ラベル 2014角川俳句賞落選展 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 2014角川俳句賞落選展 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2015-01-25

【2014角川俳句賞 落選展を読む】 5.書き続けるしかない 依光陽子

【2014角川俳句賞 落選展を読む】
5.書き続けるしかない

依光陽子


≫ 2014落選展






 

23. 菜の花(前北かおる)

菜の花や乳白色の雨の降る 前北かおる

50句全て春の句でタイトルが「菜の花」。50句中に菜の花の句が5句ある。
その中では掲句は見どころがあり、また50句全体でも大粒の句といえばこの句だろう。

「乳白色」に見える雨だから、かなりの粒で雨脚の強い雨だ。視点を一旦一面の菜の花畑の遠景に置き、次に近景に目を引き寄せたときの「乳白色」の効果。雨自体は透明なのに言われてみれば確かに「乳白色」に見えるときもある。

「乳白」という文字、牧歌的でありながら野趣もある。菜の花の明るさを生かしつつ、花の持つ雰囲気に落ちることなく踏みとどまっているところがいい。

白梅や縦へ縦へと咲きふえて

雪柳や連翹、萩、枝垂桜などを詠んだ写生句は、地に近いところから咲くと詠まれるのが常套だが、「縦へ縦へ」という摑みが白梅らしいと思う。

古枝ではなく、その年新しく伸びた枝からの花だ。新枝は垂直に伸びる。咲きふえるほどの枝数を持つ木だから古木だろう。ごつごつとした幹から立ち上がった緑色の枝。一木の存在感。

ちかちかと蛍光灯や吊し雛

立派な郷土館などではなくて、蛍光灯が今にも切れそうで「ちかちか」点滅している旧家の吊し雛を思わす。「ちかちか」とするたびに、別の雛に灯が当り、一つ、また一つと姿が浮かび上がる。間隔をあけてぶら下がっている様も受け取れる。

吊し雛は伊豆稲取が発祥という説や九州柳川が発祥という説があるようだが、この句以降30句ほど続く九州で詠まれた吟行句の幕切れの句と取れば、現場は九州柳川か。

さて落選展は作者がオープンになっている分、期待度と読後感との落差は、それがマイナスだった場合不完全燃焼となって胸に燻り続ける。

笑ふ山背負うて野たり都府楼址>福岡大宰府、<菜の花や山国川も山抜けて>福岡と大分の境、<一斉に野焼くやまなみハイウエイ>大分。長崎に入り、島を巡り<春の人ゆりかもめより降り立ちて>と東京に戻ってきてお台場へ。地名の入ったご当地俳句が等間隔に置かれ、観光案内書に置かれたイラストMAPのようだ。

ぷつと雲吹き出して山笑ふかな><普賢岳痘痕だらけに笑ふかな>の二句は何だろう。50句にこの句を入れたあたりで、真剣に賞を狙う張りつめ感は消えた。<卒業の迫るひと日を甲板に>のような見どころがある句も艶消しになってしまう。50句の後ろにどのくらいの句が捨てられているか。その厚みも見えなかった。


24. 草の矢 (岬 光世)


寂かだ。静と動ならば、静。

擡げられ芥もくたや霜柱 岬光世
雑草のひようと伸びたる風薫る
針仕事してをるらしや秋簾
建て替ふることなく過ぎぬ秋桜

一句目。「芥もくた」は何の役にも立たない、つまらないものという意味。具象から発生した心象的な言葉だ。作者は枯草の欠片であったり、木端であったり、人の落として行ったモノであったり、塵埃であったり。それら霜柱に擡げられた雑多なものを見て、己の内面を重ねたのだろうか。霜柱は寂と輝いている。

二句目。「ひようと」の擬音のよろしさ。この一語があることで「風薫る」がムードに堕ちることなく一句が立った。一句目も二句目もどことなく王朝物語風に読めて来る。

三句目。秋簾の裏側の所作を針仕事と見た。「針仕事」と言うと若い人よりも年配の女性を想像する。単なる繕いものではなく、それを生業としている姿であれば、猶更その人への興味は募る。

四句目。建て替えの計画があったものの、そのままとなった家。旧い家だろう。ただタイミングを逸したというよりは、そこに住んでいた人の、こののちの永遠の不在を感じる。秋桜がそう思わせる。

念力のやうに鶏頭残りたる
接木せし手のぬくもりを持ち帰る

気持ちが乗った句も静の内に描かれる。「念力のやうに」は鶏頭の強さの描写として無理のない直喩であろう。接木した手のぬくもりを持ち帰る、という発想も目新しい。ある木に別の木の命を、人の手で継いだという静かな興奮が掌に残っているのだ。

遠雪崩眠りにつけぬ闇幾重><波音の絶ゆることなく曼珠沙華>なども音が描かれているのに、その音はとても幽かだ。

お太鼓に川風とほす夏衣><人伝てに先代の所作夏の帯><幕間に箸を交ふる木の芽和>など破綻がなく服に例えれば和服の装い。句の佇まいから作者の確たる美意識をうかがわせる。だがこういった巧い句を書く人は結社に一人くらいは必ずいるものである。以前参加していた句会で、非の打ち所がない、と思うような句が出た時「これは上手なオバサン俳句ですね」と選者が一蹴していて、はたと気付いた。

その言葉の裏には、「下手より巧いに越したことはないけれど、上手くまとまった事で納得してしまう癖がつくのは宜しくない。そこを越えるべし」というメッセージが隠されていたのだ。さらに「みずすまし」「秋の蝉」のような常套句、あるいは「ハーモニカ」「花野」句のように擬古的な情緒や観念に浸ってしまった句は落としたいところ。

家具ひとつ運び出したり雪催
片側の頬の明るき冬の晴
春蘭の涙ひとすぢ読めるなら

このあたりは作者の素の部分が見え、フレッシュな印象を受けた。一句目の季題の効果。二句目の明度。三句目の心象性。いずれも芳しい。

全体的に句の低いところに重心があり安定している。あとはどう新を開拓していくか。多少粗くてもアクセントとなる迫力のある句が欲しい。ほつれや壊れた部分があるからこそ際立つ美もある。一度思い切って、築き上げた美意識を打ち砕いてみるのも俳句の方向に感覚が研ぎ澄まされる手かもしれない。


25.モラトリアムレクイエム (吉川千早)

現代詩的なタイトル。今回の落選展の出展作品一覧を見たとき、最も期待した50句である。

しかしながら、一句目からかな遣いの混同とミス。「ああ」と思わず声が出てしまった。無念。

50句の中に幾つかの死、新しい命の誕生に触れた句があり、その重大な場面に作者が直面したこと。それは読み取れた。しかし<マニキュアの塗りあいっこや夕涼み>とその次の句、さらに<子を産めばママと呼ばれて聖誕祭>に至っては、ガクリと膝をついてしまった。

二句だけ挙げる。

人生にカレー幾たび半夏生 吉川千早

馬鹿馬鹿しいのだけれど、妙に後ろ髪を引かれた句。人生に幾たびも繰り返される事はいろいろあれども「カレー」を食べることの回数など考えたこともなかった。それを仰々しく「カレー幾たび」ときた。この畏まった文体と内容のギャップ。さらに半夏生というなかなか渋い季題を持ってきた点も現代の俳諧と言えよう。季感もピッタリだ。

秋雨や祖父は死んでも大男

亡くなった祖父へのレクイエム。在りし日の姿を思い出している。祖父の存在は死んでも大きな存在。大男は単に体格だけではなく、その人格の大きさも言いとめている。秋雨の季題は、死の直後というよりは、気持ちの整理のつくまでの時間を指している。

はっきり言って作品は未成熟。けれども何だか、適当に書いた、という感じはしないのだ。俳句慣れしていてさほど苦労もなく50句まとめることが出来てしまう作者とどちらがいいかと言われたら、多分私は、未完成だがこの面妖な50句を書く作者を庇う。そしてこの名前を憶えていようと思う。

変にまとまってしまうことなく、ともかくも俳句として鑑賞できる段階まで引き上げて再挑戦してもらいたい。


26. 猫鳴いて (利普苑るな)

一弾に矢となる犬や兎狩 利普苑るな

「弾」「矢」「犬」どれも「狩」についた言葉だが、その勢いをうまく一本の棒にした。飛んでゆく弾、一弾の音を合図に飛ぶ矢の如く一斉に走ってゆく犬、逃げてゆく兎、みな地面に水平の線となって、句になった瞬間、静止し、また動き出す。

枇杷咲くや砂に昨日の泥団子
花札の蝶舞ひたがる睦月かな
萍の揺れては増えてゐたりけり
手花火の明りに昼と違ふ庭

一句目。砂場に子ども作った泥団子がある。昨日、濡れ色だった泥団子は今日はもう外側は乾いている。泥の乾いたような苞を割って白い花を咲かす枇杷の花との取り合わせが絶妙だ。日常の、見過ごしてしまう風景。

二句目。陰暦正月、陽暦では二月にあたる睦月。正月に遊んだ花札が置かれていて、札の画の蝶が舞いたがっているかに見えた。春近い気分が出ている。

三句目。萍のたくさん浮いている水面。微かに揺れている。じっと見ていたらなんとなく増えていると感じた。「揺れては増えて」の眼差しが萍の水中の根にまで及ぶ。

四句目。手花火の仄暗い明りの向こうに、昼間とは違う庭が浮かんだ。それは花火が燃え落ちるまでのほんの一時。

ものを見る目に柔軟さがある。

深読みは不要。作者はそのままの景を言葉に乗せ、読み手はその言葉のまま受け取ればいい。すると一句に描かれたモノが生き生きと見えてくる。見せる力がある。

秋霖やときをり熱き猫の息
猫と坐す真紅のソファー雁渡る

季題斡旋がいい。

一句目。猫の息のときおりの熱さを感じ取ったのは掌だろうか。秋の冷たい長雨の一日、猫と居るひととき。

二句目は絵画のような構図。真紅のソファーが目に鮮やかだ。この猫はきっと黒猫。ソファの人も猫もまるで影のように静止している。部屋からズームアウトしてゆくと、上空を雁が渡っている。いつもどこかで何かが同時進行している。雁の列も黒。一句の中の色は赤しかない。

タイトルの句<猫鳴いて初夢のこと有耶無耶に>のほかに猫の句が5句。50句に寄り添っていたら、だんだん猫目線になってきた。すると<水無月や雫のやうな香水瓶>も<声上げて番犬めきぬ羽抜鶏>も変な世界だなぁと思う。何でもない日常に潜む小さな発見を、ひょいと掬い上げて読み手に伝えることが出来るのが俳句。強引に言語世界を作る必要はない。この作者にとって世界はすでに面白いのだから。

はこべらや温室に飼ふ元ひよこ>の「元ひよこ」は表現が浅すぎる。<かなかなや若者集ふ橋の下>の「若者」という言い方にやや旧時代を感じた。

作者が面白いと掬い上げた景の、その全てに読み手として共感したわけではない。だが50句に流れる、ほんのちょっと面白くて、ほんのちょっと物悲しい通奏低音は、この作者の個性だと思った。



メイキング・落選展を読む(勝手にあとがき)

ようやく26篇、1,300句読み切った。

約二か月間、一篇一枚の用紙に縦書きで読めるよう印刷し、鞄のなかに入れ、家以外でも毎日の通勤時や昼休み、ショッピングセンターの椅子などで取り出して読んだ。毎日誰かの50句を頭において生活する中で、少なからず応援する気持ちが芽生えたことも確かだろう。

だが前置きに書いた内容は揺らいでいない。その上で、私なりの提言を鑑賞の内に含めた。全て、未知なる俳句に出会たいという我儘な欲求と、何よりも生涯不変の俳句愛に拠るものである。そぐわない事を書いたかもしれないが、そこは読者や作者の寛大さに委ねどうかご容赦頂きたい。当初の予想通り、書いた内容は全て私自身に跳ね返って来ており、妥協せず作句することはますます困難になりそうである。しかし書き続けるしかないのだ。

落選展から新たな才能が現れることを祈りつつ連載を終えたい。他のお二方と足並みが揃わなかった事、毎回ギリギリ入稿かつ長考で編集の方々の手を煩わせてしまった事をお詫びいたします。



≫ 0. 書かずにはいられなかった長すぎる前置き
≫1. ノーベル賞の裏側で
≫2. 何を書きたいか
≫3.みんなおなじで、みんないい?

2015-01-18

【2014角川俳句賞 落選展を読む】 4.ゆるがされない勁さ 依光陽子

【2014角川俳句賞 落選展を読む】
4.ゆるがされない勁さ

依光陽子


≫ 2014落選展



何気なくつけたテレビでセコイアの森が映っていた。

最も高いもので115m、30階建のビルと同じ高さ、自由の女神を上回る高さだという。

当然、根から水を吸い上げられないものもあって、それらは天辺近くの葉が霧から水分を吸収するのだとか。自然発生的な山火事も森の再生に不可欠なものだと知って驚いた。

セコイアを漢字で書くと「世界爺」。カッコイイ。

さて今回も50句の森へ入っていく。高木も灌木もある。しかと根を張った木も幼木もある。似たような木は通り過ぎるが、気になった木には立ち止まり、叩いたり、観察したり、仰いだり、振り返って見たりしながら歩く。重力に逆らう力で天に向かって伸びている様を見るのは気持ちがいい。

俳句は一本の木だ。成長するか、倒れるか。風雪をものともせず枝葉を綺羅と輝かすか、あっさり朽ち果てるか。すべてその木次第。作者次第。


18. 積木の家(滝川直広)

一句目にどの句を置くかはどの作者も悩むところであろう。

花馬酔木ほそき煙となる手紙   滝川直広

この句が置かれたことで残り49句へ向く選者の背筋は伸びたと思う。
平たい紙に書かれた文字がほそく幽けく立ち上る煙の中に消える。紙を捩って火をつけたのか。開いたまま紙の角に炎を近づけたのか。言葉は「ほそき煙」となって消えてゆく。赤い炎から薄紫色の煙へ。花馬酔木の垂れた形状と淡い紅紫色もさりげなく響き合い、両者がほど近い場所にあることもわかる。

虫の音の間虫の音の埋めにけり
積木の家月の畳にのこりをり
煙茸ふみたき子らに数足らず

形を積み上げること。空間。崩すこと。「積木」の概念がさりげなくいろいろな句の中に潜んでいる。
一句目は虫の音の間を埋める虫の音。音をモノのように捉えた。音が止めばまた空間が出来、そこにまた音が入る。面白い。
二句目は月の畳の上に残された「積木の家」。家の中の家だ。一つ一つのピースを縦に横に組み合わせて立ち上げた、触れれば簡単に崩れてしまう家。その隙間に月の光が入り込む。
三句目。煙茸を一つ一人づつ踏んでゆく子ども。その都度、パフッと煙のような胞子が立ち上る。だが残りの子どもが踏むはずの煙茸は、ない。 

初雪や目を立てなほすをろし金
樹皮残る桜の撞木山眠る
初暦病臥の人の目の高さ

一句目「をろし金」は目の立て直しをし、揃って立ち上がっている。大切に使い継いでいる道具と、技を継ぐ職人の存在。おろし金の光と初雪の光。
二句目、一歩踏み込んでモノを見ることで、撞木を桜の木と見極めた。このことで句に艶が出て読む者を惹きつける。「山眠る」の季感もいい。
三句目、病臥の人の目の高さに据えられた初暦に、その人をさりげなく気遣う心が伝わってくる。

全体的に安定感があり、予選通過も納得。<流木に値のついてゐる初天神><一辺はテレビに空けてある炬燵>など諧謔味のある句や<瞑想の耳滝音を寄せつけず>など手堅い句も。なお、ルビを振るのであればルビのかな遣いも本篇と統一すべき。「紅さうび」「やにの歯」「失業者」などの句は後味がかなりよろしくなかった。最後の句<冬深し灯明皿の縁の煤>は平凡。着地も出だしと同じくらい重要だ。「ああ、この作品はよかったな」と思わせる読み応えのある句で締めたい。
しかしかなり賞に近いところに来ていると思う。今後に期待大の作者だと思う。


