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2026-07-12

依光陽子 同一 10句

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依光陽子 同一

日の闌けて花びら怠き菖蒲かな

見ることは読むこと夏至の日の蝶よ

夏雲雀四つ葉を探す目で空を

夏の雨きのふの声の未だある

昼顔よ真鍮の鳥啼くまいよ

柴又はとうすみも川音もなく

誰の母か昼顔は空向いて咲く

画の奥に耳を澄ますや光の夏

Tシャツにアイロン蟻の背ナに翅

その人の書く字を愛し蟻の国

2026-07-05

西原天気【句集を読む】Around Edo River 依光陽子『ふ、は鳥に』を片手に

【句集を読む】
Around Edo River
依光陽子ふ、は鳥に』を片手に

西原天気

江戸川は、東京都の東端。埼玉県や千葉県との境界を流れる。篠崎あたりで本流は千葉県を、旧江戸川が江戸川区、江東区と千葉県浦安市の境を流れる。地下鉄東西線葛西駅で降りて、西へ。浦安橋を渡って妙見島、23区内で唯一の自然島へ。さらに西へ、もう一度橋を渡れば、浦安。つまり千葉県。

江戸川や金魚もかかる仕掛網  依光陽子(以下同)

江戸川区は金魚の三大生産地のひとつ。金魚田から江戸川に迷い込む金魚もいるだろう。

この句集が出るずいぶん前から、この句が大好きですが、なぜこんなに好きなのか、説明はしにくい。《金魚》がキュートで、江戸川という地名には独特の情趣がある。《仕掛網》で意図せず偶然に《金魚》と出会う。それはたしかに劇的なのですが、誰か(例えば網を仕掛けた人)にとっては、ごくごく日常的な出来事で……と、こんなことを考えていると、ますます好きの度合いが増していく。不思議なものです。説明できない句ほど、自分の中で古びない、衰えない。ぴちぴちと輝きながら跳ねる金魚のように、いつまでも魅了しつづけてくれる。

ああ、そうそう。葛西駅からの散歩に話を戻しましょう。橋からは川の流れが見え、私が散歩したときには浚渫船が見えました。

浚渫船見てゐる昼のビールかな

だから、この句、飲食店ではなくて、缶ビール片手に橋の欄干から。そう想像してしまう。

あのあたり。というのは、妙見島と限定せず、江戸川の存在が色濃く漂うあのあたり。私は詳しいわけでも親しくしている土地でもないのですが、はじめに挙げた金魚の句のせいなのか、そればかりではないのか、『ふ、は鳥を』を読んでいるあいだ、頭から「あのあたり」が離れないのです。

もちろんそこを離れて愉しめる句、愉しむべき句はたくさんあります。《雛あれば雛の間と呼ぶ枕かな》の下五《枕かな》のほれぼれするような手際。《音と見やれば夕立の中に町》の展開のあざやかさ、構成のたしかさ。《あをき空映して黝き冬の水》の《あを》と《黝》。表記への細心の気配り。

集中に美徳は数多い。そのことは、たくさんの読者が感じ、ことばにしていくでしょう。優秀な書き手が的確な評言を重ねてくれることでしょう。だから、私は、好き勝手に、あのあたりを、この句集とともに、気持ちよく散歩することにします。

かの夏に未だとどまる喫茶かな

もっと繁華街、浅草や上野にたくさんありそうな喫茶店ですが、江戸川区、江東区なら、正味とどまっていそうな店が見つかりそうです。

ちょっと野暮に技法的・文芸的なことをいえば、喫茶店でも純喫茶でもなく、《喫茶かな》。ぞんざいになり過ぎず、抑制の効いた語り口です、この《喫茶かな》。作家の品質が出てしまう部分です。

仏壇と電話の黒き簾かな

仕舞(しもた)屋の奥が透けてみえるのか。家屋でこのような景を味わう機会はめっきり少なくなりました。

わりあい歩きました。ひと休みしたい。

氷菓食ふ店の硝子に背をつけて

硝子戸はひんやりするのか、外気の暑さを伝えるのか。いずれにしても、この句の瞬間ほど気持ちのいい瞬間はないと言っていいほどです。すくなくとも私にとっては。


依光陽子『ふ、は鳥に』2026年3月/左右社

2017-05-21

作品 依光陽子 踏襲 20句

作品20句
踏襲
依光陽子 














踏襲  依光陽子

むかうにも我ゐて春の泥を踏む
これは詩ではなくてブルーズ夏の薊
鳥に応ふる草笛や手にはなし
らんちうやとてもかなしい人であつて
六月やまた手のひらに戻る桃
蟬時雨白き樹液が焼けてゐる
葛咲くや背を通りたる川昏く
菩提子を木喰仏と見る揺れる
歩くこと蝶にもありて秋日和
その模様負うて胡蝶といふべしや
桃と思うて握つてをれば李なり
松手入松に見られてゐながらに
何年も何人も来て松手入
その奥の木瓜は実となり詫びてをり
鉦叩鳴らずの鉦もそのあたり
蛇瓜は丹で緑青の雨を曳く
花つけてゐる数珠玉は唄ひけり
臘月の日にあらはれし蚊それから
年詰まる桜の太きこの町に
木の葉いま水の音して燃えはじむ





2015-01-25

【2014角川俳句賞 落選展を読む】 5.書き続けるしかない 依光陽子

【2014角川俳句賞 落選展を読む】
5.書き続けるしかない

依光陽子


≫ 2014落選展






 

23. 菜の花(前北かおる)

菜の花や乳白色の雨の降る 前北かおる

50句全て春の句でタイトルが「菜の花」。50句中に菜の花の句が5句ある。
その中では掲句は見どころがあり、また50句全体でも大粒の句といえばこの句だろう。

「乳白色」に見える雨だから、かなりの粒で雨脚の強い雨だ。視点を一旦一面の菜の花畑の遠景に置き、次に近景に目を引き寄せたときの「乳白色」の効果。雨自体は透明なのに言われてみれば確かに「乳白色」に見えるときもある。

「乳白」という文字、牧歌的でありながら野趣もある。菜の花の明るさを生かしつつ、花の持つ雰囲気に落ちることなく踏みとどまっているところがいい。

白梅や縦へ縦へと咲きふえて

雪柳や連翹、萩、枝垂桜などを詠んだ写生句は、地に近いところから咲くと詠まれるのが常套だが、「縦へ縦へ」という摑みが白梅らしいと思う。

古枝ではなく、その年新しく伸びた枝からの花だ。新枝は垂直に伸びる。咲きふえるほどの枝数を持つ木だから古木だろう。ごつごつとした幹から立ち上がった緑色の枝。一木の存在感。

ちかちかと蛍光灯や吊し雛

立派な郷土館などではなくて、蛍光灯が今にも切れそうで「ちかちか」点滅している旧家の吊し雛を思わす。「ちかちか」とするたびに、別の雛に灯が当り、一つ、また一つと姿が浮かび上がる。間隔をあけてぶら下がっている様も受け取れる。

吊し雛は伊豆稲取が発祥という説や九州柳川が発祥という説があるようだが、この句以降30句ほど続く九州で詠まれた吟行句の幕切れの句と取れば、現場は九州柳川か。

さて落選展は作者がオープンになっている分、期待度と読後感との落差は、それがマイナスだった場合不完全燃焼となって胸に燻り続ける。

笑ふ山背負うて野たり都府楼址>福岡大宰府、<菜の花や山国川も山抜けて>福岡と大分の境、<一斉に野焼くやまなみハイウエイ>大分。長崎に入り、島を巡り<春の人ゆりかもめより降り立ちて>と東京に戻ってきてお台場へ。地名の入ったご当地俳句が等間隔に置かれ、観光案内書に置かれたイラストMAPのようだ。

ぷつと雲吹き出して山笑ふかな><普賢岳痘痕だらけに笑ふかな>の二句は何だろう。50句にこの句を入れたあたりで、真剣に賞を狙う張りつめ感は消えた。<卒業の迫るひと日を甲板に>のような見どころがある句も艶消しになってしまう。50句の後ろにどのくらいの句が捨てられているか。その厚みも見えなかった。


24. 草の矢 (岬 光世)


寂かだ。静と動ならば、静。

擡げられ芥もくたや霜柱 岬光世
雑草のひようと伸びたる風薫る
針仕事してをるらしや秋簾
建て替ふることなく過ぎぬ秋桜

一句目。「芥もくた」は何の役にも立たない、つまらないものという意味。具象から発生した心象的な言葉だ。作者は枯草の欠片であったり、木端であったり、人の落として行ったモノであったり、塵埃であったり。それら霜柱に擡げられた雑多なものを見て、己の内面を重ねたのだろうか。霜柱は寂と輝いている。

二句目。「ひようと」の擬音のよろしさ。この一語があることで「風薫る」がムードに堕ちることなく一句が立った。一句目も二句目もどことなく王朝物語風に読めて来る。

三句目。秋簾の裏側の所作を針仕事と見た。「針仕事」と言うと若い人よりも年配の女性を想像する。単なる繕いものではなく、それを生業としている姿であれば、猶更その人への興味は募る。

四句目。建て替えの計画があったものの、そのままとなった家。旧い家だろう。ただタイミングを逸したというよりは、そこに住んでいた人の、こののちの永遠の不在を感じる。秋桜がそう思わせる。

念力のやうに鶏頭残りたる
接木せし手のぬくもりを持ち帰る

気持ちが乗った句も静の内に描かれる。「念力のやうに」は鶏頭の強さの描写として無理のない直喩であろう。接木した手のぬくもりを持ち帰る、という発想も目新しい。ある木に別の木の命を、人の手で継いだという静かな興奮が掌に残っているのだ。

遠雪崩眠りにつけぬ闇幾重><波音の絶ゆることなく曼珠沙華>なども音が描かれているのに、その音はとても幽かだ。

お太鼓に川風とほす夏衣><人伝てに先代の所作夏の帯><幕間に箸を交ふる木の芽和>など破綻がなく服に例えれば和服の装い。句の佇まいから作者の確たる美意識をうかがわせる。だがこういった巧い句を書く人は結社に一人くらいは必ずいるものである。以前参加していた句会で、非の打ち所がない、と思うような句が出た時「これは上手なオバサン俳句ですね」と選者が一蹴していて、はたと気付いた。

その言葉の裏には、「下手より巧いに越したことはないけれど、上手くまとまった事で納得してしまう癖がつくのは宜しくない。そこを越えるべし」というメッセージが隠されていたのだ。さらに「みずすまし」「秋の蝉」のような常套句、あるいは「ハーモニカ」「花野」句のように擬古的な情緒や観念に浸ってしまった句は落としたいところ。

