2022-04-10

【2020/2021「落選展」を読む 2】7. 西生ゆかり 9. 杉原祐之 10. 空谷雨林 11. 高梨 章 12. 中田 剛 あやうきにあそぶ……上田信治

 【2020/2021「落選展」を読む 2】7.  西生ゆかり 9.  杉原祐之 10.  空谷雨林 11.  高梨 章 12.  中田 剛 

あやうきにあそぶ……上田信治

 

7.  西生ゆかり 体と遠足(*) ≫読む

第一次予選通過作品

寄居虫を運ぶピアニストの右手
七月は光る焼肉屋の看板
秋の三階のコンセントの暗さ


オーソドックスな俳句(結社とか近現代俳句の遺産とか)とは違うところから書き始めた書き手は、しばしば、モチーフ=素材に対するフェチ、といって狭ければ「面白がり」をバネにする。この作者にも、そういうところがあるようです。

素材が目立つタイプの書き手がアマチュアっぽく見えるのは「俳句の価値は内容の価値とは別に現れるもの」だからだけれど、初心というわけではないのに「そこ」を離れない書き手は、自分がそう見えることを、自ら引き受けているのでしょう。

素材の面白さのレベルにとどまらないものが、言葉の運動として、内容と緊密に一致して現れるのであれば、それは俳句のまったく正当な書法であり、この人の書くものは、アマチュアっぽさをむしろ美点にしながら、その域に達しているわけです。

寄居虫」と「ピアニスト」というモチーフの「フェチ」あるいは「面白」っぽさ。優美な手がヤドカリを乗せて、という絵と、演奏時の「運指」が移動する節足動物の脚のようであるという絵が二重写しになっていて、そこに「ピアニストの右手」という音のぎくしゃくがダメをおしている。

秋の/三階の/コンセントの」と、とぎれとぎれになりそうな口調をたどっての結語が「暗さ」であるという、それは、さぞ殺風景な三階の空間だったことだろうというガッカリ感。せっかく三階までのぼったのにという内容が口調に結びついて、十七音が、他にどうなりようもなかったという仕方で、充実しています。

海老で作るハートマークや冬の旅
柏餅書けなくなつてからの指
フランスの犬の心配桜の実
蛸の脚二本と本体の一部
珈琲が来てから外すサングラス


まぎれもなく「現代」である生活。これらのモチーフの、微量の馬鹿さとグロテスクさによる趣味性の表現は、詩に充足することを許されない同時代的不全感と、なおもそれを楽しんでしまえる胆力とを、読み手に共有させる。

つまり、この書き手は俳句の中で「ニヤニヤする」ことに成功している。


9.  杉原祐之 空バス ≫読む

七夕の夜の七人の句会かな

この「七人」の「」の無駄さ、無意味さは、ブラヴォーに値すると思うんだけど、たぶん、客席で自分しか立ちあがってないw 

この作者専門の、低佪とただごとは、虚子とホトトギスの系譜を意識しつつ書く人にとって、ひじょうに生産性の高い領域で、若手でも、西村麒麟、抜井諒一、小野あらたと、それを主たる方法とする何人もの書き手の名があがります。

そして、低佪とただごとは、低さに対する初発の驚きを失えば頽落する。ただごとは(本当は)ダメ比べになってしまってはダメなのですが、しかし。

七夕の句の(なんというか)下に突き抜けたどうでもよさには、ただごと俳句を更新するヒントがあるように思います。

もじやもじやの雲を割りたるけふの月

このたび、第二句集『十一月の橋』を上梓された。


10.  空谷雨林 花園 ≫読む

四才のあなたに蝶がとまりしこと

この句の「四才のあなた」は、「卒業の兄と来てゐる堤かな(芝不器男)と同じ言い方で、誰でもありえたはずの「あなた」()を、その日その時、ただ一人の「その人」だった人にしてしまう。

