2016-08-21

オルガンは書いている 宮﨑莉々香

オルガンは書いている

宮﨑莉々香


人はものごとを考える時、分類を行いながら、事がらを整理していく。分類すること自体はとても自然の行為である。だから、わたしは「石田郷子ライン」とか、「オルガン調」という言葉がインターネットの海を飛び回ることも、とても普通のことのように思っているし、そのような分類をすることが悪いことであるとも断言しない。しかし、括る見方にこだわりすぎて、ひとり、ひとり、のかけがえのなさが薄まっているのを見ると、それはなんだかちがうことのようにも思ってしまう。 

わたしにとってのオルガンとは、たしかな、ひとり、ひとりである。オルガンっぽい俳句が意味するものもわからなくはないし、お互いに影響をし合っている部分もそれはそれであるのだが、それでもひとり、ひとりだ。けれど、そのひとりひとりは俳句を「書く」という行為そのものから見たときに、オルガンというひとつとして見ることができるのではないかというのがわたしの思うところである。 

わたしは俳句を書くという意識のもとで俳句を書いているつもりである。オルガンの5人も俳句の形式に書かされている人たちではない。見方によっては、そもそもわたしたちは俳句形式によって書くことをあたえられているとも言えるかもしれないが、それは俳句がある一定の形式やルールを持っていることを指す。わたしが言いたい、俳句を「書く」行為とは、一種の作家意識によるものである。「書く」ことに、なにかしらの、あたらしさが付随しないと「書く」にならないということではない。わたしの言う俳句を「書く」姿勢とは、俳句形式に書かされることを危ぶんでいるかどうかである。 

オルガンのひとり、鴇田智哉は『鴇田智哉インタビュー季語・もの足りること・しらいし』(2016626日「週刊俳句」)の中で、有季定型の眼鏡をはずして俳句を見るということを言っている。詳しくは記事を読んでいただきたいが、わたしの解釈では、季語が入っていない句を、有季定型眼鏡をはずして見た時に、「もの」がより一層「もの」化されると言いたいのではないかと感じた。わたしたちが「書く」ことには、ことばが必要で、そのことば自体は「こと」だが、書く対象(「もの」)をより「もの」化するためには、時折季語の持つ情感や本意という「もの」をとりまく事柄(「こと」)が余計になってしまう場合があるだろう。鴇田氏は同インタビューの中で「季語をネタにして、一句についてそれなりに鑑賞文ができあがってしまう。この「一丁上がり感」は嫌だなあと、私は思っています。」とも言っているのだが、季語によって書かされることを静かにこばむ姿勢がうかがえる。なにかを書く、ときに、なにを書くか、そしてどのように書くかを考えることは、ほんとうの意味での、ものを「書く」ことであるように思う。余談ではあるが、オルガン第1号の最初のページにある、オルガンのことばには「俳句を、するのではなく、俳句がするのだ。」ともあるから、俳句を書きながら、俳句が書いているのかもしれない。しかし、それは俳句に書かれている、では決してない。 

この文章の意味するところは、オルガンは俳句作家のあつまりであるということなのだが、うまく伝わっているだろうか。俳句に書かれてしまうことを危ぶんで書いている、ひとりひとりがいる。今、オルガン調という言葉が世の中を漂っているのなら、わたしは、オルガンの中の俳句作家ひとり、ひとり、を見てほしいと節に思う。 

4号の「ささやきの心に襖たっている」や、5号の「蜂の巣に太陽は減りつづけている」「菜の花はこのまま出来事になるよ」など、田島健一句における、名詞組み合わせマジックが今はとても気になっている。

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