしても「凶」にしても、誰が主人公ということもなく、多数の人物が対話をくり広げる群像劇とでもいうべきものでしたから、ここにすでに大きな変化が看取されます。「それ以前の戯曲に見られた余計なものはすつかり捨て去り」云々という川崎の見解は、まずこうした点からも賛同できるわけです。

幸三はお末の姉であるおきくと想いを寄せ合う仲でしたが、家の都合でおきくは他所へ縁づきます。お末も縁談がまとまり「明々後日」には嫁入り、幸三はなぜだか東京を去り上方へ行くことを決めています。物語が展開するのは次の場面から。
お 末。幸さん。
幸 三。え。
お 末。(間)かんにんして下さいな。(急に泣き崩れる)
幸 三。どうしたんだ。――えゝ。――どうしたんだ。(お末のそばへ寄る)
お 末。あたしねぇ、幸さん。――あたし。――あたしが今度。――今度、どうして、
急に、お嫁になんか行くことになつたのか幸さんに分りますか。
幸 三。何をいつてるんだな。
お 末。あたしねぇ。――あたし。――あたし姉さんがうらやましい。
幸 三(無言)
お 末。幸さんは、まだ、姉さんのことを忘れないでせう。
幸 三。何をいつてるんだな。――そんな莫迦なことがあるものか。
お末はおきくに嫁がれたあとの幸三を見ているうちに、彼に想いを寄せるようになったのです。しかしお末はその想いを隠します――「妹のやうに――真実に妹のやうに思つてゝ呉れるのに、そんな、――そんな間違つたことを考へて、莫迦な奴だと嗤はれたら。――わらはれるなら、まだようござんす。そんな奴ならもう構はない。――もしかさうでもいはれたら。――あたし、もう、死んだつて間に合ひませんわ」。思いがけないお末の告白に対して幸三は、彼女の存在がおきくの嫁いだ後の彼の生きるよすがとなっていたこと、彼女の縁談をもって東京を離れようと決意したことを告げます。そこに中途で呼び出された長平が戻ってきます。彼は彼で旅に出ることとなり、東京を離れることになってしまいました。幸三と長平が飲みに行こうとすると――ここがとても好いシーンです。
お 末。幸さん。(呼ぶ)
幸 三。(わざと何のこともないやうに)何だ、末ちやん。(お末のはうをみる)
          間。――雨の降る音強く聞えはじめる。(幕)
この終わりかたは、従来の万太郎戯曲とは大きく異なるものです。とはいえ、彼らの対話がこの地点へ彼らを導いたのではありません。彼らの行く末は対話を通じて何ら変えられることはありませんでしたし、お末の最後の呼びかけも「わざと何のこともないやうに」いなされて、終わるわけです。しかし、それは二人の対話が先行して初めて意味をもつものでした。「何だ、末ちゃん」という幸三の返答は、対話を通じて二人の間に決定的な何かがあったにもかかわらず、「何のこともないやう」になされるからこそ、そして事実「何のことも」なかったように終わってしまうからこそ、感慨深いものとなるわけです。そうした意味では、彼らの対話は結末の情感に大きな意味をもつものです。対話が劇性を構築しているといえるのではないでしょうか。

こうした万太郎の劇構造について、これは「雨空」を評したわけではありませんが、堂本正樹が「雪なれや万太郎」(「三田文学」昭42・6)というエッセイにおいて見事な指摘をしています。
(引用者注―「ふりだした雪」(「文芸春秋」昭11・4)を評して)歌舞伎座での新派五十年記念興行に、花柳章太郎のおすみで上演された時、観客は「息を呑んでいた」(演芸画報)と誌されている。しかしそれは、対話による緊張ではなく、互いに終ってしまった人生を持った人間同志の、その確認のむごさが、芝居を盛り上げたのであろう。言葉は総て一方通行であって、結び合うという事がない。〔……〕柳太郎が何故おすみと別れたのかは、全く書かれていない。おすみが何故柳太郎と復縁しないのかも、同じである。只おすみは、ふしあわせな女であり、無表情に、その不幸を耐えてゐる。
「終ってしまった人生を持った人間同志の、その確認のむごさ」――これは「雨空」あるいは「ふりだした雪」のみならず、万太郎文学全般に当てはまるものといえるでしょう。お好みの万太郎俳句を想起すれば、頷けるものも多いのではないでしょうか。