19. 仮面(中村清潔)

独自の世界を獲得しつつある。そんな印象をまず抱いた。

食虫植物睡りゐる淑気かな 中村清潔
ホルマリン漬のいろいろ涅槃雪
鵺の眼のなかにあるべし青山河

具象と抽象のエッセンスを摺合せて、どこか別の時空の、別の場所にリアルを探ること。そんな挑戦が見えた。
一句目。淑気とは異質な食虫植物を取り合わせた二物衝撃。植物が虫を食う、という意味からくる不気味さは食虫植物の外見からは感じ取れない。食虫植物の多くは美しい。美しい睡りだ。それを取り巻く空気は淑気と呼ぶに相応しい。
二句目。ホルマリン漬にされたモノを想像するとかなりグロテスクだ。だが死を経たモノの静謐さは涅槃雪の幽けさと相通じる。
三句目。鵺をどう受け取るか。単純にトラツグミと受け取るか。トラツグミの眼の中の青山河が美しい。猿の頭、狸の胴、虎の手足を持った怪物と受け取るか。そこにはさらに深みを増した「青」がある。

蚊喰鳥ひるまの月をほめながら
鬼門ありあらゆる桃に指の痕
祝婚の食べあましたる牡鹿かな

これらの句に私は強く惹かれた。だが短い言葉で鑑賞できない。多くの言葉を用いなければならないと思うので、句を挙げるにとどめる。

普通の句もあるのだ。<みづうみの秋は波打際で待て><窓といふ窓の氷柱を折る音か><冬銀河明日は長距離選手かな><日当たれば日当たるほどに恵方道>。平均点以上でも以下でもない。

タイトルの「仮面」は<仮面舞踏会(マスカレード)ひとり裸を赦されて>から採られているのだが、この句はさほど印象に残らなかった。とはいえ、この50句にふさわしい題をつけるのはなかなか難しそうだ。
作者はどういう人なのだろう。プロフィールには生誕地と、無所属であることしか載せていない。私は今、無性にその仮面の奥にある作者の顔を覗いてみたい衝動に駆られている。


20. オムレツ(中塚健太)

まず、常識の範囲で留まっている句が多く目についた。
例えば、<オムレツの黄色やさしく春来る>の「オムレツ」「黄色」「春」。<お雛さま永久はさびしと微笑みぬ>の「お雛様」「永久」「さびし」「微笑み」。<シャボン玉割れて弾ける子らの声>の「シャボン玉」「割れて弾ける」「子らの声」。
やさしい人なのだと思う。人柄のやさしさは50句から伝わってくるが、俳句としては予定調和でしかない。

中で以下の句には立ち止まった。

鳥帰る書き込みのなきカレンダー   中塚健太
ほつほつと路面に消ゆる春の雪
風船や世界のどこか崩れゐる
独り身の夜は魚となるプールかな

一句目。鳥が帰る瞬間を目の当たりにしたことがあり、今でも鮮明に残っている。それはあまりに一瞬で、鳥たちの間で計画されていたであろうその日は、人の予定表には書き込むことが不可能だ。「書き込みのなき」から鳥と人の生きる世界の越えられない隔たりを感じる。
二句目。この雪は大きな牡丹雪だろう。「ほつほつと」の擬音が雪片の大きさを表している。春の雪は路面に丸い跡を残して消える。落ちては消える。
三句目。平和の象徴でもある風船が上ってゆく空は地球のあらゆるところに繋がっている。この瞬間も崩壊に向っている場所がある不条理。
四句目。仕事帰りにプールで泳いでいるのだろうか。様々な社会のしがらみから解放されてのびのびと手足を伸ばし魚になれる時間。「独り身」であることの自由と孤独に現代性を見る。「プールかな」の収め方も、水面に映る照明が見えていいと思う。

これらの句には作家性の萌芽が見える。予定調和を改善し、掲句のような句をもっと入れることで見違えるような50句になるだろう。


21. ゐません(ハードエッジ)

昨年の落選展で注目した作者である。軽みがありながら目が効いていて、見るべきところのある作品群だった。
さて今年はどうか。
印をつけた句は割と多い。好きな句から。

ハンカチはチェックが好きで色々と ハードエッジ
楽しくてたまらんといふ子規の忌ぞ
池に雨松の手入も済みたるよ

一句目。今、私自身が播州織のチェックのハンカチにハマっているので、いきなり言い当てられた気分で読んだ。「色々と」の句絶がハンカチの軽さをうまく引き出している。
二句目。「楽しくてたまらん」、この言葉以上に子規その人の人柄を表すに適した言葉はないと思う。
三句目。見たままの景をそのまま句にしたことで、池に落ちた松葉や、手入れ後のすっきりとした松の枝ぶり、全体を濡らして池に落ちる雨粒が見える。全体の調和がいい。末尾の「よ」で常套を少しずらすことにも成功している。

つぶらなるものを連ねて蝌蚪の紐

蛙の卵が目玉のように見える様を、瞳に置き換え、さらに「つぶらなるもの」と言い換えた。機転が利いている。

朝顔の売れ残りたる日差かな><子を連れて涼みがてらに町の寺><仏壇に花新しき帰省かな><虫籠の虫を放てばぴよんぴよんと>なども安心して読める句群で悪くない。幽かな既視感は残るのだが。

一方、書き急いだ句も目につく。
茶摘女に摘まれて痛き茶の木なり><雪折れのところに雪のなかりけり><とある日の神と佛と仔猫かな><北窓を塞げば寒くなりにけり><ゐませんと毛布の中が応へけり>など。
「ゐません」の句はじわじわとくる面白さはある。この路線で書いて行くのだというポリシーを感じないわけでもない。

「瞬時にして反射的に、有季十七音という言葉の塊りとして一時に出てくるような体質」は爽波の「俳句スポーツ説」的だが、爽波のいう「写生の修業、芸としての修業」とはまた違った形での量産で、遊びの部分が色濃い。それも個性だろうが今回の50句は全体的に何か物足りなかった。せっかくの瞬発力が勿体ない。私はこの作者の、あえてこだわり抜いた一句も見たいと思った。


22. 弔ひ(三島ちとせ)

どこかで見かけた名前と思ったら、石田波郷賞の落選展にも作品を出しているパワフルな若手である。

さて、タイトルが重いのでぐっと息をのんだのだが、ほとんど深刻な句はない。ドラマ性を求めながら読むと(求める必要はないが)肩透かしを食らう。逆にルイス・ブニュエルの「自由の幻想」的なシュールさが展開されるのかと期待したりもしたのだが、そうでもない。
率直な感想としては、題詠句の寄せ集め、という印象。とにかくガンガン句を作り、その中でカラーの近いものを編集した感がある。

鰤起し駐在さんと居る園児><夏来る床へ現像液ぽとり><恋文を出す一呼吸日傘差す><鶏頭花海岸線に船の墓>、他にも面白いシーンを描いている句が見えるのだが、事柄に比重がかかりすぎて季題が置いてきぼりだ。「鶏頭花」の句などは、季題次第ではかなり印象深い句になる景である。取り合わせを成功させることは、季題そのものを詠むことよりも難しい。オーソドックスだが、山本健吉『基本季語500選』などから季題へ深くアプローチすることで、季題斡旋力が変わってくると思う。

蝶が吸ふ蜜を密かに摘んでゐる   三島ちとせ
 
「蜜」と「密」が「を」を挟んで上下(隣)にあるところに加え、全ての漢字の醸し出す雰囲気がエロティックだ。「密かに」なので鳥ではなく人だろう。蝶が吸う蜜と知りながら、それを摘んでしまう行為の危うさに、こころの闇の部分が引き寄せられた。心象風景とも受け取れる。

陽炎や家畜オスより入れ替へる
殺処分終へて一服花の冷

これらの句には強さがある。
一句目。放牧牛の入れ替えだろうか。読み手に提示されているのはオスから入れ替えるという事実だけだ。それは陽炎のゆらぎの中で行われた。そして「オスより」が精子のゆらぎの如く必要不可欠な言葉として一句の中にあることを確認する。
二句目。家畜を殺処分するという決断までの葛藤。それを終えた空しさと安堵感。それもまた花の日の一つの出来事だ。「一服」に込められた想い。鋭いところを抉っていると思う。一方で読後感というものも大切にしたいと言い添えておこう。

骨盤の高さに躑躅咲いてゐる

人の骨盤でなくてもいいわけで、犬でも牛でも熊でもいい。人だったらオオムラサキ、熊だったら山躑躅と、躑躅の高さや種類がさまざまに見えてきて楽しい。解剖図的に骨盤を考えたとき、躑躅のウエット感が案外伝わってくるのも不思議。「骨盤」と「躑躅」の奇想天外な取り合わせが共存していて面白い。

海底の呼吸炭酸水のやう
故郷は集合団地秋の雨
紅葉かつ散るthank you for listening.

これらは等身大の句だろう。
一句目の素直さも、二句目の季題の効果もいい。
三句目は流しっぱなしのラジオからDJの最後のフレーズが聴こえた。その音声と「紅葉かつ散る」風景のコンビネーションのよろしさ。

可能性は感じる。今後の伸びしろに期待したい。


2015-01-11

【2014角川俳句賞 落選展を読む】 3. みんなおなじで、みんないい? 依光陽子

【2014角川俳句賞落選展を読む】
3.みんなおなじで、みんないい?

依光陽子


≫ 2014落選展


11人の鑑賞が終わって、折り返し地点。次の角川賞締切まであと5ヶ月である。

前回「絶対に成功しない素材ランキング」と書いたところ、先日の句会で他にどんな素材がNGかという話題で盛り上がった。

以前、角川『俳句』に常套句について書いたことがあるのだが(平成19年5月号特集《類句・類想をこうして避ける》の<死して常套拾ふものなし>)、5年たってもあまり状況は変わっていないのだなぁと改めて思った。

「ひこうき雲」「観覧車」「誰々の生誕地or終焉の地」「樹齢○百年の松」「ヘリ」など、成功しないという意味は、それらを扱った俳句はごまんと目にするが、佳句を見たことがない、ということだ。

俳句文学館で全国の俳誌を片っ端から読んでみれば明らか。皆等しく詩情を掻き立てられ、皆同じように書き留める。例えば、ひこうき雲もクレーン車も斜め○○度の傾きで空に刺さっている。

観覧車の傍らには太陽や月がある。料理俳句、名画俳句、女優の名前の薔薇俳句。季題ラ・フランスが60歳代女性作者の句集に頻出する不思議現象など、挙げればきりがない。

人の個性はその人だけのものだ。生きてきた環境も取り入れてきた影響も全て違う。だから俳句だって違うものが出来るはずなのに、どうして同じような句を良しとしてしまうのか。

皆と同じで安心する「シゾフレ型」、たとえ自覚はなくとも俳句界はシゾフレ天国、模倣天国である。俳句という詩型特有の制約と無数に生み出された他者の作品の中で新しい句を書くことは本当に難しい。

自分が簡単に気付くものなど、誰もが簡単に気付くのだ。「誰かが詠んだような句は詠まない」と腹をくくるところがスタート地点だと思う。


12.ふらんど(さわだかずや)


春の句のみの50句。中盤、うつの句が並ぶ。この作者に限らず、うつを詠んだ句を句集などで度々目にするようになったのは近年顕著だ。「精神病んで」「不快」「嗚呼死にたし」などネガティブな言葉が連なるとさすがに読んでいて息苦しくなってくる。<半裸にてつくしを摘んでゐる集団>はどこかラース・フォン・トリアー的で許容範囲だが、「痰」「ビーム」など度が過ぎると意図をはかりかねる。うつの句も双極性障害の句も、その病状について詠まれても読者は困るものだ。またそうした素材を詩にまで昇華させることは至難の業だ。

強烈な言葉を直接読み手にぶつけるだけでは句は立たない。それがどんなに厳しい経験であっても、客観的に作品を検証する目と、完成度がなければ、読み手の心を揺さぶることは出来ないだろう。なぜなら、書かれた時点で言葉はイメージになるからだ。

耳の奥熱き遅日を過ごしけり        さわだかずや
花ですから死んでしまつてよいさうです
一切無常にて蜆汁おかはり

気になった句。
一句目。「耳の奥が熱い」とは決して良い状態を表してはいない。「耳の奥が熱い」ことで、太陽が出ている時間が一層永く感じられる苦痛。だがこの句は他の憂鬱な作風の句に凭れ掛かっていない。遅日を従来とは別の角度から表現することに成功している。
二句目は万朶の花明りが死を誘う。否、誘われたのではなく「死んでしまってもいい」という言葉がふと降りてきたのだろう。作者は理由を見つける。「花ですから」、つまり桜がこんなに咲いているのだから、と。桜と死。文学上、民話上語りつくされた二物からこの句は起草され、歩き出す。そして漠然と死を許されたこの人物は決して死なない。それが俳句作者としてのしぶとさであり、この句のしぶとさでもある。
三句目、一切が無常だという諦念に思考を留めながら、効能たっぷりな蜆汁をおかわりしてしまう生き物としてのせつない事実。この矛盾は取り除けないものとして心に刺さる。

韮やはらかし人妻はさりげなし>は桂信子の<ひとづまにゑんどうやはらかく煮えぬ>、<やい鬱め春あけぼのを知りをるか>は江國滋の<おい癌め酌み交はさうぜ秋の酒>の先行句がそれぞれ口をついて出て来る。ましてうつを扱ってこの薄さでは心の網にかからない。たとえ先行句を踏まえたのだとしても、その句を超えない限り類想句の域は出ない。

もろもろ書いたが、この50句からは過去の自分に抗う歯ぎしりが聴こえて来た。それがこの作者本来の作家性の恢復と信じたい。


13. 封境(杉原祐之)


正統派かつスケッチ風。省略の利かせ方、句の佇まいは否定しない。ただ、中盤のほんの数句の海外詠(?)には異質な印象を受けた。<ターバンと付髭映す泉かな>から<引越の果て風鈴の鳴りにけり><播州の室津の浜の蝦蛄を漁る>でやや唐突に国内詠に戻りさらに風土詠へと移行する辺り。50句のどこに読みのピークを持って来たかったのだろう。なんでも俳句に出来てしまう人は、何を書かないでおくか、顎を引いて考えてみるべきであろう。

子を風呂に入れたる後の夕涼み      杉原祐之
ポストへと落葉の嵩を踏みながら
プレハブの目印をつけ冬の芝

中で、この三句に立ち止まった。
一句目、まだ幼い吾子だろう。子どもを風呂に入れることは若い父親には大仕事だ。夕涼みをしている姿から安堵感が伝わってきて清々しい。
二句目は平凡なカットだが作者の息づかいが感じられた句。落葉を踏む音と心音が重なっているよう。ポストは落葉の嵩を踏まなければ辿りつけない場所にある。「嵩」という言葉が辺りの風景や、ポストの中にあるはずの手紙や葉書の重なりを連想させる。郵便物を投函する瞬間のちょっとした覚悟に至るまでの、短いけれどまっすぐな時間。
三句目、仮設住宅か工事現場のプレハブか。芝の上にそれを建てるための印をつけた。少しだけ根本に緑が残る冬の芝の枯色と目印をつける人の背中。きっと同じような色の作業着だ。冬の芝はやがてプレハブの下になり完全に枯れてしまうだろう。とまれ、冬の芝の広がりがよく見えてくる。

全体的に季題の斡旋は悪くない。あとはかな遣いのうっかりミスをなくし、50句に統一性が欲しいところ。もう一歩踏み込んでモノを見ることで、さらに見えてくるものがあるはずだ。


