2014-12-14

【2014角川俳句賞 落選展を読む】 1. ノーベル賞の裏側で 依光陽子

【2014角川俳句賞 落選展を読む】
1. ノーベル賞の裏側で

依光陽子


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≫ 0. 書かずにはいられなかった長すぎる前置き



 
1. 霾のグリエ(赤野四羽)

文学に夏が来れりガルシア=マルケス 赤野四羽

かな遣いの新旧混合やら何やらでいきなり頭を抱えてしまった50句なのだが、トップバッターということもあり、なんとなく捨て置けない気がして引き返してみた。

自己完結型作品群の中、この句はそのドサクサに紛れてスコンと突き抜けてしまった感がある。「文学に夏が来た」と大上段から振り下ろされた断定に軽く眩暈を起こしていたら、ガルシア=マルケスが置かれていたという…ある種かけ逃げ的な力技。今年4月にガルシア=マルケスが逝き、5月になって夏が来たなぁという感慨が、特に深い意味もなく合体したのだろう。偶然とはいえ一句は成ったのか。事実関係、意味憶測一切を吹っ飛ばし、いかにもカリブ海的陽光で句を照らしてしまったのである。

太陽の上に落ちけり田植笠

水を張った田に映ったギラギラの太陽の上に、田植えで前屈みになった人の頭から笠が落ちたのだ。

この人の句は明るさがはっきり見える。その点は評価できる。


2. こゑ(生駒大祐)

何故この50句が予選通過しなかったのか。マイナス点を差し引いてもこの作品が本選の俎上に乗らなかったのは、編集部の見落としとしか思えない。

慎重な句作りで、句の細部にまで目が行き届き、ブレなく安定しているので安心して読める。言葉に無理をさせず、かといって守りに入るわけではないところがよい。しかしさすがに芝不器男賞100句応募の後の数か月間で、50句粒を揃えるのは息切れしたか。

夏雨のあかるさが木に行き渡る 生駒大祐
渦の影立ち上りたる泉かな
人呼ばふやうに木を呼ぶ涼しさよ
風鈴の短冊に川流れをり

冒頭の四句。

一句目の光度。夏雨の綺羅が行き渡る一木の清々しさ。二句目、泉の中で渦の影が立ち上がるという描写は、作者の心理描写とも受け取れ印象深い。

三句目「人を呼ぶ」ではなく「人呼ばふ」と書いたのはその後に「木を呼ぶ」の中に「を」が出て来るからで重なりを避けたのだろう。その工夫一つで類句に一線を引いた。○○を呼ぶやうに○を呼ぶ涼しさよ、であれば類句がある。

四句目の風鈴の短冊に画かれた川も仕掛けが凝っている。画の川は風鈴に流線型で続くことで、川のイメージや揺らぎを想起させる。鳴っているか鳴っていないかに関わらず風鈴自体に涼やかさを持たせることに成功した。

残念なのが5句目の<薔薇の枝の夥しさを座して見る>。この「薔薇」だが、ここでは季題の働きはない。薔薇の花は見えてこないしこの人物が見ているのは枝だ。まあ無季俳句だとしてもよいのだがさほど作者の心持ちは伝わってこない。5句目にこの句が来たことは惜しかった。

製図室ひねもす秋の線引かる

「秋の線」とはやや強引であるが悪くない。季感がある。澄んだ空気。すーっと幽かな音を立てて引かれる線。製図室の一日。「ひねもす」の一語で、朝の爽やかさから釣瓶落とし、さらに夜業への伏線も引かれている。

針山の肌の花柄山眠る
唐代の墨飛び立たばつばくらめ

一句目、古びた針山だろうか。肌という言葉からいくぶん色あせたサテンの花柄の生地の針山を思う。そこに刺された金や銀のまっすぐな針。裸木が樹影を落とす遠景の冬の山。針山の花柄の温かみと色彩のない厳格な冬山の対比。しずかに流れてゆく時間がある。

