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2017-03-05

【「俳苑叢刊」を読む】 第6回 皆吉爽雨『寒林』 寒林閑語 三村凌霄

「俳苑叢刊」を読む
6回 皆吉
林閑

三村凌霄


序によれば、収録句数二百九十一、十年間に作る所、うち百二十三句は第一句集からの採録である。厳選にしてしかも重複を厭わない態度は、時代の風気が然らしめたのであろうか。

その句を見ても題材豊富とは言えない。少なくとも変幻自在との印象は受けない。特に注意されるのは下の如き句群である。 
噴煙へ馬ひきむけつ登山かな
登山道いまは噴煙めざすのみ
噴煙の映るに浸す白馬かな
噴煙のいま濃し御する登山馬
 「阿蘇(四句)」と題せられたこれらの句はいずれも噴煙を詠じている。いま仮に吟行に行ったとして、一つの風景、一つの題材をもとに複数の句を作ることはあるだろうか。わたくしはそのような作り方をしないが、或いは何句か捻って書き留めておく人もあろう。しかし句会で投句するに及んでは概ね一句に絞るのではなかろうか。いずれにせよ、十年間で三百句弱という厳選の下での重複は異とするに足る。

当時の句集では広く如上の現象が見られるのか、寡聞にして知らないが、爽雨の場合、連作というよりは寧ろデッサンの意識を以てなされているのではないかと思われる。ある風景を前に、ためつすがめつ詠み方を吟味しているのである。悠々たるものではないか。この鷹揚さを感じ取ることが『寒林』読解の第一歩である。

爽雨の句はしばしば長い時間を感じさせる。
菱採のはじめてあげし面かな
写したのは一瞬である。しかし爽雨はずっと見ていた。「菱採」をずっと見ていたからこそ「はじめてあげし」と言える。余韻は後に残る響きであるが、この句は前の時間へ向かって響きを放っているかの如くである。
たれかれの木の間すがたや菌狩
ここでは「たれかれの」によって時間が生じている。それを作者は凝視している。
座をかはりあうて眺めや遊び舟
出水橋一人ひとりと渡すなり
贅言は不要であろう。ついでに言えば前掲の「噴煙のいま濃し」も「いま」に到るまでの過程を含意している。

ところで「出水橋」の句は遠景か近景か。わたくしは、「一人ひとり」の個を拡大して見ているのではなく、やや引いたところから、人影を「一つひとつ」見ているのだと読みたい。『寒林』全体から受ける印象がそう読ませるのである。

細部を克明に描写することだけが写生ではない。
遠山に日の当たりたる枯野かな   高浜虚子
これも客観写生であることは言うまでもない。ここに生き物が点綴されると爽雨の句となる。
春雨の雲より鹿や三笠山
ここで改めて『寒林』を読み返してみると、比率からいって遠景を描いた句がどれほどあるのか、客観的に多きを占めるのか、いささか疑わしく、この文章を書きつつも「印象」の頑強さに呆れるばかりである。とはいえ客観的なデータと初読の印象と、どちらが真実を語っているのか、これは一概に言えぬ問題である。

遠景の句の多寡はさておき、人間を含めた動物が殆ど毎句詠み込まれていることは誰の目にも明らかであろう(『雑草園』の青邨とは関心の在り所がはっきりと異なっている)。そしてその詠み込み方の典型を示すのが前引の「春雨」の句であり、生き物は全面に出ることなく、景や、季語の喚起する雰囲気の中に融解する。
時雨るるやあるじの声の夕勤め
「あるじ」の姿は見えておらず、「時雨」の音と「夕勤め」の「声」とが縒り合わされるのみである。
戦場ヶ原のひとつ家水打てる
元日の島の子甘蔗(きび)を嚙めるのみ
二句目、「島の子」が拡大されているようでありながら、「元日の島」という大きな背景が用意されていることに注意されたい。

以上、『寒林』の句が景に向き合う姿勢に焦点をあてて論じてみたが、ここからは感銘を受けた句について、一言ずつ申し述べたい。
ほぐれ散る苗もありつつ投げにけり
これも時間を感じさせる句、殊に時間の進み方が遅いように感じられる句である。
たちまちや峯のかな〳〵わが坊へ
向ふ峯に三味しばらくや梅さむし
切れ字の使い方が面白い。「たちまちに」「三味のしばらく」と改めても良さそうであるが、『寒林』では非常に律儀に切れ字が使われている。『寒林』の句の調べがどことなく俳諧の発句を思わせるのはこのためであると考えられる。
あやめ見る低き橋あり高きあり
確かにあやめを見るための橋は低い。それも発見であるが、高い橋があるとは更に驚きである。『寒林』に在っては比較的派手な句と言えまいか。
鶯の大きな声をそこねけり
遊んだまでであろう。
石人に石馬に手やり悴みぬ
悴むと分かっていながらこのような行動を取っているのがおかしい。石に手を触れたら悴むのは当然である、理屈である、と批判する人は、蓋し石造物に心惹かれる風流を知らぬのであろう。
向きあうて茶を摘む音をたつるのみ
鴨の陣ただきら〳〵となることも
「のみ」「ただ」の如き限定詞がやや目立つことも指摘しておこう。
織りはげむ雪眼ながらの女房かな
わたくしにとって雪眼は非日常の事に属するが、この句の舞台の地方では珍しからぬことなのであろう。「雪眼ながらの」は「雪眼でありながら」の意ではない。「織りはげむ」「女房」に「雪眼」という要素が単に加わっているに過ぎない。雪眼であろうとなかろうと、この「女房」は「織りはげむ」のであろう。「雪眼」は確かに普通ではない状態であるが、そういう状態になったからといって、取り立てて云々する程のことでもないのだ。