14. 新機軸(すずきみのる)


壺焼のさみどり残す肝の尖><その中に制服もゐて御命講><電線とひとつの影に夕燕>など俳句を作り慣れている作者だと思った。

摘みきたるオクラ十指をはみ出して    すずきみのる

まさに素手で摑んだ句。両手に余るほどのオクラを摘んできた。大きく広げた指の間からオクラの先端が見える。指の間からはみ出したオクラが手の棘のようで、オクラの表面のチクチクとした感触と相俟っている。

なめるごと寄りくる波に千鳥翔つ
煮られつつあり白繭もその夢も

タイトルは「新機軸」。50句最後の<初句会この人にこの新機軸>から採られている。新機軸とは初句会にふさわしい心意気。またこの作者にとっても上記二句は、数年来の落選展の作品に比べると出色と言えそうだ。
一句目の「なめるごと」は千鳥のいる干潟に寄せて来る波の表現として無理がない直喩だと思う。干潟を舐めるように平らかに静かに寄せて来る波。長い脚が浸り、砂に刺した長い嘴が浸り、そして汐がある高さになったとき千鳥は翔つ。そこに至るまでの千鳥の行動も見えてくる。
二句目。あれほど盛んに音を立てて桑を食べていた蚕の蛹は、繭の中で夢を見ているかのよう。一読メルヘン調だが内容は厳しい。蚕は羽化することを許されない。煮られ殺されて繭を剥ぎ取られる運命だ。羽化してその翅で羽ばたくという夢もまた儚い。

手練の作者だけに、既視感のある句やかな遣いが間違った句が散見されるのは実に勿体ない。句を厳選し、十分に精査し、さらなる「新機軸」を開拓してゆかれることを期待したい。


15. 室の花(津野利行)


冒頭五句はさておき、身の丈に合った自分の言葉で句を書いている点に好感を持った。

夏掛は妻を小さく包みけり          津野利行
大学は辞めたと笑ふ生ビール
何もなき父の形見や心太

一句目。夏掛は寝ている人を嵩なく見せる。「小さく包みけり」に妻との微妙な距離感や、押しつけがましくない愛情を感じる。寝姿も見えてくる。夏掛という季題の効果がある。
二句目。大学職員か、はたまた大学生の友人か。「大学の方はどう?」「実は辞めたんだ」そんな会話があって、友が笑った。いろいろな葛藤を経たであろう複雑な笑顔。この生ビールはとても切ない。
三句目。眼目は「心太」の斡旋だろう。雲色のつるんとした心太。昔ながらの心太の突き器を使ったものであればなおさら、その押し出した後の空虚さは一入である。喉に滑ってゆく心太の冷たさ。「何もなき」に、父の死をすでに遠く認めることが出来るようになった作者の心が、読み手の心を押し出す。

室咲は枯れぬ気でゐたかもしれぬ

この作者もタイトルの語を含んだ句がラストに置かれている。室の花を年老いた肉親の生前と深読みし、悲しい句だと思った。そんな深読みを誘う伏線となる句が50句中にいくつか点在していたからだ。だが一句単独で読んだとき、室咲の効果が見当たらないのである。私は改めて、一句として立つことと、50句として立つこととの違いを考えさせられた。


16.バンテージ(谷口鳥子)


面白そうな句が出てきた。
以前、50句全句動物園で作った句で構成された応募作品があった。一句一句の完成度も高く感心してしまったのだが、この作品は全句ボクシングをテーマにした句で異色。「誰も詠んでない句を詠んでやる」という意気込みがいい。こういった元気のいい作品が読めるのが落選展の醍醐味だろう。
現代かな遣いである。

ヘッドギア何度も直す熱帯夜         谷口鳥子
容赦なく打ちくる小五の日焼け顔

作者も熱いけれど句も熱い。「小五の」は中八かつあまりに粗雑な省略で、子どもだとわかるので不要と思いながらも「容赦なく打ちくる」濁りのない眼差しが気持ちいい。

蝉の鳴くリズム外してストレート
のっぺらぼうの月と並んでジム帰り
ジョグダッシュジョクダッシュ十一月
膝と腰と首でリズムを夏来たる

無理矢理季題を入れたような句も少なくないが、このあたりはいい具合に季題が収まっている。
一句目。ジムの壁を突き抜けて来る蝉しぐれの中でのストレートの練習。蝉の鳴くリズムをわざと外してみる。ちょっとした遊び心。
二句目。のっぺらぼうの月はあたかも丹下段平。一日の練習を終えた充足感が「並んで」という言葉に込められている。
三句目。もし私がボクシングを始めたら、この句を念じながらジョグ、ダッシュのインターバルトレーニングを繰り返すと思う。あきらかに破調だが繰り返し口遊んでいると、なんとなく年の瀬へ向かっていく冬の空気感が出てくる。「十一月」が或いは動かないかもしれない。
四句目。俳句も運動もリズムが大事。なるほど、ボクシングは膝と腰と首でリズムをとるのか。「夏来たる」は漲るエネルギーを代弁している。
さて、もしこの50句で受賞したらこの作者は受賞第一作にどんな句を書いただろうかとふと思った。次回は不用意な贅肉句は落としつつ、完成度も磨き上げてほしいと思う。


17. 空車 (高梨章)


春の日の金の夕べを空車(むなぐるま)  高梨章

タイトルの句である。俳人・山田みづえの父である国語学者・山田孝雄の『「むなぐるま」考』の中から言葉を借りれば、「空車・むなぐるま」は「のらぬ車也、迎などに人のこぬ心也」(匠材集)とある。私は特に「人のこぬ心也」という部分が気に入っている。むなぐるまという言葉は主に院政鎌倉時代の語で、平安朝から鎌倉時代の間にだけ使われたようだが、作者はこの古い言葉を一句に入れた。「の」でたたみかけてゆく手法はこの句に限ってはあまり気にならない。時代を遡らせ、駘蕩とした世界へ読み手を誘う。春の金色の夕べをゆく空車の音なき音。眩しさと虚しさ。印象深い句だ。

秋の灯台 いつぽんの蝋燭をひろふ

分かち書きはこの一句だけだが、悪くないと思う。秋の灯台といつぽんの蝋燭を拾った事実の間に空白が必要だったからだ。解釈は不要。そのまま受け取ればいい。読み手の席は用意されている。
他にも<空席をつくるたちまち月あがる>や<月の力すこしゆるみぬ時計店>も二つの事柄にあたかも関連があるように現実と非現実の間、意味と無意味の間に句世界を構築している。日常語と旧かな遣いの起こす幽かな摩擦が醸し出す何か。<手袋は暗くなるころおそろしき>など、進もうとしているのは鴇田智哉的な志向と見るべきか。

アスタリスクの章立てで、春・冬・秋・夏という不規則な並びにしてある。面白い試みだが、最後の夏の部に入っている句があまりよろしくないのが残念。凝っているわりに<秋の朝きのふの雨の光かな>という至極平凡な句が入っていたり、「蟻地獄」「蝸牛」の連作は雑すぎる。もっと根気強い練り上げが必要。それ以外は、ある虚無感が漂っていて「空車」のタイトルが全体によく行き渡っていると思った。




 
≫ 0. 書かずにはいられなかった長すぎる前置き
≫1. ノーベル賞の裏側で 依光陽子
≫2. 何を書きたいか

2014-12-28

【2014落選展を読む】 5. 文体 堀下翔

【2014落選展を読む】
5. 文体

堀下 翔


≫ 2014落選展



読む。


23 菜の花(前北かおる)


畸形のように短いこの詩形のなかで、いつか言葉は組み合わされ尽くすのではないか、だから俳句は有限である、という考え方がある。そんなことがあるとも思われないが、ひとつこの話から気づくのは、意味は言葉の組み合わせから生ずるのだったな、ということだ。

俳句が有限か無限かという話は結局、言葉の組み合わせは無限かどうかという点にかかっている。どちらが正しいのかは知らず、作者はぼんやりと、もしかしたら言葉の組み合わせが有限であるという予感は、ある点では、人間が選ぶ言葉に必ず意味があるという信頼に基づいているのではないか、と思う。

もっとも詩に意味を求めることがほとんど重要でないのは言を俟たない。

前北の句にはときおり得体のしれないものが混じる。

菜の花や乳白色の雨の降る 前北かおる
ちかちかと蛍光灯や吊し雛

つまり、どうして乳白色が、吊し雛が、ここにあるのだろうか、ということだ。あまりに突然なその斡旋は、雑然としていて、かつ、異様である。

それはもしかしたら、写生という発想が目指していた異様さなのかもしれない。頭の中ででっち上げた想定内の光景と決別するために、目の前の事物をそのまま言う。言葉が想定のそとへと飛び出す。写生はだから楽しかった。

写生うんぬんというのは前北の句がそれであると声高に言いたかったがためではない。重要なのは、冒頭の話に回帰するけれど、この人の句は、言葉は組み合わされるもの、すなわち、どのようにして隣り合わせるか選択するものであるという事実に立っているのではないか、ということだ。

50句に通底する雑然とした感じは、要素の多さでもある。〈ちかちかと蛍光灯や吊し雛〉。ちかちかと、というのは副詞であり、副詞は動詞にかかる。ちかちかと蛍光灯が点滅している、まで言わないとこのフレーズは完結しない。それを省略して別の要素を取り込んでいるからこの句はスマートではない。そうまでして作者は点滅する蛍光灯と吊し雛を隣り合わせようとしている。

言葉が隣り合うことの魅力がここにはあるし、作者に見えているのはきっとそれなのだろう。


24 草の矢(岬光世)


情報量の少なさはそれ自体が一句のよさだと筆者は思う。ああ、これだけでいいんだ、という安心感である。「草の矢」50句はその情報量の少なさがまず心に残った。

建て替ふることなく過ぎぬ秋桜 岬光世

自分の家を建ててかなりの時間が経った。親から引き継いだ家でもいい。建て替えてしかる年数にはなっているのだけれど、そのタイミングはとうに逃している。まあ、いいか。こじんまりとした秋桜の斡旋もあって、そういった生活感がこの句には充満している。

建て替えてもよい家を、というところを言わなかったのは、もちろん巧みな省略であるが、そんなテクニカルなことであるよりもむしろ、あっさりとした文体そのものが、この作者が描きたいと思っている生活を描くのにもっとも適切であることを思うのだ。

歴史的仮名遣いの気持ちのよさを取り込むべく、多くの句は積極的に平仮名に展かれている。これも、生活を描く文体。ただ〈鳴くこゑのひとつおほきく秋の蟬〉〈出航の合図をとほくをみなへし〉といった、感じは横溢しているけれど、よく見ればちょっと常識的だぞ、という句は多い。もっと書けることはある、という気はする。

たとえば、こんなふうな。

扉なく向き合ふ壁や冬紅葉

ある向かい合った壁に扉がない。そんなものはきっとたくさんある。だけれど言葉にされたそれがこんなに読者の胸をさわがせるのはなぜだろう。ない、ということを発見することのむずかしさがある。ない、という事実が生活にはあちこちにかくされている。

むつかしき門をくぐらず枯芙蓉

といった唐突な句がいくたびか挟まれるのも50句の特徴だった。〈念力のやうに鶏頭残りたる〉など。むつかしき門、とは何のことか分からないし、念力のように残る、というのもびっくりする。この人は生活空間をそのように見ているのか、と驚く。

やはりこれらも平易な文体で述べられていて、だからこそこれらの句を読者は信用できる。


25 モラトリアムレクイエム(吉川千早)


劇的なことを書こうとしている。

ごきぶりを初めて見た日煙草吸ふ 吉川千早

ごきぶりがいない土地から引っ越してきた人だろうか。ああこれが世に言うごきぶりであるか。人生にごきぶりが加わった。その日に煙草を吸ったという事実を並べ、この二つの事柄は関係性を持ち始める。

そんなことを関連づける作者を指して「劇的なことを書こうとしている」と言う。煙草を吸うような年齢にもなって、そんな些細なことに特別な意味を持たせずにはいられない作者。〈鍵穴に鍵置いてある桃の花〉といった意外な季語の置き方や〈秋雨や祖父は死んでも大男〉といった独特の景の嗜好にもその姿が見える。

オーバーザレインボー服薬死ぞ〉などは、ちょっと俳句としては強引なんじゃないの、という気がする。


26 猫鳴いて(利普苑るな)


王道的な取り合わせが中心の50句。形が整っていることの安心感がある。その型のなかでどれだけのことを述べられるか、というのは型を意識する人全員が共有する問題だろう。たとえば、

かなかなや若者集ふ橋の下 利普苑るな

を見ると、ああよかった、季語を除いた12音でこれだけたしかなことを言い得るんだ、と思う。学校が終わった若者たち。二、三人ではなく大勢で遊ぶ。そんなとき彼らはいつも決まって橋の下に行くのだった。公園となっている河川敷。川がすぐそこに流れる。花火をすることもあるし、そうでなくても集まってしまえば、子供が使うような遊具やアスレチックを駆けまわる。〈かなかなや若者集ふ橋の下〉はほんとうにそんな若者のことを書いているのだと思う。〈サルビアや二人の記憶喰違ふ〉〈足場より叫ぶ棟梁稲の秋〉などを読むとき、われわれは、取り合わせの俳句はどんなことでも書けるのだ、という事実を確認する

一句はとてもゆっくりとしている。緩急というものが俳句には確かにあって、それは作者によっても違うし一句によっても違うのだけれど、この50句はどれもが同じスピードのなかにある気がした。〈萍の揺れては増えてゐたりけり〉〈生身魂欠伸を猫にうつしたる〉といった一物仕立ての句でも同様であり、それもやはりひとつの安心感として受け取られた。

良いお年をお迎えください。

≫ 1.その年の事実
≫ 2.嘘と事実
≫ 3.ダイナミズム
≫4.書いているところ



2014-12-21

【2014落選展を読む】 4. 書いているところ 堀下 翔

【2014落選展を読む】
4. 書いているところ

堀下 翔


≫ 2014落選展



ちょっと間が空いてしまったが、まだ読む。

19 仮面(中村清潔)


がつがつ……かなり俗っぽい形容であるにもかかわらずこの擬態語にしか言えない状態はたしかにあるのだ……読ませる面白さがあった。その面白さははじめフレーズが巧みかつ明快であるがためのものである気がしていたのだが、何回か読むたびに、書こうとしていることそれ自体が、ある面では俗っぽくもある、ごりごりとしたところのものであるからかもしれないと感じるようになった。

ただそれは題材を言っているのではなくむしろそれがどういう状態であるのか、ということであり、結局それはフレーズに回収されるんじゃないの、と言われてしまえばそれまでなのだけれど、しかし作者が書きたいこと/場所がどのあたりにあるのかというのはなんとはなしに察せられるのである。

たとえば50句中には

みづうみの秋は波打際で待て 中村清潔

というごく気持ちのよい句があるが、この句は「詩的な」ものとはすこしちがった書かれ方をしているような気がしている。「みづうみ」「秋」「波打際」という詩的なものとしては常套の事物(みづうみ、が平仮名であることも含めて)を、それを知らないがごとき手際で並べ立てる。そこで「待つ」というのだからこれはほんらいどうしようもなく甘い一句になるはずだが作者の目的はそこではなく「で待て」というところだった。

待て、というのはきびしい言葉で、もちろんそのきびしさに詩をしかけることもできようが、むしろこの命令形は日常卑近にあふれる約束のことばあるいは広告の用語のごときをとりいだしたものではないか。

助詞「で」は口語であり、文語脈の通底する50句を、そして何より同じ意味においてまさしく文語脈助詞「に」がすでにして現われている一句目〈洞窟の画は初夢に狩りしもの〉をかんがみるに、〈みづうみの秋は波打際で待て〉で作者が書こうとしたのは詩に隣接しうちまじる俗なるものだったと思う。