二句目、燕の黒から唐代の墨へ想が飛んだ。墨匠が登場した唐代、日本にも墨が伝わった。毛筆の撥ねの勢いの如く飛び立った燕という小さな命が、悠久へと誘う。

一句一句は完成度が保たれている。だが、既視感のあるフレーズが多少目につく。なるべく手垢のついた言い回しや言葉は使わないことだ。<しとやかに><べつとりと><たやすく><ひとつごころ>は描写になっていないし、イメージも受け取れない。<今はなき><のぞまれて>は感情の落としどころがない。<うすみどり><天さびし><飼ひならす><世の中は>は先行句がすぐに浮かんでしまうので損だ。
 
力のある作者だけに、来年は本気で賞を狙って欲しいと思う。


3. 線路(上田信治)

この50句は、細かいショット(句)が連なって一つの全景(統一された色)を生んでいる。映画的な作り方だと思った。

餃子屋の夕日の窓に花惜しむ 上田信治

餃子屋にいた。それは夕方で、夕日が窓に映りながら店の中に差し込んで、窓の外にはもうほとんど散ってしまった桜が見えている。ああ桜ももう終わりだなぁ、としみじみと桜の木を見ているのだ。

作者は見ている。日常の中の非日常、いつも見ていること、見落としてしまっていたこと、ちょっとした変化、ちょっとした面白さ。フィルムは長回しである。

晩夏の蝶いろいろ一つづつ来るよ
雨樋を石蕗の花へとたどり見る
蒲の穂の先からなほも伸びるもの

夏の終わり、そこに居たら蝶が来た。また来た。一つづつ。でも同じ蝶じゃないいろいろな蝶。これもひと夏の出来事。

ふと仰いだら庇に雨樋が走っていた。雨が降ればそこを雨水が流れる。雨樋の中には朽葉や埃などが溜まっているかもしれないが下からは見えない。その雨樋を何気なく目で辿っていくと庇の端でカクッと曲がった縦樋になり、途中で切れた縦樋の下に石蕗の花があった。目の動きの終点が石蕗の花明り。見えないものを辿った先の明るい黄色。

蒲の穂の先にちょんとある緑色の禾のような部分。写実だけれど、作者は見たモノをただ書き留めようとしているわけではない。その逆だ。モノから言葉を取り出して、そこではない異空間の「なほも伸びる」何かを凝視している。

俳句で個性を出すということは可能だろうか。私はこの作者ならばあるいはそれが出来るのではないかと思っている。独特の文体がある。助詞や副詞の使い方にその特徴がある。

桜さく山をぼんやり山にゐる
靴べらの握りが冬の犬の顔

一句目の「を」は到達点を想定していない移動時の経路の「を」。二句目の「が」は普通に主体を表しているのだが、使い方に少し仕掛けがある。

「桜さく山を」の「を」も「靴べらの握りが」の「が」も切字としてその語の後ろにかなり大胆な省略が入っていることに気が付く。「桜さく山やぼんやり山にゐて」と一般的な作り方に変えてみると違いがわかってくると思う。一読明解な俳句からほんの少しだけ距離を置いている。さらに「ぼんやり」の効果。副詞を日常語のままさりげなく一句の中に入れる。この置き方がこの作者独特の方法。「を」、さらに「山」の繰り返しによって「ぼんやり」が花霞のように全体に懸る。

靴べらの句は、握り=冬の犬の顔、と読むのがごく普通だが、「が」で軽く切ってみる。すると、靴べらの握りがどうも手にゴツゴツしてるなぁ、何かの顔の形みたいだなぁ、と思って顔を上げたところに犬の顔があった。そこで初めて靴べらと犬に偶然の関係性が生れるのだ。どこかキリリとした冬の犬の顔と靴べらのひやりとした冷たさ。ジャック・タチのようなシュールでとぼけた面白さ。