こうして、先の二つの問題を万太郎独自の方法で解決したといえます。事実以後の彼の劇作法は「雨空」の変奏として理解することができるものです。そして「大寺学校」(「女性」昭2・1、2、4、5)が築地小劇場で初演され好評を博し、万太郎戯曲の演劇性は確認されることになるわけです。これでめでたしめでたしと幕引きできればよいところですが、なかなかそうもいかないわけでして、今度は小説が書けなくなるという問題を引き込んでしまいます……。

※本稿は「春燈」(平28・9)に掲載の講演録の前半部を改稿したものです。続きは「春燈」を参照いただければ、これ幸いです。

松島の月 三村凌霄

松島の月

三村凌霄


わたくしが羈旅を厭う情は、蓋し吟行に端を発する。異郷ならずとも、少し日常を離れた土地に赴いたならば、山川を眺望して徒なる沈思に耽り、それにも倦んだならば、淫する所の古書を出だして眼前の風光を遮り、文字の林を彷徨したい。わたくしは十七字を持ち寄って品隲(ひんしつ)するの煩に堪えない。

蕉翁が身を天地の一沙鷗と為した、その意は那辺に在るのか。都合の良い引用が許されるならば、答えは芭蕉本人の言葉の中に求めることができよう。「白河の關越えんと」、「松島の月まづ心にかかりて」、出で立ったのである。

月などどこでも見られるではないか、と言ってはならない。松島の月でなければならなかったのだ。点々たる月下の島影を賞するためではない。ただ月こそが心のあくがれゆく処だったのである。

芭蕉は句を作るために旅をしたのでもなかろう。目的は――ひとまず、古人の意を探るため、とでもしておこうか。酔翁の意は酒に在らず、句を作ることは目的のための方法に過ぎぬ。もし芭蕉が歌人だったならば、己が心を種として繁き言の葉を育んだであろうし、詩人であったならば、平平仄仄、格律のうちに志を刻印したであろう。絵事(かいじ)を究めた者であったなら縑素(けんそ)の上に胸中の丘壑(きゅうがく)を描き出したであろう。

杜甫は天に弄ばれてか、已むを得ず漂泊の身となったが、芭蕉は敢て己を流謫の刑に処した。これもまた方法の一である。みちのくという空間を動き回りながら、いにしえと繋がる時空を探し求めたのであろう。

        *

昨年わたくしは西スラヴの地に遊んだ。忘れ難いのはクラクフの夕暮である。広場に坐して天を仰ぐ。この地の夕暮は、夜の帳が下りるのではない。昼の光の帳を、天が引き上げるのだ。秋雨に湖水の嵩が増すように、爪先へ、膝へ、腰へ、肩へとせりあがる薄闇に身を委ねながら、その昔タタール軍に胸を射られた喇叭手を悼んで今に絶えず奏でられる金管の音に耳を欹てる。昼の名残の光は、尖塔から雲の底へ移る。niebo(そら)、chmura(くも)、zmierzch(たそがれ)、……これらの単語に遭うたびに、故郷ならぬ地を思って、帰心が騒ぎ出すのである。

だがその黄昏はあまりに遠い。今わたくしの傍にあって密友の如く語りかけ、疲怠せる心神を慰めてくれるものは、ただ喞喞(しょくしょく)たる虫の声あるのみである。それでももし出来ることならば、青と白、光と影のほかは何もない処を目指して、桴(いかだ)に乗って海に浮かぼうか。

海洋には純然たる色彩の美があるばかりである。海は飽くまで自由である。自由にして大きな海を見れば、陸上の都會に於て、自分の心を激昂させた凡(すべ)ての論爭も、實に小さなつまらないものとなつて、水平線の下に沈み消えてしまふではないか。新しい劇場や新しい橋梁の建築に對して、或は各處の劇場に演じられる突飛なる新興藝術の試みに對して經驗した憤怒の如きは、全く我ながら馬鹿らしい事だと心付く。海洋に於ける大きな自然の美は陸上のつまらない小さな藝術の論爭などを顧みさせる餘裕を許さない。
(永井荷風『紅茶の後』「海洋の旅」)