だからこの一句は俳句らしさ、たとえば格調だかさのようなものがなく、コピーライトのようであり、あるいは「みづうみ」「秋」「波打際」という詩的な言葉をまじえたコピーライトのパロディですらある。

冬銀河明日は長距離走者かな 

もまた気になる句であった。なにより思われる未来が長距離走者であるということが面白くてしかたがない。面白くてしかたがないと実感をとりあえず書いてみて何が面白いのか考えてみると、ひとつには「長距離走者」ということばに関する違和だろうと思った。

中七下五はほんらいとても軽い感想を言っているにすぎない。「かな」と詠ずることには疑問もある。明日は長距離走者、という発話は省略的であり完結させるのであれば「明日は長距離走者である」だ。かなが名詞につくというのは誤った認識ではないが、省略された発話であるがゆえにこれはきっと「明日は長距離走者なるかな」と言わねば欠落した感じがある。逆に言えばそれは「明日は長距離走者」というフレーズがかなり口語的な、俗なるものであることを指示している。そこに「かな」がとりつけられたせいでこの一句は異様なパースの中に投げ込まれている。

そもそもこの句の情感はとてもわかりやすいところにある。真冬の星々を眺めていて、あすの自分が走っている景を思う。星を見ながらあすの自分の姿を思い浮かべている状況自体がセンチメンタルでわかりやすい。そういったところをこの一句は切り取ろうとし、そしてそのために無理やり「かな」が据えられる。俗なる文脈と俳句的な文脈とを駆使する。そこに生ずる齟齬が一句を読ませる。

なめくぢら塩撒く民にふりむかず〉〈蟻地獄この世の果ては明るしと〉といった句の情感は、句にするまでもない、という気がして疲れてしまう。


20 オムレツ(中塚健太)


卒業をうたう句はあかるい。この50句中にある

卒業歌とどく無人の教室にも 中塚健太

もやはりあかるい。無人の教室はもちろん卒業式に出席している生徒たちが過ごした思い出の教室でもいいが、たまたまその年は通年で使用されなかった教室でもいい。

ところでこの句は50句の特徴をよく体現していると思う。まず無人の教室に届いている歌を聞きとめる作者の立ち位置に思いがいたって、これはそもそも立ち位置がいずこかにあるのではなく、単に作者が視点となる場所を持っていないのだろうと気づく。

お雛さま永久はさびしと微笑みぬ〉なんて、そんなことは実際にはわかりっこないし、〈風船や世界のどこか崩れゐる〉なんて勘だ。〈明易や眠りのなかで泣いてゐる〉も奇妙なところがあって、いったい誰を詠んでいるのか、「ゐる」のが自分であれば眠っていて明易を知らないだろうし、「ゐし」ではないから過去のことでもない。一緒に寝ていた二人の片方が早く目覚め、もう一人を見たら泣いていた、というのであれば「眠りのなか」はおかしい。眠りながら、ではないから。視点がないことの気持ち悪さが50句には付きまとう。

「卒業歌」に戻れば第二にはこの句は「も」が要らない。破調であることもそうであるけれど、そもそも「卒業歌とどく無人の教室に」と言った時点でこの句の気持ちよさは充分にあきらかになっているではないか。というかよく考えたらこの「も」はなんなんだ。卒業式場(おおかた体育館か講堂である)の外にも、ということかと思えばこれは動詞「とどく」に関わっている「も」で、卒業式場で歌っているものはその場所にあるのだから「とどく」とは言わない。それから「有人の教室」もいちおう想定されるがふつう卒業式のあいだは全校生徒が集合しているので「有人の教室」があるとは結局考えられない。とすればこの「も」は意味不明ということになってしまうけれど、おそらくこれは無人の教室に作者が感情移入した結果なのだ。無人の教室も卒業式の一部だ、と。

かりに「卒業歌聞こゆ無人の教室にも」であったとすればこれは正しかった。しかしこの句の抒情は「とどく」という動詞を置いた作者の心のやさしさにある。そしてそのうえで作者は勢い余って「も」とすら書いてしまった。書かぬではいられなかった。

そんな作者の像はたとえば〈行き先を決めず出掛けし桜かな〉のあかるさにもでているしあるいは〈料峭の空のさざ波身を浸す〉〈春の夜に寄り添ふやうにラジオの声〉といったところの主観に引き寄せられた把握にも見受けられる。


21 ゐません(ハードエッジ)


一句一句は一気に詠みあげられ、かつそれらは次々と生まれていった、そんな印象を受ける。

その作り方においてうたわれるのはほとんどがただごとであり、だから読んでいて気持ちはよい。軽さはたとえば石田郷子ラインであるとかライトバースであるとかをいうときのそれではなく、むしろたしかな写生句がリアリティを獲得していながらもそのじつ重大な内容は書いていないことに似ている。

こと〈お涅槃を過ぎて仏生会も近し〉は具体的なことを何一つ言っていないにも関わらず、そのまぎれもない事実がこのように単純に言挙げされることによってリアリティへと転じている。ほか〈池に雨松の手入も済みたるよ〉〈雪折れのところに雪のなかりけり〉などやはり何も言っていない句に気持ちが引っ掛かる。

詠みくだされた感じには一句が生まれるいぶきがあり、そのいぶきは意味に邪魔されないからこそ感ぜられる。かといって〈とある日の神と佛と仔猫かな〉は無意味というよりは意味不明であり、詠みくだされたものというよりはでっちあげられたものといった印象が強い。


22 弔ひ(三島ちとせ)


いわゆる中二病を思わせる句がたびたび挿入されいずれも素材は似ている。

冒頭〈弔ひの儀式狼から倣ふ〉は正直に言ってどういうことなのか全くわからなかった。どこかで何らかの抜けてはならない助詞が抜けていると思うがどういうことを言いたいのか想像がつかないので指摘すらできない。

それに引き続く第二句〈大寒の花束火葬する決まり〉もまたどういうことなのかはっきりしないので困ってしまう。花束「を」火葬するということなのか、それにしては花束に対して火葬という動詞はおかしい。なおおそらく作者は助詞「の」にこだわりを持っていて、この後に出てくる〈紅梅の嘘より寓話始まりぬ〉もそうだと思うのであるが、「や」とほぼ同じはたらきをしつつ切れている感じを出さないものとして「の」を使っている。

これは人によって考え方が違うのだけれど助動詞「ぬ」を大きな切れ字とするひともいて(筆者もその一人だ)その場合には「や」「ぬ」の重なりを避ける。〈紅梅の嘘より寓話始まりぬ〉もおそらくはそのために「紅梅の」とされているのであるが時期時候の言葉ならばともかく具体的な植物に「の」が付いているのではまるで修飾関係にあるようで意味不明になってしまう。あ、もちろん寓話だから擬人化された「紅梅」さんがエピソードの中で嘘をついているかもしれないのだけど、です。

といったふうに言葉の不適切さが原因で意味が通じない句がいくつかあったことはまず指摘せねばならなかった。力が入りすぎているのではないか、という気がした。もっと身近なことを身近にうたった句のほうにむしろ心惹かれた。

春草の冠電話越しに編む 三島ちとせ

「電話越しに」とはまるで電話の向こうの春草を編んでいるようで、あるいはたとえば電話の向こうの人間のための冠を「いま編んでるよ」などと電話しながら編んでいるのであれば分からないでもないが、それらはやはり無理がある気がして、「電話しながら」ということを書いた方がよかったのではないかとは思う。

だが、とまれこの句は、電話の相手とのよい関係が見えてきて気分がいい。草の冠を編む時間は心が安らぐ。その安らいだ状態でかける誰かへの電話は非常に幸福感があるし、電話の相手にそれが共有されているようでもある。

春の空庭の果てまで漁網干す〉は、普段はもっと広い場所でひろげられるであろう漁網を庭に干したらその端いっぱいにまでなったという描写に家庭のさほど大きくない庭がよく見える。


≫ 1.その年の事実
≫ 2.嘘と事実
≫ 3.ダイナミズム



【2014角川俳句賞 落選展を読む】 2. 何を書きたいか 依光陽子

【2014角川俳句賞 落選展を読む】
2. 何を書きたいか

依光陽子


≫ 2014落選展


6. パズル(加藤御影)

50句を読みながら作者はどんな人だろうかと想像を巡らせる。「消しゴムに鉛筆の穴」「玩具」「動物パズル」「鬼ごつこ」「いぢわるな顔つき」「絵本の絵」etc. 童話的世界を形作るパズルのピース。

手のつなぎかたのいろいろ木の芽風><なぞなぞの中の兄弟氷水>このようなあどけなさを売りにした句は10年ほど前、俳句誌に頻出したことがあったが、とうに絶滅したものだと思っていた。<星合や鬼ごつこまだ終はらない>星合だから子どもの鬼ごっこではあるまい。男女間の出来事か。<ともだちとはぐれてゐたる花氷>これも今の子どもならばすぐ携帯を鳴らしそうだ。

否、ひらがなが子どもっぽさを醸し出しているだけで、子どもなんてどこにも描かれていない。花氷のある場所から鑑みるに、携帯電話など使わない年配同士の方がむしろしっくりくる。

クリームのやうな寝癖や花の雨><花どきに測る睫毛の長さかな>このあたりは若い女性かな、とも思う。しかし「悪児」という言い方や「函釣」の「函」の字などは、熟年層で若者風に書こうとするタイプにありがちな句とも見えてしまう。こんな憶測はまったくもって大きなお世話だ。

だがある表現形式に全身全霊で打ち込んでいるとき、作者像というものは自然と立ち現れてくるものではなかろうか。

ごちやまぜにされて昔や未草>という句がある。「ごちゃまぜにされて昔や」はぶっきらぼうな言い方だが、わかる。自分自身の記憶であってもいいし、歴史と捉えても成り立つだろう。さてなぜここに「未草」が置かれるのか。未草。睡蓮の咲く時刻、あたりの空気感、睡蓮そのものが持っている幻想的な雰囲気など、いろいろ想を巡らせても「ごちゃまぜにされた昔」とのアンマッチ感が喉に刺さった魚の骨のように取れない。

撫子やもう通らなくなつた道>もそうだ。「もう通らなくなつた道」は切ない。道が見えていて、ある時から年月を経た作者の背中も見える。だかその複雑な内容を背負わせるには撫子は弱い。撫子の手触りがないからであろう。

作者はまだ作句を始めて3年とある。私は俳句を始めた頃、40ほど年上の先輩俳人に「3年間であらゆる俳句を読みなさい。それから自分の句を作りなさい」と助言を頂いた。この作者もそろそろ五七五に季語を取り合わせて「とにかく俳句を作る」という段階から「自分の句を書く」段階へ上がる時期だろう。その萌芽が見えた句を引く。

瞬間を繋いで噴水のかたち 加藤御影
函釣や舗装の下の樹の根つこ

一句目。じっと見ていると目は速度に慣れて来る。作者は噴水をずっと見ていたのだろう。水滴が繋がって上がってゆき、それが噴水のかたちになった。それは水滴そのものでありながら、水滴が噴出した瞬間の繋がりでもあることを摑んだのだ。

二句目。「根つこ」という言い回しはさらりと詠んでいるが、面白いところに目が行っている。神社や寺などの縁日の屋台だろうか、地面の上に函釣の函が置かれていて、中の水に金魚やスーパーボールなどが回っている。函釣の水が地面を濡らしたとき樹木を感じたか、ふと、樹木の根が舗装された所の下まで延びていることに気付いたのだ。

くちびるを叩いてをりぬ焼藷で>も散文調だが面白い。<茄子なりに私の顔を映しけり>も言葉を整理すれば即物的で不思議な句になりそうだ。

一段上がったこの作者の句に期待したいと思う。


7. 脱ぎかけ(栗山麻衣)

名前がいい。のっけから作品に関係ないことだが、名は体を表す。名前の印象は意外に侮れない。

それはさておき、タイトルからして仄かなエロスなどを期待して読み始めたわけだが、最初の5句がどうにもよろしくない。800篇もある作品から選ばれるにはまず冒頭5句で惹きつけなければ。予選をするのも人間だ。くたびれてきたときに読み始めた作品の冒頭で「イマイチだな」と思われたらあっという間に選者の興味はどこかへ行ってしまう。

夏野には呟くやうに石のあり 栗山麻衣

6句目に置かれた句。夏野である。草は長け、日が葉おもてに反射している。風があれば草は蠢くように靡き、大きな生き物の只中にいる心持ちがするし、風がなければ過酷な環境下における生命力を肌で感じる。石は夏草に隠れて在る。冬野の石のように雨風に晒されることもなく、蹴飛ばされることもない。人は時に見えないものの存在を感じ、聴こえない音を聴く。「呟くやうに」はよく目にする措辞だが、この句における価値は、夏野の石の存在を際立たたせる描写になっている点だ。

鉄棒を舐めれば鉄の味晩夏
ゴスペルのごとき熱狂鮭上る

一句目の衝動。子どもの頃、私も鉄棒を舐めたことがある。「晩夏」の季題がノスタルジックな気分に誘う。この句、いいか悪いかではなく、飾り気のない作者の等身大の句として評価したい。上手い句など訓練すればある程度の高みまでは誰でも達することはできる。だから今しか書けない句を、誰かの見方を真似るのではなく自分の目で見て、自分の言葉で書くことが大切だ。

二句目も同じ理由。「ゴスペルのごとき熱狂」なんて圧倒的にベタな直喩だ。しかし季題は「鮭上る」である。一度海へ出て生まれた川に必ず戻って来る鮭。その回帰性を思うとうっかり深読みしそうになるがそこまでの崇高さはないので、こじ付け的な解釈は止めておく。それよりも言った者勝ち的なこの一句よって、産卵のために戻って来た鮭の凄まじいまでの迫力ある姿が頭から離れなくなった。

亀鳴くや書店に並ぶ幸福論

「亀鳴く」は空想の季題。自殺が最も多い季節、書店に商戦として並べられた幸福論は空論にすら見えてくるではないか。

この作者の句にはスピード感がある。小主観、擬人化、比喩暗喩で手っ取り早く句をまとめ上げてしまうのではなく、じっくりと言葉に向き合って欲しい。


8. クレヨン(倉田有希)

船を描くクレヨンの白春の雷 倉田有希

タイトルの語彙を含んだ句が一句目に置かれる。何だかレビューを読みはじめていきなりネタバレされた気分だ。これはあくまで私見だが、タイトルは全体を包括する表徴であり、全句に行き渡らければならないだろう。一句目から出すのはリスキーだ。句から取るのであれば50句の絶妙な位置にあって欲しいと思う。

掲句。白のクレヨンや色鉛筆が残る、という発想はよく見るのだが(今回の落選展にもあった)、クレヨンの白で描いているところがいい。クレヨンは精密には描けない。ざっくりとした船のかたちだからこそ、塗られたクレヨンの厚みも見えてくる。春の雷もクレヨンの罅割れたような表面と呼応していると思う。

クレヨンの折れて冬日の匂ひかな

43句目に置かれた句。ここに来てまたクレヨンを登場させた。私はこちらの句の方を採る。クレヨンの独特の匂いと冬日のしらじらとした光が響きあっている。視覚と嗅覚のコラボ。

白といえば、

どの人も白き喉して初句会

この句もちょっと面白い。「白き喉」が妙に生々しくて、初句会なのにあまり目出度そうでないところが現代的でクール。季題の突き放し具合が丁度いい。季題は効かせなければ意味がないが、凭れ掛かっている句はいただけない。

