久保田万太郎戯曲の展開
福井拓也
福井拓也
初出:「春燈」(2016.9/部分転載)。転載に当たって加筆修正。2016年5月6日に実施された〈久保田万太郎研究会〉の講演録。「春燈」が年に一度開催している同研究会では、研究発表のほか役者による戯曲のリーディングが行われる。
本日は「久保田万太郎戯曲の展開」と題して、少しお話をしていきたいと思います。万太郎は自らの俳句を「「心境小説」の素」(『ゆきげがは』双雅房、昭11・8)と自注しておりますが、ここでの話は私にとっていわば「「研究論文」の素」とでもいうべきもので、論文にするにはもう少し細かく調べて色々と考えねばならないことを、〝おおざっぱ〟に考えていきたいと思います。
まず初めにみてみたいのは「暮れがた」という戯曲の、幕開けの部分のト書きの書き出しです。作家デビューの翌年、明治45年1月「スバル」に発表されたもので、ここには以後の万太郎戯曲の特徴がハッキリと表われています。
賑やかな祭の囃子が遠くゆるやかに聞える。――その遠いゆるやかな囃子の調子が更にだんだん遠くゆるやかになつて続く。音もなくしづかに幕開く。「遠くゆるやかに聞える」「賑やかな祭の囃子」の音を背景に「三社祭の二日目の午後」の情調が――「誰も皆賑やかな花やかな心持に疲れてしまつて、何かもの足りないやうな心持」が提示されるわけです。こうした情調にもとづいて劇を展開するという手法、これは万太郎自らも述べたように、木下杢太郎の「和泉屋染物店」(「スバル」明44・3)に影響されてのものです。
田原町の生れた家にまだゐたころで、子供の時分から経験して来た祭礼の夕方のとめどない寂寥を芝居にしようとわたしは企てた。だが、その半年ほどまへにあつて木下杢太郎氏の『和泉屋染物店』が発表されなかつたならば、おそらくわたしにこの作を書く運びはつかなかつたらう。〔……〕〝和泉屋染物店〟の作者によつて、人物の性格、運命、機会等を劇的に発展させるよりも、むしろ、科、表情、情調等によつてそれの暗示せらるべきだといふ方法を提示され、心から〝なるほど〟と感じ入つたのである。(『久保田万太郎全集』第六巻、好学社、昭23・8)ですから、万太郎は劇的葛藤ですとか、そのカタルシスというものは「祭礼の夕方のとめどない寂寥」によって「暗指」されるものにとどめ、舞台のうえには「祭」の情調を定着させることに専心したわけです。この「暮れがた」について川崎明は、
こゝ(引用者注―「暮れがた」)では一見して、全然無意味な、詰まらぬことだらけの日常的、風俗的なエピソードを描きながら、主人公が感じたり、悩んだりなどする時代の風俗と生活の典型的状況を示しているのである。それ故、『和泉屋染物店』に見られるような、社会意識に目覚め、社会悪に昂然と挑戦して行くような青年の性格描写、強調された特殊なせりふなどは見当らない。〔……〕『和泉屋染物店』には社会への関心が既にうかがわれるのに反し、万太郎の作品にはむしろ環境や風土と結びついた人間生活に対する関心が強く、その点俳諧的であるといゝ得る。(「久保田万太郎における戯曲の方法―初期の作品について―」(「文芸研究/日本文芸研究会」昭35・3)と述べています。「和泉屋染物店」という戯曲は当時の鉱山問題ですとか、大逆事件ですとかを匂わした作で、それに比べて「暮れがた」は「俳諧的」であるというのですね。「三社祭」という舞台の設定からも、そうした志向は読みとれるでしょうが、ここではそうした作劇法が万太郎戯曲にいくつかの問題をもたらすという点こそが、重要なように思われます。
まずは対話によって終わりが導かれないという制約が生じてきます。「暮れがた」の結末をみてみましょう。
おりゑ (思ひ出したやうに)ああ先刻方降り出しさうだつたが、どうしたらう。善「暮れがた」において、始終言及されるのが天気です。「なんだか嫌に暗くなつて来たんだね」「雨が降つちやあ御難でご座いますからなあ」「さうでございます。今の雨は陰気でくさくさしてしまひます」などと、「暮れがた」全編を通して人物たちは雨が降ることを恐れます。しかし最後になって、あにはからんや、雨が降るどころか星が出るわけです。
次郎持ち直しやあしないか。
半造 (門口から外を見る。)莫迦にしてゐやあがる。すつかり霽れて星が出てゐる。
おりゑ おや、さうかい。
善次郎 そんなもんだ。
