ラベル 高梨章 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 高梨章 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2024-12-08

【俳句を読む】 <特別作品50句・相互鑑賞の試み> 高梨 章 四人を読む


クリックすると大きくなります



四人を読んで    高梨 章

 ガ ガンボ 
 ガ
 ガン
 母
 軽くて
 静かで
 少しだけ揺れる

ががんぼには祖母の余命がわかるのか 千倉由穂
   
 眠るやうな 穏やかな
 最期
 でしたよ、

ががんぼの隣を夜が過ぎてゆく クズウジュンイチ

     *

 なにか聞こえた?
 聞こえなかつた
 私には聞こえた
 あなたにも聞こえた
 ほらまた何か

雲ひとつふたつと育てつつ昼寝 田中惣一郎

     *

 ふたたび扉をたたく
 誰もでてこない 

手袋の片方外す鍵のため 藤田哲史

 あるひは
 鍵はあるが
 ドアはない

     *

 わたし何か言つたかしら
 いや、何も言つてゐないかもしれない

朧夜の話し相手がそつとゐる クズウジュンイチ

 わすれられた 人だつた

     *

 彼はまだ
 指を差してゐる、

風船がみるみる遠い融雪期 藤田哲史
 
 規則正しく息をして
 そして 
 空 だけとなる、

      *

 扇風機二台が首を振り、
 ピンポン玉がこんこんこん

寂しさのかぎり首振る扇風機 千倉由穂

 下を見て、
 そして上を見、
 (小声で)

   *

 波が舟にあたる軽い音、
 舟のかすかに軋む音、

やはらかき辞典一冊さつき咲く 田中惣一郎

 舟は下流の入り江で
 軽く揺れ、そして
 明るい

   *

 物を集め
 そして ひとは死ぬ

端居して花布眺めたることも 千倉由穂

 棚にある、
 借りたままの
 本
 草鹿外吉訳

      *

 わたしたちが向かふのは、
 場所ではない、

透明な時間即ち霜柱 藤田哲史

 ただ広くて
 静かで
 ひかりの
 飛沫が あがる

      *

 陽が
 天の
 まんなかにくる

空室へ風を呼び込む鯨かな クズウジュンイチ

 わたしは
 空のクモに
 恋をした鯨を
 知つてゐる

○


■コンソメ 藤田哲史 作品50句 ≫読む

■踏切  高梨章 作品50句 ≫読む

■卯月  田中惣一郎 作品50句 ≫読む

■生木  クズウジュンイチ 作品50句 ≫読む

■花布 千倉由穂 作品50句 ≫読む

2024-11-17

踏切 高梨章 作品50句

 


 
画像をクリックすると大きくなります
 

 

 踏切  高梨章

木の芽張るかくしきれない呼気吸気
すみれからすみれの外へ脚を出し  
肩にのるあんずの花のやはらかき 
さへづりや光合成の途中です  
風にどう揺れていこうかピクニック
てふが来てわづかにしづみ花のうく
たんぽぽの黄はすいめんに山ふたつ 
白木蓮(はくれん)のりんかくひかるかんたあた
春の夜ブリキの金魚くつがへる     
いくらかの深さに掘れば春の月 
薄氷やそこでみんなは待つてゐる
死にたればまばらな雲から春の星 
てふてふを離れず川はながれけり  
花冷えの傷ぐちひらく廊下かな 
四角の箱へしかくにたたむ春の家  
春の雨あがればみづのそとは夢     
花は葉にハムからハムをひきはがす
ふしぎな楽器のやう水に浮く茄子
六月の傘をひらいて音になる
蝉の羽化しづかな空を風にする 
坂の上はさへぎりもなき夕映のまた失ヘば得がたきひかり 小野茂樹
夕焼のほうへかたむく歩道かな
卵割る 青葉木菟が鳴きましたね 
遠いドアひらけば音のとどく夏
遠雷をポケツトに入れ青(ブルウ)  
夕立の気配のなかの醤油差し  
数式の中途蟻を見たくなる
いつぽんの見えかくれして瀧となり
風がきて廊下をまがる夜の秋  
四万六千日の夜道かな
草の実の来てゐるぼくのくちぶえ 
犬が犬を嗅ぐ八月の路地に入る  
数珠玉のいつつでならぶ夜空かな
あとがきのない本そらを鳥わたる
鶴わたる海底ケーブル敷設船  
この谷のつくつくばふし谷の空 
秋はみな麒麟のやうにあるきたり 
また跳んでべつの芒でゆれてゐる
壁にあるちひさなへこみ秋風鈴 
月の出のすこし手まへでたち止まり 
宥されてわれは生みたし 硝子・貝・時計のやうに響きあふ子ら 水原紫苑
三日月のひかりをもらひ受胎せり
手をほしがるいきものがゐてながれぼし
コスモスがわたしに気づく日ぐれかな
虫籠を持たされ籠の外にゐる 
ここはかつて海いちがつの昼やすみ 
花八つ手留守番電話の声がする   
雲が切れ海までゆける凍星 
冬銀河水を汲むひと銀の耳 
ほそい手足の雪の角度に傘をさす 
透明のシャープペンシル山ねむる
その奥にゆふぐれのみづ冬椿

2022-04-10

【2020/2021「落選展」を読む 2】7. 西生ゆかり 9. 杉原祐之 10. 空谷雨林 11. 高梨 章 12. 中田 剛 あやうきにあそぶ……上田信治

 【2020/2021「落選展」を読む 2】7.  西生ゆかり 9.  杉原祐之 10.  空谷雨林 11.  高梨 章 12.  中田 剛 

あやうきにあそぶ……上田信治

 

7.  西生ゆかり 体と遠足(*) ≫読む

*第一次予選通過作品

寄居虫を運ぶピアニストの右手
七月は光る焼肉屋の看板
秋の三階のコンセントの暗さ


オーソドックスな俳句(結社とか近現代俳句の遺産とか)とは違うところから書き始めた書き手は、しばしば、モチーフ=素材に対するフェチ、といって狭ければ「面白がり」をバネにする。この作者にも、そういうところがあるようです。

素材が目立つタイプの書き手がアマチュアっぽく見えるのは「俳句の価値は内容の価値とは別に現れるもの」だからだけれど、初心というわけではないのに「そこ」を離れない書き手は、自分がそう見えることを、自ら引き受けているのでしょう。

素材の面白さのレベルにとどまらないものが、言葉の運動として、内容と緊密に一致して現れるのであれば、それは俳句のまったく正当な書法であり、この人の書くものは、アマチュアっぽさをむしろ美点にしながら、その域に達しているわけです。

「寄居虫」と「ピアニスト」というモチーフの「フェチ」あるいは「面白」っぽさ。優美な手がヤドカリを乗せて、という絵と、演奏時の「運指」が移動する節足動物の脚のようであるという絵が二重写しになっていて、そこに「ピアニス/トの右手」という音のぎくしゃくがダメをおしている。

「秋の/三階の/コンセントの」と、とぎれとぎれになりそうな口調をたどっての結語が「暗さ」であるという、それは、さぞ殺風景な三階の空間だったことだろうというガッカリ感。せっかく三階までのぼったのにという内容が口調に結びついて、十七音が、他にどうなりようもなかったという仕方で、充実しています。

海老で作るハートマークや冬の旅
柏餅書けなくなつてからの指
フランスの犬の心配桜の実
蛸の脚二本と本体の一部
珈琲が来てから外すサングラス


まぎれもなく「現代」である生活。これらのモチーフの、微量の馬鹿さとグロテスクさによる趣味性の表現は、詩に充足することを許されない同時代的不全感と、なおもそれを楽しんでしまえる胆力とを、読み手に共有させる。

つまり、この書き手は俳句の中で「ニヤニヤする」ことに成功している。


9.  杉原祐之 空バス ≫読む

七夕の夜の七人の句会かな

この「七人」の「七」の無駄さ、無意味さは、ブラヴォーに値すると思うんだけど、たぶん、客席で自分しか立ちあがってないw 

この作者専門の、低佪とただごとは、虚子とホトトギスの系譜を意識しつつ書く人にとって、ひじょうに生産性の高い領域で、若手でも、西村麒麟、抜井諒一、小野あらたと、それを主たる方法とする何人もの書き手の名があがります。

そして、低佪とただごとは、低さに対する初発の驚きを失えば頽落する。ただごとは(本当は)ダメ比べになってしまってはダメなのですが、しかし。

七夕の句の(なんというか)下に突き抜けたどうでもよさには、ただごと俳句を更新するヒントがあるように思います。

もじやもじやの雲を割りたるけふの月

このたび、第二句集『十一月の橋』を上梓された。


10.  空谷雨林 花園 ≫読む

四才のあなたに蝶がとまりしこと

この句の「四才のあなた」は、「卒業の兄と来てゐる堤かな」(芝不器男)と同じ言い方で、誰でもありえたはずの「あなた」(兄)を、その日その時、ただ一人の「その人」だった人にしてしまう。

不器男の「兄」の句は、自分にとって俳句の一つの究極なのだけれど、その究極は、同時代の俳句にこうして何度でも見出せる、ありふれた奇跡でもある。

春の波みな包帯にしたまへと


11.  高梨 章 透明水彩(*) ≫読む

 
*第一次予選通過作品

この犬をつれてのはらにはるのあめ 
その場所はこれからさらにいぬふぐり
芹をあるくきのふの雨の声がする
とどかないひかりもあつて野の遊び
とつぜんですが鰆を食べにいらつしやい 
永き日やこれから足を組みかへる
ここに住むひとりのひとの皿と薔薇
聞いてゐたつもりが風鈴鳴りにけり
皆さびしいところに住んで土用かな
ばつたの死いちにち靴をはいてゐた
じやがいもをひとつ取つてくれないか
三人のうちのひとりが蒲団敷く


この作者に、好きな詩人は誰かを聞いて、中公文庫の『日本の詩歌』などで探して、ゆっくり読みたい。まちがいなく、この人は、ゆたかな詩体験をバックボーンとして持っているはず。

50句がその詩的なトーンを崩すことなく一貫しているのは、それだけでもたいしたことだと思うのですが、注意してみれば、一句一句に、単なる「詩」っぽさにとどまらない、ヒューマンな内実がモチーフとしてあることに、気がつく。

皆さびしいところに住んで土用かな

「皆/さびしいところに住んで」は「皆さびしい/ところに住んで」でもある。つまり、そこは、多くの人のくらしがあるのに、全員さびしいという、そんな場所なのだ(しかも、それが「土用」)。自分は、川沿いに小住宅が建ち並ぶ光景をイメージしました。私たちは、みんな、そんなさびしいところに住んでいる。

ばつたの死いちにち靴をはいてゐた

「いちにち靴をはいてゐた」ものすごく当たり前のことなのに、こう書かれると、それがとてもざんねんなこととして響く。たとえば「セールスマンの死」といった言葉(戯曲のタイトルだけれど)が連想されるわけだけれど、そのときこの「ばった」は、歌って暮らしたかったけれど働いて死んだタマシイのように見えてくる(バッタが靴を履いていたら、それ漫画映画だし)。

この50句が、一次予選を通過し、岸本尚毅さんの推薦を得て本誌に抄録(10句)されたというのは、なかなかの快挙だったのではないでしょうか。


12.  中田 剛 捨てる神(*) ≫読む

*第一次予選通過作品

靄きれぎれに冬の田にやすらへる
山裾に雨脚さはるしぐれかな
庭草にきたる枯れいろ粛粛と
冷えきりし肌着に首をとほしけり
霙降るなかを漬物石さがす
蒟蒻の土佐煮いただく翁の忌


1句目から6句目までを、省略せずに引きました。

それぞれに見所があって、破たんがない。立派な句ばかりです。「靄きれぎれに」の、2/5/5/5という、沈み込むような破調。中句を5にした字足らず感が、中句と下句のあいだに、深い切れを生み、そこでほとんど息が尽きるのだけれど、その疲労感と、冬田にひろがる靄の視覚像がぴったりとシンクロしている。「冷えきりし」の句の「首」を通すという描写のたしかさ。たしかに、肌着の冷えを受けとめるのは、まず首で、そこにヒヤリとしたものが触れることは、たいへんに不吉な冬の朝である。

