中村汀女・星野立子に見るヒロイン像
『中村汀女・星野立子互選句集』
坂入菜月
戦後間もない昭和22年に発行された『中村汀女・星野立子互選句集』という句集がある。内容はごくシンプルなもので、まず立子選の汀女116句と立子による「汀女さんの句」という文章があり、後半に汀女選の立子108句と汀女による「立子さんのこと」という文章があるという構成だ。まえがきもあとがきもなく、ともすると二人の間だけで完結しているような本である。
だが、この二人を結び付けているのは単なる友情だけではない。というのも、二人を姉妹扱いし、かつてお互いが独立して出した句集についても「姉妹句集」として同じ序文を書いた仕掛け人がいるのだ。高浜虚子である。そもそも近代俳句における女性俳句の発展は、その大方が虚子の仕掛けたところによるものであり、大正9年の『ホトトギス』8月号において「短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてつちまおか)」を含む竹下しづの女の7句を巻頭に取り上げて以来、長谷川かな女や杉田久女など女性俳句の源流となった俳人をバックアップしてきたのは他でもない虚子なのである。
汀女と立子はその虚子の手によって引き合わせられ、姉妹のような関係を色濃く売り出された。大正初期から昭和初期にかけて活躍した俗に言う4T(中村汀女・星野立子・橋本多佳子・三橋鷹女)、そして同時期の他の女性俳人を見渡しても、このような「セット売り」を施された者は汀女と立子の他にはいなかった。なぜこの二人だったのか。筆者はこの二人のヒロイン性に注目した。二人が同時に作品を発表することで、それぞれの持つ異なったヒロイン性がひとつの像を成し、戦前・戦後の社会にあった女性たちの現実と憧れを両立させた女性像が現れるのではないだろうか。虚子のもくろみを意識しながら、戦後・ヒロイン性をキーワードに、互選句集をひもといていこうと思う。
汀女と立子には根本的な性質の違いがあり、どちらもそれが作風にもあらわれている。
うたたねをわが許されて蜜柑咲く 汀女
汀女は生活からの取材に重きをおいて作句をしてきた。電気釜も洗濯機もない時代の女性の生活といえば、家事育児をこなすことに終始していたことだろう。俳句を含め、女性が趣味に時間を割くことは容易ではなかった。女性の俳句に対して「台所俳句」という揶揄の言葉が生まれた背景には「家事もほどほどに自分の趣味にかまけているなんて」という皮肉があったのかもしれない。そういう時代に汀女は俳句を書いていた。それが戦後の女性たちに親近感を持たせた。汀女の作品にはリアルな女性の面が表れており、しかもそれが詩によって生き生きと描かれている。上記の句の「許されて」という表現にはそういった時代の事情が読み取れる。それだけでは風刺的な意味合いを強めるだけであるが、季語に蜜柑の花を持ってくることで、家事の合間の束の間の休息にささやかな幸福感を醸し出す。汀女の持ち味は、当時の女性のリアルな顔を持ち且つ世の女性たちが女性俳人に親近感を覚える生活からの取材だったのではないだろうか。汀女の俳句に描かれる女性は、当時の女性にとって自己投影の対象になり得たのだ。
一方立子は当時の女性の憧れを一手に担うというヒロイン性を持つ。
近よれば髪の上まで萩の花 立子
天真爛漫な詠みぶりが特徴的な立子の句は、汀女の句と比べて圧倒的に生活感がない。立子は虚子の次女であり、兄弟の中で唯一虚子に俳句を勧められた。しかし作句開始は意外にも遅く、結婚した次の年(大正15年)からであった。
ちなみに汀女は大正9年に結婚し、次の年に夫と上京。その年から約10年もの間句作を休止する。作句休止のはっきりとした理由は語られることが少ないが、汀女の結婚直前に杉田久女が汀女のもとを訪れていることを考えると家事に専念するためだったと推測できる。というのも、当時の久女は夫と不仲の状況にあり、その一因となった俳句を一時的に休止していたのだ。そんな久女が汀女に結婚生活について何らかのアドバイスをするはごく当然なことである。かくして汀女は最後まで円満な家庭を営むことができたのであった。