***

ところで、『寒林』において人間を詠んだ句は、生の実相を抉り出すでもなく、人をして思わず膝をうたせるような巧妙な切り取り方をするでもない。ただあるがままに詠んでいる。何の物語も無い日常の姿を写しながら、しかしそこに何かが、誰かが生きていることを感じさせる。

例えば「時雨るるや」である。「声」しか聞こえないが、確かにそこには人がいて、「夕勤め」という、日々の勤めを果たしている。「あるじ」にとって「夕勤め」は厳かなものでもあろうし、日常の中で繰り返される一瑣事に過ぎないかもしれないが、そういう営みを行っている「声」から、確かにこの人は生きているのだ、と確認される。

「あるじの声の夕勤め」は堅固な措辞である。上五で「や」で切って名詞で閉じている。しかも「夕勤め」は毎日のことである。季語が動くと言う人もいるだろう。然り、季語は動く。わたくしは、「時雨」はかなり利いている、などと判者ぶるつもりはない。動いて良いのだ。人生において、唯一無二のことなど殆ど無いのだから。

2016-11-06

松島の月 三村凌霄

松島の月

三村凌霄


わたくしが羈旅を厭う情は、蓋し吟行に端を発する。異郷ならずとも、少し日常を離れた土地に赴いたならば、山川を眺望して徒なる沈思に耽り、それにも倦んだならば、淫する所の古書を出だして眼前の風光を遮り、文字の林を彷徨したい。わたくしは十七字を持ち寄って品隲(ひんしつ)するの煩に堪えない。

蕉翁が身を天地の一沙鷗と為した、その意は那辺に在るのか。都合の良い引用が許されるならば、答えは芭蕉本人の言葉の中に求めることができよう。「白河の關越えんと」、「松島の月まづ心にかかりて」、出で立ったのである。

月などどこでも見られるではないか、と言ってはならない。松島の月でなければならなかったのだ。点々たる月下の島影を賞するためではない。ただ月こそが心のあくがれゆく処だったのである。

芭蕉は句を作るために旅をしたのでもなかろう。目的は――ひとまず、古人の意を探るため、とでもしておこうか。酔翁の意は酒に在らず、句を作ることは目的のための方法に過ぎぬ。もし芭蕉が歌人だったならば、己が心を種として繁き言の葉を育んだであろうし、詩人であったならば、平平仄仄、格律のうちに志を刻印したであろう。絵事(かいじ)を究めた者であったなら縑素(けんそ)の上に胸中の丘壑(きゅうがく)を描き出したであろう。

杜甫は天に弄ばれてか、已むを得ず漂泊の身となったが、芭蕉は敢て己を流謫の刑に処した。これもまた方法の一である。みちのくという空間を動き回りながら、いにしえと繋がる時空を探し求めたのであろう。

        *

昨年わたくしは西スラヴの地に遊んだ。忘れ難いのはクラクフの夕暮である。広場に坐して天を仰ぐ。この地の夕暮は、夜の帳が下りるのではない。昼の光の帳を、天が引き上げるのだ。秋雨に湖水の嵩が増すように、爪先へ、膝へ、腰へ、肩へとせりあがる薄闇に身を委ねながら、その昔タタール軍に胸を射られた喇叭手を悼んで今に絶えず奏でられる金管の音に耳を欹てる。昼の名残の光は、尖塔から雲の底へ移る。niebo(そら)、chmura(くも)、zmierzch(たそがれ)、……これらの単語に遭うたびに、故郷ならぬ地を思って、帰心が騒ぎ出すのである。

だがその黄昏はあまりに遠い。今わたくしの傍にあって密友の如く語りかけ、疲怠せる心神を慰めてくれるものは、ただ喞喞(しょくしょく)たる虫の声あるのみである。それでももし出来ることならば、青と白、光と影のほかは何もない処を目指して、桴(いかだ)に乗って海に浮かぼうか。

海洋には純然たる色彩の美があるばかりである。海は飽くまで自由である。自由にして大きな海を見れば、陸上の都會に於て、自分の心を激昂させた凡(すべ)ての論爭も、實に小さなつまらないものとなつて、水平線の下に沈み消えてしまふではないか。新しい劇場や新しい橋梁の建築に對して、或は各處の劇場に演じられる突飛なる新興藝術の試みに對して經驗した憤怒の如きは、全く我ながら馬鹿らしい事だと心付く。海洋に於ける大きな自然の美は陸上のつまらない小さな藝術の論爭などを顧みさせる餘裕を許さない。
(永井荷風『紅茶の後』「海洋の旅」)

平成二十八年中秋節初夜記

2008-10-12

三村凌霄 艦橋


週刊俳句第77号2008-10-12 三村凌霄 艦橋
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10句作品テキスト 三村凌霄 艦 橋

 艦 橋    三村凌霄

柵の塞きかねてをる狭霧かな
葡萄剪るゆらめく重みありにけり
薄ら日の岩間に淀む根釣かな
晴れ晴れと艦橋の立つ雁渡し
赤い羽根まづ弟を前に出す
体育の日嗽の高く響きけり
割引券ばかりの財布豊の秋
朝寒の急須に茶葉の踊りけり