家具ひとつ運び出したり雪催
片側の頬の明るき冬の晴
春蘭の涙ひとすぢ読めるなら

このあたりは作者の素の部分が見え、フレッシュな印象を受けた。一句目の季題の効果。二句目の明度。三句目の心象性。いずれも芳しい。

全体的に句の低いところに重心があり安定している。あとはどう新を開拓していくか。多少粗くてもアクセントとなる迫力のある句が欲しい。ほつれや壊れた部分があるからこそ際立つ美もある。一度思い切って、築き上げた美意識を打ち砕いてみるのも俳句の方向に感覚が研ぎ澄まされる手かもしれない。


25.モラトリアムレクイエム (吉川千早)

現代詩的なタイトル。今回の落選展の出展作品一覧を見たとき、最も期待した50句である。

しかしながら、一句目からかな遣いの混同とミス。「ああ」と思わず声が出てしまった。無念。

50句の中に幾つかの死、新しい命の誕生に触れた句があり、その重大な場面に作者が直面したこと。それは読み取れた。しかし<マニキュアの塗りあいっこや夕涼み>とその次の句、さらに<子を産めばママと呼ばれて聖誕祭>に至っては、ガクリと膝をついてしまった。

二句だけ挙げる。

人生にカレー幾たび半夏生 吉川千早

馬鹿馬鹿しいのだけれど、妙に後ろ髪を引かれた句。人生に幾たびも繰り返される事はいろいろあれども「カレー」を食べることの回数など考えたこともなかった。それを仰々しく「カレー幾たび」ときた。この畏まった文体と内容のギャップ。さらに半夏生というなかなか渋い季題を持ってきた点も現代の俳諧と言えよう。季感もピッタリだ。

秋雨や祖父は死んでも大男

亡くなった祖父へのレクイエム。在りし日の姿を思い出している。祖父の存在は死んでも大きな存在。大男は単に体格だけではなく、その人格の大きさも言いとめている。秋雨の季題は、死の直後というよりは、気持ちの整理のつくまでの時間を指している。

はっきり言って作品は未成熟。けれども何だか、適当に書いた、という感じはしないのだ。俳句慣れしていてさほど苦労もなく50句まとめることが出来てしまう作者とどちらがいいかと言われたら、多分私は、未完成だがこの面妖な50句を書く作者を庇う。そしてこの名前を憶えていようと思う。

変にまとまってしまうことなく、ともかくも俳句として鑑賞できる段階まで引き上げて再挑戦してもらいたい。


26. 猫鳴いて (利普苑るな)

一弾に矢となる犬や兎狩 利普苑るな

「弾」「矢」「犬」どれも「狩」についた言葉だが、その勢いをうまく一本の棒にした。飛んでゆく弾、一弾の音を合図に飛ぶ矢の如く一斉に走ってゆく犬、逃げてゆく兎、みな地面に水平の線となって、句になった瞬間、静止し、また動き出す。

枇杷咲くや砂に昨日の泥団子
花札の蝶舞ひたがる睦月かな
萍の揺れては増えてゐたりけり
手花火の明りに昼と違ふ庭

一句目。砂場に子ども作った泥団子がある。昨日、濡れ色だった泥団子は今日はもう外側は乾いている。泥の乾いたような苞を割って白い花を咲かす枇杷の花との取り合わせが絶妙だ。日常の、見過ごしてしまう風景。

二句目。陰暦正月、陽暦では二月にあたる睦月。正月に遊んだ花札が置かれていて、札の画の蝶が舞いたがっているかに見えた。春近い気分が出ている。

三句目。萍のたくさん浮いている水面。微かに揺れている。じっと見ていたらなんとなく増えていると感じた。「揺れては増えて」の眼差しが萍の水中の根にまで及ぶ。

四句目。手花火の仄暗い明りの向こうに、昼間とは違う庭が浮かんだ。それは花火が燃え落ちるまでのほんの一時。

ものを見る目に柔軟さがある。

深読みは不要。作者はそのままの景を言葉に乗せ、読み手はその言葉のまま受け取ればいい。すると一句に描かれたモノが生き生きと見えてくる。見せる力がある。

秋霖やときをり熱き猫の息
猫と坐す真紅のソファー雁渡る

季題斡旋がいい。

一句目。猫の息のときおりの熱さを感じ取ったのは掌だろうか。秋の冷たい長雨の一日、猫と居るひととき。

二句目は絵画のような構図。真紅のソファーが目に鮮やかだ。この猫はきっと黒猫。ソファの人も猫もまるで影のように静止している。部屋からズームアウトしてゆくと、上空を雁が渡っている。いつもどこかで何かが同時進行している。雁の列も黒。一句の中の色は赤しかない。

タイトルの句<猫鳴いて初夢のこと有耶無耶に>のほかに猫の句が5句。50句に寄り添っていたら、だんだん猫目線になってきた。すると<水無月や雫のやうな香水瓶>も<声上げて番犬めきぬ羽抜鶏>も変な世界だなぁと思う。何でもない日常に潜む小さな発見を、ひょいと掬い上げて読み手に伝えることが出来るのが俳句。強引に言語世界を作る必要はない。この作者にとって世界はすでに面白いのだから。

はこべらや温室に飼ふ元ひよこ>の「元ひよこ」は表現が浅すぎる。<かなかなや若者集ふ橋の下>の「若者」という言い方にやや旧時代を感じた。

作者が面白いと掬い上げた景の、その全てに読み手として共感したわけではない。だが50句に流れる、ほんのちょっと面白くて、ほんのちょっと物悲しい通奏低音は、この作者の個性だと思った。



メイキング・落選展を読む(勝手にあとがき)

ようやく26篇、1,300句読み切った。

約二か月間、一篇一枚の用紙に縦書きで読めるよう印刷し、鞄のなかに入れ、家以外でも毎日の通勤時や昼休み、ショッピングセンターの椅子などで取り出して読んだ。毎日誰かの50句を頭において生活する中で、少なからず応援する気持ちが芽生えたことも確かだろう。

だが前置きに書いた内容は揺らいでいない。その上で、私なりの提言を鑑賞の内に含めた。全て、未知なる俳句に出会たいという我儘な欲求と、何よりも生涯不変の俳句愛に拠るものである。そぐわない事を書いたかもしれないが、そこは読者や作者の寛大さに委ねどうかご容赦頂きたい。当初の予想通り、書いた内容は全て私自身に跳ね返って来ており、妥協せず作句することはますます困難になりそうである。しかし書き続けるしかないのだ。

落選展から新たな才能が現れることを祈りつつ連載を終えたい。他のお二方と足並みが揃わなかった事、毎回ギリギリ入稿かつ長考で編集の方々の手を煩わせてしまった事をお詫びいたします。



≫ 0. 書かずにはいられなかった長すぎる前置き
≫1. ノーベル賞の裏側で
≫2. 何を書きたいか
≫3.みんなおなじで、みんないい?

2015-01-18

【2014角川俳句賞 落選展を読む】 4.ゆるがされない勁さ 依光陽子

【2014角川俳句賞 落選展を読む】
4.ゆるがされない勁さ

依光陽子


≫ 2014落選展



何気なくつけたテレビでセコイアの森が映っていた。

最も高いもので115m、30階建のビルと同じ高さ、自由の女神を上回る高さだという。

当然、根から水を吸い上げられないものもあって、それらは天辺近くの葉が霧から水分を吸収するのだとか。自然発生的な山火事も森の再生に不可欠なものだと知って驚いた。

セコイアを漢字で書くと「世界爺」。カッコイイ。

さて今回も50句の森へ入っていく。高木も灌木もある。しかと根を張った木も幼木もある。似たような木は通り過ぎるが、気になった木には立ち止まり、叩いたり、観察したり、仰いだり、振り返って見たりしながら歩く。重力に逆らう力で天に向かって伸びている様を見るのは気持ちがいい。

俳句は一本の木だ。成長するか、倒れるか。風雪をものともせず枝葉を綺羅と輝かすか、あっさり朽ち果てるか。すべてその木次第。作者次第。


18. 積木の家(滝川直広)

一句目にどの句を置くかはどの作者も悩むところであろう。

花馬酔木ほそき煙となる手紙   滝川直広

この句が置かれたことで残り49句へ向く選者の背筋は伸びたと思う。
平たい紙に書かれた文字がほそく幽けく立ち上る煙の中に消える。紙を捩って火をつけたのか。開いたまま紙の角に炎を近づけたのか。言葉は「ほそき煙」となって消えてゆく。赤い炎から薄紫色の煙へ。花馬酔木の垂れた形状と淡い紅紫色もさりげなく響き合い、両者がほど近い場所にあることもわかる。

虫の音の間虫の音の埋めにけり
積木の家月の畳にのこりをり
煙茸ふみたき子らに数足らず

形を積み上げること。空間。崩すこと。「積木」の概念がさりげなくいろいろな句の中に潜んでいる。
一句目は虫の音の間を埋める虫の音。音をモノのように捉えた。音が止めばまた空間が出来、そこにまた音が入る。面白い。
二句目は月の畳の上に残された「積木の家」。家の中の家だ。一つ一つのピースを縦に横に組み合わせて立ち上げた、触れれば簡単に崩れてしまう家。その隙間に月の光が入り込む。
三句目。煙茸を一つ一人づつ踏んでゆく子ども。その都度、パフッと煙のような胞子が立ち上る。だが残りの子どもが踏むはずの煙茸は、ない。 

初雪や目を立てなほすをろし金
樹皮残る桜の撞木山眠る
初暦病臥の人の目の高さ

一句目「をろし金」は目の立て直しをし、揃って立ち上がっている。大切に使い継いでいる道具と、技を継ぐ職人の存在。おろし金の光と初雪の光。
二句目、一歩踏み込んでモノを見ることで、撞木を桜の木と見極めた。このことで句に艶が出て読む者を惹きつける。「山眠る」の季感もいい。
三句目、病臥の人の目の高さに据えられた初暦に、その人をさりげなく気遣う心が伝わってくる。

全体的に安定感があり、予選通過も納得。<流木に値のついてゐる初天神><一辺はテレビに空けてある炬燵>など諧謔味のある句や<瞑想の耳滝音を寄せつけず>など手堅い句も。なお、ルビを振るのであればルビのかな遣いも本篇と統一すべき。「紅さうび」「やにの歯」「失業者」などの句は後味がかなりよろしくなかった。最後の句<冬深し灯明皿の縁の煤>は平凡。着地も出だしと同じくらい重要だ。「ああ、この作品はよかったな」と思わせる読み応えのある句で締めたい。
しかしかなり賞に近いところに来ていると思う。今後に期待大の作者だと思う。