平成二十八年中秋節初夜記

鷲谷七菜子の真意 第一句集『黄炎』論 瀬名杏香

鷲谷七菜子の真意
第一句集『黄炎』論

瀬名杏香


大正十二年、上方舞楳茂都流家元の父、宝塚スターである母との間に鷲谷七菜子は生まれた。その生い立ちが色濃く分かるのが、第一句集『黄炎』(昭和三十八年)の一頁目である。また彼女の句を語るために先人が頻繁に句を引用してきたのもこの頁だ。まずはこの頁から三句選んであげてみる。なお、本句集は第一部「十六夜」、第二部「雪」、第三部「黄炎」に分かれ、年代を区切った三部構成となっている。

十六夜やちひさくなりし琴の爪(十六夜)
春雨のこまかきゆふべ琴を売る(〃)
春愁やかなめはづれし舞扇(〃)


欠けてゆくものは「月」と〈琴の爪〉だけではない。自身が気づかぬうちに何かを失ってゆくようなせつなさを感じる。『鷲谷七菜子全句集』(平成二十五年)の「鷲谷七菜子略年譜」には、家庭の都合で彼女が六歳のときに両親の元を離れ、祖母と二人で暮らし始めたとの記述がある。少女であった彼女は自身も習っていたであろう琴や舞との断絶を強いられるという経験をする。〈春雨の〉の句は〈十六夜や〉の句の続きのように読むこともできるだろうか。そうであれば彼女の人生にあった〈琴〉という存在の大きさがおのずと理解できる。〈琴を売る〉や〈かなめはづれし〉の言葉からも、変わらないと信じていたものの変化を思う情緒が漂ってくる。

しかしこの〈琴〉や〈舞〉といった芸事のモチーフは句集冒頭に集中するのみでそれ以後はそれほど詠まれていない。このことより、鷲谷七菜子、あるいは句集「黄炎」を論ずるにあたって、恵まれた芸能の血を引き継いで俳句に才能を開花させた作家、あるいは身近に芸事がある生活を綴った句をちりばめた句集、と安易に結論付けてしまうことはできない。彼女が「馬酔木」に投句を開始した翌年の昭和十八年から昭和三十七年の十九年間分の句が「黄炎」には収録されている。彼女が現在までに世に出した計八冊の句集の中で「黄炎」は収録年数が最も長い。本格的な句作開始から処女句集出版までという道のりであるため、ほかより年数が長いのはあたりまえではあるが、この十九年間で彼女は俳句についてだけでなく、自身の人生観をもゆるがし新たな人生観の形成をうながされるようないくつかの岐路に直面する。第一句集を読み込んでいくなかで分かった、彼女が詠むことを求め続けた対象をいくつか取り上げつつ、この句集の三部構成がどのように変遷していくかに触れてゆきたい。

まずは彼女の生活に張り付いていた病という圧倒的な存在について書く。十四歳の頃に肋膜炎を患い学校に行くこともままならず、彼女の青春期の大半は自宅療養に費やされた。頻繁に用いられる「臥」、「起居」という語彙を含んだ句を引用すると

梅雨きざす起居に触れしものの端(十六夜)
菊捨ててよりの起居のうらさむし(〃)
病めばなほ抱き臥す枕つめたしや(〃)
月の臥処抱けばわが身熱かりき(〃)
半生や臥せばつめたきひたひ髪(〃)
聖夜わがましろき胸を診られ臥す(〃)
病臥なほ壁の羽織の裏あかき(〃)
春の夜や臥てもつめたき足もてる(雪)
藤咲いて起居にまとふ翳淡し(〃)


などがあり、常に身を安静にしながら句を詠み続けていたことが読める。使用季語を見ても、手の届く場所にある対象、あるいは〈梅雨〉、〈月〉、〈春の夜〉など身を横たえていても在りかの把握がつく対象にしぼられている。〈病めばなほ〉、〈半生や〉、〈春の夜や〉の句に示されているとおり、彼女は自身の体に起こっている変化をこんこんと詠み連ねた。季語を求めに外へ出ることも叶わず、自身の体の声に耳をそばだてることで彼女は自身の病を慰めたのである。