息白くいのちはひとつきりなると

それに続く7句目ははっきりと通俗のゾーンに足を踏み入れていて、となると、1〜6句目の「靄」「山裾」「庭草」「肌着」の各句、心象風景として、あるいは俳句的景としてベタに過ぎると言えなくもない。そのトーンは最後まで継続していて(これはちょっとどうかなあという句もある)それは、この作者が、そういう「あやうきにあそぶ」を楽しんでいるということなのかもしれない。そして、とうぜんのように、見所のある句、立派な句はいくらもある。

元日は湯を沸かしをる音に覚め
虹のいろ空に吸はるる二月かな
御所の夜気春の鳴神わたりゆく
夕空のはたして暮れぬ燕の子
青梅を片手づかみに筵まで
かたつむり高浜虚子の庭に湧く
おぢさんとおばさんだけで溝浚へ

●

  >> 【2020/2021「落選展」を読む1】

 >> 2020角川俳句賞「落選展」

2018-08-05

2017落選展を読む 10. 「高梨章 そのあかるさを雨といふ 」   上田信治

2017落選展を読む 
10.「高梨章 そのあかるさを雨といふ」

上田信治

高梨章 「そのあかるさを雨といふ」  ≫読む

ほとんど春の句で書ききった、50句。

早春の窓の夜あけやパンの耳

「窓の」の三文字。早春の夜明け、じゃあバラバラ。明るさが四角く限定されることで、パンの耳との関係が効いてくる。

早春の床にミルクの白さかな
早春のもうぬれてゐる光かな
早春の吸取紙もぬれてゐる
早春の水の底まで水の空


同一季語5並び。床にミルクがこぼれたとも、こぼれていないとも読める面白さ。吸取紙が濡れていることの一回性(その前の一句はフリなのだろうか。大胆w)5句目はやや読みにくいけれど、「水が底まで水であるところの」早春の空、と読んだ。

ぽつかりと口をひらいた春の駅
空をおりるやうにひとびと春の駅


無防備といっていい、ふわっとした言葉のつながりと、童話的な発想。その二つの道具が、きわどいバランスで使われて、目の前にある句は、ふわっとどころか、エッジが立っている。

母と子とねむるヒバリのゐない空
ひつそりとあのこは病気風ぐるま
よわくよわく指はひらかれ牡丹雪


抒情性と、感傷性を、自分はあまり区別しておらず、その差は、読者が、その書き手を信用するか否かだけのことではないかと思う。

この人のことは、信じました。それはちょっとした調子とか、語のあっせんによる

石鹸玉空のうしろへ消えにけり
雲雀鳴く蛇口のなかの細き闇
蜂の屍やほんのわづかな塩の味


例年、落選展にご参加。ほとんどまったく一人で書いてこられたのだそうだ。

こういう玄人性から遠くあることを選び取った書き手を、プロ俳人は評価しにくいだろうと思うのだけれど「円錐」の第二回新鋭作品賞で、山田耕司さん推薦で、この人の20句が、受賞したのは、さすがすぎる。

「秋と幾何学」 ≫読む

こういう方をご紹介できるから、落選展も、やっていてよかったと思う。

2017角川俳句賞「落選展」

●

2017-11-05

2017角川俳句賞「落選展」第2室 

■2017角川俳句賞「落選展」第2室■

画像をクリックすると大きくなります。 


6. 片岡義順 舞うて舞うて舞うて町まで枯一葉(その1)














●

7. 片岡義順 舞うて舞うて舞うて町まで枯一葉(その2)













●

8. 杉原祐之 上堂は難し  













● 

9. 鈴木総史 こゑを探して 













●

 10. 高梨章 そのあかるさを雨といふ

2017角川俳句賞「落選展」第2室 テキスト

■2017角川俳句賞「落選展」第2室■

テキスト

6. 片岡義順 舞うて舞うて舞うて町まで枯一葉(その1)

よき事のあふれ出でよと初湯浴び
春昼の送電線のたるみかな
パスワードの解けぬ妻とはおぼろおぼろ
紐もつれ喉に曲者春の風邪
明日もまた地球転がせ四月馬鹿
さえずりやコンビニ前の女高生
蒟蒻にも憂鬱はある花の雨
札幌の人を惑わすリラの冷え
花の宿夏目雅子とすれちがう
お茶漬けを食って別れた二月尽
悪僧も膝つく菫地獄谷
カフェテラスナプキンの色夏立ちぬ
動いてみよどこがうまいか大鰻
理髪師のまじる鼻歌にらの花
夏風邪に皮膚一枚の微熱かな
一点の翳りがすべてサングラス
紛糾する会議にメロン丸机
すべり落ちた大事はどこへ心太
地下鉄や肩抱き合って熱帯魚
熱弁に法も汗かく裁判所
六月の思案深まる樹海かな
美女冗舌オーデコロンはときめいて
夏を知るモデルの脚はスカイツリー
また来たわよ美女は無遠慮青簾
首を這う蛇のぬめりや白い指
お元気でね背中が言うた夏帽子
わちゃわちゃ言う禿げのおっちゃん玉の汗
蛸焼けばグリコが走る戎橋
越してきて竹四五本の野分かな
胎内にあらぬ送り火内視鏡
三日月や駱駝の夢は無神論
嫁くらべ老婆三人鉦叩
ホッチキス散歩に出よう天高し
コンビニでコピー三枚秋夕日
三代目もわが畑好む稲雀
ゆく禿の人それぞれの秋思かな
タクシー待つ黒装束の残暑かな
打つそばや延べて均して待つ平和
放物線に夢あるものか秋刀魚焼く
猫町だったテロは大うそ曼珠沙華
健脚を競うふたりの春隣
テレビキャスターニュース入らず餅を焼く
ポケットの破れどこまで寒の入り
四、五人のはしゃぐ風花六本木
白菜はしろがお似合いニヒリスト
暗闇の影寄りあって焚火かな
地下街のくらがり好むサンタさま
猪肉や仁王の腕の毛深さよ
大泥棒海鼠息する桶の底


●

7. 片岡義順 舞うて舞うて舞うて町まで枯一葉(その2)

怒る火の冷静が舞う薪能
持ち帰る吉野の名残り花筵
春の闇に絶えた狼吉野山
花明かり母がもどった木戸の音
もの言わぬ牛はキリスト花吹雪
謎深まるモナリザの笑み薪能
鎌倉や鍔に彫り込む花菖蒲
霾やかの長安の遣唐使
春昼の牛の涎れの落ちどころ
花盗っ人よもしやあなたは夏目雅子
椿落ちて地底の民の大音声
淀の堤菜の花売るは蕪村とも
かなしみは前衛が抱くアマリリス
花の名を問うて近づく夏野かな
海の日やマストをあげよ勝海舟
門前に使者の気配や蛍の火
ぞんぶんに水を呑んだか夏の蝶
手術前夜合歓の花咲く癌病棟
尽きた命未練を残す岐阜提灯
たましいや蛍を追うて正倉院
虫の闇に仏の思念東大寺
月光に濡れた欲情東京駅
前世も現世もなお曼珠沙華
目が合って僧は澄むなり秋禅寺
月の夜に起つ事あるか盧遮那仏
列島の朝のざわめき野分来る
生ごみに罪の匂いや鰯雲
取り落とし弾むスプーン秋の風
洋梨のころぶ世紀にいたピカソ
ポケモンゴーの解せぬ次第や赤とんぼ
落書きに才のはしくれ秋蛍
宗論の渇きの果ての仏手柑
けだものも歩幅のゆるむ花野道
金沢に人待つ予感冬木立
北へ行く牛は咎めぬ鶴になれ
みちのくの雪は漫漫春隣
尽きぬテロは神の相克枇杷の花
テロ無残北斗星とも自爆せん
雪の朝に妻語りだす金閣寺
まつる祖師石うたがわず冬禅寺
焚火から退かぬ男の胸のうち
楕円形は堕落とも言う褞袍着る
気もそぞろスマホの街は着ぶくれて
名園や菰のあるじは冬牡丹
突っ走る地下鉄道や虎落笛
地下街はわが都なり冬の蝶
短日や人みないそぐ駅の道
東京駅ひとはそれぞれ寒鴉
つつましく咲く柊の棘のわけ
つまずいて日の暮れ易し法円坂


●

8. 杉原祐之 上堂は難し 

どぼどぼと溢れてゐたる若井かな
結納の席に獅子舞踊り込む
挨拶のマイクくぐもる事務始
ラーメン屋の湯気もうもうと寒に入る
雪掻きの大小置かれ山の宿
子が放る思ひの外の雪礫
竹藪を揺さぶる風や午祭
ぶらんこもジャングルジムも余寒かな
麦の芽の朝日を返しをりにけり
隧道に雪解水の染み出せる
弓放ちお水送りの始まれる
雛段を支ふるビールケースかな
卒業の戯れあひながら泣きながら
春昼の喇叭検定試験かな
雉鳴くや足湯に村を見晴らして
春の夜や喃語のシャワー浴びせられ
マフラーを巻きては外し花の宴
地に着けるまで輝ける落花かな
桃色の小さなリュック花筵
花筏浚渫船が分け進む
新築の庭にはびこる諸葛菜
炊飯器より豆飯の湯気と音
仮設集落跡地薇干されたる
放生の池を暗めて若楓
半休を取りて田植を済ましたる
ナイターの風の湿りを帯びにけり
指図出るまではだらだら神輿舁
踏切を待ちゐる山車の囃子急
予備の竿短く握り鮎を釣る
表彰を終へてダービー騎手小柄
神主の屋敷の土間の梅筵
まちまちに梅干色を深めつつ
夕凪や赤子のシーツ干し足せる
朝曇あと一日で休暇来る
ただ浮かむだけのプールに来てをりぬ
プールより上り海鮮丼喰らふ
警備服着せられてゐる案山子かな
鳥居のみ塗り直されて里祭
台風の夜に買ひ足せるカップ麺
鶺鴒の芝の起伏をなぞり飛ぶ
公園に居眠る人と綿虫と
落し穴ありさうで無き落葉径
半袖に短パンで刈る砂糖黍
畳みたる店舗に年木積まれあり
悴める手を双臀の下に差す
おでん屋の液晶テレビ曇りたる
縄を張ることに始まる年用意
餅搗を終へ豚汁の鍋囲む
電球を一つ取り換へ年の夜
水色を残し暮れゆく初御空


●

8. 鈴木総史 こゑを探して 

草萌や時間を空けて飲む薬
針の数だけ影があり針供養
恋猫のきのふとはまた違ふかほ
ふらここや人間はみな空へ帰す
下向けば道はレンガで入試かな
薇のまはりの土のやはらかき
置かれては少しずらされ雛飾る
蒲公英にまみれてゐたる消火栓
春愁やこゑを探してみづを汲む
がりがりとなにかを喰らふ花見かな
先生はチューリップ抱き離任せり
米兵の躯に似合ふ春コート
たちまちに船現るる海市かな
古本を重ねて匂ふ樫の花
街に出てそのにぎはひの遅桜 
時鳥まぶしき雨を葉は抱へ 
かざす手の昏く端午の陽を統べる
はつなつの傷いきいきと脚にあり 
鳥声を薄暑の川へ展げたる
薔薇の咲く部屋に連れられたる恐さ
坂に猫裏がへりたる夏の暮
花は葉にブロンズ像のやや痩せて
島風を銀色と言ひ花蜜柑
なかぞらを鳥は制して麦の秋
薫風や車掌の腕のよく伸びて
夕立の街原色の風生るる
その島は鳥がおほきく花樗
あをぞらや河鹿のこゑの乾ききり
真珠抱くためのかたちに帆立貝
夕涼やみづにはみづの流れ方
対局に終はりの見えて旱星
日盛の硝子は色をもてあます
握りかへすための手であり青田風
炎昼のベルトのやはく置かれたる
銀漢や島に少しく詩がありぬ
こゑはもう出なくて新涼の転居
鵙日和ピンクの傘が晴れをゆく
骨董に硬き文字あり秋の蝶
金網のなかの小鳥のうるはしき
調味料あまねく集め九月尽
症例の少なき病蔦紅葉
古雑誌二三部買ひて秋思かな
明滅はひかりのはじめ寒牡丹
凍星やチェロより音の滴りぬ
初めてといへば毛糸を編むことも
寒暮なりすべて出払ふ消防署
寒林へ向かふ列車の黒さかな
木を喰らふ木があるらしや義仲忌
蜜柑畑ひかりのごとき人とゐて
待春の少し大きめなる切符