19. 仮面(中村清潔)

独自の世界を獲得しつつある。そんな印象をまず抱いた。

食虫植物睡りゐる淑気かな 中村清潔
ホルマリン漬のいろいろ涅槃雪
鵺の眼のなかにあるべし青山河

具象と抽象のエッセンスを摺合せて、どこか別の時空の、別の場所にリアルを探ること。そんな挑戦が見えた。
一句目。淑気とは異質な食虫植物を取り合わせた二物衝撃。植物が虫を食う、という意味からくる不気味さは食虫植物の外見からは感じ取れない。食虫植物の多くは美しい。美しい睡りだ。それを取り巻く空気は淑気と呼ぶに相応しい。
二句目。ホルマリン漬にされたモノを想像するとかなりグロテスクだ。だが死を経たモノの静謐さは涅槃雪の幽けさと相通じる。
三句目。鵺をどう受け取るか。単純にトラツグミと受け取るか。トラツグミの眼の中の青山河が美しい。猿の頭、狸の胴、虎の手足を持った怪物と受け取るか。そこにはさらに深みを増した「青」がある。

蚊喰鳥ひるまの月をほめながら
鬼門ありあらゆる桃に指の痕
祝婚の食べあましたる牡鹿かな

これらの句に私は強く惹かれた。だが短い言葉で鑑賞できない。多くの言葉を用いなければならないと思うので、句を挙げるにとどめる。

普通の句もあるのだ。<みづうみの秋は波打際で待て><窓といふ窓の氷柱を折る音か><冬銀河明日は長距離選手かな><日当たれば日当たるほどに恵方道>。平均点以上でも以下でもない。

タイトルの「仮面」は<仮面舞踏会(マスカレード)ひとり裸を赦されて>から採られているのだが、この句はさほど印象に残らなかった。とはいえ、この50句にふさわしい題をつけるのはなかなか難しそうだ。
作者はどういう人なのだろう。プロフィールには生誕地と、無所属であることしか載せていない。私は今、無性にその仮面の奥にある作者の顔を覗いてみたい衝動に駆られている。


20. オムレツ(中塚健太)

まず、常識の範囲で留まっている句が多く目についた。
例えば、<オムレツの黄色やさしく春来る>の「オムレツ」「黄色」「春」。<お雛さま永久はさびしと微笑みぬ>の「お雛様」「永久」「さびし」「微笑み」。<シャボン玉割れて弾ける子らの声>の「シャボン玉」「割れて弾ける」「子らの声」。
やさしい人なのだと思う。人柄のやさしさは50句から伝わってくるが、俳句としては予定調和でしかない。

中で以下の句には立ち止まった。

鳥帰る書き込みのなきカレンダー   中塚健太
ほつほつと路面に消ゆる春の雪
風船や世界のどこか崩れゐる
独り身の夜は魚となるプールかな

一句目。鳥が帰る瞬間を目の当たりにしたことがあり、今でも鮮明に残っている。それはあまりに一瞬で、鳥たちの間で計画されていたであろうその日は、人の予定表には書き込むことが不可能だ。「書き込みのなき」から鳥と人の生きる世界の越えられない隔たりを感じる。
二句目。この雪は大きな牡丹雪だろう。「ほつほつと」の擬音が雪片の大きさを表している。春の雪は路面に丸い跡を残して消える。落ちては消える。
三句目。平和の象徴でもある風船が上ってゆく空は地球のあらゆるところに繋がっている。この瞬間も崩壊に向っている場所がある不条理。
四句目。仕事帰りにプールで泳いでいるのだろうか。様々な社会のしがらみから解放されてのびのびと手足を伸ばし魚になれる時間。「独り身」であることの自由と孤独に現代性を見る。「プールかな」の収め方も、水面に映る照明が見えていいと思う。

これらの句には作家性の萌芽が見える。予定調和を改善し、掲句のような句をもっと入れることで見違えるような50句になるだろう。


21. ゐません(ハードエッジ)

昨年の落選展で注目した作者である。軽みがありながら目が効いていて、見るべきところのある作品群だった。
さて今年はどうか。
印をつけた句は割と多い。好きな句から。

ハンカチはチェックが好きで色々と ハードエッジ
楽しくてたまらんといふ子規の忌ぞ
池に雨松の手入も済みたるよ

一句目。今、私自身が播州織のチェックのハンカチにハマっているので、いきなり言い当てられた気分で読んだ。「色々と」の句絶がハンカチの軽さをうまく引き出している。
二句目。「楽しくてたまらん」、この言葉以上に子規その人の人柄を表すに適した言葉はないと思う。
三句目。見たままの景をそのまま句にしたことで、池に落ちた松葉や、手入れ後のすっきりとした松の枝ぶり、全体を濡らして池に落ちる雨粒が見える。全体の調和がいい。末尾の「よ」で常套を少しずらすことにも成功している。

つぶらなるものを連ねて蝌蚪の紐

蛙の卵が目玉のように見える様を、瞳に置き換え、さらに「つぶらなるもの」と言い換えた。機転が利いている。

朝顔の売れ残りたる日差かな><子を連れて涼みがてらに町の寺><仏壇に花新しき帰省かな><虫籠の虫を放てばぴよんぴよんと>なども安心して読める句群で悪くない。幽かな既視感は残るのだが。

一方、書き急いだ句も目につく。
茶摘女に摘まれて痛き茶の木なり><雪折れのところに雪のなかりけり><とある日の神と佛と仔猫かな><北窓を塞げば寒くなりにけり><ゐませんと毛布の中が応へけり>など。
「ゐません」の句はじわじわとくる面白さはある。この路線で書いて行くのだというポリシーを感じないわけでもない。

「瞬時にして反射的に、有季十七音という言葉の塊りとして一時に出てくるような体質」は爽波の「俳句スポーツ説」的だが、爽波のいう「写生の修業、芸としての修業」とはまた違った形での量産で、遊びの部分が色濃い。それも個性だろうが今回の50句は全体的に何か物足りなかった。せっかくの瞬発力が勿体ない。私はこの作者の、あえてこだわり抜いた一句も見たいと思った。


22. 弔ひ(三島ちとせ)

どこかで見かけた名前と思ったら、石田波郷賞の落選展にも作品を出しているパワフルな若手である。

さて、タイトルが重いのでぐっと息をのんだのだが、ほとんど深刻な句はない。ドラマ性を求めながら読むと(求める必要はないが)肩透かしを食らう。逆にルイス・ブニュエルの「自由の幻想」的なシュールさが展開されるのかと期待したりもしたのだが、そうでもない。
率直な感想としては、題詠句の寄せ集め、という印象。とにかくガンガン句を作り、その中でカラーの近いものを編集した感がある。

鰤起し駐在さんと居る園児><夏来る床へ現像液ぽとり><恋文を出す一呼吸日傘差す><鶏頭花海岸線に船の墓>、他にも面白いシーンを描いている句が見えるのだが、事柄に比重がかかりすぎて季題が置いてきぼりだ。「鶏頭花」の句などは、季題次第ではかなり印象深い句になる景である。取り合わせを成功させることは、季題そのものを詠むことよりも難しい。オーソドックスだが、山本健吉『基本季語500選』などから季題へ深くアプローチすることで、季題斡旋力が変わってくると思う。

蝶が吸ふ蜜を密かに摘んでゐる   三島ちとせ
 
「蜜」と「密」が「を」を挟んで上下(隣)にあるところに加え、全ての漢字の醸し出す雰囲気がエロティックだ。「密かに」なので鳥ではなく人だろう。蝶が吸う蜜と知りながら、それを摘んでしまう行為の危うさに、こころの闇の部分が引き寄せられた。心象風景とも受け取れる。

陽炎や家畜オスより入れ替へる
殺処分終へて一服花の冷

これらの句には強さがある。
一句目。放牧牛の入れ替えだろうか。読み手に提示されているのはオスから入れ替えるという事実だけだ。それは陽炎のゆらぎの中で行われた。そして「オスより」が精子のゆらぎの如く必要不可欠な言葉として一句の中にあることを確認する。
二句目。家畜を殺処分するという決断までの葛藤。それを終えた空しさと安堵感。それもまた花の日の一つの出来事だ。「一服」に込められた想い。鋭いところを抉っていると思う。一方で読後感というものも大切にしたいと言い添えておこう。

骨盤の高さに躑躅咲いてゐる

人の骨盤でなくてもいいわけで、犬でも牛でも熊でもいい。人だったらオオムラサキ、熊だったら山躑躅と、躑躅の高さや種類がさまざまに見えてきて楽しい。解剖図的に骨盤を考えたとき、躑躅のウエット感が案外伝わってくるのも不思議。「骨盤」と「躑躅」の奇想天外な取り合わせが共存していて面白い。

海底の呼吸炭酸水のやう
故郷は集合団地秋の雨
紅葉かつ散るthank you for listening.

これらは等身大の句だろう。
一句目の素直さも、二句目の季題の効果もいい。
三句目は流しっぱなしのラジオからDJの最後のフレーズが聴こえた。その音声と「紅葉かつ散る」風景のコンビネーションのよろしさ。

可能性は感じる。今後の伸びしろに期待したい。


2015-01-11

【2014角川俳句賞 落選展を読む】 3. みんなおなじで、みんないい? 依光陽子

【2014角川俳句賞落選展を読む】
3.みんなおなじで、みんないい?