居合はす人々がふと賑やかに笑ふ。(おせんもまた何時の間にか見世へ帰つて来てゐる。)末吉は提灯をつける。囃子の音。――門口の外はもう全く暗くなつてゐる。(幕)
これは、一見楽観的な結末といえます。「何時か一度はきつと、またいい時が来ますよ」と、おりゑは落魄して、土地から離れてしまった庄太郎という人物を慰めていたのですが、その言葉を裏付けるかのように「すつかり霽れて星」が出たのだと解釈することができるわけです。
しかし同時に、この結末はアンビヴァレントなものであります。それは次の嘉介の台詞がこの結末に響いているからです。
いえ是ならどうにか今夜位は持つかも知れません。だけど三社様はきつと一日は降らなきやあ承知しないんだから困ります。いつでしたかな。二日ともまるつきり潰れてしまつて十九日に神輿が廻つた事がありましたが。嘉介のいう「二日ともまるつきり潰れてしまつて十九日に神輿が廻つた」のは「一昨々年」のこと。おりゑが「この四五年といふものは山車はおろかお揃ひだつてまんそくに出来や致しません」と述べていることから知られるように、丁度このころを境に「祭」は「さびれて」来てしまったと、劇中で話題にされています。とすれば「きつと一日は降らなきやあ承知しない」「三社祭」にもかかわらず結末において雨の降らないということは、「祭」のまさに「さびれて」しまったこと、昔日の栄華はもはや戻りはしないことを示すのだと、解釈する余地も生れてしまうわけです。このとき「昔」にすがりつく庄太郎の思いは空しいものとなります。
「暮れがた」のこの両義的な結末は、ある特定の情調をつくりだすことに専心した万太郎の作劇法の限界といえるものといえます。舞台上に直接「人物の性格、運命、機会等を劇的に発展させる」ことをしないために、その必然的な帰結としての終わりを導くことができないわけです。だから以後の万太郎戯曲は、いわゆるデウス・エクス・マーキナ、雑な言い方をすればとってつけたような終わり方が目立つようになります。つまり、劇における対話それ自体が結末を導くことはないわけです。たとえば「雪」(「太陽」明45・5)や「凶」(「中央公論」大3・8)など、そうした観点から読んでみますと、また違ったおもしろさがあるかと存じます。
おそらくこうした制約がもう一つの問題を招きます(もちろん理由はそれだけではなく、当時の劇壇のあり方というものも考えなければならないのですが)。それは上演されない、というものです。すなわちレーゼ・ドラマとして理解されてしまうわけです。たとえば「暮れがた」は明治45年4月、土曜劇場によって公演されたのですが、小宮豊隆にこんな劇評があります。
「暮れがた」の作者は劇作家と云ふよりも会話の詩人である、ある種の階級が有する言葉に対して驚くべき敏感を持つた作者が其天賚を恣にして会話の上に漂よふ気分を覘つて書いた脚本である。役者は江戸詞が流暢に使へなくてはならないと同時に、其の江戸詞が有する色調を自在に味はい分け味はゝせ分ける耳と口と心持とがなければならない。然かもかくして出来上がつた全体が苦心の割に淡い感じの世界であるとすれば、役者自身自己の労に酬いられたと云ふ心持が嘸経験され難いことであらう。(「読売新聞」明45・4・26)*原文は「劇作家」に「ドラマテイスト」、「会話の詩人」に「ポエツト、オブ、ダイアログ」、「色調」に「ニユアンス」とルビ――引用者注この小宮の劇評はずいぶんと万太郎に甘いものではありますが、「会話の上に漂よふ気分を覘つて書いた脚本」が「淡い感じの世界」をつくりあげるというだけでは、あえて舞台にあげずとも読めばよいのだといった理解が、「会話の詩人」という評価の背後に潜んでいるかと存じます。ほかに戯曲評として、これは「雪」についてのものですが、
取り立てゝ云ふほどの舞台を捉へて来たのでは無いが、しんみりとした情調が万遍なく行き亘つて、筋が少しも無理がなく運ばれて行く、雪の降らうとする寂しい物悲しい気分を、巧みに反照して行つたのも好い、平凡な事件だけに、人生の一角を宛らに見る感じはするが、然し脚本よりは寧ろ小説になるべき質のものだ。(時評記者「最近文壇(四月中旬より五月中旬まで)の記録」(「文章世界」明45・6))
なんてのがあります。「脚本よりは寧ろ小説になるべき質のものだ」とは、なかなか手痛い批評ですね。