●

9. 高梨章 そのあかるさを雨といふ 

早春の窓の夜あけやパンの耳
早春の床にミルクの白さかな
早春のもうぬれてゐる光かな
早春の吸取紙もぬれてゐる
早春の水の底まで水の空
春寒しハンマー投げのピアノ線   
ひんやりと立たされてゐる桃の花
オブラートかすかに甘し桃の花
一本の花えらばれて虻とまる
表札のなき家となり桃の花
ぽつかりと口をひらいた春の駅
空をおりるやうにひとびと春の駅
なんとなくしやがんでしまふ春の土
ゐないので停まらないバス春一番
たんぽぽを気にもとめずに来てしまふ
たんぽぽのところで止まるうしろ足
たんぽぽに気がつくまでを歩きけり
春の野に自転車も寝て雲量三
たんぽぽやクーペに乗つてとほるひと
たんぽぽのところで靴をぬぐ予定
雲雀鳴く目をつむらずにひばりなく 
たんぽぽはちひさな歩幅かもしれぬ
その声が目に見えるほどヒバリ鳴く
雲雀鳴く蛇口のなかの細き闇
眼鏡をはづしそれぞれねむる沈丁花
母と子とねむるヒバリのゐない空
テーブルは水面のやうに花明かり
ふいに墜つ雲雀のやうにさびしさは
パン屑のこぼれしままや春炬燵
春の画のなかの金管楽器かな
クレヨンの折れてありけりチューリップ
風にさはる雨にもさはる子猫かな
濡らしてはまた乾かして春の土
水仙かなんの波音なんだらう
ひつそりとあのこは病気風ぐるま
石鹸玉空のうしろへ消えにけり
よわくよわく指はひらかれ牡丹雪
いま何も抱いてゐなくて春の雨
春は水うす桃いろの洗面器
春の夜のそのあかるさを雨といふ  
梨咲いて空にあらはる雲の位置
春の雨ちひさな卵抱かせて
キャラメルの紙はましかく春休
蜂の屍やほんのわづかな塩の味
晩春や息をひそめて魚の眼  
夕ぐれのくるたび蝶のおとろへし  
晩春やパンダをいまだ見てゐない
かた足をひきずりぎみに夏近し
そら豆の空やはらかくあひにゆく
足音をそつと持ちあげ捕虫網


●

2016-10-23

【落選展2015を読む】 (2)「塔」から「一睡」まで ……仲寒蟬 × 上田信治

【落選展2015を読む】
(2)「塔」から「一睡」まで

仲寒蟬 × 上田信治




19. 折勝家鴨 「塔」 *予選通過作品

信治選
 冬立つやひとりひとつの顕微鏡
 臘梅や水を掃きたる竹箒 *
 理科室の棚に鍵あり梅の花
 鳥雲に入る半地下の文芸部
 紙折つて塔の立つなり夏はじめ *
 足首の無防備にある泉かな *
 蟬時雨腕立て伏せの胴長し
 星と星引つ張り合ひて涼しさよ
 虫の夜や遅れて消ゆる車内灯 *

寒蝉選
 冬立つやひとりひとつの顕微鏡
 寒柝の耳にイヤホンありにけり
 蝋梅や水を掃きたる竹箒 *
 紙折つて塔の立つなり夏はじめ *
 足首の無防備にある泉かな *
 虫の夜や遅れて消ゆる車内灯 *
 雁渡し本棚本と共に古る

*「俳句」2015年11月号掲載句

信治:
取合わせのメソッドに「忠実」と言ってよいほどに、手堅く書かれています。人間的な一シーンが、スナップ的に切り取られていて、そこに季語が取り合わされている。

でも、蝋梅と竹ぼうきくらい、計いの見えにくい取合わせの方が面白いのになーと、思わないでもないです。

寒蟬:
7句しか取ってないのに信治さんと5句まで一致するとは!

実は今回論じる中では一番評価の低かった作品なんです。☓をつけたのは「雪解や轍やくかいにして愉快」「丸まつて眠る地球や栗の花」くらいなのですが余り面白いと思った句がなかった。

選んだ7句にしても寒柝の人がイヤホンしてるとか車内灯が遅れて消えるという発見はそれなりに面白いけれど「おおっ」という感じではない。

信治:
きびしいですね。

「車内灯」の句、車内はさっきまで自分がいた場所で、虫の夜は、いま自分が包まれている空間、という対比がいいです。車はそこにとり残されたように、いっしゅん遅れて車内灯が消え、そして、自分はこれからすこし歩く。という時間の幅に対する意識もあって、僕はこれは好きな句でした。

寒蟬:
顕微鏡の句は研究室か何かでしょうか、視点がちょっと新鮮でした。題名になった「塔」の句もいい句です。足首の無防備は既視感があるなあ。

出だしの2句が大雑把すぎて入って行くのがためらわれました。顕微鏡が1句目でもよかったのに。

信治:
二物衝撃は、無意識をひっぱりだすための手法だと思いますが、意識の範疇でつきすじが見えてしまう句については、ぼくも不満です。銀河→子守唄、水仙→頭痛とかですね。

でも、取り合わせの前提として、現実を12音で切り出す視線に、どこ見てんのこの人っていう面白さがあって。

顕微鏡がいっぱいとか、半地下の部室とか。あとは折紙の塔とか。それだけで面白いですよね。

 理科室の棚に鍵あり梅の花

この梅の花の、審美的じゃないかんじ、好きですね。
窓には白いカーテン。

 鳥雲に入る半地下の文芸部

上昇/下降という対比は見えやすいところですが、憧れをもっぱらとする文芸部が、地面にめり込んで(脳内で)空を見上げていると思うと、おかしいです。

 紙折つて塔の立つなり夏はじめ

紙と夏はじめは、かなり近いですけど、これはきれいさを狙った句なのでOKです。とうぜん初夏の風と光線を受けて、ちょっとピカピカするわけです。

 蟬時雨腕立て伏せの胴長し

あはは。この蟬時雨も、梅の花とおなじくらいいいな。夏休みで畳、ってことですか。

寒蟬:
ああ、なるほど。信治さんの読みを聞いて思ったのですが「半地下」の句は面白いかもしれません。

ただ選ばなかった句が大きな瑕はなくとも惹かれもしなかった。日常の細かい所を描写する力はあるんだけれど、そこから飛躍する時に力不足というか、うまく行ってない印象でした。


20. 高梨 章 「明るい部屋」

寒蝉選
 飯食ひながら夕焼のことばかり
 蝿がきてそのまま奥に消えにけり
 夜濯や母の手くびの輪ゴム跡
 がまぐちの口金ゆるし緑の夜
 目刺くふ子もくはぬ子もきて坐る
 靴下をはき靴をはき初氷
 一気にファスナーひきおろすやうに鵙啼けり
 うろこぐもうまくつまめぬオブラート
 山の名もわからぬままに冬の山
 鳥帰る屑籠に屑しづかなり

信治選
 春の月ぐいとキヤベツの葉を剥がす
 蝿がきてそのまま奥に消えにけり
 靴先を内側に向けしやぼん玉
 ずるいなあと母のつぶやく春の山
 口あけてはるばる春のしじみ汁
 鳥帰る屑籠に屑しづかなり


信治:
全体に、自由に読もうとされていることに、好感を持ちました。

 春の月ぐいとキヤベツの葉を剥がす

中七下五は、100%のフレーズではないんですが、春の月がおもしろい。
50句ラストの「透明な夏のいちにち非常口」も、上五中七はともかく「非常口」がかなりいい。

 靴先を内側に向けしやぼん玉

なにか、この人のおもしろさの核みたいなものは、既につかまれていて、
こういう句には、わかりやすく、それがあらわれるんだろうなという印象。

 ずるいなあと母のつぶやく春の山

この句はすごくいいですね。お母さんの心には、なにが通りすぎたんでしょうか。

春の山が、母にとっての過去と現在の(同時にそれがただあることの)象徴のようにも見える。それは、語り手にとってもまた、思い出であり、同時になまなまとただある現実としての母の象徴のように見える。

 口あけてはるばる春のしじみ汁

この「はるばる」は、はるばると来つるものかな、という感慨だと思うんですけど、そう読むと「口あけて」が、口開けたままはるばる来たように読める。ちょっと置き方、むずかしいなという。

寒蟬:
しかし、俳句賞の応募作としては失敗していると言わざるをえないところがある。

たとえば6句目、8,9,12句目に母が出てくるけれども最初の母

 夜濯や母の手くびの輪ゴム跡

が生きて活動している母なのに

 あれは母ではなく冬の夕焼
 母からこぼるるこなごなの枯葉よ

ではだんだん抽象的な存在になって行く。

 床下に夕焼さはぐと母のいふ

となると夕焼自体が主題のようで、しかも現実の夕焼ではないようで、よく分らない世界。季節も夏からいきなり冬に飛ぶ。その後また夏に戻る。もうめちゃくちゃ。

でも嫌いかというと嫌いじゃないんです。必ずしも成功していないけれども何かやってやろうという感じがする。

独特の世界観、感性を持った人だと感じました。

信治:
そうですねえ……。

これ、誤解される言い方になるかもしれませんが、賞は別にもう受賞しなくても、それはそれで。仮のハードルでもいいような気がするんですよ、その一年の自分の最高到達点を可視化し実現するためには、棒高跳びのハードルを棒なしで越えるくらいの気持ちの設定が必要な気がして。

そんなことを言ってるから、ぼくも予選すら通過しないのかもしれないですけどw

22. 堀下 翔 「鯉の息」

信治選
 夏が始まる羊羹のつまやうじ
 また中へ戻るはちすのうへの蠅
 柿の花石白く水湧きにけり
 日時計の石痩せにけり秋燕
 胡桃割るとき実の中をとほる音
 空腹を木の葉の降りしきる日かな
 侘助や本棚見えて教授棟
 いくたびか氷りてしはしはとなりぬ
 切株の根にたんぽゝの短き首
 こひいつもその日のことの燕かな
 パンジーの黄やうらがはにその黄透く
 林が疎まつすぐ行けば水芭蕉
 深秋やさうかと思ふ竹林
 散らばつてゆく春雲に空が出る
 春を唄へば浅草の筈である

寒蝉選

 濠めぐる大きな水よ夏薊
 夏が始まる羊羹のつまやうじ
 エアコンをとりつけて目を動かして
 葉をきはめたる尺蠖のをどりかな
 胡桃割るとき実の中をとほる音
 裸木の分厚くめくれたるところ
 蟻穴を出てすぐ横にちがふ穴
 春を唄へば浅草の筈である
 パンジーの黄やうらがはにその黄透く
 紙は日に焼けその春の惜しまるゝ

寒蟬:
かなり大胆で冒険的なスタートだと思いました。

1句目の「麦が笛になる」とか3句目の「池のをはりは流れ出す」など日本語の文法の範囲ギリギリのところですごくアクロバティックなことをやっている。

そう言う意味では私の取った句はこの50句の中ではやや常識的な部類に入ってしまうかもしれません。
この行き方、最初の方では成功していますが、

 峰雲のつゞきの空ぢやないかなあ

という口語が突然出て来たり

 別巻を欠き観月に出でにけり

みたいに省略が利きすぎて作者の意図を途中で追えなくなるような句に出会うとちょっと首をかしげてしまいます。

信治:
堀下さんのはじめの3句は、ふつうに失敗しているのでは?

「肉声の」は、前半後半の内容がジャマしあってるような気がします。「濠」をめぐる大きな水というのは、二重の濠を想定してる? そうでなかったら流れるプールのように、水が濠の中を回っていることになる。三句目は、人工の「噴水池」が人工の川につながっている?