依光陽子


≫ 2014落選展


11人の鑑賞が終わって、折り返し地点。次の角川賞締切まであと5ヶ月である。

前回「絶対に成功しない素材ランキング」と書いたところ、先日の句会で他にどんな素材がNGかという話題で盛り上がった。

以前、角川『俳句』に常套句について書いたことがあるのだが(平成19年5月号特集《類句・類想をこうして避ける》の<死して常套拾ふものなし>)、5年たってもあまり状況は変わっていないのだなぁと改めて思った。

「ひこうき雲」「観覧車」「誰々の生誕地or終焉の地」「樹齢○百年の松」「ヘリ」など、成功しないという意味は、それらを扱った俳句はごまんと目にするが、佳句を見たことがない、ということだ。

俳句文学館で全国の俳誌を片っ端から読んでみれば明らか。皆等しく詩情を掻き立てられ、皆同じように書き留める。例えば、ひこうき雲もクレーン車も斜め○○度の傾きで空に刺さっている。

観覧車の傍らには太陽や月がある。料理俳句、名画俳句、女優の名前の薔薇俳句。季題ラ・フランスが60歳代女性作者の句集に頻出する不思議現象など、挙げればきりがない。

人の個性はその人だけのものだ。生きてきた環境も取り入れてきた影響も全て違う。だから俳句だって違うものが出来るはずなのに、どうして同じような句を良しとしてしまうのか。

皆と同じで安心する「シゾフレ型」、たとえ自覚はなくとも俳句界はシゾフレ天国、模倣天国である。俳句という詩型特有の制約と無数に生み出された他者の作品の中で新しい句を書くことは本当に難しい。

自分が簡単に気付くものなど、誰もが簡単に気付くのだ。「誰かが詠んだような句は詠まない」と腹をくくるところがスタート地点だと思う。


12.ふらんど(さわだかずや)


春の句のみの50句。中盤、うつの句が並ぶ。この作者に限らず、うつを詠んだ句を句集などで度々目にするようになったのは近年顕著だ。「精神病んで」「不快」「嗚呼死にたし」などネガティブな言葉が連なるとさすがに読んでいて息苦しくなってくる。<半裸にてつくしを摘んでゐる集団>はどこかラース・フォン・トリアー的で許容範囲だが、「痰」「ビーム」など度が過ぎると意図をはかりかねる。うつの句も双極性障害の句も、その病状について詠まれても読者は困るものだ。またそうした素材を詩にまで昇華させることは至難の業だ。

強烈な言葉を直接読み手にぶつけるだけでは句は立たない。それがどんなに厳しい経験であっても、客観的に作品を検証する目と、完成度がなければ、読み手の心を揺さぶることは出来ないだろう。なぜなら、書かれた時点で言葉はイメージになるからだ。

耳の奥熱き遅日を過ごしけり        さわだかずや
花ですから死んでしまつてよいさうです
一切無常にて蜆汁おかはり

気になった句。
一句目。「耳の奥が熱い」とは決して良い状態を表してはいない。「耳の奥が熱い」ことで、太陽が出ている時間が一層永く感じられる苦痛。だがこの句は他の憂鬱な作風の句に凭れ掛かっていない。遅日を従来とは別の角度から表現することに成功している。
二句目は万朶の花明りが死を誘う。否、誘われたのではなく「死んでしまってもいい」という言葉がふと降りてきたのだろう。作者は理由を見つける。「花ですから」、つまり桜がこんなに咲いているのだから、と。桜と死。文学上、民話上語りつくされた二物からこの句は起草され、歩き出す。そして漠然と死を許されたこの人物は決して死なない。それが俳句作者としてのしぶとさであり、この句のしぶとさでもある。
三句目、一切が無常だという諦念に思考を留めながら、効能たっぷりな蜆汁をおかわりしてしまう生き物としてのせつない事実。この矛盾は取り除けないものとして心に刺さる。

韮やはらかし人妻はさりげなし>は桂信子の<ひとづまにゑんどうやはらかく煮えぬ>、<やい鬱め春あけぼのを知りをるか>は江國滋の<おい癌め酌み交はさうぜ秋の酒>の先行句がそれぞれ口をついて出て来る。ましてうつを扱ってこの薄さでは心の網にかからない。たとえ先行句を踏まえたのだとしても、その句を超えない限り類想句の域は出ない。

もろもろ書いたが、この50句からは過去の自分に抗う歯ぎしりが聴こえて来た。それがこの作者本来の作家性の恢復と信じたい。


13. 封境(杉原祐之)


正統派かつスケッチ風。省略の利かせ方、句の佇まいは否定しない。ただ、中盤のほんの数句の海外詠(?)には異質な印象を受けた。<ターバンと付髭映す泉かな>から<引越の果て風鈴の鳴りにけり><播州の室津の浜の蝦蛄を漁る>でやや唐突に国内詠に戻りさらに風土詠へと移行する辺り。50句のどこに読みのピークを持って来たかったのだろう。なんでも俳句に出来てしまう人は、何を書かないでおくか、顎を引いて考えてみるべきであろう。

子を風呂に入れたる後の夕涼み      杉原祐之
ポストへと落葉の嵩を踏みながら
プレハブの目印をつけ冬の芝

中で、この三句に立ち止まった。
一句目、まだ幼い吾子だろう。子どもを風呂に入れることは若い父親には大仕事だ。夕涼みをしている姿から安堵感が伝わってきて清々しい。
二句目は平凡なカットだが作者の息づかいが感じられた句。落葉を踏む音と心音が重なっているよう。ポストは落葉の嵩を踏まなければ辿りつけない場所にある。「嵩」という言葉が辺りの風景や、ポストの中にあるはずの手紙や葉書の重なりを連想させる。郵便物を投函する瞬間のちょっとした覚悟に至るまでの、短いけれどまっすぐな時間。
三句目、仮設住宅か工事現場のプレハブか。芝の上にそれを建てるための印をつけた。少しだけ根本に緑が残る冬の芝の枯色と目印をつける人の背中。きっと同じような色の作業着だ。冬の芝はやがてプレハブの下になり完全に枯れてしまうだろう。とまれ、冬の芝の広がりがよく見えてくる。

全体的に季題の斡旋は悪くない。あとはかな遣いのうっかりミスをなくし、50句に統一性が欲しいところ。もう一歩踏み込んでモノを見ることで、さらに見えてくるものがあるはずだ。


14. 新機軸(すずきみのる)


壺焼のさみどり残す肝の尖><その中に制服もゐて御命講><電線とひとつの影に夕燕>など俳句を作り慣れている作者だと思った。

摘みきたるオクラ十指をはみ出して    すずきみのる

まさに素手で摑んだ句。両手に余るほどのオクラを摘んできた。大きく広げた指の間からオクラの先端が見える。指の間からはみ出したオクラが手の棘のようで、オクラの表面のチクチクとした感触と相俟っている。

なめるごと寄りくる波に千鳥翔つ
煮られつつあり白繭もその夢も

タイトルは「新機軸」。50句最後の<初句会この人にこの新機軸>から採られている。新機軸とは初句会にふさわしい心意気。またこの作者にとっても上記二句は、数年来の落選展の作品に比べると出色と言えそうだ。
一句目の「なめるごと」は千鳥のいる干潟に寄せて来る波の表現として無理がない直喩だと思う。干潟を舐めるように平らかに静かに寄せて来る波。長い脚が浸り、砂に刺した長い嘴が浸り、そして汐がある高さになったとき千鳥は翔つ。そこに至るまでの千鳥の行動も見えてくる。
二句目。あれほど盛んに音を立てて桑を食べていた蚕の蛹は、繭の中で夢を見ているかのよう。一読メルヘン調だが内容は厳しい。蚕は羽化することを許されない。煮られ殺されて繭を剥ぎ取られる運命だ。羽化してその翅で羽ばたくという夢もまた儚い。

手練の作者だけに、既視感のある句やかな遣いが間違った句が散見されるのは実に勿体ない。句を厳選し、十分に精査し、さらなる「新機軸」を開拓してゆかれることを期待したい。


15. 室の花(津野利行)


冒頭五句はさておき、身の丈に合った自分の言葉で句を書いている点に好感を持った。

夏掛は妻を小さく包みけり          津野利行
大学は辞めたと笑ふ生ビール
何もなき父の形見や心太

一句目。夏掛は寝ている人を嵩なく見せる。「小さく包みけり」に妻との微妙な距離感や、押しつけがましくない愛情を感じる。寝姿も見えてくる。夏掛という季題の効果がある。
二句目。大学職員か、はたまた大学生の友人か。「大学の方はどう?」「実は辞めたんだ」そんな会話があって、友が笑った。いろいろな葛藤を経たであろう複雑な笑顔。この生ビールはとても切ない。
三句目。眼目は「心太」の斡旋だろう。雲色のつるんとした心太。昔ながらの心太の突き器を使ったものであればなおさら、その押し出した後の空虚さは一入である。喉に滑ってゆく心太の冷たさ。「何もなき」に、父の死をすでに遠く認めることが出来るようになった作者の心が、読み手の心を押し出す。

室咲は枯れぬ気でゐたかもしれぬ

この作者もタイトルの語を含んだ句がラストに置かれている。室の花を年老いた肉親の生前と深読みし、悲しい句だと思った。そんな深読みを誘う伏線となる句が50句中にいくつか点在していたからだ。だが一句単独で読んだとき、室咲の効果が見当たらないのである。私は改めて、一句として立つことと、50句として立つこととの違いを考えさせられた。


16.バンテージ(谷口鳥子)


面白そうな句が出てきた。
以前、50句全句動物園で作った句で構成された応募作品があった。一句一句の完成度も高く感心してしまったのだが、この作品は全句ボクシングをテーマにした句で異色。「誰も詠んでない句を詠んでやる」という意気込みがいい。こういった元気のいい作品が読めるのが落選展の醍醐味だろう。
現代かな遣いである。

ヘッドギア何度も直す熱帯夜         谷口鳥子
容赦なく打ちくる小五の日焼け顔

作者も熱いけれど句も熱い。「小五の」は中八かつあまりに粗雑な省略で、子どもだとわかるので不要と思いながらも「容赦なく打ちくる」濁りのない眼差しが気持ちいい。

蝉の鳴くリズム外してストレート
のっぺらぼうの月と並んでジム帰り
ジョグダッシュジョクダッシュ十一月
膝と腰と首でリズムを夏来たる

無理矢理季題を入れたような句も少なくないが、このあたりはいい具合に季題が収まっている。
一句目。ジムの壁を突き抜けて来る蝉しぐれの中でのストレートの練習。蝉の鳴くリズムをわざと外してみる。ちょっとした遊び心。
二句目。のっぺらぼうの月はあたかも丹下段平。一日の練習を終えた充足感が「並んで」という言葉に込められている。
三句目。もし私がボクシングを始めたら、この句を念じながらジョグ、ダッシュのインターバルトレーニングを繰り返すと思う。あきらかに破調だが繰り返し口遊んでいると、なんとなく年の瀬へ向かっていく冬の空気感が出てくる。「十一月」が或いは動かないかもしれない。
四句目。俳句も運動もリズムが大事。なるほど、ボクシングは膝と腰と首でリズムをとるのか。「夏来たる」は漲るエネルギーを代弁している。
さて、もしこの50句で受賞したらこの作者は受賞第一作にどんな句を書いただろうかとふと思った。次回は不用意な贅肉句は落としつつ、完成度も磨き上げてほしいと思う。


17. 空車 (高梨章)