手に水の触れる速さに春の雪

この「速さに」の「に」は切れずに「春の雪」に繋がる。実際の内容としては掌に受けたときの春の雪が水になる速さのことを書いているのだけれど、であれば「に」で混乱する。この複雑な内容をどう一句にまとめるか。ふと流れ出た語順がこれだろう。春の雪独特の質感がリアルになった。

地には霜やさしい人たちの自転車

「地には霜」硬質な表現だ。だがそのあとに柔らかい言葉が続く。何万本もの氷の針を崩して停められたたくさんの自転車。その自転車を「やさしい人たちの自転車」だと感じた。霜の朝の煌めきによる魔法だろうか。ほんわりと仕合せな気持ちになった。だがこうも思う。この自転車に乗って来て、働きに、あるいはそれぞれの一日を始めた人たちに比べたら、自分はやさしくない、利己的な人間かもしれないな、と。地の霜の上に立っている自分は、そう思う。

その年は二月に二回雪が降り

この句は「二月」「雪」と大きな季題を二つも置きながら、季感を意図的にずらしている。この句は年の瀬の句だ。「その年は」と一年を振り返り、その年の二月に二回降った雪に思いを馳せている。

なんだかどこかで感じた不思議さだ。そうそう、アキ・カウリスマキが映画『ラヴィ・ド・ボエーム』のエンディングに「雪の降る街を」を流したのと同じような、どこかナンセンスでベタでないペーソス。

視点を自由に設定する。この作者の作品は、「俳句らしさ」ではなく「作者らしさ」によって成り立っている。今までの俳句にはなかった何か別の方法を摑もうとしている。


4. 魂の話(大中博篤)

「18歳一人でやっております」となれば応援したくなってしまうが、作品は作品。基礎がしっかりしてこそ、破調やその他の崩しは成功する。ピカソでさえゲルニカを描くために45もの習作と多くのデッサンを描いたそうだ。まずは基礎づくりをし、誰かに句を見てもらうことをお勧めする。章立て、分かち書きの一文字空けと二文字空け三文字空け。どれも効いていない。

だが、口あたりのいい上手なオバサン俳句が横行する昨今、何か問題意識を持って書いている点は評価できる。18歳なのだからこれからいくらでも化ける可能性があるだろう。

一句だけ引く。

旧寺院裸者の懺悔の音静か 大中博篤

寺院としての機能を失った旧い建物の中に懺悔の音が微かにしている。「裸者の懺悔の音静か」は東南アジア的でもある。実か虚か。暗がりの中の裸身が見えて来る。悪くない。


5. 最初の雨(小池康生)

去年、俳人協会賞の予選委員を引き受けてみた。51歳以上、おもに60代から70代の作者の句集を百冊以上読んだのだが、とにかく闘病俳句と旅行俳句が多い。自費出版の個人句集には自分史的傾向が多いのは否めないが、角川賞のような公募の賞に闘病俳句で応募するということは、自分にとってそれが何事にも替え難い出来事であったからだと思う。

しかしごまんとある闘病俳句を超えるには余程腹を据えて客観的に句を検証する必要あるだろう。<あの世へは少し遅るる日向ぼこ><癌のことなかつたことに万愚節>こういう句は常套中の常套である。

病と別のところで詠んだ句には味わい深いものがあった。

シーソーに妻から浮いて夕桜 小池康生
巣箱掛け最初の雨が降つてをり

夕方、子供たちが帰ったがらんとした公園。幼いころを思い出してシーソーに乗ってみた。まず夫が沈み、妻が浮いた。ふわりと浮いた妻のはにかむような笑顔。暮れ残って淡い夕桜の背景も悪くない。

作ったばかりの巣箱を掛けた。まだ白木だ。樹皮の鈍色に巣箱の白さが遠目にも際立っている。どんな鳥が来るだろう。入ってくれるだろうか。ふと見ると雨が降っていた。白木に滲んでいく雨。巣箱にとっては最初の雨だ。



 

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