ぼくも、自分の句では、最近、わざと日本語として失敗するということをするのですが、そういうのとも、ちょっと違うのかな。

寒蟬:
いや、「濠めぐる大きな水」はイコール濠の中の水なんですよ。大きな水のかたまりが濠という容れ物の中を廻っていると、そういう把握ではないでしょうか。「噴水の池のをはり」は噴水の水をためておく池から水が溢れ出している様でしょう。

確かにちょっとまだるっこしい表現で、これらが最初に置かれると読んでいる側はイラッとするかもしれませんね。その意味では並べ方が下手だ。こういう句は真ん中辺の読者の読むスピードが定まってきたあたりに置いた方がいい。

信治:

 エアコンをとりつけて目を動かして

これは「いい失敗」かも。
一読して、行為の主体が自分か他人か特定しづらくて、でも、エアコンてあんまり自分でつけないから、他人か、と。でも目を動かすのって、じつは内的な感覚じゃないですか。そこのズレが気持ち悪い。

でも、主観とか視点が浮遊するこの気持ち悪さは、写生の眼というものの非人間性と通じるものかも知れず、まぐれあたりかもしれませんが、読み直すと、いちばん好きかも、となってしまいました。

噴水の句は「をはり」が引っかかるんですよね。あと、噴水池から、水があふれるかなあ・・・。あとお濠の水は、めぐりますかねえ。「城めぐる」ですよね、ほんとは。

いや、ぼくは、言い損なって面白くなることには賛成で、作者もここで、勝負してきてると思うんですよね。

ただ語の結合をあいまいにゆるく取っただけの書き方は、ただの失敗におちいりがちなので、もうちょっとこう上手く転ばないとw と思うんです。

寒蟬:
実は「エアコン」の句、気になっていたんですが最初はここから外していました。見直して「やっぱり入れておこう」と(笑)。エアコンをこんな風に詠んだ俳句ってないでしょう?しかも取り付けて、その取り付けた人が「目を動かして」いる。何なんだ、これは??当たり前と言えば言えるが意図のない馬鹿馬鹿しさというか・・・。この一句だけポンと置かれていたら私は信治さんの句かな?と思ったかもしれません(笑)。

私は「濠めぐる」は「大きな水」の把握が大づかみで好きでした。でも他の2句は失敗ですね。だから50句としては損をしちゃってる。

信治:

 夏が始まる羊羹のつまやうじ

この抒情性、すばらしい。オブジェとしてきれいだし。

 また中へ戻るはちすのうへの蠅

すごくくだらないことを、キレイな韻律で歌ってたり。

柿の花石白く水湧きにけり

三段切れの間の空白が、自然観照的うっとり感に通じてる。いい。純粋の自然詠で、言葉であたらしいことをやって成立させてるという行き方、いいですよね。攻めてる。

 侘助や本棚見えて教授棟

いい構図。広くてきもちいい。つつましい花と老(?)教授を響かせている。

寒蟬:
つまようじの句はとてもいい。信治さんの意見に賛成です。
蠅の句の馬鹿馬鹿しさはどこか「鳥の巣に鳥が入つてゆくところ」に近いものがある。とても面白い句だと思いました。気合の入った(縦令失敗していようと)句の後にこういうふっと気の抜ける句を持ってくる配置の仕方はいい。

蟻穴を出てすぐ横にちがふ穴

これは「はちすのうへの蠅」に近い馬鹿馬鹿しさ、そんなことわざわざ俳句で言うか?と突っ込みたくなる面白さがあります。

春を唄へば浅草の筈である

この強引な断定。嫌な人は嫌と思うでしょうね。そういう反対意見をものともしない勇猛果敢さ、その意味ではすごく若さを感じさせる句です。「上手いなあ」と思わせる種類の俳句とは全く違った行き方、私にはこの辺にこの作者の将来性を見た気がします。

パンジーの黄やうらがはにその黄透く

これはどちらかと言えば「上手いなあ」という類。まず観察が緻密、皆が見ているはずの光景を皆が見ているのとは違う方向から描いてみせる。「や」を持ってくるところとか「その」の使い方とか、テクニシャンですね。

紙は日に焼けその春の惜しまるゝ

惜春の句として、50句の最後を飾る句としてなかなかいいんじゃないでしょうか。「その春」に籠められた余韻、作者はどんな春を送ったのだろうと想像が膨らみます。ただ直前のパンジーの句にも「その」があるので、ちょっと違う使い方と言うことを割り引いても気にはなりますね。

信治:
「春を唄へば浅草の筈である」これ、かわいいですね。浅草オペラかw
レトロにもほどがあるw

2015年、堀下さん他こちらで読ませていただいた若手数人は、予選通過してもぜんぜんOKだったと思いますけどね。小野あらた、青木ともじ、青本瑞季と、三人通過しているので「学生枠」的配慮もあったと思います。

ただ、堀下さんでいえば「肉声の」「峰雲の」のような、埒を踏み出ようという句があって、それが疵とみなされただろうという気はする(予選通過の人たちが攻めてないというわけでは、もちろんないですが)。

寒蟬:
かなりの冒険作、野心作と見ましたが必ずしも成功していない。大いに暴れるのはいいのです。ただ勝負に出た句が必ずしも成功していないのが残念。


27. 利普苑るな 「否」

信治選

 漕ぎ出せば川岸長き薄暑かな
 母の日やベンチに並ぶ松ぼくり
 盆波の犇いてゐる板の下
 用水路跨ぎ花野に入りにけり
 てのひらに硬き切符や冬ぬくし
 春落葉日当るものはくれなゐに
 少年のまなじり赤し磯巾着


寒蝉選

 漕ぎ出せば川岸長き薄暑かな
 母の日やベンチに並ぶ松ぼくり
 木犀やわれ亡きあとの太陽系
 用水路跨ぎ花野に入りにけり
 和紙にある草のぬくみや時雨来ぬ
 流氷より戻りし人に灯せり
 抱き戻りけり朧より出し猫
 死神に否と応へし春の夢

信治:
利普苑さん、今年、亡くなられたんですよね。
闘病のあったことを感じさせる句はありましたが、まだお若いので驚きました。

寒蟬:
FBの友達でしたが亡くなったという発表が御主人からあって、本当に驚きました。長い間G(癌のことを彼女こう書いてました)と闘っておられたようですが。今から思えば

 熱帯夜病棟に棲む黄泉神
 木犀やわれ亡きあとの太陽系
 花野道死は弾丸となりて来る
 白線の向かう黄泉らし蚯蚓鳴く
 死神に否と応へし春の夢

などは死を予感して、或いは死と向き合っている毎日だからこそ作れたのかなと。

信治:

 漕ぎ出せば川岸長き薄暑かな

川筋に沿って漕ぐかぎり、川岸が長いのはあたりまえなんですが、でもふしぎな実感があります。漕ぎ出したら、長い川岸の長さに、かすかな感情のざわめきを感じながらこぎ続けなければいけない。「薄暑」が祝福であり、救いであり。いい句だな。

 用水路跨ぎ花野に入りにけり

花野は異界なので、結界があるという発想はあるとは思いますが、用水路跨ぎ、というこのざっかけなさに好感。

 春落葉日当るものはくれなゐに

これは、夕日ってことですよね。春で、落葉で、没日で、それはあかあかと、はかなく美しかったと。

 少年のまなじり赤し磯巾着

ちょっとエッチでいいですね。

闘病を感じさせる句については、この作者の自分へのはげましだったろうと思います。
それでいいんだろうと。


28. 小池康生 「一睡」

信治選
 閉館のキネマの隣布団干す
 海に浮くごとくに聴いて除夜の鐘
 外出はせぬがよそゆき大旦
 地の雪と五重塔に載る雪と
 マフラーに普段着のありそればかり
 花水木住めば覚える人の顔
 たけのこの白きところに値の書かれ
 我ながら大きな文字や夏見舞
 黒南風や五人で守る草野球
 釣り人を離れぬ鷺や秋の昼  

寒蝉選
 閉館のキネマの隣布団干す
 男湯と女湯代はる去年今年
 お水取り巨きな夜を燃やしけり
 啓蟄の秘仏の腹のレントゲン
 青空を眺めに出掛け落第す
 鳥交る片方だけが無表情     
 苗札のなきものばかり咲きにけり
 たけのこの白きところに値の書かれ  
 台詞なき場面のつづく涼しさよ
 バナナ剥く北に東に南西に
 唐辛子売るや辛さを詫びながら

寒蟬:
ちょっとレトロな感じのこの作者の示す世界が割と好きでした。

 閉館のキネマの隣布団干す

こういう場末の映画館、今はあまり見かけなくなりました。「キネマ」という表現も古いけれどそれが閉館しちゃっている、その横では時代の流れと関わりなく「布団干す」庶民の生活が続いている。

 男湯と女湯代はる去年今年

ありますよね、午前零時になったら男湯と女湯が入れ替わる温泉。それが大晦日と正月であっても普段と同じように続けられているという発見。「色々あるけど時間は流れて行くんだよ」という感じです。

 お水取り巨きな夜を燃やしけり

お水取りは火の祭、私は見に行ったのが幼い頃だったのであまり覚えていませんが「巨きな夜」との把握にはしっかりと見てきたものの強みを感じます。

 啓蟄の秘仏の腹のレントゲン

秘仏の胎内をレントゲンで探るという技術。啓蟄との取合せが面白かった。

 青空を眺めに出掛け落第す

これも落第という人生の一大事に関わりなく青空は常にあるとの思いがベースにある。ただこう書くと「青空を眺めに出掛け」たという能天気な行為が落第を招いたようで面白い。それでもいいじゃないか、と言っているようで。

 鳥交る片方だけが無表情

本当なのかな、でも本当かも知れないなと思わせる。つい人間同士の行為になぞらえてしまうからなのでしょうね。

 苗札のなきものばかり咲きにけり
 たけのこの白きところに値の書かれ

いい所に目を付けたなという句です。これまで挙げた句のような時間の流れはあまり感じさせませんが 箸休めとしてはいい。

 台詞なき場面のつづく涼しさよ

ああ、この人はこういう場面から涼しさを感じ取るんだなと。この感性は作者の時間に対する「仕方ないじゃん」という思いと無縁ではないでしょう。

 バナナ剥く北に東に南西に

いいなあ。何だか馬鹿馬鹿しいことに夢中になっているいい歳したおじさん的で、好きですね。

 唐辛子売るや辛さを詫びながら

詫びているのは唐辛子売りなんだけど作者も唐辛子売りに共感していて決して腹立てたりはしていない。いいよ、いいよ、仕方ないよ、この優しさのトーンが全体を覆っていると思うのです。

信治:

 閉館のキネマの隣布団干す

これは、こてこてですねw。かつての昭和モダンが失われて、庶民の町の素地が露呈している。日当たりがいいのが救いで、この国の青春時代を思いながら、老化した町がいねむりをしている、という景。「隣」は、リアルというより、すこし簡単すぎる気もしましたが。

 海に浮くごとくに聴いて除夜の鐘

なかった比喩ではないかもしれないけれど、除夜の鐘をきくのに、波の間に間にたゆたってるような気持ち、暗いような、あの世のような気持ちになっているというのは、とても、よくないですか。渚男の「船」の句を思い出したりもして。

 外出はせぬがよそゆき大旦

一転、日常としての正月風景。寒蟬さんの選んだ「男湯と」の句にも通じるところがあります。
ぼくの父はこういう人でした。

 地の雪と五重塔に載る雪と
 たけのこの白きところに値の書かれ   

写生あるある。どうでもいいことを言いがち。些事が言葉になっていくときの、なんというんでしょう、無差別、無分別の楽しみがある。タケノコの皮に、白っぽいところと毛の生えてるところがあるということですねw

五重塔の句は、視点、空にあると思いましたけど、むしろ下からですかね。

 マフラーに普段着のありそればかり 
 花水木住めば覚える人の顔
 我ながら大きな文字や夏見舞     
 黒南風や五人で守る草野球        

人間にいちばん興味がある。それも、日々の、ふつうの精神状態の人に。それがこの50句、というより、小池さんのいちばんの特徴だと思います。

 釣り人を離れぬ鷺や秋の昼      

この鷺のひとなつっこさには、微量の謎があって。お魚もらえるのかしら、とも思いますが、意味もなく近くにいるというほうがいいな。

寒蟬:
久し振りに読み返してみたら信治さんの取った

 外出はせぬがよそゆき大旦
 地の雪と五重塔に載る雪と

ものすごくいいですね。大したことは言ってないんだけれども気持ちが入って来るというか時間とともにしみじみいいなと思えてくる。

 たけのこの白きところに値の書かれ

は選んでいながら前回コメント入れ損ねていました。この発見はいい。滑稽さもあるし実に生活に即しているし「あるある」なんだけど陳腐じゃないですね。全体の中でも評点の高い作品でした。

信治:
寒蟬さんの取られた、

 啓蟄の秘仏の腹のレントゲン
 青空を眺めに出掛け落第す
 鳥交る片方だけが無表情     
 バナナ剥く北に東に南西に

とかは、すこしサービスよすぎるのでは、とも思うのです。
エンターテイナーなんですね。きっと。


新人賞について

信治:
保坂和志がどこかの講演で話していた逸話です。小島信夫に、保坂和志が「小説家も、選考委員になると、評論家みたいになっちゃうから」と言ったら、小島信夫が「それならまだいい。彼らは、選考委員になってしまうのですよ」と言ったというw

作家も、選考委員という立場になると、文学の代理人として読む、のではなくて、業界の代表者として、賞のそういう性格を無意識に反映して、読み、選別するように、なりがち。それって、たとえば、新人賞が、入社試験みたいになるということですよね。

寒蟬さんはそのへん、どういうふうにお考えでしょう。

寒蟬:
よく分んないけど俳人も選考委員になったら評論家、もしくは「選考委員という人」になってしまうということでしょうか??