春の日の金の夕べを空車(むなぐるま)  高梨章

タイトルの句である。俳人・山田みづえの父である国語学者・山田孝雄の『「むなぐるま」考』の中から言葉を借りれば、「空車・むなぐるま」は「のらぬ車也、迎などに人のこぬ心也」(匠材集)とある。私は特に「人のこぬ心也」という部分が気に入っている。むなぐるまという言葉は主に院政鎌倉時代の語で、平安朝から鎌倉時代の間にだけ使われたようだが、作者はこの古い言葉を一句に入れた。「の」でたたみかけてゆく手法はこの句に限ってはあまり気にならない。時代を遡らせ、駘蕩とした世界へ読み手を誘う。春の金色の夕べをゆく空車の音なき音。眩しさと虚しさ。印象深い句だ。

秋の灯台 いつぽんの蝋燭をひろふ

分かち書きはこの一句だけだが、悪くないと思う。秋の灯台といつぽんの蝋燭を拾った事実の間に空白が必要だったからだ。解釈は不要。そのまま受け取ればいい。読み手の席は用意されている。
他にも<空席をつくるたちまち月あがる>や<月の力すこしゆるみぬ時計店>も二つの事柄にあたかも関連があるように現実と非現実の間、意味と無意味の間に句世界を構築している。日常語と旧かな遣いの起こす幽かな摩擦が醸し出す何か。<手袋は暗くなるころおそろしき>など、進もうとしているのは鴇田智哉的な志向と見るべきか。

アスタリスクの章立てで、春・冬・秋・夏という不規則な並びにしてある。面白い試みだが、最後の夏の部に入っている句があまりよろしくないのが残念。凝っているわりに<秋の朝きのふの雨の光かな>という至極平凡な句が入っていたり、「蟻地獄」「蝸牛」の連作は雑すぎる。もっと根気強い練り上げが必要。それ以外は、ある虚無感が漂っていて「空車」のタイトルが全体によく行き渡っていると思った。




 
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≫2. 何を書きたいか

2014-12-21

【2014角川俳句賞 落選展を読む】 2. 何を書きたいか 依光陽子

【2014角川俳句賞 落選展を読む】
2. 何を書きたいか

依光陽子


≫ 2014落選展


6. パズル(加藤御影)

50句を読みながら作者はどんな人だろうかと想像を巡らせる。「消しゴムに鉛筆の穴」「玩具」「動物パズル」「鬼ごつこ」「いぢわるな顔つき」「絵本の絵」etc. 童話的世界を形作るパズルのピース。

手のつなぎかたのいろいろ木の芽風><なぞなぞの中の兄弟氷水>このようなあどけなさを売りにした句は10年ほど前、俳句誌に頻出したことがあったが、とうに絶滅したものだと思っていた。<星合や鬼ごつこまだ終はらない>星合だから子どもの鬼ごっこではあるまい。男女間の出来事か。<ともだちとはぐれてゐたる花氷>これも今の子どもならばすぐ携帯を鳴らしそうだ。

否、ひらがなが子どもっぽさを醸し出しているだけで、子どもなんてどこにも描かれていない。花氷のある場所から鑑みるに、携帯電話など使わない年配同士の方がむしろしっくりくる。

クリームのやうな寝癖や花の雨><花どきに測る睫毛の長さかな>このあたりは若い女性かな、とも思う。しかし「悪児」という言い方や「函釣」の「函」の字などは、熟年層で若者風に書こうとするタイプにありがちな句とも見えてしまう。こんな憶測はまったくもって大きなお世話だ。

だがある表現形式に全身全霊で打ち込んでいるとき、作者像というものは自然と立ち現れてくるものではなかろうか。

ごちやまぜにされて昔や未草>という句がある。「ごちゃまぜにされて昔や」はぶっきらぼうな言い方だが、わかる。自分自身の記憶であってもいいし、歴史と捉えても成り立つだろう。さてなぜここに「未草」が置かれるのか。未草。睡蓮の咲く時刻、あたりの空気感、睡蓮そのものが持っている幻想的な雰囲気など、いろいろ想を巡らせても「ごちゃまぜにされた昔」とのアンマッチ感が喉に刺さった魚の骨のように取れない。

撫子やもう通らなくなつた道>もそうだ。「もう通らなくなつた道」は切ない。道が見えていて、ある時から年月を経た作者の背中も見える。だかその複雑な内容を背負わせるには撫子は弱い。撫子の手触りがないからであろう。

作者はまだ作句を始めて3年とある。私は俳句を始めた頃、40ほど年上の先輩俳人に「3年間であらゆる俳句を読みなさい。それから自分の句を作りなさい」と助言を頂いた。この作者もそろそろ五七五に季語を取り合わせて「とにかく俳句を作る」という段階から「自分の句を書く」段階へ上がる時期だろう。その萌芽が見えた句を引く。

瞬間を繋いで噴水のかたち 加藤御影
函釣や舗装の下の樹の根つこ

一句目。じっと見ていると目は速度に慣れて来る。作者は噴水をずっと見ていたのだろう。水滴が繋がって上がってゆき、それが噴水のかたちになった。それは水滴そのものでありながら、水滴が噴出した瞬間の繋がりでもあることを摑んだのだ。

二句目。「根つこ」という言い回しはさらりと詠んでいるが、面白いところに目が行っている。神社や寺などの縁日の屋台だろうか、地面の上に函釣の函が置かれていて、中の水に金魚やスーパーボールなどが回っている。函釣の水が地面を濡らしたとき樹木を感じたか、ふと、樹木の根が舗装された所の下まで延びていることに気付いたのだ。

くちびるを叩いてをりぬ焼藷で>も散文調だが面白い。<茄子なりに私の顔を映しけり>も言葉を整理すれば即物的で不思議な句になりそうだ。

一段上がったこの作者の句に期待したいと思う。


7. 脱ぎかけ(栗山麻衣)

名前がいい。のっけから作品に関係ないことだが、名は体を表す。名前の印象は意外に侮れない。

それはさておき、タイトルからして仄かなエロスなどを期待して読み始めたわけだが、最初の5句がどうにもよろしくない。800篇もある作品から選ばれるにはまず冒頭5句で惹きつけなければ。予選をするのも人間だ。くたびれてきたときに読み始めた作品の冒頭で「イマイチだな」と思われたらあっという間に選者の興味はどこかへ行ってしまう。

夏野には呟くやうに石のあり 栗山麻衣

6句目に置かれた句。夏野である。草は長け、日が葉おもてに反射している。風があれば草は蠢くように靡き、大きな生き物の只中にいる心持ちがするし、風がなければ過酷な環境下における生命力を肌で感じる。石は夏草に隠れて在る。冬野の石のように雨風に晒されることもなく、蹴飛ばされることもない。人は時に見えないものの存在を感じ、聴こえない音を聴く。「呟くやうに」はよく目にする措辞だが、この句における価値は、夏野の石の存在を際立たたせる描写になっている点だ。

鉄棒を舐めれば鉄の味晩夏
ゴスペルのごとき熱狂鮭上る

一句目の衝動。子どもの頃、私も鉄棒を舐めたことがある。「晩夏」の季題がノスタルジックな気分に誘う。この句、いいか悪いかではなく、飾り気のない作者の等身大の句として評価したい。上手い句など訓練すればある程度の高みまでは誰でも達することはできる。だから今しか書けない句を、誰かの見方を真似るのではなく自分の目で見て、自分の言葉で書くことが大切だ。

二句目も同じ理由。「ゴスペルのごとき熱狂」なんて圧倒的にベタな直喩だ。しかし季題は「鮭上る」である。一度海へ出て生まれた川に必ず戻って来る鮭。その回帰性を思うとうっかり深読みしそうになるがそこまでの崇高さはないので、こじ付け的な解釈は止めておく。それよりも言った者勝ち的なこの一句よって、産卵のために戻って来た鮭の凄まじいまでの迫力ある姿が頭から離れなくなった。

亀鳴くや書店に並ぶ幸福論

「亀鳴く」は空想の季題。自殺が最も多い季節、書店に商戦として並べられた幸福論は空論にすら見えてくるではないか。

この作者の句にはスピード感がある。小主観、擬人化、比喩暗喩で手っ取り早く句をまとめ上げてしまうのではなく、じっくりと言葉に向き合って欲しい。


8. クレヨン(倉田有希)

船を描くクレヨンの白春の雷 倉田有希

タイトルの語彙を含んだ句が一句目に置かれる。何だかレビューを読みはじめていきなりネタバレされた気分だ。これはあくまで私見だが、タイトルは全体を包括する表徴であり、全句に行き渡らければならないだろう。一句目から出すのはリスキーだ。句から取るのであれば50句の絶妙な位置にあって欲しいと思う。

掲句。白のクレヨンや色鉛筆が残る、という発想はよく見るのだが(今回の落選展にもあった)、クレヨンの白で描いているところがいい。クレヨンは精密には描けない。ざっくりとした船のかたちだからこそ、塗られたクレヨンの厚みも見えてくる。春の雷もクレヨンの罅割れたような表面と呼応していると思う。

クレヨンの折れて冬日の匂ひかな

43句目に置かれた句。ここに来てまたクレヨンを登場させた。私はこちらの句の方を採る。クレヨンの独特の匂いと冬日のしらじらとした光が響きあっている。視覚と嗅覚のコラボ。

白といえば、

どの人も白き喉して初句会

この句もちょっと面白い。「白き喉」が妙に生々しくて、初句会なのにあまり目出度そうでないところが現代的でクール。季題の突き放し具合が丁度いい。季題は効かせなければ意味がないが、凭れ掛かっている句はいただけない。

昼時の海月と人が浮かぶ海

これも白っぽい世界。「昼時」がそう感じさせるのだろうか。平和ではなくどこかシュール。

作品の中で作者と出会いたいと思いながら何度か繰り返し読んでみた。プロフィールによると写真と俳句のコラボレーションを続けているとのこと、瞬間を捉える瞬発力はある。写真だったら面白いだろうなと思う作品も少なくない。だが俳句は言葉だ。多木浩二の言葉を借りるまでもなく、世界をつかむ方法が違う。だから<夕立のあとの古書店鳩三羽>や<蝌蚪の国豆腐のパックが沈みをり>などの句には魅力を感じなかった。前者は只事で終わっているし、後者はその現場を共有していたら誰もが飛びついて俳句にするだろう。

アンリ・カルティエ=ブレッソンに「写真は…自分自身の叫びでもあり、解放でもあって、オリジナリティーを主張するものではない。生き方なんだ」という言葉がある。私は作者の核に触れたい。先に挙げた句ではそれができた気がする。

他に<すずむしや共食ひのときみなしづか>は生の真実の怖ろしさを直截的に描いていて好きなモチーフなのだが、この「や」も然り、全般的に切字があまり巧く使えていない点は改善の余地あり。この作者は厳しい選者の選を受けたらぐんと伸びるのではないだろうか。<かなかなや今日会ふ河童の碧色>虚構こそリアルに感じさせなければ、主観の壁にぶちあたってしまうのだ。