昼時の海月と人が浮かぶ海

これも白っぽい世界。「昼時」がそう感じさせるのだろうか。平和ではなくどこかシュール。

作品の中で作者と出会いたいと思いながら何度か繰り返し読んでみた。プロフィールによると写真と俳句のコラボレーションを続けているとのこと、瞬間を捉える瞬発力はある。写真だったら面白いだろうなと思う作品も少なくない。だが俳句は言葉だ。多木浩二の言葉を借りるまでもなく、世界をつかむ方法が違う。だから<夕立のあとの古書店鳩三羽>や<蝌蚪の国豆腐のパックが沈みをり>などの句には魅力を感じなかった。前者は只事で終わっているし、後者はその現場を共有していたら誰もが飛びついて俳句にするだろう。

アンリ・カルティエ=ブレッソンに「写真は…自分自身の叫びでもあり、解放でもあって、オリジナリティーを主張するものではない。生き方なんだ」という言葉がある。私は作者の核に触れたい。先に挙げた句ではそれができた気がする。

他に<すずむしや共食ひのときみなしづか>は生の真実の怖ろしさを直截的に描いていて好きなモチーフなのだが、この「や」も然り、全般的に切字があまり巧く使えていない点は改善の余地あり。この作者は厳しい選者の選を受けたらぐんと伸びるのではないだろうか。<かなかなや今日会ふ河童の碧色>虚構こそリアルに感じさせなければ、主観の壁にぶちあたってしまうのだ。


9. 凛凛(きしゆみこ)

丁寧に粘り強く書いている句、自分で作り上げた物語の世界に酔っている句、言いたいことが溢れてまとまりがついていない句。作者の書きたいもの、書きたい世界にまで行きつけなかった。

緩みをる纜夏の汐に曳く きしゆみこ

纜は船尾にあり船と陸を繋いでおく綱。大荒れの日でない限り纜は常に緩んだり張ったりを繰り返している。これから船を出すところだろうか。夏の汐にたるんと緩んでいた纜を曳いた。曳いて解く。夏独特の汐の香が、強く、けれども心地よく鼻をついてくる。骨格の正しい句だ。

だがこの句のあとに<どんづまりなる川に呉れやる海月>という句が続く。私はここで混乱する。<川に呉れやる>とはどういうことだろう。句姿といい語調といい同じ作者の句とは思えない。<だうありても眉に美しはだれ野は>この<だうありても><眉に美し>もわからない。「たはぶれに美僧をつれて雪解野は 田中裕明」と比べるまでもなく、句絶の「は」は案外難しい手法なのだ。

冴え返るあなたにできることなくて>この格助詞「に」は「私があなたに対して」なのか「あなたは残念だが役に立たない」と言いたいのか不明確だ。

きっと言葉を自分のものにする手前で、感じたことを曖昧なままに俳句の器に盛ってしまうのだろう。だからよく読もうとすればするほど混乱する。目、頭、心が同時につき動かされたとき、その突き動かしたものの正体を摑む注意力が必要だと思った。

窓側が好き寒くても一人でも
細面ばかりが目立ち卒業す
啼くときは月より光る鷹なりし

これらはうまくいった句ではないだろうか。一句目、学校の風景であろう。一人だけぽつんと離れて窓際にいる生徒。寒くても一人でも窓側が好き。そんな強がりを言う後姿を放っておけない。

二句目、卒業生全員を眺めたときの細面ばかりの生徒たち。今どきの生徒だ。

三句目、鷹の声を実際に聴いたことがないので早速YouTubeで聴いてみた。意外に甲高くて細い声なのでイメージとずいぶんと違っていた。掲句からは猛禽類の頂点に立つものの孤高の姿が目に浮かぶ。「啼くときは月より光る」という大胆な断定が、実際の鷹よりもよほど鷹らしく、ほんとうを超えたリアルを生みだすことに成功したのだと思う。


10. 徒然(工藤定治)

抽斗に冬の日を入れてしまつた 工藤定治

この作者も新旧かな遣いの混同をどちらかに統一してもらいたいと切に願うところだが、そのままの表記で引く。

永田耕衣の句に「抽出に佛光りし雪降るか」がある。耕衣の句は抽出(原句そのままの表記)の中に小さな仏像あるいは仏画を入れていたのだろう。抽出を引いたときその佛が光り、空の彼方から落ちて来る雪の気配を瞬時感じたという句。

掲句はもともと引いてあった抽斗を閉めるときに中の何かに映っていた冬日もろとも閉めた、ということか。或いは、冬の日を冬の一日と捉えると心象的な句になる。「しまつた」に僅かだが失敗の心理が含まれているからか、「日」が何か実体を持ってくる。前者の解釈であれば、抽斗を閉めた後の、暮れ落ちた部屋の暗さ、静けさが伝わってくるし、後者の解釈であれば、何か見られたくない自分、思い出したくない出来事、と少しネガティブな思いが「冬」から感じ取ることができる。案外この「冬」は取り替えの効かない詩語となっている。

毛糸玉こんがらがつたままそのまま

毛糸大好き人間としては、この句はどうしても捨て置けなかった。こんがらがってそのままの状態は「毛糸」ではあるが「毛糸玉」とは決して言わない。どこの句会でも必ず聞くフレーズに「だって本当にあったんです」があるが、これは絶対にない。と文句を言うためだけに掲句を挙げたわけではない。「玉」が消化不良なだけで、「こんがらがつたままそのまま」のくどいほどの平仮名が、毛糸がこんがらがってしまったときの苛々感にピッタリだし、推敲次第では整理のつかない心持ちをモノに乗せることができるかも、と思ったからだ。

作者は俳句歴3年目(この方で二人目?)。無所属新、といったところ。結社に所属することの可否は一概には言えないが、やはり賞を狙うくらいの気持ちがあるならば句会に参加して選を受けることだ。仲良しグループやサロン的な場ではなく真摯な議論が交わされるような場。そうすれば“絶対に成功しない素材”上位にランキングされる「クレーン車」で句を作ろうなどとは思わなくなるだろう。

私の勝手なランキングである。


11. 舞ふて舞ふて舞ふてまだまだ枯一葉(片岡義順)

タイトルからして音便の誤用、どこまで舞うかと心配になりつつ50句読んだ。
春夏秋冬の章分けはさぞや予選をされた編集部の癇に障っただろうなぁ、と思いつつ。よく句会で季題の横にご丁寧にルビを振る人がいるが、あれを見た瞬間、俳句書きが季題を読めないと思っているのか、と腹の底で沸々と怒りが湧いてくる。

それに比べればまあ季節の章立てくらい、作者が俳句歴1年半ということなので大目に見ておこう。

草摘むや衣一枚薄くして 片岡義順
読みすすむ史書の厚みや花の雨

一句目は春になって草摘みに出たのだが、思いのほか汗ばむほどのよい日和だったので着ていたものを一枚脱いだ、という句。「衣一枚薄くして」と雅な言い方になっている。山本健吉『基本季語500選』では摘草の項目に『万葉集』冒頭の雄略天皇の歌を引いているが、季題が持つ歴史を感じた一句。

二句目。史書であるからさぞ分厚い本なのだろう。内容の重さと共に、一層厚く感じられる。外は明るい花の雨。花の雨はムードだが悪くない季題斡旋。整った句である。

それにしても<春暁や卑弥呼のお告げスカイツリー>や<シクラメン残し帰らぬテロリスト>、<パリの虹モディリアーニはぬれ鼠><エーゲ海拗ねた男のサングラス>、挙げ句の果てに<葱洗ふ嫁の依怙地や手の白き>など困った句が多すぎる。

「サッカーは年齢ではない」はG大阪・遠藤選手の言葉だが、俳句の新人賞も年齢ではない。歳を重ねた方には敵わないと思わず唸ってしまうモノの見方だってある。103歳の俳人・金原まさ子さんに比べたら作者はまだまだこれから。加齢を武器にして、等身大の句で勝負してもらいたいと思う。文法の勉強も同時に行いたいものだ。


 
≫ 0. 書かずにはいられなかった長すぎる前置き
≫1. ノーベル賞の裏側で 依光陽子



2014-12-14

【2014角川俳句賞 落選展を読む】 1. ノーベル賞の裏側で 依光陽子

【2014角川俳句賞 落選展を読む】
1. ノーベル賞の裏側で

依光陽子


≫ 2014落選展

≫ 0. 書かずにはいられなかった長すぎる前置き



 
1. 霾のグリエ(赤野四羽)

文学に夏が来れりガルシア=マルケス 赤野四羽

かな遣いの新旧混合やら何やらでいきなり頭を抱えてしまった50句なのだが、トップバッターということもあり、なんとなく捨て置けない気がして引き返してみた。

自己完結型作品群の中、この句はそのドサクサに紛れてスコンと突き抜けてしまった感がある。「文学に夏が来た」と大上段から振り下ろされた断定に軽く眩暈を起こしていたら、ガルシア=マルケスが置かれていたという…ある種かけ逃げ的な力技。今年4月にガルシア=マルケスが逝き、5月になって夏が来たなぁという感慨が、特に深い意味もなく合体したのだろう。偶然とはいえ一句は成ったのか。事実関係、意味憶測一切を吹っ飛ばし、いかにもカリブ海的陽光で句を照らしてしまったのである。

太陽の上に落ちけり田植笠

水を張った田に映ったギラギラの太陽の上に、田植えで前屈みになった人の頭から笠が落ちたのだ。

この人の句は明るさがはっきり見える。その点は評価できる。


2. こゑ(生駒大祐)

何故この50句が予選通過しなかったのか。マイナス点を差し引いてもこの作品が本選の俎上に乗らなかったのは、編集部の見落としとしか思えない。

慎重な句作りで、句の細部にまで目が行き届き、ブレなく安定しているので安心して読める。言葉に無理をさせず、かといって守りに入るわけではないところがよい。しかしさすがに芝不器男賞100句応募の後の数か月間で、50句粒を揃えるのは息切れしたか。

夏雨のあかるさが木に行き渡る 生駒大祐
渦の影立ち上りたる泉かな
人呼ばふやうに木を呼ぶ涼しさよ
風鈴の短冊に川流れをり

冒頭の四句。

一句目の光度。夏雨の綺羅が行き渡る一木の清々しさ。二句目、泉の中で渦の影が立ち上がるという描写は、作者の心理描写とも受け取れ印象深い。

三句目「人を呼ぶ」ではなく「人呼ばふ」と書いたのはその後に「木を呼ぶ」の中に「を」が出て来るからで重なりを避けたのだろう。その工夫一つで類句に一線を引いた。○○を呼ぶやうに○を呼ぶ涼しさよ、であれば類句がある。

四句目の風鈴の短冊に画かれた川も仕掛けが凝っている。画の川は風鈴に流線型で続くことで、川のイメージや揺らぎを想起させる。鳴っているか鳴っていないかに関わらず風鈴自体に涼やかさを持たせることに成功した。

残念なのが5句目の<薔薇の枝の夥しさを座して見る>。この「薔薇」だが、ここでは季題の働きはない。薔薇の花は見えてこないしこの人物が見ているのは枝だ。まあ無季俳句だとしてもよいのだがさほど作者の心持ちは伝わってこない。5句目にこの句が来たことは惜しかった。

製図室ひねもす秋の線引かる

「秋の線」とはやや強引であるが悪くない。季感がある。澄んだ空気。すーっと幽かな音を立てて引かれる線。製図室の一日。「ひねもす」の一語で、朝の爽やかさから釣瓶落とし、さらに夜業への伏線も引かれている。

針山の肌の花柄山眠る
唐代の墨飛び立たばつばくらめ

一句目、古びた針山だろうか。肌という言葉からいくぶん色あせたサテンの花柄の生地の針山を思う。そこに刺された金や銀のまっすぐな針。裸木が樹影を落とす遠景の冬の山。針山の花柄の温かみと色彩のない厳格な冬山の対比。しずかに流れてゆく時間がある。

二句目、燕の黒から唐代の墨へ想が飛んだ。墨匠が登場した唐代、日本にも墨が伝わった。毛筆の撥ねの勢いの如く飛び立った燕という小さな命が、悠久へと誘う。

一句一句は完成度が保たれている。だが、既視感のあるフレーズが多少目につく。なるべく手垢のついた言い回しや言葉は使わないことだ。<しとやかに><べつとりと><たやすく><ひとつごころ>は描写になっていないし、イメージも受け取れない。<今はなき><のぞまれて>は感情の落としどころがない。<うすみどり><天さびし><飼ひならす><世の中は>は先行句がすぐに浮かんでしまうので損だ。
 
力のある作者だけに、来年は本気で賞を狙って欲しいと思う。


3. 線路(上田信治)

この50句は、細かいショット(句)が連なって一つの全景(統一された色)を生んでいる。映画的な作り方だと思った。

餃子屋の夕日の窓に花惜しむ 上田信治

餃子屋にいた。それは夕方で、夕日が窓に映りながら店の中に差し込んで、窓の外にはもうほとんど散ってしまった桜が見えている。ああ桜ももう終わりだなぁ、としみじみと桜の木を見ているのだ。

作者は見ている。日常の中の非日常、いつも見ていること、見落としてしまっていたこと、ちょっとした変化、ちょっとした面白さ。フィルムは長回しである。

晩夏の蝶いろいろ一つづつ来るよ
雨樋を石蕗の花へとたどり見る
蒲の穂の先からなほも伸びるもの

夏の終わり、そこに居たら蝶が来た。また来た。一つづつ。でも同じ蝶じゃないいろいろな蝶。これもひと夏の出来事。

ふと仰いだら庇に雨樋が走っていた。雨が降ればそこを雨水が流れる。雨樋の中には朽葉や埃などが溜まっているかもしれないが下からは見えない。その雨樋を何気なく目で辿っていくと庇の端でカクッと曲がった縦樋になり、途中で切れた縦樋の下に石蕗の花があった。目の動きの終点が石蕗の花明り。見えないものを辿った先の明るい黄色。

蒲の穂の先にちょんとある緑色の禾のような部分。写実だけれど、作者は見たモノをただ書き留めようとしているわけではない。その逆だ。モノから言葉を取り出して、そこではない異空間の「なほも伸びる」何かを凝視している。

俳句で個性を出すということは可能だろうか。私はこの作者ならばあるいはそれが出来るのではないかと思っている。独特の文体がある。助詞や副詞の使い方にその特徴がある。

桜さく山をぼんやり山にゐる
靴べらの握りが冬の犬の顔

一句目の「を」は到達点を想定していない移動時の経路の「を」。二句目の「が」は普通に主体を表しているのだが、使い方に少し仕掛けがある。

「桜さく山を」の「を」も「靴べらの握りが」の「が」も切字としてその語の後ろにかなり大胆な省略が入っていることに気が付く。「桜さく山やぼんやり山にゐて」と一般的な作り方に変えてみると違いがわかってくると思う。一読明解な俳句からほんの少しだけ距離を置いている。さらに「ぼんやり」の効果。副詞を日常語のままさりげなく一句の中に入れる。この置き方がこの作者独特の方法。「を」、さらに「山」の繰り返しによって「ぼんやり」が花霞のように全体に懸る。

靴べらの句は、握り=冬の犬の顔、と読むのがごく普通だが、「が」で軽く切ってみる。すると、靴べらの握りがどうも手にゴツゴツしてるなぁ、何かの顔の形みたいだなぁ、と思って顔を上げたところに犬の顔があった。そこで初めて靴べらと犬に偶然の関係性が生れるのだ。どこかキリリとした冬の犬の顔と靴べらのひやりとした冷たさ。ジャック・タチのようなシュールでとぼけた面白さ。

手に水の触れる速さに春の雪

この「速さに」の「に」は切れずに「春の雪」に繋がる。実際の内容としては掌に受けたときの春の雪が水になる速さのことを書いているのだけれど、であれば「に」で混乱する。この複雑な内容をどう一句にまとめるか。ふと流れ出た語順がこれだろう。春の雪独特の質感がリアルになった。