信治:
作家は文学とサシの関係であり、文壇に(必ずしも)従属するものではないですが、選考委員になってしまうとは、文壇という業界の機能に、なってしまうということだと思います。

寒蟬:
私のここでの発言がどう取られるかはわからないしどうでもいいですが、私自身は業界(俳壇というものがあればの話)を代表しているつもりもないし新人を送り出そうというつもりもありません。ただ俳句の作者兼読者として思う所を自由に述べさせていただいているつもりです。

先日、小澤實さん、筑紫磐井さんと3人で第1回姨捨俳句大賞という句集に与えられる賞の審査員をやりました。面白かった!自分の俳句観をぶつけて小澤さんとガチでやり合いました。(杉山久子さんの『泉』が受賞)

私は姨捨俳句大賞の公開審査でもここでの信治さんとの対話でも、言っていることにブレはないつもりでいます。

信治:
寒蝉さんが、「賞応募作としては」と言われるとき、彼らに受かって欲しいという、気持ちで言われているのだと思うのですが。

でも、「賞応募作」として、何かを書くというのは、そうとう難しい。
そんな席題が出たら困りますでしょう?

寒蟬:
ああ、そのことですね。言葉が悪かったかもしれない。賞に応募する人は応募するからには賞を取ろうと思っているのでしょう?こちらは読者としてそれを読む時に俳句の並べ方はどうか、統一されたテーマみたいなものはあるか、などと一つの作品として読もうとするということです。それは仕方のないことだと思いますが。

信治:
なるほど。50句トータルでの見せ方ということですね。
たしかに、それはかなり大きな影響あるかもしれません。

ただ、完成度や疵のない作品を、ついつい求めてしまうのは、賞というものが、業界メンバーを選ぶ選別装置であるという前提があって(文芸誌の新人賞だって、芥川賞だってそうですよね)、選考委員となった作家は、無意識のうちに、その関所の門番として機能してしまう。

寒蟬さんも、角川の選考委員の諸先生も、いつもはそういう人じゃないのに。

寒蟬:
まあ立場が人を作るし人を変えてしまうのは致し方ないと思っています。

例えば私は医者として一人の臨床医のつもりですが、同時に病院の地域医療部長でもある。ただ部長として行動する時にも一人の臨床医であることを忘れたくないし忘れないようにしているつもりです。誰かから「お前は一人の臨床医としての立場を忘れている」と指摘されたら恥じ入るし反省するでしょう。

俳人としても同じだと思っています。分って頂けます?

信治:
もちろん分かります。

寒蟬:
「賞応募作として」なんて考える必要はないと思います。自分が俳句でやりたいことを決められた50句なら50句の中で存分にやればいいのです。それが読む側の琴線に触れれば受賞ということになるのでしょう。


●


【落選展2015を読む】
■(1)「水のあを」から「梅日和」まで
……仲寒蟬×上田信治 ≫読む


補遺 全応募作より印象句 ≫読む

2016-04-10

落選展2015を読む〔2〕 大塚凱×堀下翔

落選展2015を読む〔2〕

大塚凱×堀下翔




»承前

●杉原祐之「日乗」

大塚:
畦塗の準備のままの猫車
遠足の子の聖堂に静まれる
明らかに人手不足の神輿来る
リビングの隅の聖樹の消し忘れ
などに印をつけています。文体が優しい印象でした。それだけに、順当な句に感じられてしまう部分もあります。〈夕立の気配に露店畳みだす〉〈報知器の響き渡れる厄日かな〉〈廃校の窓に小鳥の来ては去り〉など、正直に言ってしまうと面白いとは思えなかった。類想や季語のイメージに接近しすぎているということだと思います。
でも、冒頭に掲げた4句のようなおおらかな捉え方が魅力です。良い句には裏切りがある。それぞれ「準備のまま」、「遠足が静まる」、「人手不足」、「消し忘れ」というところにハッとさせられます。

堀下:
遊船や屋根を開きて橋潜る
明らかに人手不足の神輿来る
天の川濃くなり冷えて来りけり
土管より頭を出せば秋高し
あたりを取っています。突飛なことを言おうとしないで、目に見えるものを大切に書いていこうとする志向が充実した50句だと思います。読んでいると名詞の多いことに気が付きました。名詞が多い、ということはともすれば手抜きである場合も多いと僕は思います。とりあえず言葉を繋いで、それから季語を取り合わせて、みたいな。でも杉原さんの場合は、名詞が描写のために尽くされている。〈遊船や屋根を開きて橋潜る〉を見ると分かりやすいんですが、これは「遊船」というものを写生するために「屋根」とか「橋」とかの名詞が費やされる。念入りな描写って個性が出るんです。用言的に把握するのか、体言的に把握するのか、付属語的に把握するのか。杉原さんの句は体言的な把握が文体としてしっかり確立されている。凱君は「順当」な句が多いという印象を持ったようですが、それもこのあたりから来ている筈です。目に見えるモノをひたすら挙げていく、というのが杉原さんの書き方ですから。〈空港の管理用地の薄かな〉とか、取ってませんけど、根性を感じます。

大塚:
結局は語りたい10作品のうちにこの作品を選びましたが、それはその確立した文体に惹かれたのだと思います。ただ、50句作品は、書き手がいかに読者を飽きさせないかという腕の見せ所でもありますよね。執拗な写生はそれはそれで惹かれるのですが、やっぱり50句となるとワンダーというか、ハッとさせられる前掲のような作品がもっとあると、よりドキドキします。堀下くんの「体言的」という指摘は頷けました。

後半に〈演習の土嚢の積まれ枯野原〉から〈キャタピラの轍の残り厚氷〉まで、急に戦争俳句みたいになっているのは意図があるのでしょうか。句の善し悪しは別として、そこまで続いてきた流れがぶっ飛んでしまって残念でした。

堀下:
戦争俳句というか、自衛隊のイベントか何かに行ったんじゃないですかね。展示を見ながら書いた一種の吟行句かなと思いました。一般論としては、全部の句ではなくて一部分が連作ふうになっているという纏め方は特段気になりません。とはいえこの句はたしかに流れが全然違ってきてしまっていますね。視点が変わっていますから。

大塚:
ここらへんの連作としての感覚は人それぞれでしょうか。一部分が連作になっているからダメだ、なんて横暴は考えていませんけれど、これは50句のテーマ性というか、ゆるやかに連鎖する作品性が結構ブレてしまったんじゃないかという気がしたのです。結局は程度問題かとは思いますが。



●折勝家鴨「塔」

大塚:
冬銀河子が減り子守唄が減り
寒柝の耳にイヤホンありにけり
風ひとをさびしくさせるパセリかな
日盛や鳩を散らして人を待つ
虫の夜や遅れて消ゆる車内灯
どこかシニカルな雰囲気の漂う作品でした。〈冬銀河子が減り子守唄が減り〉といった捉え方、〈日盛や鳩を散らして人を待つ〉といった心の動きに惹かれます。他にも、季語の配し方が面白いと思います。掲句では、「寒柝」「パセリ」でうまく裏切られた感じ。その一方で、上五が「○○○○や」の句が多いなと。そこらへんは単調に感じます。

堀下:
冬銀河子が減り子守唄が減り
臘梅や水を掃きたる竹箒
声出して心戻しぬ草の花
などが好きです。完成された取り合わせの句が並んでいて、これはいいなと思いました。「鷹」が培った型の強みを感じました。季語のつけ口で句のイメージがぽーんと変わってゆく面白さ。簡潔だけど緻密な12音を書く作業、そこに新しいイメージを関わらせてゆく作業、その根気の50句だと思います。

こういう書き方をする場合、意味の切り取り方に新しさが必要だと思いますが、たとえば
理科室の棚に鍵あり梅の花
空席に木の影ありし五月かな
少年の夏自転車を分解す
あたりの句はどうでしょう、この「理科室-鍵」「空席-木の影-五月」「少年-夏-分解」といった組み合わせから喚起されるイメージは、もう読者の方でも共有ずみではないかと思います。「少年-夏」という組み合わせが陳腐なのは言うまでもありませんが、そこに加わる「分解」というイメージもまた、実は今となっては「少年」に内包されてしまっている部分なのではないかなと。この種の平凡な展開をしている句がいくつか見られたのが気になりました。

大塚:
作者の意識としては、「理科室」に「梅の花」を取り合わせることに面白さを志向したのではないかと思います。二句目は「空席」、三句目は「分解」という言葉のワンポイントで勝負したかったのではないでしょうか。それがあまり意外性の方向へ弾んで行かなかった、と。だからといって大きなキズでもないですし。フレーズに季語をぶつけるという「型」は強みでもありますし、一方でみんな読みなれている方法論ですから、高い完成度でいかに固定化されたイメージを裏切りつつけるかという根気勝負になっていくと思います。

この方法論は文体の自由度がどうしても低くなりがちです。取り合わせにおける文体をいかに更新していくか、僕も耕していきたい余地だと考えています。

堀下:
そうなんです。文体の不自由さがネックなんです。助詞や助動詞でくふうしたり、あるいは律を崩したり、取り合わせ文体の更新はやっていかないといけない。一方でこの50句の場合は、そういう革新を目論んでいるのではなくて、すでに確立した型の中で完成度を高めていこうとしている。細部の強度が必要な書き方です。たしかに「梅の花」「空席」「分解」あたりの語には瞬発力が感じられもするのですが、それ以外の部分がひどく無防備だと思いました。



●高梨章「明るい部屋」

大塚:
炎天やみるみる泣くぞ泣くぞ泣く
目刺くふ子もくはぬ子もきて坐る
空き箱をかかへて春の微熱かな
雨の日を昼寝してゐる漂流記
三月は木陰のやうに来てゐたり
文体・発想がのびのびしていてとても面白かったです。手を変え品を変え楽しませてくれている印象でした。その一方で、季節が行ったり来たりするのには疲れます。秋の句が極端に少なかったり、一句目の「炎天」から「春の月」に季節が戻るところでまず読みづらくなってしまう。50句作品のテーマ性にまで踏み込むとさらに良い作品になっていくと思いました。母の句が著しく多いですが、あまり他の句と有機的には絡んでいない気がします。

堀下:
空き箱をかかへて春の微熱かな
ずるいなあと母のつぶやく春の山
雨の日を昼寝してゐる漂流記
三月は木蔭のやうに来てゐたり
俳句らしい型を意識しない文体。毎年気になっている方です。平易な語彙の選択、ひらがなの多用、ずらしたり繋げたりする技術、いろんな要素が調和をとって、この流線的な印象を達成しています。発想としては飛躍の大きいものもありますが、それらを生のままぶつけるのではなく、冗語をさしはさんだり、時には過度に口語的に言ったりして、ゆるやかに結びつけていこうとする。言葉の密度は低いながらもイメージの結びつき方が緊密な句にいい句があると思います。ただ極端に字余り・句またがりが多いですね。その曖昧なリズムに価値を見出しているのか分かりませんが、もう少し定型感があると、より文体の自由度が際立つと思います。文体の自由度と律の自由度は別問題ですから。

大塚:
やはり、律の良し悪しも読後の疲労度に関わってきますよね。個人的には字余りや句またがりは好きなのであまり嫌な印象はありませんでしたが、堀下くんがそう言うのも納得はします。詩のことばはつまり暗喩に還元されると言えますが、この作者も取り合わせにおける文体をいかに個性的に、いかに書き手の味方につけるかという部分で勝負している。そうしていると、読んでいて疲れるような、律の問題が生まれてくるという側面もあるのかもしれません。この方法で作品がどこへいけるのか見てみたい。一句における韻律と意味が噛み合った時のパワー、その可能性を感じます。



