2022-03-26

【2020/2021「落選展」を読む1】私たちは(伝統回帰の)三代目なのだろう 上田信治

 【2020/2021「落選展」を読む1】1.青島玄武 3. 岡田一実 4. 落合耳目 6. クズウジュンイチ

私たちは(伝統回帰の)三代目なのだろう……上田信治

 

これから2年分の「落選展」応募作を、5月までかけて読んでいく予定です。

角川文化振興財団主催の公募新人賞「角川俳句賞」の、2020年、2021年は、受賞作を見ても予選通過作を見ても、この十何年かの「俳句の変化」が「仕上がった」と言えるような年でした。(*)

その「俳句の変化」を洒落て「ウェーブ」と呼ぶならば、小誌「落選展」は、まあまあ、その「波頭」であり続けたと自負しています。

そして、この2年の「落選展」の作品は、じっさい、たいへんに充実していました。


1.  青島玄武 辛夷の空 ≫読む

休暇果つ畳にこぼすコカ・コーラ

畳にこぼすコカ・コーラ」は、むしろ、夏休みのにふさわしい景。そういう事態が「休暇果つ」すなわち最終日、もしくは、もう学校や職場がはじまっている日に起こっている、休暇が、まだ、ぜんぜん尾を引いているという可笑しさ。これから畳のコーラを拭き取るだろうツルツルとした感触も楽しい。

陸橋の上にも踊り止まぬ人
枯山河その真ん中の遊園地
おにぎりの中から桜吹雪かな
甲板が全般的に蛸となる
緑陰に冬物あまた干されあり


人間的「面白」のモチーフが、こうして景を息づかせていることは、正統的俳句の興趣と言っていいもので、自分はこの書き手のことを、ほとんど荒武者のようなユーモアの人として記憶していたのですが、認識が改まりました。

紫陽花の花びらごとの影日向


3.  岡田一実 文字 ≫読む

※一次予選通過作

熱移る三つ葉の茎や雑煮椀
吾を見て縄跳のまま横へ逸る 
門灯に貌あらはるる雪達磨 
渦潮のうづ巻く前の盛り上がり 
ヒヤシンスその根巻かれて売られあり 
雨は灯に乱れて夏の欅かな 
河骨の花ごと揺るる中の蜂 


先に触れた「俳句の変化」言い換えれば、ここ十何年の俳句のトレンドないしは課題が何だったかといえば、いわゆる「昭和三十年代世代」と呼ばれる作家たちを(とりわけ、小川軽舟言うところの、彼らの形式とのなじみのよさを)どう発展的に、あるいは批判的に継承するか、だったように思います。

それは、もう一世代前の「伝統回帰」「虚子回帰」とくくられる方向性の、昭和三十年代世代による相続の、そのまた次ということになる。

要するに、私たちは(伝統回帰の)三代目なのだろう。

 ──と、これが自分の問題意識です。

さて、この作者は、その数冊の句集において、統語の屈折やイメージの重層を駆使し、マニエリズム的な絢爛さを達成として示しました。それは、まさに、上に挙げた課題に対する回答の一つだった。

しかし今回の50句の力点は、大正から昭和初期の俳句の価値を共有する、上掲のような句群にある。発表のたびに、この人がいかに激しく「昨日の自分に飽きるのか」を見せられて、驚きます。この50句は、2020年のこの人がここにいた、という記録に過ぎないのかもしれません。

そして、これらの過去と並び立つことを志向する句にも「昔の人はそう書かなかっただろう」という逸脱的な言葉の運動は仕掛けられていて。

雨は灯に乱れて夏の欅かな 

夏の欅」という、日差しの中のそれしかイメージしようのない対象を、はげしく暗い雨に、モンタージュ(夜とも昼ともとれます)。写生の言葉が「絵」を作ろうとすることを、かすかに裏切る引っかかりがあって、頭が混乱して、とてもよいです。


4.  落合耳目 LED ≫読む

飼猫のやうに扇風機を運ぶ

この句、いいでしょう? もし「猫歳時記」を企画される方がいたら、ぜひ。いや、普通の歳時記にあってもいいような句だと思います。

台風の怒りを捨ててゐる河口
店閉めて誠に勝手ながら秋


6.  クズウジュンイチ 静かな野球 ≫読む

自分とこの作者とは、ずっと句会をやっていたので、身内に近い関係だということは申し上げておきます。やってることが、わりとよく見えてしまう。

静かな野球たんぽぽがわりとある

主人公が野球をしているともしていないとも取れるのですが、カメラか神のような透明な視点がこの景を見ている、と取るほうが、野球との距離が自在になって面白い。空間に遍満する透明な主体が「たんぽぽがわりとあるなあ」と思っている。「わりと」の措辞が、それを単純なカメラアイとは読ませないわけで、もちろん、主人公は、神様のような暇な失業者でもありうる。滋味掬すべし。

小鳥屋が一人で運ぶ花曇

小鳥屋が運ぶその対象を言い落として「花曇」と入れ替えてある。小鳥屋がそれを「一人で」運ぶ。なぜそれが「一人」と見えたのかという謎が、景全体を「花曇」にふさわしい、もっさりと薄暗いものにしている。

上掲二句「わりと」「一人で」と、言わずもがなのフレーズから発生する「すわりの悪さ」が、不安定な情緒に着地することに、妙味がある。

かははぎの煮汁に顔の剥けてをり
裏山のそとがはにゐるほととぎす
ひつかけの釘に傾く草刈機
炎天のガードレールにひどく粉
十三夜つるりとくぼむ駅の椅子
鱈ちりやきれいに住んでメゾネット
生の火を荷台に積んで焼芋屋
あの器具に鯛焼ひとつひとつ焼く


ここで書き手が提示するのは、現実のさまざまなありようなわけですが、言葉とそれの対応関係にはからいがあって(たぶん、可動域のようなモノが大きく、ぐらぐらするので)そこに読み手を誘い込む運動が発生している。

かははぎの」の「の」は主題を提示する「の」で「の剥けてをり」に係るわけですが、語順的にまず「煮汁」に係ってしまうので「」がほら、ごろんと転がりますでしょう? 「草刈機」の(たぶん持ち手のひもが釘に架かっている)状態のわかりにくさも、そのまま力学的不安定さとパラレルです。

雨粒のこまかく付いて狐かな

この狐、まっすぐこちらを見ているような気がする。光の粒をまとって、現実の狐が、使いか精霊のようにそこにいるという驚きを、言い得ている(作者は地元の野山をフィールドワークするナチュラリストでもある)。

この人の言葉は、対象それ自体の価値(季語やモチーフの具体物としての価値)よりも、言葉それ自体が面白く運動することを志向している。

それは、たとえば、鴇田智哉、佐藤文香以降の(と、くくっていいと思うのだけれど)新しい書き手が多く共有するエートスなのではないか。

 (2につづく)

 

(*)「落選展」のとりまとめを、もうたぶん15、6回やっているので、自分は「角川俳句賞」という新人賞の「定点観測者」を名乗る資格があると思う。そのたぶん誰よりも熱心で親切な「ウォッチャー」としての総括。 

 

 

 >> 【2020/2021「落選展」を読む 2】

 >> 2020角川俳句賞「落選展」

 

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