地には霜やさしい人たちの自転車

「地には霜」硬質な表現だ。だがそのあとに柔らかい言葉が続く。何万本もの氷の針を崩して停められたたくさんの自転車。その自転車を「やさしい人たちの自転車」だと感じた。霜の朝の煌めきによる魔法だろうか。ほんわりと仕合せな気持ちになった。だがこうも思う。この自転車に乗って来て、働きに、あるいはそれぞれの一日を始めた人たちに比べたら、自分はやさしくない、利己的な人間かもしれないな、と。地の霜の上に立っている自分は、そう思う。

その年は二月に二回雪が降り

この句は「二月」「雪」と大きな季題を二つも置きながら、季感を意図的にずらしている。この句は年の瀬の句だ。「その年は」と一年を振り返り、その年の二月に二回降った雪に思いを馳せている。

なんだかどこかで感じた不思議さだ。そうそう、アキ・カウリスマキが映画『ラヴィ・ド・ボエーム』のエンディングに「雪の降る街を」を流したのと同じような、どこかナンセンスでベタでないペーソス。

視点を自由に設定する。この作者の作品は、「俳句らしさ」ではなく「作者らしさ」によって成り立っている。今までの俳句にはなかった何か別の方法を摑もうとしている。


4. 魂の話(大中博篤)

「18歳一人でやっております」となれば応援したくなってしまうが、作品は作品。基礎がしっかりしてこそ、破調やその他の崩しは成功する。ピカソでさえゲルニカを描くために45もの習作と多くのデッサンを描いたそうだ。まずは基礎づくりをし、誰かに句を見てもらうことをお勧めする。章立て、分かち書きの一文字空けと二文字空け三文字空け。どれも効いていない。

だが、口あたりのいい上手なオバサン俳句が横行する昨今、何か問題意識を持って書いている点は評価できる。18歳なのだからこれからいくらでも化ける可能性があるだろう。

一句だけ引く。

旧寺院裸者の懺悔の音静か 大中博篤

寺院としての機能を失った旧い建物の中に懺悔の音が微かにしている。「裸者の懺悔の音静か」は東南アジア的でもある。実か虚か。暗がりの中の裸身が見えて来る。悪くない。


5. 最初の雨(小池康生)

去年、俳人協会賞の予選委員を引き受けてみた。51歳以上、おもに60代から70代の作者の句集を百冊以上読んだのだが、とにかく闘病俳句と旅行俳句が多い。自費出版の個人句集には自分史的傾向が多いのは否めないが、角川賞のような公募の賞に闘病俳句で応募するということは、自分にとってそれが何事にも替え難い出来事であったからだと思う。

しかしごまんとある闘病俳句を超えるには余程腹を据えて客観的に句を検証する必要あるだろう。<あの世へは少し遅るる日向ぼこ><癌のことなかつたことに万愚節>こういう句は常套中の常套である。

病と別のところで詠んだ句には味わい深いものがあった。

シーソーに妻から浮いて夕桜 小池康生
巣箱掛け最初の雨が降つてをり

夕方、子供たちが帰ったがらんとした公園。幼いころを思い出してシーソーに乗ってみた。まず夫が沈み、妻が浮いた。ふわりと浮いた妻のはにかむような笑顔。暮れ残って淡い夕桜の背景も悪くない。

作ったばかりの巣箱を掛けた。まだ白木だ。樹皮の鈍色に巣箱の白さが遠目にも際立っている。どんな鳥が来るだろう。入ってくれるだろうか。ふと見ると雨が降っていた。白木に滲んでいく雨。巣箱にとっては最初の雨だ。



 

2014-12-07

【2014落選展を読む】 3. ダイナミズム 堀下 翔

【2014落選展を読む】
3. ダイナミズム

堀下 翔


≫ 2014落選展

まだ読む。


13 封境(杉原祐之)


「の」が異様に多い。〈北国の夏至の夕べのバーベキュー〉〈イタリアの移民の家の薔薇盛ん〉〈播州の室津の浜の蝦蛄を漁る〉。

「の」の多さはすなわち要素の多さである。事物をぶつけるのは俳句の常套だ。いくつものものが一句の中でつぎつぎにぶつかるこの作者の句には、スピード感がある。

「の」でものとものとをつなぐとき、そこにはいくつかのルールがあるのだが、そのひとつとして、大きなものが前に来る、というのがある。〈イタリアの移民の家の薔薇盛ん〉がまさにそのかたちをしていて、イタリア、移民の家、薔薇、と、これらはどんどん小さくなっていく。ここでもやはり、速度が生まれている。収束の速度だ。「の」というのは不思議な助詞で、主格と連体格が違うのは言うまでもないが、連体格の中でも前後の関係はさまざまで、この50句の「の」もよく見ればそれぞれが巧みに違うはたらきをしていて面白いのであった。

ナイターのドームの屋根の開きけり 杉原祐之

「の」が繋ぐ事物は一句を埋め、それが“どのように”開いたのか、ということを述べる余地はなかった。だからこの句はとてもあっさりとはしている。だけれども、一方で、「ナイターのドームの屋根」という記述は、即物的なものの重なりであり、だからこそダイナミックでもある。この淡々としたダイナミズムは他にも〈はち切れむばかりの梨を妻が切る〉(はち切れむばかり、はあると思うが)や〈国境の大きな滝の凍てにけり〉にも見られる。


14 新機軸(すずきみのる)


凝った言い方が50句に集中している。〈夏断にはあらねど酒色控ふると〉〈教師はも十一月を長しとぞ〉〈メリーとはいかな意味なるクリスマス〉〈学生のある夜大原雑魚寝の体〉。どこまで真面目なのか、あいまい。凝っていることがギャグのようにも見える。「いかな意味なる」って、そんなに力を入れて詠むほどのことではない。

セーターのふわふわが胸つつみては すずきみのる

これもまた、スマートではない。「ては」が、どう贔屓目に見ても、野暮だ。ては、何なんだ。この「ては」がいい、という人もいるかもしれない。「セーターのふわふわが胸つつみ」という表現は、とても可愛らしく、それ以上どうしようもないが、その甘さを作者は「ては」でさらに摑めないものにする。


15 室の花(すずきみのる)


そんなに生きているのがつらいのだろうか、と読んでいて惨憺たる気分になる。そういった自分を読むことが悪いとは思わないが、たとえば〈腹癒せに望み通りの春ショール〉は露骨すぎる気がする。軽い詠みぶりな分、そこから出てくる「面倒な奴で結構」「腹癒せに」といった言葉についていけなかった。このうたいかたであれば、やはり、もっとなんでもない内容であったほうがバランスは取れている。

大学は辞めたと笑ふ生ビール 津野利行

こういう人が、たしかにいるのだ。

麻雀のルールを賀詞に続けをり

なんというむちゃくちゃな。


16 バンテージ(谷口鳥子)


ボクシング50句。定型にすら構っていられないかのごときスピード感は本年の落選展では随一。

角川賞の連想で言えば第6回の磯貝碧蹄館がこんな感じだったな、と思う。その頃の彼は萬緑ばりばりの破調と郵便配達という特殊な素材とできらきらしていた。彼の〈台風圏飛ばさぬ葉書飛ばさぬ帽〉に浮ぶ生の充実感に、谷口の〈飲みこめぬ水首伝いTシャツへ〉〈夜の蜘蛛全て異なるパンチの軌道〉が重なる。

ラスト十秒へばりつく前髪が邪魔〉は二句目にして無季だ。このことを詠まねばならないという執念がある。時として季語が邪魔とさえ思われるこの詠み方は簡単にまねのできるものではあるまい。すべてボクシングのことを書きながらも50句でストーリーを作ろうとはしておらず、そこにも強さがある。〈夏雲や鼻血を拭う左腕〉一句一句がリアルだ。


17 空車(高梨章)



ものとものとが並んでいることの認識から作者の俳句は始まる。事物どうしは平等に存在している。その場所にあるということは、それだけで詠まれうる根拠なのだ。

蝉たちの穴あいてゐて海が見ゆ 高梨章

蝉たちの穴。木か何か、蝉たちのまわりに穴があることを言っているのだと思っていたが、「蝉の穴」だろうと教えてくれるひとがいた。ああ、そうか。穴から海が見えるのではなかった。穴があって、海がある。

蝉のいるところと海との隣接に、筆者は、どきっとする。瞬発力のありそうな景だが、書き方は平坦。

この作者にとって隣接は事実でしかないのだな、と思う。

隣接は関係性を生みやすい。〈窓四十と七つあり秋さびし〉さびしいと言ってしまえばただの事実でしかなかった筈の「四十」と「七」はたちまちにさびしさと結ばれてしまう。


18 積木の家(滝川直広)



的確な取り合わせを中心とした50句。季語を除いた12音のごく短いところで物を重厚に描写する。〈花馬酔木ほそき煙となる手紙〉の「ほそき」や〈刃のやせし鎌の置かるる大根畑〉の「やせし」のたしかさが強い。〈虫の音の間(あい)虫の音の埋めにけり〉〈一辺はテレビに空けてある炬燵〉は一物仕立てのたのしさの王道。

読初や波音寄する倭人伝 滝川直広

ああ、あの短い倭人伝はたしかに大きな海を描いていた。

消しゴムの角の倦怠卒業期

「倦怠」の語もまた的確。具体的ではなく、こんなふうに飛ばした言葉を以てする描写も巧みだ。


≫ 1.その年の事実
≫ 2.嘘と事実

2014-11-30

【2014落選展を読む】2.嘘と事実 堀下翔

【2014落選展を読む】
2.嘘と事実

堀下翔


≫ 1.その年の事実
≫ 2014落選展


また読む。

9 凛凛(きしゆみこ)


この50句は何かを明言しようとしていない。

「こと」が多い。〈冴え返るあなたにできることなくて〉〈天辺でなくも佳きこと囀れる〉〈馬肥ゆる尾を梳くことの手入れから〉〈ほんたうのことは伏せたる狂ひ花〉〈オリオンを映すことある川の凪〉。こと、というのは、かなりむずかしい言葉だ。具象性はないし、それ自体は意味を持たない。ある事実のあとに「こと」がつく。ある事実そのものと、「こと」が付いたあとのそれとの間には、どんな差異があるのだろう。「尾を梳く」と「尾を梳くこと」とは、何のために分かたれているのだろう。「尾を梳く」という記述だけで事実は明言されているのだとすれば「こと」は現実のある一部分からの決別かもしれない。

続編がすぐに始まる猫の恋 きしゆみこ

恋猫の季節であれば、漫画かテレビドラマか分からないが、新シリーズが始まるのは自然だ。ここに「猫の恋」がくるのは、よく分かる。猫の恋なんて言葉は、口にするだけでも楽しくなってしまうような、変な季語であるから、続編の気分も分かる。それでもこの句は、いったい何なんだ、と、気になって仕方がない。きっとこの「すぐに」が嘘だからだ。どんなに早くても、続編が始まるのは、〈第一シリーズ・最終話〉の一週間後くらいだろう。「すぐに」は作者の無意識だ。この句はじつは何も描いていない。

そういえば表題にある凛凛という言葉は、50句には含まれていない。勇ましいさまであったり、よく響くさまであったり、厳しく寒いさまであったりをいうこの言葉は、いずれにせよ、なにか実体のあるものは指していない。50句は作者によって予言されていた。


10 徒然 工藤定治


そうだろうな、と思う。〈霜柱あとかたもなく崩れけり〉きっとあとかたもなく崩れるだろう。〈年の暮吊り輪を握る手に力〉きっと力が入るだろう。〈雪合戦混戦したる放物線〉たしかにあれは混戦だろう。〈破れ網じつとしたまま蜘蛛がいる〉うん、じっとしているだろうな。

事実を書くことは、とても大事だ。だけれどもこれらの句は、リアルというよりは、きっと、誰もが思っていることである。一句が背負う事実は、どこかにはあるが、ここにはないものではないか。

木曽川の土手を枯草続きけり 工藤定治

リアルな句と思う。木曽川は誰もが行く場所じゃないからリアルなんだ、ということではない。こんな土手がたしかにあるのだ、という気がする。自分の知らないところに。


11 舞ふて舞ふて舞ふてまだまだ枯一葉 片岡義順


ごめん、突っ込む。「舞ふて」ちゃう。「舞うて」や。露結氏も先週、タイトルで突っ込んでいたけれど、筆者も突っ込む。「舞ひて」のウ音便化で、音便は音のまま表記です。

本稿は基本的に文法ミスに関しては突っ込まない方向で書いている。んなもん、辞書引けば分かるんだから。せいぜい50句分だ。辞書ぐらい引いたほうがいい。「舞ふて」以前にも以後にも、文法・仮名遣いミスは山のようにあって、いちいち解説しつつ指摘していくのは骨が折れるので、そういうスタンスでスルーしている。

それでも今回スルーできなかったのは、一句目以前、タイトルで大々的に誤っていて、あんまりずっこけたためである。よく角川賞に関して、一句目は自信作を置くこと、といったノウハウが語られているし、それは大切だと思う。いわんやタイトルで、しかもこの場合、50句に含まれていない、51句目と呼ぶべき句をおきて破りにおいているのに、そこでミスってるとなると、これは言わずにはいられない。かなり損をしている。50句を読み始めるまえに捨てられても文句は言えないかもしれない。

まあ、とは言っても、田中裕明がいる。第28回受賞者である田中の50句『童子の夢』はこの句で始まる。

春昼の壺盗人の酔ふてゐる 田中裕明

間違ってるやん!