●ハードエッジ「ブルータス」

堀下:
白梅のかたき莟の香なりけり
大学も大学院も春休
十薬やひと雨にふる雨の粒
遠ざかる一つの時代天の川
平明な読みぶりが気持ちよいです。この方も毎年気になっている作者です。
池に雨松の手入も済みたるよ 2014
運動会その翌日が土砂降りで 2013
と、これは過去の「落選展」の句ですが、どうでしょう、僕、好きなんです。口当たりのよさと言いますか、すらすらと口をついて出てきたような感じがあります。去年の落選展のときにも書いた気がしますが、はじめからこの形だったんだろうな、という素直さを感じます。〈白梅のかたき莟の香なりけり〉〈十薬やひと雨にふる雨の粒〉のような素朴な写生句を50句揃えたらかなり読みごたえが出てきそうな。一句目、「かたき莟の香」がいいですね。硬さと匂いなんてほんとうは順接で関係づくものじゃないのに、でも、あのあおくさい莟の匂いはたしかに「かたき」の感じがあります。二句目は実はどういうことを言おうとしているのか模糊としている、でも、ざあっと降った雨の一粒がありありと目に入ってきます。雨粒を描写するために雨降りを持ちだす、という単純だけど念入りな書き方。

大塚:
正直、採った句はそれほど多くない作品でした。理屈っぽさがどうしても拭えなかったから、当初は平明という印象ではありませんでした。ただ、読んでいくうちにそのなかに堀下くんの言うような面白い作品があったので頂いたという次第です。

堀下:
理屈っぽさというと、
新聞も三月三日ひなまつり
ものを煮ることなき水が噴水に
「盆踊雨天中止」が雨に濡れ
あるモチーフの意味性を取り出して、その意味から少しずらしたモチーフをもう一つ横に置く、という作り方。意味のリフレインとでも言いましょうか。でも、いや、それは面白くない。

大塚:
そうですね。〈空蝉と例へば空の段ボール〉とか、「そこで空って言う!?」って思いました。因果を感じたくないな、と思いながら俳句を読みますが、発想につながりが見えるともう因果に引きずられてしまって言葉が理知的な理解で留まってしまうような感覚です。自然の大きさと時間感覚というテーマ性においては先行句は無いとは言えませんが、〈枯野行く少し狂ひし腕時計〉なんかには因果関係がなくて好感を持ちました。それから、〈蟻の巣に入らぬものを壊しをる〉〈大根も抜きたる穴も濡れてをる〉にも素直な詠みぶりの良さを感じます。変に発想を飛ばしたり空想っぽいのものを詠んだりすると、やっぱり理知的な作り方になってしまっていると思います。

堀下:
いわゆる写生句のように見えている素朴な句も、じつは理知的に作り上げられたものなのかもしれません(だったらダメだということではないですよ、為念)。というのも、さいきん素十の句を読みなおしているのですが、写生の神様と思われているこの人の句の一部が、妙に構成的な印象を発していることに気づいたのです。
柊の花一本の香かな 高野素十『初鴉』
という句、これ、いいですよね。花の香りがする、というただそれだけのことを言った句です。素十の作品世界のつつましさ、すなわち、俳句はこれだけでいいんだ、という倫理が感ぜられます。花の香りがする、という以上のことは言わなくてもいいんです。だから柊の花なんていう長ったらしい季語にずいぶん音数を取られてしまったあとも、まだ余白がある。何も言わなくていいのだけど、十七音には足りませんから何か言わなくてはいけない。そういうときに素十は「一本」ということを書くんです。こんなこと言わなくていいじゃないですか。「柊」と書かれた時点でわれわれに「一本」は見えています。だから「一本」と言い足したところで情報量は増えません。とはいえ素十の眼の前の柊の木はたしかに「一本」ですから素十はそれを写生しているわけです。捉える対象を絞った結果、却ってヘンなものが取り沙汰されている。客観写生の威力とはつまりこういうことでしょう。

でも、この句、読みようによってはたいへん構成性に富んだ句です。小さな花があって、それをつけた木があって、その木のまわりが匂っているという、三段構えの図式がある。

彼の代表句、
くもの糸一すぢよぎる百合の前 高野素十『初鴉』
における「前」というのもそうなのですが、平明な句、強烈な美意識を盛り込まない句を書こうとすると、位置関係を把握するという方向にしばしばなるんです。となると、いま「関係」という言葉が出てきましたとおり、理屈抜きで書いた筈が、変に理屈っぽく読めてしまう、ということが起こります。重要なのは逆も然りだということです。われわれは一見写生句のような句を理屈で書くことができる。ハードエッジさんの〈白梅のかたき莟の香なりけり〉〈十薬やひと雨にふる雨の粒〉、これ僕大好きなんですが、もしかするとこれらは「かたき-莟-香」「雨-雨粒」の関係性によって書かれた理屈の句かもしれない、とそんなことを思いました。



●堀下翔「鯉の息」

大塚:
また中へ戻るはちすのうへの蠅
林が疎まつすぐ行けば水芭蕉
日時計の石痩せにけり秋燕
蟻穴を出てすぐ横にちがふ穴
深秋やさうかと思ふ竹林
好きな句がいろいろとありました。やはりなんといっても文体が確立している強さです。〈また中へ〉〈蟻穴を出て〉の句は第6回石田波郷新人賞受賞作にある〈茎を蟻登り来てまた引き返す〉などに通ずるある種のゆるい馬鹿馬鹿しさ、だけれど対象を執拗に眺めているという目線。あるいは、〈林が疎〉というフレーズに代表される表現の密度。その両者、つまり対象への目線の密度と表現の密度が中心にあります。堀下くんの堀下くんたる表現は、その助詞の用い方でしょう。〈をさなくて春暮れゆくに遅れをる〉〈こひいつもその日のことの燕かな〉のように、敢えてワンポイント的に「に」「の」などの助詞を用いています。どの助詞を用いるかで、前後の動詞や切れの置き方にも影響が出てきます。あたかも助詞から一句を組み立てていくような感覚が、堀下翔のもつ心地よさの大きな部分を占めていると僕は感じています。

堀下:
取ってくれてありがとう。僕はおしゃべりが好きなので自分の句ですが気兼ねなく書かせてもらいます。神は細部に宿るといいますか、助詞とか補助動詞とか助動詞とか、そういう部分で表現の精度を上げていくのがまず自分の仕事かな、と思っています。そういう意味で自分は言葉派と思われてもいい。でも技巧が風景に先んじているのではないということはぜひ言っておきたいです。どうも僕は外を歩くのが好きで、特に花があまり咲かない土地で育ったものですから、草木のうつくしさには心を奪われます。花を見ておどろいた気持ちをそのまま書きたい。美しいものを「美しい」と書いたところで何の足しにもならないのでしぜん言葉の細部で補強してゆかなければならない。机上派と言葉派は同義語ではないんです。さいきん気になっている句集に千葉皓史『郊外』があります。千葉の扱う題材は、多くは身辺や自然で、派手なところはありません。どの句をとっても、風景・表現ともにシンプルなんです。でも、こういう句があります。
東京に人影は秋来てゐたり
この助詞への気の配り方、はっとします。同句集所収では〈裸子がわれの裸をよろこべり〉といった句の方が有名でしょう。「裸子が」の句の助詞は一見平凡です。でも、動かない。この風景を再現するための最適解なんです。どの助詞も緻密に鍛え抜かれている。僕もこういう態度を取りたい。正直にいえば今年の角川の50句は今となっては甘い句ばかりで、読み直して赤面しています。もっともっと確かな句を書いてゆきたいです。
肉声の日々なり麦が笛になる
林が疎まつすぐ行けば水芭蕉
柿の花石白く水湧きにけり
あたりは、とりあえず残してもいいかな、という気がします。


大塚:
肉声の句なんかはさっき堀下くんが言ってた「理屈」の話に近いものを感じます(笑)

これは位置関係の句ではないけれど、平明なふりをして一種の理屈としても読めてしまう部分もあるかもしれない。敢えて批判をするとすれば、やや観念的であったり意味が取りづらくなっていたりしてもその韻律にごかまされてしまいそうになるときがある(笑)〈めくるめく史実を春の暑さとも〉などは「史実」という言葉が身に迫るかといわれるとそうではない。〈視力たのしく走りたり麦の中〉の「視力」なども挑戦は面白いけれど、「たのしく」への語彙選択に無理が生じてしまっている感があります。それを押し通してしまいかねない韻律の力強さはあるけれども、成功しているかといわれるとそうではないと思う。

堀下:
あはは、ごまかすつもりはないんだよ(笑) でも確かに観念的な句が交じっているのはよくないねえ。もっと即物的に書く根気強さを身に着けたいと思います。

大塚:
話がズレますが、「理屈」や「観念」という言葉においては、それをときにアレルギー的に忌み嫌い、ときに抗生物質を投与するような安易さで作品の評価に用いているという側面があるのではないかと懸念しています。これらの言葉の定義も曖昧ではあるのですが。「ホトトギス」昭和8年4月号に山口誓子が「詩人の視線」という題のアフォリズム的文章を寄せています。要するに京大俳句草創期に、婉曲的な表現を用いながらホトトギスひいては高浜虚子批判をした離脱表明とも受け取れる文章なのですが、そこには「選者はいまかいまかとその句を選から外そうとしているのだ」というような文脈があるのです。誓子の指す「選者」は虚子のことですが、われわれひとりひとりも〈選者〉だと拡大解釈するならば、その句を選ばなかった場合には理由を後付けているような気がしていて、「理屈」や「観念」といった言葉はそのような場合に多く用いられているような感覚が僕にはあります。これらの言葉には注意しないといけない。きっと「理屈」「観念」にも石に玉が混じっているような気がしていて、これらのことばで句を切り捨ててしまうことには反省がつきまとっています。本当に話がズレました。

堀下:
耳が痛い話です。「理屈」とか「観念」とか、あるいは僕は似た文脈で「意味」という言葉をよくネガティブワードとして使いますが、ほんとうにこれって切り捨てていいものなのか、切り捨ててしまうのは早計なのではないか、ときどきそんなことに思い至って真顔になります。「理屈」「観念」を否定するのが後付けの理由であるとは僕には言い切れません。俳句のポエジーはそういったものではないのだ、というフレーミングを長いあいだ俳句作者たちが重ねてきた結果だと思います。でも、そうではなくて、われわれが「理屈」だとか「観念」だとかと呼んで“いない”ものの中に、実は「理屈」「観念」に相当するものがあって、時としてそれを面白がっているのではないか、そういう虞を感じるのです。たとえば「この句は味があるね」というときの「味」なんかその最たるです。いったいポエジーとはどこに発生しているのか、きちんと選り分けて行かないと、うっかり「理屈」「観念」を暴力的に切り捨ててしまうことになりかねない。言葉というものそれ自体が観念の上にあるので、ほんとうは理屈がない、観念がない言葉というのはありえないんです。そこから目を逸らすのは戒めないといけない。以上の点、今年はもっと冷静に考えてみたいと思います。でも、やっぱり「理屈」は嫌いです(笑)



●前北かおる 「光れるもの」

堀下:
手堅い句が多いと思いました。
立春の水を掬つて顔に
花冷の学生服の背中かな
五本づつ炉火に挿し足す串のもの

要素が多めで、ともすれば焦点がぼやけがちではありますが、新奇さを狙わず、淡々と書き進めていく感じに惹かれました。一句目は要素が多いうえに述べ方も悠長なんですが、そのゆるゆるとした感じが景と合っています。二句目は季語がいいですね。三句目の即物性も大好きです。〈山の雨降りて明るき泉かな〉のような、自然をポエティックな印象で書きとどめようとする句よりも、掲出句のような、人間生活を着実に言葉にしていく句の方に味があります。

大塚:
僕も似た印象でした。採れる句が多かったです。なぜ10作品に入れなかったかというと言い訳めくのですが、文体に新奇性をあまり感じなかったからでしょうか。必ずしも新奇であればなんでもいいというわけではなく、それならそれで手堅さで勝負するタイプの作品も尊いものだと感じますが、それでもって強くインスピレーションを受けるほどの派手さは感じなかったです。〈立秋の候と書きさし窓の外を〉などの景色に惹かれましたが、いい意味で裏切られるような感覚はなかった。例えば花冷の句なども採ってはいるのですが、「花」の成分が「学生服」とマッチしていて、「冷」の成分が「背中」とマッチしているような感じ。句としてはいいとは思うのですが、あくまで「納得する」というレベルでの配合だったかなと思います。ちょっと順当さが拭えませんでした。