9. 凛凛(きしゆみこ)

丁寧に粘り強く書いている句、自分で作り上げた物語の世界に酔っている句、言いたいことが溢れてまとまりがついていない句。作者の書きたいもの、書きたい世界にまで行きつけなかった。

緩みをる纜夏の汐に曳く きしゆみこ

纜は船尾にあり船と陸を繋いでおく綱。大荒れの日でない限り纜は常に緩んだり張ったりを繰り返している。これから船を出すところだろうか。夏の汐にたるんと緩んでいた纜を曳いた。曳いて解く。夏独特の汐の香が、強く、けれども心地よく鼻をついてくる。骨格の正しい句だ。

だがこの句のあとに<どんづまりなる川に呉れやる海月>という句が続く。私はここで混乱する。<川に呉れやる>とはどういうことだろう。句姿といい語調といい同じ作者の句とは思えない。<だうありても眉に美しはだれ野は>この<だうありても><眉に美し>もわからない。「たはぶれに美僧をつれて雪解野は 田中裕明」と比べるまでもなく、句絶の「は」は案外難しい手法なのだ。

冴え返るあなたにできることなくて>この格助詞「に」は「私があなたに対して」なのか「あなたは残念だが役に立たない」と言いたいのか不明確だ。

きっと言葉を自分のものにする手前で、感じたことを曖昧なままに俳句の器に盛ってしまうのだろう。だからよく読もうとすればするほど混乱する。目、頭、心が同時につき動かされたとき、その突き動かしたものの正体を摑む注意力が必要だと思った。

窓側が好き寒くても一人でも
細面ばかりが目立ち卒業す
啼くときは月より光る鷹なりし

これらはうまくいった句ではないだろうか。一句目、学校の風景であろう。一人だけぽつんと離れて窓際にいる生徒。寒くても一人でも窓側が好き。そんな強がりを言う後姿を放っておけない。

二句目、卒業生全員を眺めたときの細面ばかりの生徒たち。今どきの生徒だ。

三句目、鷹の声を実際に聴いたことがないので早速YouTubeで聴いてみた。意外に甲高くて細い声なのでイメージとずいぶんと違っていた。掲句からは猛禽類の頂点に立つものの孤高の姿が目に浮かぶ。「啼くときは月より光る」という大胆な断定が、実際の鷹よりもよほど鷹らしく、ほんとうを超えたリアルを生みだすことに成功したのだと思う。


10. 徒然(工藤定治)

抽斗に冬の日を入れてしまつた 工藤定治

この作者も新旧かな遣いの混同をどちらかに統一してもらいたいと切に願うところだが、そのままの表記で引く。

永田耕衣の句に「抽出に佛光りし雪降るか」がある。耕衣の句は抽出(原句そのままの表記)の中に小さな仏像あるいは仏画を入れていたのだろう。抽出を引いたときその佛が光り、空の彼方から落ちて来る雪の気配を瞬時感じたという句。

掲句はもともと引いてあった抽斗を閉めるときに中の何かに映っていた冬日もろとも閉めた、ということか。或いは、冬の日を冬の一日と捉えると心象的な句になる。「しまつた」に僅かだが失敗の心理が含まれているからか、「日」が何か実体を持ってくる。前者の解釈であれば、抽斗を閉めた後の、暮れ落ちた部屋の暗さ、静けさが伝わってくるし、後者の解釈であれば、何か見られたくない自分、思い出したくない出来事、と少しネガティブな思いが「冬」から感じ取ることができる。案外この「冬」は取り替えの効かない詩語となっている。

毛糸玉こんがらがつたままそのまま

毛糸大好き人間としては、この句はどうしても捨て置けなかった。こんがらがってそのままの状態は「毛糸」ではあるが「毛糸玉」とは決して言わない。どこの句会でも必ず聞くフレーズに「だって本当にあったんです」があるが、これは絶対にない。と文句を言うためだけに掲句を挙げたわけではない。「玉」が消化不良なだけで、「こんがらがつたままそのまま」のくどいほどの平仮名が、毛糸がこんがらがってしまったときの苛々感にピッタリだし、推敲次第では整理のつかない心持ちをモノに乗せることができるかも、と思ったからだ。

作者は俳句歴3年目(この方で二人目?)。無所属新、といったところ。結社に所属することの可否は一概には言えないが、やはり賞を狙うくらいの気持ちがあるならば句会に参加して選を受けることだ。仲良しグループやサロン的な場ではなく真摯な議論が交わされるような場。そうすれば“絶対に成功しない素材”上位にランキングされる「クレーン車」で句を作ろうなどとは思わなくなるだろう。

私の勝手なランキングである。


11. 舞ふて舞ふて舞ふてまだまだ枯一葉(片岡義順)

タイトルからして音便の誤用、どこまで舞うかと心配になりつつ50句読んだ。
春夏秋冬の章分けはさぞや予選をされた編集部の癇に障っただろうなぁ、と思いつつ。よく句会で季題の横にご丁寧にルビを振る人がいるが、あれを見た瞬間、俳句書きが季題を読めないと思っているのか、と腹の底で沸々と怒りが湧いてくる。

それに比べればまあ季節の章立てくらい、作者が俳句歴1年半ということなので大目に見ておこう。

草摘むや衣一枚薄くして 片岡義順
読みすすむ史書の厚みや花の雨

一句目は春になって草摘みに出たのだが、思いのほか汗ばむほどのよい日和だったので着ていたものを一枚脱いだ、という句。「衣一枚薄くして」と雅な言い方になっている。山本健吉『基本季語500選』では摘草の項目に『万葉集』冒頭の雄略天皇の歌を引いているが、季題が持つ歴史を感じた一句。

二句目。史書であるからさぞ分厚い本なのだろう。内容の重さと共に、一層厚く感じられる。外は明るい花の雨。花の雨はムードだが悪くない季題斡旋。整った句である。

それにしても<春暁や卑弥呼のお告げスカイツリー>や<シクラメン残し帰らぬテロリスト>、<パリの虹モディリアーニはぬれ鼠><エーゲ海拗ねた男のサングラス>、挙げ句の果てに<葱洗ふ嫁の依怙地や手の白き>など困った句が多すぎる。

「サッカーは年齢ではない」はG大阪・遠藤選手の言葉だが、俳句の新人賞も年齢ではない。歳を重ねた方には敵わないと思わず唸ってしまうモノの見方だってある。103歳の俳人・金原まさ子さんに比べたら作者はまだまだこれから。加齢を武器にして、等身大の句で勝負してもらいたいと思う。文法の勉強も同時に行いたいものだ。


 
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2014-12-14

【2014角川俳句賞 落選展を読む】 1. ノーベル賞の裏側で 依光陽子

【2014角川俳句賞 落選展を読む】
1. ノーベル賞の裏側で

依光陽子


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1. 霾のグリエ(赤野四羽)

文学に夏が来れりガルシア=マルケス 赤野四羽

かな遣いの新旧混合やら何やらでいきなり頭を抱えてしまった50句なのだが、トップバッターということもあり、なんとなく捨て置けない気がして引き返してみた。

自己完結型作品群の中、この句はそのドサクサに紛れてスコンと突き抜けてしまった感がある。「文学に夏が来た」と大上段から振り下ろされた断定に軽く眩暈を起こしていたら、ガルシア=マルケスが置かれていたという…ある種かけ逃げ的な力技。今年4月にガルシア=マルケスが逝き、5月になって夏が来たなぁという感慨が、特に深い意味もなく合体したのだろう。偶然とはいえ一句は成ったのか。事実関係、意味憶測一切を吹っ飛ばし、いかにもカリブ海的陽光で句を照らしてしまったのである。

太陽の上に落ちけり田植笠

水を張った田に映ったギラギラの太陽の上に、田植えで前屈みになった人の頭から笠が落ちたのだ。

この人の句は明るさがはっきり見える。その点は評価できる。


2. こゑ(生駒大祐)

何故この50句が予選通過しなかったのか。マイナス点を差し引いてもこの作品が本選の俎上に乗らなかったのは、編集部の見落としとしか思えない。

慎重な句作りで、句の細部にまで目が行き届き、ブレなく安定しているので安心して読める。言葉に無理をさせず、かといって守りに入るわけではないところがよい。しかしさすがに芝不器男賞100句応募の後の数か月間で、50句粒を揃えるのは息切れしたか。

夏雨のあかるさが木に行き渡る 生駒大祐
渦の影立ち上りたる泉かな
人呼ばふやうに木を呼ぶ涼しさよ
風鈴の短冊に川流れをり

冒頭の四句。

一句目の光度。夏雨の綺羅が行き渡る一木の清々しさ。二句目、泉の中で渦の影が立ち上がるという描写は、作者の心理描写とも受け取れ印象深い。

三句目「人を呼ぶ」ではなく「人呼ばふ」と書いたのはその後に「木を呼ぶ」の中に「を」が出て来るからで重なりを避けたのだろう。その工夫一つで類句に一線を引いた。○○を呼ぶやうに○を呼ぶ涼しさよ、であれば類句がある。

四句目の風鈴の短冊に画かれた川も仕掛けが凝っている。画の川は風鈴に流線型で続くことで、川のイメージや揺らぎを想起させる。鳴っているか鳴っていないかに関わらず風鈴自体に涼やかさを持たせることに成功した。

残念なのが5句目の<薔薇の枝の夥しさを座して見る>。この「薔薇」だが、ここでは季題の働きはない。薔薇の花は見えてこないしこの人物が見ているのは枝だ。まあ無季俳句だとしてもよいのだがさほど作者の心持ちは伝わってこない。5句目にこの句が来たことは惜しかった。

製図室ひねもす秋の線引かる

「秋の線」とはやや強引であるが悪くない。季感がある。澄んだ空気。すーっと幽かな音を立てて引かれる線。製図室の一日。「ひねもす」の一語で、朝の爽やかさから釣瓶落とし、さらに夜業への伏線も引かれている。

針山の肌の花柄山眠る
唐代の墨飛び立たばつばくらめ

一句目、古びた針山だろうか。肌という言葉からいくぶん色あせたサテンの花柄の生地の針山を思う。そこに刺された金や銀のまっすぐな針。裸木が樹影を落とす遠景の冬の山。針山の花柄の温かみと色彩のない厳格な冬山の対比。しずかに流れてゆく時間がある。