不器男の「兄」の句は、自分にとって俳句の一つの究極なのだけれど、その究極は、同時代の俳句にこうして何度でも見出せる、ありふれた奇跡でもある。

春の波みな包帯にしたまへと


11.  高梨 章 透明水彩(*) ≫読む

 
第一次予選通過作品

この犬をつれてのはらにはるのあめ 
その場所はこれからさらにいぬふぐり
芹をあるくきのふの雨の声がする
とどかないひかりもあつて野の遊び
とつぜんですが鰆を食べにいらつしやい 
永き日やこれから足を組みかへる
ここに住むひとりのひとの皿と薔薇
聞いてゐたつもりが風鈴鳴りにけり
皆さびしいところに住んで土用かな
ばつたの死いちにち靴をはいてゐた
じやがいもをひとつ取つてくれないか
三人のうちのひとりが蒲団敷く


この作者に、好きな詩人は誰かを聞いて、中公文庫の『日本の詩歌』などで探して、ゆっくり読みたい。まちがいなく、この人は、ゆたかな詩体験をバックボーンとして持っているはず。

50句がその詩的なトーンを崩すことなく一貫しているのは、それだけでもたいしたことだと思うのですが、注意してみれば、一句一句に、単なる「詩」っぽさにとどまらない、ヒューマンな内実がモチーフとしてあることに、気がつく。

皆さびしいところに住んで土用かな

皆/さびしいところに住んで」は「皆さびしいところに住んで」でもある。つまり、そこは、多くの人のくらしがあるのに、全員さびしいという、そんな場所なのだ(しかも、それが「土用」)。自分は、川沿いに小住宅が建ち並ぶ光景をイメージしました。私たちは、みんな、そんなさびしいところに住んでいる。

ばつたの死いちにち靴をはいてゐた

いちにち靴をはいてゐた」ものすごく当たり前のことなのに、こう書かれると、それがとてもざんねんなこととして響く。たとえば「セールスマンの死」といった言葉(戯曲のタイトルだけれど)が連想されるわけだけれど、そのときこの「ばった」は、歌って暮らしたかったけれど働いて死んだタマシイのように見えてくる(バッタが靴を履いていたら、それ漫画映画だし)。

この50句が、一次予選を通過し、岸本尚毅さんの推薦を得て本誌に抄録(10句)されたというのは、なかなかの快挙だったのではないでしょうか。


12.  中田 剛 捨てる神(*) ≫読む

第一次予選通過作品

靄きれぎれに冬の田にやすらへる
山裾に雨脚さはるしぐれかな
庭草にきたる枯れいろ粛粛と
冷えきりし肌着に首をとほしけり
霙降るなかを漬物石さがす
蒟蒻の土佐煮いただく翁の忌


1句目から6句目までを、省略せずに引きました。

それぞれに見所があって、破たんがない。立派な句ばかりです。「靄きれぎれに」の、2/5/5/5という、沈み込むような破調。中句を5にした字足らず感が、中句と下句のあいだに、深い切れを生み、そこでほとんど息が尽きるのだけれど、その疲労感と、冬田にひろがる靄の視覚像がぴったりとシンクロしている。「冷えきりし」の句の「」を通すという描写のたしかさ。たしかに、肌着の冷えを受けとめるのは、まず首で、そこにヒヤリとしたものが触れることは、たいへんに不吉な冬の朝である。

息白くいのちはひとつきりなると

それに続く7句目ははっきりと通俗のゾーンに足を踏み入れていて、となると、1〜6句目の「」「山裾」「庭草」「肌着」の各句、心象風景として、あるいは俳句的景としてベタに過ぎると言えなくもない。そのトーンは最後まで継続していて(これはちょっとどうかなあという句もある)それは、この作者が、そういう「あやうきにあそぶ」を楽しんでいるということなのかもしれない。そして、とうぜんのように、見所のある句、立派な句はいくらもある。

元日は湯を沸かしをる音に覚め
虹のいろ空に吸はるる二月かな
御所の夜気春の鳴神わたりゆく
夕空のはたして暮れぬ燕の子
青梅を片手づかみに筵まで
かたつむり高浜虚子の庭に湧く
おぢさんとおばさんだけで溝浚へ


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