堀下:
なるほど、花冷の句の分析、納得します。たしかにその要素ごとの対応は「納得」を生むものです。一句の中にそういったいくつかの力関係があるんですよね。言葉の引力が、べっとりと全体を塗りつぶさず、微妙に拮抗している句にいいものがあると思います。



●宮﨑莉々香「眠る水」

大塚:
最初に取り上げた青本柚紀さんと同年齢ですが、あちらが象徴性の作家だとしたらこちらは切実さの抒情で読ませる書き手です(寒蟬さん信治さんの対談の方で僕と堀下くんも同年齢とされていましたが、正確には僕と堀下くんは1歳上です)。実体に対して仮想や観念を発想するという方法で作られています。

完成度が高いとは言えませんでしたが、面白くなりそうな句がありました。〈おおきな良夜のちいさなコンビニの聖書〉は「おおきな」と「ちいさな」がすごく勿体無いけれど、目の付け所はいい。〈鯛焼きを分け合い星に歴史かな〉〈春雨のあとの静かな象舎かな〉なども面白いと思いました。ただ、表現が粗かったり発想が安易である句も多いのは確かです。一般に「俳句的」ではない語彙、表現を用いようという志向があるのだと思いますし、そこに可能性を感じます。〈嵐や風の転校生は鹿をみる〉など独特なリズムに惹かれました。一方で、無理やり言葉を飼おうとしてしまっている感があって、言いたいことがたぶんうまく表現できていない。そこのバランスが取れるようになってくると、もっともっと面白くなると思います。

堀下:
鯛焼きを分け合い星に歴史かな
実感や詩のように飛ぶ春の蜂
あげまんぢゅうのぢが好きなのだ春の虫
あたりが面白いと思いました。言葉に懸けようとしていながらも、肝心の言葉の精度があまり高くないのは否めないと思います。この人のやろうとしていることは「切なさ」ですよね。平凡なものを見ている筈なのにそれが切なくて仕方がない。その切なさを、お前には分からないんだ、と言って逃げてしまうのではなくて、できるだけ分かりやすい形で相手に差し出そうとしているんだと思います。でも、言いきれていない。あるいは、いや、そんなに大したポエジーではないぞ、というケースもあります。稚拙な情感をこのひと流の文体に流し込んでしまうと、独り相撲の滑稽さになる。そういう意味で〈鯛焼きを分け合い星に歴史かな〉なんかは、情が過多といえばそうなんですが、「歴史」という言葉の軽さに見るものがありますし、それが「星」という詩語と結びついて、大がかりなようでいて実はポップに仕上がっているのも面白い。二句目の「実感や」もキているでしょう。「春の蜂」でいいのかと言われればちょっとダメだと思いますが。三句目は「春の虫」でどうにかなっているような気がしないでもないです。
卒業や写真にうつる大きな木
親戚や同じかたちの雑煮餅
みたいな、王道的すぎる詩情は、一周回ってるのが分かっている人ならばいいのですが、読者はそれほど親切じゃありませんからね。この作者と親しいわれわれなら、両句の「や」の馬鹿丁寧さあたりからその機微を察せますが、ハタから見たらやばい人になりかねません。

大塚:
堀下くんの言うように「なんでこれを面白がってるんだろう」と思う句もありますけれど、あんまりそれを指摘しても意味がないような、50句を読んでそんな気がしています。それよりも、この人にはキてる作品を書いてもらいたい。観念といえば観念の構造なのですが、それが面白い観念だという場合がある。50句作品という単位での完成度では他の方に譲る部分が大きいですが、ときどきキてる句が見られたのは幸せでした。

堀下:
卓抜した展開で揃った50句が見たいですね。そのときのために読者の方もきちんと批評できる言葉を用意しておかないと。「キてる」じゃあんまり享楽的な読者ですから。

大塚:
それは反省ですね。口走りすぎました(笑) とにかく、今後の作品が楽しみです。



●利普苑るな 「否」

堀下:
型の強みで取りました。
転校は履歴書に無し蓼の花
はいかにも蓼っぽいし、
和紙にある草のぬくみや時雨来ぬ
はいかにも時雨っぽい(あとこれは「来ぬ」もいいですね)。季語が動かないのもよさです。

あと、
鳰鳴くや鎌田實をポケットに
というのも、ちょっと俗っぽすぎるかもしれませんが、意外な感じがして好きです。優等生らしすぎるのが却ってばかばかしいような。
西国より届く白桃父米寿
の「父米寿」や
白玉や野良猫三代盛衰記
の「盛衰記」
光満ちたり花虻のホバリング
の「ホバリング」

は、その一語に俳句の面白味を求めすぎで、丁寧に書いてほしいです。

大塚:
利普苑さんも実感の書き手かとお見受けしました。

〈料峭やてつぺん見えぬ螺旋階〉、螺旋階段をそう略して伝わるのか微妙に思いましたけれど意外性があります。〈囀や応募葉書に貼るシール〉なんかも生活詠としていいところだと思います。その一方で〈漕ぎ出せば川岸長き薄暑かな〉〈てのひらに硬き切符や冬ぬくし〉など、実感はあるけど既視感の強い作品、パターン的な季語の付け方を感じました。ここら辺が残念に思います。これらを〈転校は履歴書に無し蓼の花〉と比べると、やはりフレーズの視点、季語の配合ともに単純な物足りなさを感じてしまいます。

堀下:
ああ、切符がどうのこうのというのは、やっぱりねえ……。〈漕ぎ出せば川岸長き薄暑かな〉も、薄暑だと、もうなんにも残らないですね。一昨年の秋に出た利普苑さんの第一句集『舵』、いいんですよ。
一行の編集後記夏来る
引算の答さみしや蟻の列
あつけなく猫の逝きたる桜かな
季語のつけ筋がはっきりしているし、他の12音の方も強度がある。さっぱりとした喪失感を書いた句がとてもいいんです。これはまあファンのわがままですけれど、今年の50句は情や生活臭が強すぎるのかな、という気がします。そういうわけで〈転校は履歴書に無し蓼の花〉が一押しでした。



●小池康生「一睡」

大塚:
手袋もをのこも行方不明なり
ゆきぐものよこにあをぞら法隆寺
降り残す雨を今ごろ椎若葉
花水木住めば覚える人の顔
安心して読めた一連でした。それはおそらく、用言を中心とした無理のない句作りによるものでしょう。緻密な写生という句柄ではなく、ものごとを大掴みなフレーズに練り上げ、季語と取り合わせるという手法です。その把握が例えば〈ゆきぐものよこにあをぞら〉というリアリティを生んでいます。その句柄は「降り残す雨」の物理的な動きを描くのではなく、「雨を今ごろ」というおおらかな言葉から椎若葉らしさを描き出しています。しかし、〈鳥交る片方だけが無表情〉や〈生身魂あの世の下見済んだらし〉などは作者が思っているよりも面白くはないと思いました。描くというよりは述べてしまっているような、身に迫る表現にはなっていないと思います。〈新暦の方の二月を愛しをり〉という暦の概念までいってしまうと、正直ついていけないという思いでした。

堀下:
ゆきぐものよこにあをぞら法隆寺
描きかけの消防車なり出動す
花水木住めば覚える人の顔 
降り残す雨を今ごろ椎若葉
あ、選がだいぶん被りました。やっぱりこのへんがいいですよね。大らかな味わいを大らかに書く句にいいものがあります。類想感の強い句(〈男湯と女湯代はる去年今年〉〈台詞なき場面のつづく涼しさよ〉あたりです)や現実世界の「あるある」をそのまま俳句にしただけの句(〈立春のトールサイズといふカップ〉〈一本も観ずに延滞春の雨〉あたり)、それから凱君が指摘したそれほど面白くない句を丁寧により分けていくと、重心のしっかりとした句が残って、それらに明確な共通点があるわけでもないようなのですが、どれも大粒で面白かったです。たぶん人情だとか通俗的なかっこよさに別段の面白味を感じて書いている作者だと思うのですが、それをそのまま俳句にするよりも、その恰好のつけ方、まなざしの持ち方で俳句的素材を扱った句のほうが成功しています。

大塚:
先ほど安定感と言いましたが、それは句末がとくに名詞で着地する傾向とも関連していると思います。読後にキッパリとする感じは、この効果による部分も大きいかと思います。

2015-11-01

2015角川俳句賞落選展 20 高梨 章「明るい部屋」テキスト

20. 高梨 章 「明るい部屋」

炎天やみるみる泣くぞ泣くぞ泣く
春の月ぐいとキヤベツの葉を剥がす
飯食ひながら夕焼のことばかり
夏つばめ影一瞬に影の中
蝿がきてそのまま奥に消えにけり
夜濯や母の手くびの輪ゴム跡
夕焼にさはつたことがあるといふ
あれは母ではなく冬の夕焼
母からこぼるるこなごなの枯葉よ
手袋をはめた手で雨の音を聴く
山茶花や坂道おほき町にすみ
床下に夕焼さはぐと母のいふ
がまぐちの口金ゆるし緑の夜
目刺くふ子もくはぬ子もきて坐る
キャベツに醤油をかけてしまひけり
少年の影自転車の影五月
てのひらを夏のざわめき過ぎりけり
靴先を内側に向けしやぼん玉
しやぼん玉しばらく消えず消えにけり
初嵐けさも右足先に出す
靴下をはき靴をはき初氷
いつまでも石蹴るあそび冬銀河
空き箱をかかへて春の微熱かな
ずるいなあと母のつぶやく春の山
雨の日を昼寝してゐる漂流記
夏鳥の孤独もつパンタグラフかな
青年の団扇をゆるくうごかしぬ
透明度増してゆく母みどりふかし
昼顔をひとつ取つてくれないか
立ちどまるのが好き白い夏帽子
一気にファスナーひきおろすやうに鵙啼けり
そこここに団栗ならばそこここに
うろこぐもうまくつまめぬオブラート
どこに置く檪の林に母を置く
山の名もわからぬままに冬の山
大さむ小さむ音なく数行削除
冬支度ぼくらは夜毎めをつむる
豆電球も気泡のひとつ長き夜 
口あけてはるばる春のしじみ汁
早春のすべては水の音といふ
梅が香やガスのほのほを細くする
三月は木蔭のやうに来てゐたり
水を飲む母はせせらぎ南風
鳥帰る屑籠に屑しづかなり
島も見えず鳥も見えず母ねむる
ねむりにも水位あるらし冬の波
三月に目ざめつぶやくまだ朝か
春休み玩具の汽車が離陸する
大南風港と港つなぐ線
透明な夏のいちにち非常口

●

■高梨章 たかなし・あきら
昭和二十二年一月一日生まれ。大学非常勤講師。俳句歴六年。所属結社なし。 

2015-01-11

【2014角川俳句賞 落選展を読む】 3. みんなおなじで、みんないい? 依光陽子

【2014角川俳句賞落選展を読む】
3.みんなおなじで、みんないい?