この点において汀女と立子は真逆である。立子は結婚してから俳句を始めた。作家の父を持つ夫のもと、それが許される環境であった。立子の描き出す天真爛漫とした自由な女性像はまさしく当時の女性たちの憧れであっただろう。あるいは、俳句をやってみたいと思う女性たちにとっての憧れであったと考えられる。先の句でも、ここに「髪の上まで」という把握を用いるのは立子ならではの明るさである。かといってナルシシズムに傾倒することもなく、あくまでさっぱりと「いい女」を書き上げてくれる。これが女性たちには響くのであった。
立子は「汀女さんの句」の終わりにこんなことを書いている。
汀女さんの句と恐らく一番反対な私の句とが同じ一冊の本の中に組まれてこんにち世に出るといふことは、不思議のやうでありながら、私には当然のことのやうな気持ちもする。立子は、自分の句が汀女の句と対称的な位置にあることを指摘し、それが「当然のことのやう」にも感じられると書いている。果たして本当に「一番反対」であったのだろうか。汀女と「一番反対」だったのは立子ではなくむしろ久女だったように思う。そもそも汀女が立子と出会ったとき、立子は既に俳誌「玉藻」の主宰をしており、肩書的には「ホトトギス」同人でしかなかった汀女より俳人としていくつか上のステージにいた。一方久女は「ホトトギス」同人となった時期は汀女と同じである。また汀女はかねてより久女を慕っており、句作を始めたばかりのころにファンレターを送ったこともあるくらいであった。作風に関しても、汀女の素朴な家庭の女性像と久女の優艶でナルシスティックな女性像とでかなり対称的な関係にあり、それこそ「一番反対」と言うに相応しい位置関係ではないだろうか。
久女の俳句には、戦後の変わりゆく社会の女性に発信するメッセージに決定的に向かない性質があった。久女の句は力強く女らしい女性を連想させるが、その裏には常に男性からの抑制への反発があった。
戯曲よむ冬夜の食器浸けしまゝ 久女 (『ホトトギス』大正11年2月)
こういった句では、汀女の句と並べても新しい時代の自由な女性の像は立ち上がってこない。このことからも、立子と汀女を組み合わせた虚子のもくろみとして、新時代の自由な女性像を女性俳句のシンボルにしようとする意図があったことがわかる。
もちろん、虚子が久女を採用しなかったことには、その間にある確執が関わっていないとも言い切れない。が、今回のテーマからは話が逸れるのでその件はまた別の機会に考察することとする。
囀にぼそと人語をさしはさむ 汀女
囀をこぼさじと抱く大樹かな 立子
戦後の女性たちは、汀女の句に現在の自分を肯定され、立子の句に憧れを抱いた。囀という同じ句材の句を並べてみると、その関係性が顕著に表れる。汀女の方は、その切り取り方こそ汀女ならではの趣があるが書いている事象自体はごくありふれたことであり、誰もが経験したことのあることである。それに対して立子の方は、自分の知らない美しい囀・荘厳な大樹を立子さんは知っておられるのだなあという感慨に至る。未だ見ぬ自由を知っている女性を想起させるのだ。
汀女は「立子さんのこと」の中で次のようなことを綴っている。
やはり(立子と)二人で一緒に作ることは有り難かつた。二人並んで座ると落ちついた気持ちになつて居た。お互いに持たないもの、ちがつたものを見せて貰へることはほんとに幸せと思ふ。二人は「持っている」だけでなく、ちょうどお互いに「持っていなかった」。汀女には自由さが足りなかったし、立子には生活感が足りなかった。それは至極当然のことである。なぜなら二人は自らが前時代の女性だからである。一人では新時代の女性の理想像になどなり得るはずもなかった。それを確と見抜き、汀女と立子を姉妹的な関係として売り出すことで、いち早く新しい女性の像を立ち上げた虚子はやはり偉大である。
この互選句集からだけでは汀女と立子にまつわる虚子の考えの全てを解き明かすことはできないが、この考察を足掛かりにさらに女性俳句の歴史について研究していけたらと思う。
【参考文献】
・『中村汀女星野立子互選句集』著者代表:中村汀女 昭和22年4月15日 文藝春秋新社 発行
・『女性俳句の世界』著者:上野さち子 平成元年10月20日 岩波書店 発行
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