また、彼女は自身の病を隠そうとはしていなかったようで、直接的に詠んだ句も多く見られる。「蜜柑むく病む日の指の汚れなく」、「木の葉髪かきあげて死はたはやすし」、「病む肩に羽織のすべる春火桶」、などがあげられるが、〈死はたはやすし〉からは長い療養生活の中で彼女が悟った死への観念が身にしみるように伝わってくる。

句集解説にて山口草堂は彼女の句につきまとう「翳」の存在に幾度も触れている。句集よりいくつか句を引用すればそのことはおのずと分かる。「胸占むるひとつの翳の濃き夜長」、「藤咲いて起居にまとふ翳淡し」、「翳る身の寄りがたく菊澄みにけり」といった句にはあからさまな表現が目立つ。彼女は自身につきまとう「翳」と果敢に立ち向かい、自身の孤独や葛藤を痛々しいほどにさらけだす。

略年譜の十二歳の欄には「はじめは短歌に興味を持ち、与謝野晶子風の短歌を作っていた(後略)」と書かれており、彼女が短詩型に触れるきっかけは短歌にあったといえる。短歌から俳句への創作の移行に、少女期に触れていた短歌の抒情性の影響があったことは否定できないであろう。句集前半の句は短歌的表現が顕著である。しかし、〈病む〉、〈翳〉といったあからさまな言葉でなくとも彼女の真意に触れることができる句はほかにもある。

相別れシヨールに埋む顔なかば(十六夜)
急ぐ背に遠き蛙となりゆけり(〃)
春愁の目とあひてより黙しけり(〃)

かくすべき吐息あらはにセルの肩(〃)
秋燈下拒みし言のみじかさよ(〃)


これらの句は病の句ではなく恋愛の句だろう。「十六夜」から「雪」にかけて詠まれる対象には病や死に劣らず恋愛についても多い。病にも恋愛のテーマにも共通していえるのが秘めた思い、いわば言葉や感情の抑制であり、直接的な表現を使わずに真意をほのめかした句も多く見られる。〈相別れ〉、〈かくすべき〉の句には口元の描写が用いられ、感情を読み手に差し出す。まだ情緒的発想からは抜け出せていないが、〈急ぐ背に〉や〈秋燈下〉の句は秘めた思いのすべてを吐露することの不可能性を匂わせる。
 
「十六夜」から「雪」にかけて彼女の体を蝕んでいた病は快方に向かい、彼女の身にせまりくる病や翳を詠んだ句は減少を見せる。ところが第一句集出版の直前である昭和三十七年にあらたに肺結核を患い、句集最終にはたたみかけるように病を詠んだ句が並べられているのが非常に切ない。

咳暑し時の向ふに星ともり(黄炎)
虹が抱くわが家に病みて明日思はず(〃)
ひぐらしや静臥の胸に水奏で(〃)
秋風にたましひ乾きゐつつ咳く(〃)


しかし、「十六夜」で見せたあまりにもストレートすぎる病へのまなざしとはうって変わり、体内の外側、あるいは体よりはるか遠方に思いを馳せた句を多く見つけることが出来る。〈虹〉、〈秋風〉などの季語への歩みよりも心地よい。「十六夜」、「雪」から「黄炎」にかけて俳句的技量をたくわえた彼女は読み手に新しい表情を見せてくれる。

句集の多くをしめる抒情的な句について語らないことは避けられないが、直接的な表現の句以外にも、彼女の心情を語る句を読み落としてはいけない。彼女が俳句表現に追い求めていたものは病への畏怖や身の上の嘆きだけではなく、彼女の真意を物理的にまとった身体をいかに詠み込むかであったのだろう。一冊の句集を通して彼女の興味は感情から具体的な対象へと変化する。ほかにも恋愛をとおしてたちのぼる他者との向き合い、使用範囲の広がりを見せる季語なども同時に拾っていくことで、わたしたちは鷲谷七菜子の秘めたこころに近づくことができる。