これを示して文法が間違っていても中身がよければいいんだと申し上げる気はない。ただのネタですから。指摘しなかった選考委員が悪いと思う。句集収録時には訂正されている。誰かが指摘したんだろうな。

本題。

面白いことが書かれ過ぎている。〈春暁や卑弥呼のお告げスカイツリー〉なんなんだそれは。〈シクラメン残し帰らぬテロリスト〉テロリストが。〈二畳半すする新茶の思慮ふかき〉思慮がふかいのか。ほんとうにそうなの、と疑問に思う箇所は多い。乱歩、遼太郎、久女、北斎、ゴッホ、由紀夫……と人名が多いのは趣味だろうか。

どよめきを耳に花火師ピザ喰らふ 片岡義順

面白過ぎるけど、ばかばかしくて好きだ。自分の花火に興じる人々のどよめき。それに対する満足感を「ピザ喰らふ」に象徴させる手があったのか。ちょっとしゃれている。


12 ふらんど さわだかずや



自動破滅俳句製造機とでも呼ぶのだろうか。

韮やはらかし人妻はさりげなし さわだかずや
やい鬱め春あけぼのを知りをるか
復職はしますが春の夢ですが 

人妻のさり気なさだなんて、こんなことを書いても仕方がないじゃないか。それでも書いてしまう作者のなさけなさがたのしい。「やい鬱め」は江國滋のパロディだが、この形で口をついて出たかのごとき口唱性があって、そうかこれはレトリックではなく、江國もさわだも「おい~め」と言わぬではいられなかったのか、と気づく。三句目もするするとこの姿で生まれてきたような雰囲気を持っている。

眼鏡からビーム出したしご開帳

ガキか。

ひたすらなさけない。この情けなさをせめて助けているのがばかばかしさである。

虚子の忌の回転寿司の皿詰まる
草餅の平安朝のつまみ方
メッセージ性なき風船も飛んでをり

一句目、虚子の下にあれだけ多くの弟子がいたことの比喩。もちろん、そこにつながるわれわれも含めて。二句目、平安貴族は平安貴族らしい草餅のつまみ方をするだろう。そんなことを言挙げすることの無意味さが面白い。三句目、そうか風船はメッセージと結びつくのか。あるだけではなく「飛んで」いるのが、理屈っぽくなくて、いい。

偶然にルイ十六世と青き踏む

ルイ十六世が、たとえばフランス革命時に在位していた王である、といった内容はもはやこの句の必要とするところではない。これが仮に十五世でも十四世でも(彼らが誰であったか筆者は知らないが)、あるいは中臣鎌足であってもほしのあきであっても、この句は成り立っている筈だ。その人物のキャラクター性は読みを面白くするかもしれないが、補助線とはならない。とにかく、出会うはずのない人物がそこにいると言い張り、さらにはそれが偶然だと開陳する。0%でしかありえないその登場を、「偶然に」とあくまで起こりうることとして隠す嘘が、理不尽で、たまらなくおかしい。



2014-11-23

【2014落選展を読む】その年の事実 堀下翔

【2014落選展を読む】
その年の事実

堀下翔


読む。

1 霾のグリエ(赤野四羽)

涅槃吹黄色いふうせん西より来  赤野四羽

という句、初めに読んで、気になっていた。飛ばされて、離れていくものとしてある風船が、自分の方に向かってくる。これは、なかなかない。しかも、黄色くて、西から。この二つの情報に意味はないだろう。黄という色が春の明るさを示している、だとか、そういう指摘は要らない。無意味さのリアリティがある。……と、思っていたところへ、そういえば涅槃吹は西から来る風ではないかと気づいた。ごりごりの理屈じゃないか。

総体に、ちょっと、理屈っぽい。〈姥桜花見するひとをみてゐる〉〈大揚羽地球の端にとまりけり〉など。

文学に夏が来れりガルシア=マルケス

時事ネタで、思考から飛び出した句だけれど、意味不明なところがあって、面白い。季語を取り合わせるのと同じような顔をしていきなり「ガルシア=マルケス」を置く無手勝流に、ちょっとドキッとする。「文学に夏が来れり」も、何のことかよくわからない。だから、ああガルシア=マルケスは夏の人だったのか、と、そんなことをぼんやりと思う。彼が死んだのは4月。いったいどうして夏だったのか。

少年が西瓜を抱いて待っている

には、あ、それだけか、という安心がある。これもまた、なにか具体的なことは言っていない。そういうことがあったんだろうな、とぼんやり思う。ぼんやりと、いうのが、50句の印象としていつもあった。


2 こゑ(生駒大祐)

品詞分解をしたくなる。〈ものうげに寒鯉匂ひはじめたり〉(形容動詞「ものうげなり」連用形、名詞、ハ行四段連用形、マ行下二段連用形、完了の助動詞終止形)……と。この直観はおそらく、50句の発話が擬古的であることを示している。

製図室ひねもす秋の線引かる  生駒大祐

製図室という手に慣れない素材、秋の線という捏造的な季語。これらの無理を一句としておさめるときに作者が選んだのは擬古の文脈であった。「ひねもす」「引かる」という言葉が用いられる世界に「製図室」も「秋の線」もあるのだ、と示すことで、これらの無理は隠され、むしろ肯定されている。「引かる」という正しさが眩しい。「引かれ」でも「引かるる」でもない「引かる」は、どこか散文的なほどに古典の中にある。

副詞の多さは指摘しなければなるまい。その中でたとえば〈降る雪やただ重たさの肥後守〉の「ただ」、〈しとやかにあやめの水の古りゆけり〉の「しとやかに」、〈おそろしく真直ぐ秋の日が昇る〉の「おそろしく」、〈富士低くたやすく春日あたりけり〉の「たやすく」は、「真直ぐ」や「低く」とは違って実際的なことは述べていない。多くはやはり擬古的な文脈にある。作者のこころざす古典的な記述は、それ自体が無理の中にあるしかけではなかったか。あらゆる無理の混在を作者は肯定し、読者はその肯定を知ったうえで、違和を覚えている。読者の違和感を作者は喜んでいるだろう。


3 線路(上田信治)

その年は二月に二回雪が降り  上田信治

客観写生をほめる人がよく言うことに「掬い上げられた些事は意図せずして詩となる」というのがある。この言にならいたい。二月に二回雪が降ったことがどうしてこんなに詩になるのだろう。もちろんレトリックは精緻である。何も指さない代名詞「その」、「その年」を感動的に特定する「は」、余韻を残して流す連用形「降り」。けれどもそのしかけをまったく黙殺しても構わないほどに、二月に二回雪が降った事実は、言挙げされることによって、ごくリアルに、こちら側へと手渡されている。

秋の山から蠅が来て部屋に入る

これなんてほとんど嘘かもしれない。ほんとうに山から来たのを見たのか。がしかし〈秋の山から蠅が来て部屋に入る〉と言われることで、たしからしくなる。

言葉にすればなんでも本当のことのように思われるのであれば、どんな俳句だって名句になってしまうだろう。ある一句にあるリアリティがどこから来るのか、ということを、作者は模索し、ときとして核心に触れている。


4 魂の話(大中博篤)

たとえば、

〈山を焼く〉僕が傷つかないように  大中博篤

という句を取り上げて「自分が傷つくことの代替行為として山焼をする。括弧に入れられた山焼は季語としての意味から解放されている。自分が傷つかないための行為であるにも関わらず、おそらくこの「僕」は自分よりも大きなものを燃やす痛みにさいなまれている」といったことを言うのはたやすい。どの時期の俳句史であれこのような(言ってしまえば恰好をつけた)文体はあったはずだ。

虎の檻閉園のベル鳴り続け〉の緊迫感や〈狼に真昼の匂い   雨激し〉の孤独感は、どこかで誰かが書いているだろうという、いわば大いなる類想として感ぜられる。また同時に〈グラビティ•ゼロ殖えてゆく蟲の群れ〉や〈街に海鯨が鳴いている 泣いて〉は、俳句以外のどこかで描かれているだろうな(たとえば早川書房あたりで)、という別ベクトルの類想感もある。

それでもこの恰好よさに惹かれる気持ちは分からないでもない。〈グラビティ•ゼロ殖えてゆく蟲の群れ〉を指して俳句以外でも書けるであろうと言ったが、俳句にしか書けないことに意味があるとも思わない。

手袋の中は暗黒   犀通る

異様な縮尺のイメージに唖然とする。その犀がただ手袋の中にいるのではなく「通る」のだという。極度に縮んだ犀が真暗い手袋の中をゆっくりと通るその景は、大きさのみならず時間の縮尺まで狂ってしまっているように思われる。

ところでこれは蛇足なのですが、〈診察を待つワラビーよ夏の果て〉のどこに作者が恰好よさを見出しているのか、読みながらついぞ見当がつかなかった。この50句の文脈としては異質だが、ワラビーが診察される状況に妙な面白さが出ていて、ちょっと忘れられない。


5 最初の雨(小池康生)

一句目〈良性か悪性なるか小鳥来る〉は、はじめに読んだときには性善説か何かの話だと思った。読み進めて、病院関連の用語が頻出し、〈癌のことなかつたことに万愚節〉にいたって初めて察しの悪い筆者は、ああ一句目は癌の話だったのかと気づく。ここまで察しの悪い読者はなかなかいるまいが。

自身の闘病をテーマにした50句。

古暦病ひを得ると記しあり  小池康生
七草の日や絶食と告げらるる
癌のことなかつたことに万愚節

このような句は、季語のモノボケといった印象が強く、あまり入り込めない。直接的な言及よりもむしろ、下のような句に強さを感じた。

巣箱掛け最初の雨が降つてをり

表題句。術後にひと息ついた気分が「最初の」という一区切りの語に結実している。〈無傷なり蝶々にまとひつかれても〉も同じ気分だろう。「無傷なり」の断定がうれしい。と思えば〈眠りへの入口しれず春逝きぬ〉と死への連想もある。いずれも喜怒哀楽が活写されている。

麻酔にて知らぬ一日室の花

はとにかくうまいな、と思った句。どれほどの麻酔だったか、そしてそこから、どれほどの手術だったかというところが想像される。


6 パズル(加藤御影)

どこにも体重がかかっていない、軽いタッチの句群。〈チューリップ玩具のやうに汚れたる〉から持ってきて「まるでおもちゃのような」という言い方をしようと思ったら、そもそもタイトルが「パズル」だった。〈眼が穴の動物パズル星月夜〉から取ってきたのだろうが、作者自身、自分の軽さは承知の上だろう。〈山茶花の散ればリズムの生まれけり〉は軽すぎると思いつつ、全体としては、読んでいて楽しい。

ごちやまぜにされて昔や未草  加藤御影

そうだなあ、その通りだなあ。自分のことも周りのことも、昔のことはいつのまにかこんがらがってしまう。「ごちやまぜにされて」とかなり口語的にやったあと、「昔や」と一気に文語脈に回帰するキュートさ。

50句のなかで一番ぐっときたのは、この一連。

十一月散歩のやうに文字つづく
目離すと鳴りだしさうな冬日向

この二句、対になっている気がする。「十一月散歩」までを来た筆者は、この時点で実際に外に出て散歩に出ている。「のやうに文字つづく」と示されて、いま見ていた風景が嘘だったと知る。寒いけれど日はさしているあの散歩のあかるさを、もう一度、文字の上に再現する。そうして次の句へ移れば、「目離すと鳴りだしさうな」と来て、ほとんど錯覚として、前の句の残像である文字を思う。あかるく日がさして、ずっと続いているあの文字が、鳴りだしそうなのだ、と。言葉はつねに音になろうとしているから。そしてこの句が「冬日向」のものであったことを知るとき、筆者は、まだ文字の残像を忘れきれていない。十一月の散歩には、冬日向が付きまとっているがためである。「やうに」「さうな」と、構造も似ている。隣接したこの二句は互いに自分の世界を見せ合っている。もっとも、隣接に意味を見出す読みは本筋から外れているが。


7 脱ぎかけ(栗山麻衣)

ちょっと面白過ぎるんじゃないか、というのが印象。〈脱ぎかけの衣からやあと蛇出づる〉いや、やあとは言わないだろ。〈目配せを交はして蟻の擦れ違ふ〉いや、交わさないだろう。

大根に味染みるころ帰りたし  栗山麻衣

帰りたし、まで読んで、あっ、ここは自宅ではなかったのか、とびっくりさせられる。ではこの大根は他人の家のものか。あるいは、一人暮らしの人。自分一人で調理した大根を食べて、実家に帰りたくなる。そういう素朴な気持ちは「たし」というひねりのない述べ方にかなっている。

人恋ふる心小出しにインバネス

そうか人を恋うる心は小出しにできるのか。生きるのが上手な人にしかできないのかもしれない。人情の機微が「小出しに」の一言で電光のように伝わってきてうれしい。粋な句と思う。


8 クレヨン(倉田有希)

初夢はもらはれてゆく猫のこと  倉田有希

夢の句は全部嘘でも構わないからずるい。作者がふだん猫と暮らしているのかすら定かではない。この句の猫は初夢において初めて登場したキャラクターかもしれない。そういった夢の気味の悪さを、この句は書いている気がする。猫がいなくなる初夢なんて、かなりグロテスクだ。

もっとも50句の多くは、そうではなく、以下のように穏やかである。

蝌蚪の国豆腐のパックが沈みをり
春深し雲の絵皿のオムライス
小鳥来る解体される給水塔

一句目、蝌蚪の国に侵入する異物として豆腐パックは絶妙にちんちくりんで、言い得ている。二句目、ゆるめの取り合わせに気持ちのよさがある。これは全体の特徴としても思われる。三句目の「解体される給水塔」は最後の字余りが気になりつつ、しかし上の初夢と似た違和感がある。給水塔というものの見慣れなさもあるが、あの奇妙な塔がどのような姿で解体されるのか、惹かれる。そんな非日常の入り口に小鳥がきている。ある場所からある場所へ移動する小鳥は、読者が目撃する「解体される給水塔」という非日常と巧みにイメージを同じゅうしている。




2014-11-16

角川「俳句」2014年11月号「第60回角川俳句賞選考座談会」を読む 上田信治

角川「俳句」2014年11月号
「第60回角川俳句賞選考座談会」を読む

上田信治


例年通り「落選展」関連企画として、角川俳句賞について書こうとしているのですが、今年はどこから書いたものかと、かなり、相当、逡巡しています。

そこで、今回は、選考委員4人(池田澄子、高野ムツオ、正木ゆう子、小澤實)による選考座談会(角川「俳句」2014年11月号掲載)自体を読んでみて、その逡巡の理由について考えることにしました。



選考過程を確認しましょう。

今回、4人の選考委員のうち、3人の支持を集めた作品はなし。2人の◎を得た作品もなし。

最高得点は、それぞれ◎1○1を得た、平田倫子「木の家」(小澤◎池田○)と、柘植史子「エンドロール」(池田◎小澤○)でした。

一通りの検討の後、候補作は、以下の五作に絞り込まれます。

柘植史子「エンドロール」(池田◎小澤○)
平田倫子「木の家」(小澤◎池田○)
岡田由季「夜の色」(正木◎)
遠藤由樹子「生者らの」(高野◎)
平井岳人「手で作る銃」(高野○正木○)

さあ、この中から決めようとなって、各委員、1位から3位までを、この5句に投票してみた。

結果「手で作る銃」は1位に推す委員がいなかったので脱落(投票の結果だけを見れば、受賞の柘植さんと同点数を集めていたので、平井さん惜しかった)。

小澤さん◎の平田倫子「木の家」が、正木さんと高野さんの反対で脱落。

正木さん◎の岡田由季「夜の色」は、小澤さんの反対、高野さん◎の遠藤由樹子「生者らの」は、池田さんの反対があり不可。

「エンドロール」が、消去法に近い形で(と言っていいでしょう)受賞作となりました。



候補作中の各委員の推薦作を見てみましょう。

委員によって挙げる句数にばらつきがあるので、とりあえず、1委員10句前後、◎=4句、○=1句〜3句を引用します(委員が強く推している句を中心に)。

池田澄子さん推薦句

門灯を点けて出かける花ゆすら 柘植史子
蜜豆や話す前から笑ひをる
戦争と野菜がきらひ生身魂
エンドロール膝の外套照らし出す
三月や指笛に立つ犬の耳  平田倫子
野遊びの小さき靴を脱ぎたがる
どくだみやずどんと開く男傘
雪降り積む君の肩なるフードにも 川又憲次郎
学べよ俺雨のプールに飛び込みつ
虹消えて厨に戻る母子かな 岩上明美
魚抱きて磯巾着の静かなる 阪西敦子


ここには5人の作者が選ばれているのですが、池田さんの選んだ句が、互いにすごく似てるんですよね。特に、池田さんが挙げる柘植さん平田さんの句は、自分にはほとんど区別がつきません。

「頭上」(川又憲次郎)は「俺」と言ってるから男性だなと思いますけど、同作で他に推されているのは〈白南風にわれらしなやかなる体〉〈足裏の日焼見せ合ふ畳かな〉〈さへづるや超音波(エコー)に映し診る胎児〉といったところ。

「いにしへの舟」(岩上明子)からは〈ヒヤシンス見て居りし子の髪を編む〉〈永き日のホースに残る朝の水〉。

柘植、平田、川又、岩上の4人の方は、いずれも、人柄、暮らしぶり、家族、身体といったものを起点に共感へ持っていく、という詠みぶりです。

阪西さんの〈魚抱きて磯巾着の静かなる〉は、いかにもこの作家らしい句ですが、他に池田さんが挙げている句は〈桜咲く下を運ばれゆくピアノ〉〈遠足の集合したるにほひかな〉〈夜店見てほんとは少し遠く見て〉といったもの。

……どこか似てるんですよね、やっぱり。

小澤實さん推薦句

三月や指笛に立つ犬の耳 平田倫子
豆腐屋のゆつくり通る網戸かな
芋虫のおのれ押し出しつつ歩む
餅搗や男の子はけんかして育つ

エンドロール膝の外套照らし出す 柘植史子
冷蔵庫開けてプリンをおどろかす
葉桜の下の大きな水たまり
鹿の角木霊たまつて落ちにけり
 天地わたる
待春や水槽に石ひとつ足し 鶴岡加苗
フライパン支ふる手首夏来たる 高勢祥子


小澤さんの推薦句も、池田さんの選句に、ベクトルが近い。

「プリン」「犬の耳」「フライパン」「水槽の石」などの素材、着想は、これらの作者の誰が詠んでもおかしくない、交換可能なものに見えますし、上掲以外でも〈春昼や夢見て鼻を鳴らす犬〉(天地わたる)、〈白芙蓉水を飲むとき目を閉ぢて〉(鶴岡加苗)〈春雨の一粒馴染む額かな〉〈髪強し春の砂丘を歩き来て〉(高勢祥子)といった句は、どの作者の候補作に現れてもおかしくない。

そんな感じ、しませんか? 