二句目、燕の黒から唐代の墨へ想が飛んだ。墨匠が登場した唐代、日本にも墨が伝わった。毛筆の撥ねの勢いの如く飛び立った燕という小さな命が、悠久へと誘う。

一句一句は完成度が保たれている。だが、既視感のあるフレーズが多少目につく。なるべく手垢のついた言い回しや言葉は使わないことだ。<しとやかに><べつとりと><たやすく><ひとつごころ>は描写になっていないし、イメージも受け取れない。<今はなき><のぞまれて>は感情の落としどころがない。<うすみどり><天さびし><飼ひならす><世の中は>は先行句がすぐに浮かんでしまうので損だ。
 
力のある作者だけに、来年は本気で賞を狙って欲しいと思う。


3. 線路(上田信治)

この50句は、細かいショット(句)が連なって一つの全景(統一された色)を生んでいる。映画的な作り方だと思った。

餃子屋の夕日の窓に花惜しむ 上田信治

餃子屋にいた。それは夕方で、夕日が窓に映りながら店の中に差し込んで、窓の外にはもうほとんど散ってしまった桜が見えている。ああ桜ももう終わりだなぁ、としみじみと桜の木を見ているのだ。

作者は見ている。日常の中の非日常、いつも見ていること、見落としてしまっていたこと、ちょっとした変化、ちょっとした面白さ。フィルムは長回しである。

晩夏の蝶いろいろ一つづつ来るよ
雨樋を石蕗の花へとたどり見る
蒲の穂の先からなほも伸びるもの

夏の終わり、そこに居たら蝶が来た。また来た。一つづつ。でも同じ蝶じゃないいろいろな蝶。これもひと夏の出来事。

ふと仰いだら庇に雨樋が走っていた。雨が降ればそこを雨水が流れる。雨樋の中には朽葉や埃などが溜まっているかもしれないが下からは見えない。その雨樋を何気なく目で辿っていくと庇の端でカクッと曲がった縦樋になり、途中で切れた縦樋の下に石蕗の花があった。目の動きの終点が石蕗の花明り。見えないものを辿った先の明るい黄色。

蒲の穂の先にちょんとある緑色の禾のような部分。写実だけれど、作者は見たモノをただ書き留めようとしているわけではない。その逆だ。モノから言葉を取り出して、そこではない異空間の「なほも伸びる」何かを凝視している。

俳句で個性を出すということは可能だろうか。私はこの作者ならばあるいはそれが出来るのではないかと思っている。独特の文体がある。助詞や副詞の使い方にその特徴がある。

桜さく山をぼんやり山にゐる
靴べらの握りが冬の犬の顔

一句目の「を」は到達点を想定していない移動時の経路の「を」。二句目の「が」は普通に主体を表しているのだが、使い方に少し仕掛けがある。

「桜さく山を」の「を」も「靴べらの握りが」の「が」も切字としてその語の後ろにかなり大胆な省略が入っていることに気が付く。「桜さく山やぼんやり山にゐて」と一般的な作り方に変えてみると違いがわかってくると思う。一読明解な俳句からほんの少しだけ距離を置いている。さらに「ぼんやり」の効果。副詞を日常語のままさりげなく一句の中に入れる。この置き方がこの作者独特の方法。「を」、さらに「山」の繰り返しによって「ぼんやり」が花霞のように全体に懸る。

靴べらの句は、握り=冬の犬の顔、と読むのがごく普通だが、「が」で軽く切ってみる。すると、靴べらの握りがどうも手にゴツゴツしてるなぁ、何かの顔の形みたいだなぁ、と思って顔を上げたところに犬の顔があった。そこで初めて靴べらと犬に偶然の関係性が生れるのだ。どこかキリリとした冬の犬の顔と靴べらのひやりとした冷たさ。ジャック・タチのようなシュールでとぼけた面白さ。

手に水の触れる速さに春の雪

この「速さに」の「に」は切れずに「春の雪」に繋がる。実際の内容としては掌に受けたときの春の雪が水になる速さのことを書いているのだけれど、であれば「に」で混乱する。この複雑な内容をどう一句にまとめるか。ふと流れ出た語順がこれだろう。春の雪独特の質感がリアルになった。

地には霜やさしい人たちの自転車

「地には霜」硬質な表現だ。だがそのあとに柔らかい言葉が続く。何万本もの氷の針を崩して停められたたくさんの自転車。その自転車を「やさしい人たちの自転車」だと感じた。霜の朝の煌めきによる魔法だろうか。ほんわりと仕合せな気持ちになった。だがこうも思う。この自転車に乗って来て、働きに、あるいはそれぞれの一日を始めた人たちに比べたら、自分はやさしくない、利己的な人間かもしれないな、と。地の霜の上に立っている自分は、そう思う。

その年は二月に二回雪が降り

この句は「二月」「雪」と大きな季題を二つも置きながら、季感を意図的にずらしている。この句は年の瀬の句だ。「その年は」と一年を振り返り、その年の二月に二回降った雪に思いを馳せている。

なんだかどこかで感じた不思議さだ。そうそう、アキ・カウリスマキが映画『ラヴィ・ド・ボエーム』のエンディングに「雪の降る街を」を流したのと同じような、どこかナンセンスでベタでないペーソス。

視点を自由に設定する。この作者の作品は、「俳句らしさ」ではなく「作者らしさ」によって成り立っている。今までの俳句にはなかった何か別の方法を摑もうとしている。


4. 魂の話(大中博篤)

「18歳一人でやっております」となれば応援したくなってしまうが、作品は作品。基礎がしっかりしてこそ、破調やその他の崩しは成功する。ピカソでさえゲルニカを描くために45もの習作と多くのデッサンを描いたそうだ。まずは基礎づくりをし、誰かに句を見てもらうことをお勧めする。章立て、分かち書きの一文字空けと二文字空け三文字空け。どれも効いていない。

だが、口あたりのいい上手なオバサン俳句が横行する昨今、何か問題意識を持って書いている点は評価できる。18歳なのだからこれからいくらでも化ける可能性があるだろう。

一句だけ引く。

旧寺院裸者の懺悔の音静か 大中博篤

寺院としての機能を失った旧い建物の中に懺悔の音が微かにしている。「裸者の懺悔の音静か」は東南アジア的でもある。実か虚か。暗がりの中の裸身が見えて来る。悪くない。


5. 最初の雨(小池康生)

去年、俳人協会賞の予選委員を引き受けてみた。51歳以上、おもに60代から70代の作者の句集を百冊以上読んだのだが、とにかく闘病俳句と旅行俳句が多い。自費出版の個人句集には自分史的傾向が多いのは否めないが、角川賞のような公募の賞に闘病俳句で応募するということは、自分にとってそれが何事にも替え難い出来事であったからだと思う。

しかしごまんとある闘病俳句を超えるには余程腹を据えて客観的に句を検証する必要あるだろう。<あの世へは少し遅るる日向ぼこ><癌のことなかつたことに万愚節>こういう句は常套中の常套である。

病と別のところで詠んだ句には味わい深いものがあった。

シーソーに妻から浮いて夕桜 小池康生
巣箱掛け最初の雨が降つてをり

夕方、子供たちが帰ったがらんとした公園。幼いころを思い出してシーソーに乗ってみた。まず夫が沈み、妻が浮いた。ふわりと浮いた妻のはにかむような笑顔。暮れ残って淡い夕桜の背景も悪くない。

作ったばかりの巣箱を掛けた。まだ白木だ。樹皮の鈍色に巣箱の白さが遠目にも際立っている。どんな鳥が来るだろう。入ってくれるだろうか。ふと見ると雨が降っていた。白木に滲んでいく雨。巣箱にとっては最初の雨だ。



 

2014-12-07

【2014角川俳句賞 落選展を読む】 0. 書かずにはいられなかった長すぎる前置き 依光陽子

【2014角川俳句賞 落選展を読む】
0. 書かずにはいられなかった長すぎる前置き

依光陽子
 

≫ 2014落選展


落選展作品鑑賞の依頼を引受けてから3週間も経ってしまった。

この間、私は不寛容と寛容の間を彷徨っていた。何故なら落選展の作品が、角川俳句賞落選作品834作品からの厳選26作品に思え、また同時に、落選した全作品の100分の3の縮図のように見えてしまったからだ。展覧ではなく展望、つまり俳句の未来も含まれていると捉えたのだ。

これが今年の落選展の有り様ならば、かつて絵画の世界において落選展からマネが登場し、アバンギャルドの誕生を経て本選を凌ぐに至ったようなそんな一石を、本家・角川『俳句』に投じることは出来たかということだ。


落選展はアンデパンダン方式である。

だからいい。応募すれば掲載される開かれた場だ。50句まとめて発表できる機会なんてそうそうないし、作品を一人歩きさせてこそ見えて来るものがある。誰かが「いいね」と言ってくれたら何ものにも替え難い励みになる。

だから問題だ。それは「何でもあり」の「俳句っぽい言葉のかたまり」が「俳句」として不特定多数の人に認知されてしまう点だ。

「五・七・五にすれば俳句」という勘違いは、俳句に携わっていない人共通の認識で、それに毛の生えた状態が「五・七・五に季語を入れればいい」というものだ。このルールを教えると皆よろこんで句を作る。悦に入って感想を求めてくる。日常生活であれば適当な作り笑いでもしてやり過ごせば、そのうち飽きるのだが、稀に暴走してしまうパターンが出て来る。それが「賞への応募」だ。

835という応募数は、もしかしたら角川賞取れちゃたりしてね、といった「あわよくば応募」が増えているということだろう。835篇全てが本気で賞を取りに行っているかといえば、答えは明白だ。

俳句賞の多くが(多少ばらつきはあるものの)、本来、選者の選句眼に依る客観的な視座での議論であるべき筈が、最も強力な主観に左右され、結局折り合いをつけるために減点法で受賞者が決まることなど、少なくとも20年前から変わっていないではないか。

であれば、より完璧な句を、ベストの並びで揃えるのは最低限なされるべきだ。あとは作者の息づかいや切実さ、迫力、挑戦、句のリアルが如何に伝わるかだが、兎にも角にも予選通過するための準備は万全を期すべきである。



落選展を一読した感想は、まず総じて雑だということ。

旧かなと新かなの混同と誤用。音便は選者側も見逃しがちだが、かな遣いが一句でも間違っていたら受賞作にはできまい。26篇のうち約3分の1の作品にかな遣いの間違いがあった。山田露結氏は揶揄し、堀下翔氏はあえて触れないという寛大な態度を示しているが、私は、何句か散見されるようならば50句と真摯に向き合う価値はないと思う。そんな作品に付き合っていたら、貴重な原石を見落としてしまう。