ここにみられるジャンルの混淆は、後に述べていきますようにその後の万太郎の創作をつらぬく大問題の一つですが、明治末という万太郎デビュー当時の文壇というものは、戯曲というものが雑誌の創作欄に顔を連ね始めた時期で、改めて戯曲と小説とは、あるいは戯曲と劇とはどのような差異をもつものか、ということが意識されるようになってきた時代であったということができます。万太郎の盟友である水上瀧太郎の戯曲「嵐」(「スバル」明44・10)に対して次のような評が付されたことは示唆的なのではないでしょうか。
我々は所謂「見る劇」に於て何の感興も起らない劇を見せられる以上、「読む劇」に於て感銘の深いものを与へられる事によつて満足を買はねばならぬ記者は此劇を小説を読む心持で読んだ。(「十月の小説と戯曲」(「三田文学」明44・11))さて、こうした作劇法に「雨空」(「人間」大9・6)においては大きな変化がみられることになります。本来であれば、どうして次に述べるような表現上の屈折が万太郎にもたらされることになったのか、という点がもっとも興味深いものでありまた検討しなければならないものですが、今回はそこについては飛ばしてしまいます。この「雨空」における屈折というのは、以前より指摘されてきたもので、先にも名を上げました川崎明は次のように述べています。
『暮れがた』から、再出発を図った『雨空』に至る一幕物が、個々の劇的なエピソードでなく、生活の流れを舞台上に描き尽くそうと志向したものであることは、次のことで一層明らかになる。即ち『雪』や『宵の空』においては、未だその結末が急テンポに人生の一断面を覗かせる劇的エピソードに走っていたのが、『雨空』に至ると、劇的に何ら意味づけられ、特に選び出された印象的なエピソードというものは何ら表われていないということである。この『雨空』は、それ以前の戯曲に見られた余計なものはすつかり捨て去り、主要人物の周辺に基本行動を集中し、行動の展開に関与するのに必要な程度に、日常的な会話を綴つた戯曲である。それで人物の内的世界の描写に一段と極端な注意が払われている。(前掲)「再出発を図った」というのは、何にもとづいた言葉であるか明らかではありませんが、「雨空」における屈折を的確にとらえたものでありましょう。ただし「『雨空』に至ると、劇的に何ら意味づけられ、特に選び出された印象的なエピソードというものは何ら表われていない」というのはあまり賛成できませんが……この点については追々考察していきましょう。
同時代においても「雨空」における屈折は確認されたようです。万太郎自身が「『雨空』のあとに」という文章で、次のように述べています。
自分にすると、いつもとそれほど違つたつもりはないのだつたが、でも、読んだ人たちはわたしが従来の境地から一歩ふみ出したかのものゝやうにいつて呉れた。同時に、わたしのものとして、悪くいろけのあるものだと方々で冷かされた。(「人間」大10・1)「悪くいろけのある」とは、後年の万太郎戯曲も知っている現代の読者にはなかなか理解しがたいものですが、万太郎戯曲を全集にそって読み進めるのであれば、うなずけるものです。「自分にすると、いつもとそれほど違つたつもりはないのだつたが」というのははたして本音か、あるいは韜晦か……作者自身意図せず新たな何かを達成するというのは、文学の世界で別段めずらしくもないことですから、余り気にせず進めていきましょう。
おさき。 母親(登場せず)これが「雨空」の登場人物です。「暮れがた」にしても「凶」にしても、誰が主人公ということもなく、多数の人物が対話をくり広げる群像劇とでもいうべきものでしたから、ここにすでに大きな変化が看取されます。「それ以前の戯曲に見られた余計なものはすつかり捨て去り」云々という川崎の見解は、まずこうした点からも賛同できるわけです。
おきく。 お末の姉。(すでに他家へ縁付きたるもの。――二十四五)
お 末。 おきくの妹。(二十二三)
幸 三。 指物職人。(二十七八)
長 平。 浅草の芝居に出てゐる古い書生役者(四十四五)
使の男。
幸三はお末の姉であるおきくと想いを寄せ合う仲でしたが、家の都合でおきくは他所へ縁づきます。お末も縁談がまとまり「明々後日」には嫁入り、幸三はなぜだか東京を去り上方へ行くことを決めています。物語が展開するのは次の場面から。