依光陽子


≫ 2014落選展


11人の鑑賞が終わって、折り返し地点。次の角川賞締切まであと5ヶ月である。

前回「絶対に成功しない素材ランキング」と書いたところ、先日の句会で他にどんな素材がNGかという話題で盛り上がった。

以前、角川『俳句』に常套句について書いたことがあるのだが(平成19年5月号特集《類句・類想をこうして避ける》の<死して常套拾ふものなし>)、5年たってもあまり状況は変わっていないのだなぁと改めて思った。

「ひこうき雲」「観覧車」「誰々の生誕地or終焉の地」「樹齢○百年の松」「ヘリ」など、成功しないという意味は、それらを扱った俳句はごまんと目にするが、佳句を見たことがない、ということだ。

俳句文学館で全国の俳誌を片っ端から読んでみれば明らか。皆等しく詩情を掻き立てられ、皆同じように書き留める。例えば、ひこうき雲もクレーン車も斜め○○度の傾きで空に刺さっている。

観覧車の傍らには太陽や月がある。料理俳句、名画俳句、女優の名前の薔薇俳句。季題ラ・フランスが60歳代女性作者の句集に頻出する不思議現象など、挙げればきりがない。

人の個性はその人だけのものだ。生きてきた環境も取り入れてきた影響も全て違う。だから俳句だって違うものが出来るはずなのに、どうして同じような句を良しとしてしまうのか。

皆と同じで安心する「シゾフレ型」、たとえ自覚はなくとも俳句界はシゾフレ天国、模倣天国である。俳句という詩型特有の制約と無数に生み出された他者の作品の中で新しい句を書くことは本当に難しい。

自分が簡単に気付くものなど、誰もが簡単に気付くのだ。「誰かが詠んだような句は詠まない」と腹をくくるところがスタート地点だと思う。


12.ふらんど(さわだかずや)


春の句のみの50句。中盤、うつの句が並ぶ。この作者に限らず、うつを詠んだ句を句集などで度々目にするようになったのは近年顕著だ。「精神病んで」「不快」「嗚呼死にたし」などネガティブな言葉が連なるとさすがに読んでいて息苦しくなってくる。<半裸にてつくしを摘んでゐる集団>はどこかラース・フォン・トリアー的で許容範囲だが、「痰」「ビーム」など度が過ぎると意図をはかりかねる。うつの句も双極性障害の句も、その病状について詠まれても読者は困るものだ。またそうした素材を詩にまで昇華させることは至難の業だ。

強烈な言葉を直接読み手にぶつけるだけでは句は立たない。それがどんなに厳しい経験であっても、客観的に作品を検証する目と、完成度がなければ、読み手の心を揺さぶることは出来ないだろう。なぜなら、書かれた時点で言葉はイメージになるからだ。

耳の奥熱き遅日を過ごしけり        さわだかずや
花ですから死んでしまつてよいさうです
一切無常にて蜆汁おかはり

気になった句。
一句目。「耳の奥が熱い」とは決して良い状態を表してはいない。「耳の奥が熱い」ことで、太陽が出ている時間が一層永く感じられる苦痛。だがこの句は他の憂鬱な作風の句に凭れ掛かっていない。遅日を従来とは別の角度から表現することに成功している。
二句目は万朶の花明りが死を誘う。否、誘われたのではなく「死んでしまってもいい」という言葉がふと降りてきたのだろう。作者は理由を見つける。「花ですから」、つまり桜がこんなに咲いているのだから、と。桜と死。文学上、民話上語りつくされた二物からこの句は起草され、歩き出す。そして漠然と死を許されたこの人物は決して死なない。それが俳句作者としてのしぶとさであり、この句のしぶとさでもある。
三句目、一切が無常だという諦念に思考を留めながら、効能たっぷりな蜆汁をおかわりしてしまう生き物としてのせつない事実。この矛盾は取り除けないものとして心に刺さる。

<韮やはらかし人妻はさりげなし>は桂信子の<ひとづまにゑんどうやはらかく煮えぬ>、<やい鬱め春あけぼのを知りをるか>は江國滋の<おい癌め酌み交はさうぜ秋の酒>の先行句がそれぞれ口をついて出て来る。ましてうつを扱ってこの薄さでは心の網にかからない。たとえ先行句を踏まえたのだとしても、その句を超えない限り類想句の域は出ない。

もろもろ書いたが、この50句からは過去の自分に抗う歯ぎしりが聴こえて来た。それがこの作者本来の作家性の恢復と信じたい。


13. 封境(杉原祐之)


正統派かつスケッチ風。省略の利かせ方、句の佇まいは否定しない。ただ、中盤のほんの数句の海外詠(?)には異質な印象を受けた。<ターバンと付髭映す泉かな>から<引越の果て風鈴の鳴りにけり><播州の室津の浜の蝦蛄を漁る>でやや唐突に国内詠に戻りさらに風土詠へと移行する辺り。50句のどこに読みのピークを持って来たかったのだろう。なんでも俳句に出来てしまう人は、何を書かないでおくか、顎を引いて考えてみるべきであろう。

子を風呂に入れたる後の夕涼み      杉原祐之
ポストへと落葉の嵩を踏みながら
プレハブの目印をつけ冬の芝

中で、この三句に立ち止まった。
一句目、まだ幼い吾子だろう。子どもを風呂に入れることは若い父親には大仕事だ。夕涼みをしている姿から安堵感が伝わってきて清々しい。
二句目は平凡なカットだが作者の息づかいが感じられた句。落葉を踏む音と心音が重なっているよう。ポストは落葉の嵩を踏まなければ辿りつけない場所にある。「嵩」という言葉が辺りの風景や、ポストの中にあるはずの手紙や葉書の重なりを連想させる。郵便物を投函する瞬間のちょっとした覚悟に至るまでの、短いけれどまっすぐな時間。
三句目、仮設住宅か工事現場のプレハブか。芝の上にそれを建てるための印をつけた。少しだけ根本に緑が残る冬の芝の枯色と目印をつける人の背中。きっと同じような色の作業着だ。冬の芝はやがてプレハブの下になり完全に枯れてしまうだろう。とまれ、冬の芝の広がりがよく見えてくる。

全体的に季題の斡旋は悪くない。あとはかな遣いのうっかりミスをなくし、50句に統一性が欲しいところ。もう一歩踏み込んでモノを見ることで、さらに見えてくるものがあるはずだ。


14. 新機軸(すずきみのる)


<壺焼のさみどり残す肝の尖><その中に制服もゐて御命講><電線とひとつの影に夕燕>など俳句を作り慣れている作者だと思った。

摘みきたるオクラ十指をはみ出して    すずきみのる

まさに素手で摑んだ句。両手に余るほどのオクラを摘んできた。大きく広げた指の間からオクラの先端が見える。指の間からはみ出したオクラが手の棘のようで、オクラの表面のチクチクとした感触と相俟っている。

なめるごと寄りくる波に千鳥翔つ
煮られつつあり白繭もその夢も

タイトルは「新機軸」。50句最後の<初句会この人にこの新機軸>から採られている。新機軸とは初句会にふさわしい心意気。またこの作者にとっても上記二句は、数年来の落選展の作品に比べると出色と言えそうだ。
一句目の「なめるごと」は千鳥のいる干潟に寄せて来る波の表現として無理がない直喩だと思う。干潟を舐めるように平らかに静かに寄せて来る波。長い脚が浸り、砂に刺した長い嘴が浸り、そして汐がある高さになったとき千鳥は翔つ。そこに至るまでの千鳥の行動も見えてくる。
二句目。あれほど盛んに音を立てて桑を食べていた蚕の蛹は、繭の中で夢を見ているかのよう。一読メルヘン調だが内容は厳しい。蚕は羽化することを許されない。煮られ殺されて繭を剥ぎ取られる運命だ。羽化してその翅で羽ばたくという夢もまた儚い。

手練の作者だけに、既視感のある句やかな遣いが間違った句が散見されるのは実に勿体ない。句を厳選し、十分に精査し、さらなる「新機軸」を開拓してゆかれることを期待したい。


15. 室の花(津野利行)


冒頭五句はさておき、身の丈に合った自分の言葉で句を書いている点に好感を持った。

夏掛は妻を小さく包みけり          津野利行
大学は辞めたと笑ふ生ビール
何もなき父の形見や心太

一句目。夏掛は寝ている人を嵩なく見せる。「小さく包みけり」に妻との微妙な距離感や、押しつけがましくない愛情を感じる。寝姿も見えてくる。夏掛という季題の効果がある。
二句目。大学職員か、はたまた大学生の友人か。「大学の方はどう?」「実は辞めたんだ」そんな会話があって、友が笑った。いろいろな葛藤を経たであろう複雑な笑顔。この生ビールはとても切ない。
三句目。眼目は「心太」の斡旋だろう。雲色のつるんとした心太。昔ながらの心太の突き器を使ったものであればなおさら、その押し出した後の空虚さは一入である。喉に滑ってゆく心太の冷たさ。「何もなき」に、父の死をすでに遠く認めることが出来るようになった作者の心が、読み手の心を押し出す。

室咲は枯れぬ気でゐたかもしれぬ

この作者もタイトルの語を含んだ句がラストに置かれている。室の花を年老いた肉親の生前と深読みし、悲しい句だと思った。そんな深読みを誘う伏線となる句が50句中にいくつか点在していたからだ。だが一句単独で読んだとき、室咲の効果が見当たらないのである。私は改めて、一句として立つことと、50句として立つこととの違いを考えさせられた。


16.バンテージ(谷口鳥子)


面白そうな句が出てきた。
以前、50句全句動物園で作った句で構成された応募作品があった。一句一句の完成度も高く感心してしまったのだが、この作品は全句ボクシングをテーマにした句で異色。「誰も詠んでない句を詠んでやる」という意気込みがいい。こういった元気のいい作品が読めるのが落選展の醍醐味だろう。
現代かな遣いである。

ヘッドギア何度も直す熱帯夜         谷口鳥子
容赦なく打ちくる小五の日焼け顔

作者も熱いけれど句も熱い。「小五の」は中八かつあまりに粗雑な省略で、子どもだとわかるので不要と思いながらも「容赦なく打ちくる」濁りのない眼差しが気持ちいい。

蝉の鳴くリズム外してストレート
のっぺらぼうの月と並んでジム帰り
ジョグダッシュジョクダッシュ十一月
膝と腰と首でリズムを夏来たる

無理矢理季題を入れたような句も少なくないが、このあたりはいい具合に季題が収まっている。
一句目。ジムの壁を突き抜けて来る蝉しぐれの中でのストレートの練習。蝉の鳴くリズムをわざと外してみる。ちょっとした遊び心。
二句目。のっぺらぼうの月はあたかも丹下段平。一日の練習を終えた充足感が「並んで」という言葉に込められている。
三句目。もし私がボクシングを始めたら、この句を念じながらジョグ、ダッシュのインターバルトレーニングを繰り返すと思う。あきらかに破調だが繰り返し口遊んでいると、なんとなく年の瀬へ向かっていく冬の空気感が出てくる。「十一月」が或いは動かないかもしれない。
四句目。俳句も運動もリズムが大事。なるほど、ボクシングは膝と腰と首でリズムをとるのか。「夏来たる」は漲るエネルギーを代弁している。
さて、もしこの50句で受賞したらこの作者は受賞第一作にどんな句を書いただろうかとふと思った。次回は不用意な贅肉句は落としつつ、完成度も磨き上げてほしいと思う。


17. 空車 (高梨章)


春の日の金の夕べを空車(むなぐるま)  高梨章

タイトルの句である。俳人・山田みづえの父である国語学者・山田孝雄の『「むなぐるま」考』の中から言葉を借りれば、「空車・むなぐるま」は「のらぬ車也、迎などに人のこぬ心也」(匠材集)とある。私は特に「人のこぬ心也」という部分が気に入っている。むなぐるまという言葉は主に院政鎌倉時代の語で、平安朝から鎌倉時代の間にだけ使われたようだが、作者はこの古い言葉を一句に入れた。「の」でたたみかけてゆく手法はこの句に限ってはあまり気にならない。時代を遡らせ、駘蕩とした世界へ読み手を誘う。春の金色の夕べをゆく空車の音なき音。眩しさと虚しさ。印象深い句だ。

秋の灯台 いつぽんの蝋燭をひろふ

分かち書きはこの一句だけだが、悪くないと思う。秋の灯台といつぽんの蝋燭を拾った事実の間に空白が必要だったからだ。解釈は不要。そのまま受け取ればいい。読み手の席は用意されている。
他にも<空席をつくるたちまち月あがる>や<月の力すこしゆるみぬ時計店>も二つの事柄にあたかも関連があるように現実と非現実の間、意味と無意味の間に句世界を構築している。日常語と旧かな遣いの起こす幽かな摩擦が醸し出す何か。<手袋は暗くなるころおそろしき>など、進もうとしているのは鴇田智哉的な志向と見るべきか。

アスタリスクの章立てで、春・冬・秋・夏という不規則な並びにしてある。面白い試みだが、最後の夏の部に入っている句があまりよろしくないのが残念。凝っているわりに<秋の朝きのふの雨の光かな>という至極平凡な句が入っていたり、「蟻地獄」「蝸牛」の連作は雑すぎる。もっと根気強い練り上げが必要。それ以外は、ある虚無感が漂っていて「空車」のタイトルが全体によく行き渡っていると思った。



●
 
≫ 0. 書かずにはいられなかった長すぎる前置き
≫1. ノーベル賞の裏側で 依光陽子
≫2. 何を書きたいか