俳句は短い。一字で見違えるような佳句にもなり得るし、一字を意図的に仕掛けることもある。だから何度も検証し推敲を重ねる。作り手も読み手も一字たりともおろそかにしてはいけないのが俳句だ。文学には企みというものがある。

次に句柄の小ささ。俳句はもっと大きなものだ。実であれ虚であれ、時空間を瞬時に広げることが可能なのは短詩型の中では俳句が唯一だろう。その力を引き出すには、切れ、季題という二つの強力な武器を使わない手はないし、使いこなすための鍛錬が不可欠だ。

性急に内容に走り過ぎて技術がついてこない。本当は蝶の背に針を刺すような鋭さと正確さが求められるというのに。季題から入り込んでいないから俳句がグラグラだ。いくらでも取り替えがきくような季題を使うくらいなら、潔く無季俳句にすればいいのだ。

最後に平均化した個性。新しいものを産もうとする意欲や苦悩が感じとれないこと。俳句誌も句集も、年代、グループごとに好んで書く素材も切り取り方も、選ぶ句も似通っていて辟易するのだが、原因は俳句を読む前に書きはじめ、読まないままに書き続けていることにあると思う。

常套を抜け出すためには時代を越え枠を越え縦横に数多く幅広く読むしかない。どんな句が月並で、どんな句が傑出した句か。先人たちによってどんな挑戦が為されてきたか。それを踏まえた上で自分にしか書けない句を書く。覚悟のいる作業だ。

自分は俳句で何を書きたいのか。書こうとしているのか。自分にとって俳句とは何なのか。そして俳句にとって自分は何なのか。俳句とは何なのか。俳句に惚れ込んでいなければ、俳句にも惚れ込んでもらえないと思う。

50という数は、いろいろなものが透けて見えてしまう怖い数だと改めて感じた。



さて、以上述べた言葉はそのまま俳句作者である私にもそのまま返ってくる。

しかし受けて立つ覚悟はある。そして私は同志を求める。その上でこの落選展をたしかめていこうと思う。

2014-04-13

特集「ku+」第1号 読み合う 胡椒軍曹はかく語りき 依光陽子

特集「ku+」第1号 読み合う
胡椒軍曹はかく語りき

依光陽子

吾輩の名前は胡椒軍曹という。50年ほど前に吾輩の「さみしい心の倶楽部の楽団」が広く世に紹介されたため或いはご存知の方もいるかもしれない。

つい先日天国で、茄子をこよなく愛し俳諧を営まれたという御老体とウマがあい共にきつねうどん等を喫していた折、一度も面識がないくせに自分の名を矢鱈と語る輩がいて何か始めたらしい、というので名前を尋ねると満更知らぬ者でもない。

どうも最近ストレス解消と称してゲームばかりやっているので、なればちょっと行って喝でも入れてやるかと降りてきたところ、何やら枯れた植物の一茎に見惚れておる。

いかにも暇そうなので暇なのかと訊くと、暇じゃない、今週中にその雑誌の句評を書かねばならぬ、という。ならば早く書けと言う。じゃあ爺さんが代わりに書いてよ、などと生意気な口をきくので試しに手にしてみたが何の雑誌かサッパリわからぬ。

ku+。これが俳句の雑誌か? パンクでジャンクなロゴに吾が祖国を思い出し、望郷の念に不覚にも目を濡らしてしまった。ところでなんでこの絵はスカートと脚しかないんだ?と訊くと「そっちは裏。表紙は逆」と声が飛んできた。

 起床して自然ではない十一月、窓を滑る蜂 福田若之
 やっていることは昨日と同じだが汗が凍りはじめた

なんとも福々しい縁起のよさそうな名前だが(事実、本人はいつもニコニコ笑っているらしい)、句は暗い。いや、屈折しておる。

栗林一石路ばりのプロレタリア俳句とも見えるが、紛れもなく「今」の俳句だ。現代社会、殊に都市という空間に身を置いて働いていると、自分の立ち位置も季節感も年々希薄になる。それを蜂の描写に集約させたのがいい。

この作者の根底にある、諦念とか閉塞感とか遠い憤怒の入り混じった感覚、そしてそれらを覆うような無機質な言葉の連なりがヨリミツはかつての自分にリンクするのだと言う。

27歳も年下の青年の気持ちがわかるのかと問うと、その27という数がキーなのだと。27といえばジャニス、ジミヘン、ジム・モリソンが逝った歳か。私も前世はフラワーチルドレンだったのよ、と何やらほざいているが、明らかに計算が合わないので無視する。

若之は自己紹介欄にウォーホルやリキテンスタインがただかわいがられてしまう時代の感性に対して俳句で何をどう書こうか、と書いていたが、今時の青年らしからぬ問題意識に吾輩は感心した。キース・ヘリングのiPhoneケースに買い換えてカワイイと騒いでいるヨリミツにも爪の垢を煎じてやってほしい。

「僕のやっていることは全て死にちがいない」「アーティストはHEROではなくZEROなんだ」など謎めく言葉を多く残したウォーホルが生きた時代への憧憬が若之にあるのかどうかは知らぬ。だがウォーホルの言葉がウォーホルという人間像をカモフラージュする道具になっていたのに対して、若之の言葉はかなりリアルに若之自身だ。<結論としては葱だけで満たされやしない>の空虚さは直線で伝わる。そういえば茄子の御老体にも<夢の世に葱を作りて寂しさよ>という句がある。心から怒りとか空しさを永遠に消し去ることができない者が物書きだ、というのが吾輩の持論である。

激甚夕立やみし舗道に牛蒡かな 関悦史
路面を知り擦り傷黒き梨をもらふ

牛蒡はそこに在った。埃っぽい舗道に泥の乾いた牛蒡は同化していた。激甚夕立が止んだのち、牛蒡は牛蒡としての存在を顕かにした。何故そこに牛蒡があったのか。ナンセンス!

一方、梨は、その黒き擦り傷ゆえに、路面のざらざら感を知った者に敢えて選ばれたのだった。このざらざら感において路面と梨は均質になったのである。路面の感触、梨の手触り感。梨好きの吾輩には捨て置けない句である。<二十世紀を路上に撒きぬ野口る理>という句は一読意味を探りたくなったが、ただ直観で感じとればいい気もしてきた(仮にこれが‘二十世紀梨’では只事句だが) 。そうして意味と直観を行き来しているうち「野口る理」がだんだん逆さま言葉に思えてきて、突拍子もなく本をひっくり返した。吊り下げられた文字たちの中でなんと「野口る理」は髭男爵然としていた。ナンセンス! 野口る理を詠んだからにはこれ程の可笑しみが求められる。

ナンセンスといえば、メンバーの古脇語の誕生日は吾輩を紹介した甲虫たちへのパロディ映画「オール・ユー・ニード・イズ・キャッシュ」が放映された日ではないか。この雑誌、だんだん親しみが湧いてきたぞ。

鼻のあなに舌はとどかずヒヤシンス 山田耕司

舌っ足らず、という言葉は用いるが、よもや自分の舌が短いとは思いもよらなかったヨリミツは「舌出してみぃ」と友人に言われてはじめて自分の舌の短さを自覚したらしい。しかし世の中には鼻の穴に舌が軽々届く人間もいるわけで、この句から作者に親愛の情を密かに抱いた者は他にも多数いるはずである。とってつけたようなヒヤシンスという季題だが、もし届いたら、そのヌメッヒヤッとするであろう感触と、ヒヤシンスの花弁のくるんとした形状において、実は緻密に計算された斡旋なのかもしれぬ。いや、ただぼーっとヒヤシンスを見ていたらふと浮かんだんだよね、というほうが読者としてはウレシイが。

風がゆくビルごとに屋上がある 佐藤文香

どこにも季節が書かれていないのに秋の句だと確信するのは、「ゆく」という言葉の効果だろう。鳥が渡り小鳥が来る季節、手の届かないモノの高さを意識する季節。風がゆく、ふと見ればビルごとに屋上がある。意識しない限りモノは見えてこない。屋上が見えた。いくつもの屋上。地面からずっと高いところにある平面。乾いたがらんとした空間。眩しいけれどあたたかくはない場所。『天国が降ってくる』の真理男ように落下することも、首が痛くなるほど仰いで空に溶けることもできる所だ。この句、客観的に景を述べながら決して他者に開かれていないところが興味深い。この日の文香の心は地上から屋上を見上げた。鳥好きの文香はいつか俳句という翼で空を飛びながら、そのことを懐かしく思い返すだろう。吾輩の楽団のルーシーはダイアモンドをもって空を飛んでおったが。

鉄塔と秋の帆船をつなぐひと 生駒大祐

ある一人の人物が人前に押し出される。その人物が成すたった一つの事(鉄塔と秋の帆船を繋ぐという事)以外は何の説明もない。いったい何者で、何のためにそんなことをするのか。実際に何かで繋ぐのか、ただ視線で繋ぐのか。あるいはテグスのように光に消されてしまって、見えないのに実は在る糸で繋ぐのか。何故ほかの季節ではなく秋の帆船なのか。吾輩は鉄塔と秋の帆船をつなぐものは言葉ではないかとも思う。

「さみしい心の倶楽部の楽団」の最後の曲ではピアノの和音と奇妙な声の間を高周波で繋いだのだが、残念ながら中高年には聞こえないので今や吾輩にもヨリミツにも聴こえない。

だが生駒大祐にはきっと聴こえると吾輩は思うのである。

追記

そういえば、ヨリミツにとってはすでに恩人にカテゴライズされる上田信治に、なぜ自分がku+に誘ってもらえたのかと尋ねたら、単純に年齢的なバランス、だと言われたそうで、突然膝カックンをくらったかのごとく拍子抜けしたらしい。まあ逆にそれで気も楽になったそうだが。とにかくあまり他の俳人と接する機会がないヨリミツが、メンバーは皆好きで、彼等の中にただ座っているだけで大層居心地がいいのだと喜んでいたことは何よりだと思っている。(高山れおなの鬼才は怖いらしいが(笑))

おっとずいぶん道草を食ってしまった。残りのメンバーの句を紹介できなかったのは心苦しいが、他のメンバーが素晴らしい鑑賞を呈してくれるだろう。吾輩はこれからヤースナヤ・ポリャーニャに寄って、苔で覆われた世にも美しい墓をどうしても見たい。よって、そろそろ行かねばならぬ。そうそう、最近岩瀬何某という若い実業家がうまいことを言っておった。「多様な人間が同じ目線に立てば新しいものが生まれる」と。ku+とはそんな感じの雑誌だったと茄子の御老体に報告しようかと思う。



2012-01-22

依光陽子 涯 hate 7句

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週刊俳句第248号2012-1-22
依光陽子 涯 hate
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