お 末。幸さん。お末はおきくに嫁がれたあとの幸三を見ているうちに、彼に想いを寄せるようになったのです。しかしお末はその想いを隠します――「妹のやうに――真実に妹のやうに思つてゝ呉れるのに、そんな、――そんな間違つたことを考へて、莫迦な奴だと嗤はれたら。――わらはれるなら、まだようござんす。そんな奴ならもう構はない。――もしかさうでもいはれたら。――あたし、もう、死んだつて間に合ひませんわ」。思いがけないお末の告白に対して幸三は、彼女の存在がおきくの嫁いだ後の彼の生きるよすがとなっていたこと、彼女の縁談をもって東京を離れようと決意したことを告げます。そこに中途で呼び出された長平が戻ってきます。彼は彼で旅に出ることとなり、東京を離れることになってしまいました。幸三と長平が飲みに行こうとすると――ここがとても好いシーンです。
幸 三。え。
お 末。(間)かんにんして下さいな。(急に泣き崩れる)
幸 三。どうしたんだ。――えゝ。――どうしたんだ。(お末のそばへ寄る)
お 末。あたしねぇ、幸さん。――あたし。――あたしが今度。――今度、どうして、
急に、お嫁になんか行くことになつたのか幸さんに分りますか。
幸 三。何をいつてるんだな。
お 末。あたしねぇ。――あたし。――あたし姉さんがうらやましい。
幸 三(無言)
お 末。幸さんは、まだ、姉さんのことを忘れないでせう。
幸 三。何をいつてるんだな。――そんな莫迦なことがあるものか。
お 末。幸さん。(呼ぶ)この終わりかたは、従来の万太郎戯曲とは大きく異なるものです。とはいえ、彼らの対話がこの地点へ彼らを導いたのではありません。彼らの行く末は対話を通じて何ら変えられることはありませんでしたし、お末の最後の呼びかけも「わざと何のこともないやうに」いなされて、終わるわけです。しかし、それは二人の対話が先行して初めて意味をもつものでした。「何だ、末ちゃん」という幸三の返答は、対話を通じて二人の間に決定的な何かがあったにもかかわらず、「何のこともないやう」になされるからこそ、そして事実「何のことも」なかったように終わってしまうからこそ、感慨深いものとなるわけです。そうした意味では、彼らの対話は結末の情感に大きな意味をもつものです。対話が劇性を構築しているといえるのではないでしょうか。
幸 三。(わざと何のこともないやうに)何だ、末ちやん。(お末のはうをみる)
間。――雨の降る音強く聞えはじめる。(幕)
こうした万太郎の劇構造について、これは「雨空」を評したわけではありませんが、堂本正樹が「雪なれや万太郎」(「三田文学」昭42・6)というエッセイにおいて見事な指摘をしています。
(引用者注―「ふりだした雪」(「文芸春秋」昭11・4)を評して)歌舞伎座での新派五十年記念興行に、花柳章太郎のおすみで上演された時、観客は「息を呑んでいた」(演芸画報)と誌されている。しかしそれは、対話による緊張ではなく、互いに終ってしまった人生を持った人間同志の、その確認のむごさが、芝居を盛り上げたのであろう。言葉は総て一方通行であって、結び合うという事がない。〔……〕柳太郎が何故おすみと別れたのかは、全く書かれていない。おすみが何故柳太郎と復縁しないのかも、同じである。只おすみは、ふしあわせな女であり、無表情に、その不幸を耐えてゐる。「終ってしまった人生を持った人間同志の、その確認のむごさ」――これは「雨空」あるいは「ふりだした雪」のみならず、万太郎文学全般に当てはまるものといえるでしょう。お好みの万太郎俳句を想起すれば、頷けるものも多いのではないでしょうか。
こうして、先の二つの問題を万太郎独自の方法で解決したといえます。事実以後の彼の劇作法は「雨空」の変奏として理解することができるものです。そして「大寺学校」(「女性」昭2・1、2、4、5)が築地小劇場で初演され好評を博し、万太郎戯曲の演劇性は確認されることになるわけです。これでめでたしめでたしと幕引きできればよいところですが、なかなかそうもいかないわけでして、今度は小説が書けなくなるという問題を引き込んでしまいます……。
※本稿は「春燈」(平28・9)に掲載の講演録の前半部を改稿したものです。続きは「春燈」を参照いただければ、これ幸いです。
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