あるいは、俳句というのは、もともとそんなものでしょうか。

もちろん、細かく見ていけば「豆腐屋のゆつくり通る網戸かな」(平田)の趣味性や、「鹿の角木霊たまつて落ちにけり」(天地)の大仰さなどは、その人らしさかな、と思うのですが、〈合歓の花人通るたび起きる犬〉(岡田由季)〈フライパンじゆんと鳴らして洗ふも夏〉(川又憲次郎)という句もあって、やっぱり、どう見ても、みんな同じあたりで作ってるんだよなあと。

正木ゆう子さん推薦句

体型に合ふ藁塚を拵へる 岡田由季
湯たんぽに軸足置いて眠りをり
束にしてわづかの魔力雪柳
あたたかや畳の上の日曜日
書けば揺れて投票記載台冷た
 川又憲次郎
銭湯にひとり成人式前夜
風船に吹き込む息を固めけり
 平井岳人
畳まれしコートに遠き着信音
ビアガーデンがりがりと卓寄せ合へる
いつぱいに足指開き小熊立つ
 山下由理子
制服を着崩してゐる青嵐 西山ゆりこ


高野ムツオさん推薦句

脱皮して乾きかけなる春の空 遠藤由樹子
虫鳴くや幻の根を張るやうに
立つたまま眠り芒となりにけり
冬草の日向に誰も現れず
切山椒道のせばまる風の音
 平井岳人
初雀手に載せたくて見てをりぬ
空腹やつぶさに見ゆる六花
柳の芽ほどの涙が眦に
 内山かおる
魚となり蝶々となり弔へり 関根かな
手に載せて臍の緒の色空蝉は 松野苑子


岡田由季さん(正木◎)は、典型的な情景に、意外な言葉を挿入してナンセンスな味を加える。

遠藤由樹子さん(高野◎)は、大胆な措辞で俳句的イメージを虚のほうへ展開する。それぞれ、自分固有の「手」を示している部分が評価されている。

しかし、岡田さんは、小澤さんの反対(「新鮮さが足りない」「物足りない」)、遠藤さんは、池田さんの反対(「ちょっと歯痒い」「私の周囲でよく見る作り方」)があって、脱落します。

たしかに、委員推薦句以外を見ると、「夜の色」(岡田)には〈日替はりのメニュー一巡銀杏散る〉〈チューリップ早くも寝息立ててゐる〉〈春の夜の川の字に寝てみたきかな〉といった句があって「淡いかな?」「甘いかな?」「常識的かな?」と思わせる。

「生者らの」(遠藤)には〈夕空へ出払つてをり親燕〉〈初蝉や頑張りますと書く返事〉〈嘆きとか愛とか雪の雀とか〉といった句があって「意外と腰高な句が多い」「急いで作ったのかな?」という疑念を抱かせる。

似ているという話で言えば〈裏おもてつめたき葉書霙降る〉(遠藤)と〈あかときの切符つめたし半夏生〉(平田)、〈ペンションに掃除機の音冬珊瑚〉(岡田)と〈掃除機の口が音吸ふ風邪心地〉(柘植) というペアもありました。探せばもっともっとありそうです。

小澤さん◎の「木の家」(平田倫子)が、正木さん(「×の句が多い」)高野さん(「類想感がある」)の反対で早々に脱落したとあっては、柘植史子さんの受賞は、自然な流れだったとは思います。



印象論になってしまうのですが、今回の角川俳句賞、いつも以上に作品の同質性が高かった(近年の、たとえば相子智恵さん、望月周さん、山口優夢さん、あるいは榮猿丸さんが候補に挙がった年に比べると)。

一般に、こういった賞に対する不満でよく言われるのは「編集部の予選が」というものですが、池田さん小澤さんの推薦句の足が揃ってしまっている感じを見ると、一次予選だけの責任ではなさそうです。

おそらく応募作全体、編集部による一次予選、選考委員による最終選考、つまりこの賞のすべての段階が、一つのトレンドに収まっていた、ということではないでしょうか。

選考委員の先生方が、そういった同質性を「推進」する立ち位置かというと、4人の方が作家として書かれるものも、ふだんの発言もぜんぜん違うわけです。

しかし、今回、討議は応募作中の支配的傾向に、寄り沿うように進行している。

ここに、平成26年の俳句界が強いられている、あるいは俳句界自身が欲望している同質性が現れています。

そういうものには、ま、ちょっとさすがに疲れたというか、なんというか。そのへんが今回書きあぐねていた原因ですね、きっと。



同誌には「大特集 角川俳句賞の60年」と題する特集が掲載され、総論を、筑紫磐井さんが執筆しています。

磐井さんは、60回におよぶ角川俳句賞の、受賞作に見られる傾向を「1回〜11回 人生を背負った俳句」「12回〜27回 風土俳句の沸騰」「28回〜44回 風土から生活へ」「45回〜59回 平坦な生活詠」と命名していて、なるほど、角川俳句賞は、常に自身のトレンドとともにあったのだということが分かります。

そして過去60年、そのトレンドによる選考から「有力な新人が続々と見出された」かというと、必ずしもそうではない、ということも分かる。

小結社の主宰になっている人とかが多いですよね、角川受賞者。そんなに有名じゃない有力同人とか。いや、知ってましたけどね。

「作家の将来性なんか分からないんだから、われわれは完成度で選ぶしかない」という発言、過去の選考座談会で読んだことがあります。矢島渚男さんだったかな。

まあねえ。

それを言うんだったら、俳句を更新して未来へ受け渡していくという意味での「将来」性を、既存の物差しで測れるわけがない。自分たちは今の俳句でじゅうぶんなんだから、新人なんか必要ないんだ、ということを渚男さんは、言ってしまっている。

俳句には根っこのところに「座の文芸」という性格があります。垂直性以前に、顔が見える横の関係性が、創造の前提条件とされ原資とされる性格が。

ことに匿名の新人賞というような場では、座の「お仲間を選ぶ」という無意識が発動して、矢島さんはああいうことを言い、角川俳句賞はこういうことになっているのかもしれません。



自分のことを言うと、角川俳句賞、仲寒蝉さんの受賞の翌年から応募し始めているので、今年でちょうど10回目の応募でした(おお!)。

自分の中の最良のものと、俳句界の標準を「互いに測り合わせる」機会としてこのコンテストに参加してきました。

つまり、今の俳句よりも自分が新しければ、俳句は、自分を欲望せずにはいられないはずだという考えで。いや、そういうことだって、起こりうると思うんですよ。

鴇田智哉さんだって、関悦史さんだって、新人賞で登場してきたんですからね。



今年の選考座談会から、自分は、平成26年の俳句界が強いられている同質性を、次のようなものだと受け取りました。

◎内容がよく分かること。不明瞭でないこと。曖昧さがないこと。

◎「いいもの」「いいこと」「いい人であること」が書かれていること。

◎言い方が堅実で、隙がないこと。規範の踏み越えがないこと。

しかし、それは、もう新人の書くべきものではない。

だって、そういうのは、すでにじゅうぶん実現されていますからね。少なくとも、自分はそういうものを書く気はない。

選考委員の諸先生も、選ぶ立場としてはああいうふうでしたが、じつは読者として「そうじゃないもの」を切望していることは、今回の座談会の意気の上がらない雰囲気からよーく分かります。

というわけで、今回は、自分としても、選考委員のみなさんを欲情させるに至らず、たいへん残念でした。

今回掲載の候補作から

受付の私語をさまよふ熱帯魚 柘植史子
日光をさへぎりマンタ頭上過ぐ 川又憲次郎
噴水に見覚えのある街にをり 岡田由季
熊と熊抱き合へばよく眠れさう 遠藤由樹子
冬の雨トゥモローランド窓広く 平井岳人
割れるまで眺めて次のしやぼん玉 西山ゆりこ
窓拭くに出づる半身桐の花 高勢祥子
人去りし椅子みな青き二月かな 阪西敦子
春夕焼空瓶の口歌ふやう 松野苑子


2014-11-02

落選展2014 1 霾のグリエ 赤野四羽

画像をクリックすると大きくなります。



週刊俳句 第393号 2014-11-02
2014落選展 1 霾のグリエ 赤野四羽
クリックすると大きくなります

落選展2014_1 霾のグリエ 赤野四羽_テキスト

1 霾のグリエ  赤野四羽

姥桜花見するひとをみてゐる
未来への河に滴る灰汁の春
軒下に現地集合春の蚊よ
霾のグリエに春闇ジュレ添えて
箱庭にたんぽぽひとつ咲きにけり
春月や高架の下のモンドリアン
雑踏に夜の桜の涼やけき
花曇雀のつがふ螺旋かな
上下左右街を歩かば絵踏かな
春闇に溶けてゆきたるハイソックス
土現る鬼も天使も膏として
理非もなし吾子を守らん春嵐
指の傷いまだ残りて水温む
春光の匂ひをたどる緑かな
死の根っこ掘りかえしたるも花ばかり
海豹や腹を擦りても牙捨てず
山上に蜘蛛の子散りて春疾風
涅槃吹黄色いふうせん西より来
青葉より澄みたる精の飛沫(しぶき)たる
つばくらめ排水管に子を残し
大揚羽地球の端にとまりけり
七色の絵の具溶かして夏の闇
少年が西瓜を抱いて待っている
文学に夏が来れりガルシア=マルケス
修羅場みて胡瓜涼しや絵金祭
麦わらの老婆にふたつ氷菓かな
スタンド・バイ・ミーが真夏をつれてくる
虹の根で跳ねる子見やる日が射した
白物や骸百態夏百夜
夏の砂烟る轍や波高し
瑠璃蜥蜴虹の筆先尻で曳き
コンクリの塀に爪たて蝉の子や
太陽の上に落ちけり田植笠
鰯雲誰も居ぬとびらが閉じる
三日月に暗く膨らむ体育館
魂失せし裁きうつろに鬼灯鳴る
夜歩けば朱き月影たぷたぷと
坂道を下る蜻蛉の高さかな
野分去るパンの耳塩がきいてる
冬鵙や抱き上げし子に脈打てり
切り捨てし大根首に蕾の黄
みすがらに老人を待つ鯨かな
人形よ糸断ち歩め細雪
冬闇に十字切りたる警備員
地の霜をざくざく踏みて役所かな
牡丹雪すずめ垣根にひそみおり
雨宿る鳩の襟元山めぐり
稽古場に天道虫の眠りたる
独楽震え少し迷うて座りこみ
鼻欠けた狛に影揺る初燈

落選展2014_2 こゑ 生駒大祐

画像をクリックすると大きくなります。



週刊俳句 第393号 2014-11-02
2014落選展 2 こゑ 生駒大祐
クリックすると大きくなります

落選展2014_2 こゑ 生駒大祐_テキスト

2 こゑ 生駒大祐

夏雨のあかるさが木に行き渡る
渦の影立ち上りたる泉かな
人呼ばふやうに木を呼ぶ涼しさよ
風鈴の短冊に川流れをり
薔薇の枝の夥しさを座して見る
初夏の口笛で呼ぶ言葉たち
蛭あまたもみあふひとつごころかな
こゑと手といづれやさしき冰水
夏の木のたふれし日差ありにけり
しとやかにあやめの水の古りゆけり
雲甘く嶺を隠しぬ蝸牛
べつとりとあぢさゐ朽ちし茎の色
白鷺の数とほく鳴きかはしけり
真桑瓜みづのかたちをしてゐたり
水鶏見るもはや心のうすみどり
滝殿を覗き込む子や連れてゆく
輪の如き一日が過ぎ烏瓜
色町の音流れゆく秋の川
晴ながら雲の分厚き家居かな
おそろしく真直ぐ秋の日が昇る
絹漉の暗闇にして菌山
製図室ひねもす秋の線引かる
秋草の鞍馬へ取つてかへしけり
抜く釘のおもはぬ若さ雁渡る
木犀の錆び急ぐ夜を何とせむ
鳥のやうに生きて林檎のしぼりみづ
汝と行かむ月のひかりの涸れしかば
ゆふぐれや芦刈りつつも鳩のこゑ
バス寒く窓ごとの青凡そ空
寒林をとほく治めて天さびし
針山の肌の花柄山眠る
ものうげに寒鯉匂ひはじめたり
汝寝ねて夜どほし冬の空があり
降る雪やただ重たさの肥後守
世の中や歩けば蕪とすれちがふ
枯園や音の向かうに落つる水
冬木中一年が身を起こしけり
山茶花に真白き布の被せある
春を待つ水が絵となるときの色
定まりし言葉動かず桜貝
今はなき通草葛もあたたかし
くらがりにゐて鶯を飼ひならす
のぞまれて橋となる木々春のくれ
広がりし桜の枝の届く水
うたごゑの聞こえてとほき彼岸かな
唐代の墨飛び立たばつばくらめ
差し入れて硯濯ぎぬ春の水
我よりも我がこゑ聡しかすみさう
俯せに水は流れて鳥曇
富士低くたやすく春日あたりけり

落選展2014_3 線路 上田信治

画像をクリックすると大きくなります。



週刊俳句 第393号 2014-11-02
2014落選展 3 線路 上田信治
クリックすると大きくなります

落選展2014_3 線路 上田信治_テキスト

3 線路   上田信治

てふてふや中の汚れて白い壺
春の日に見下ろす長い線路かな
霞みつつ岬はのびてあかるさよ
桜さく山をぼんやり山にゐる
ひよどりのゐる電線も花の中
餃子屋の夕日の窓に花惜しむ
鯉のぼりの影ながながと動きけり
かしはもち天気予報は雷雨とも
ゆふぞらの糸をのぼりて蜘蛛の肢
珈琲の粉がすずしい月あかり
ゆつくりと上れば月見草の土手
晩夏の蝶いろいろ一つづつ来るよ
朝顔のひらいて屋根のないところ
状差に秋の団扇があつて部屋
草を踏む犬のはだしも秋めくと
われもこう山の手前に雲のある
鵯のよく鳴くけふの今日限り
秋の薔薇行けばどこまで同じ町
つめたい手おほきな窓に紅葉山
雨樋を石蕗の花へとたどり見る
靴べらの握りが冬の犬の顔
北風の荒れてゐる日の水たまり
寒晴やテトラポッドの脚組み合ふ
ふくらはぎ伸すや日の照る冬の海
石に吹く風の聞こえるかぜぐすり
江ノ島のコップの水や麗らかに
クロッカス団地一棟いま無音
手に水の触れる速さに春の雪
さへづりの向かうに白い村の道
たふれゆく春の夕べのアロエベラ
仔猫野良あけがたなれば慕ひくる
そらまめや雨ふつてゐる窓ひとつ
栗の木が咲いてモルタル壁の家
犬を見るかしこい犬や夏の庭
蒲の穂の先からなほも伸びるもの
サルビヤの町に帽子の若い人
白布のうへ四つの同じ夏料理
冷蔵庫に西日のさしてゐたりけり
秋の山から蠅が来て部屋に入る
バスに見る川をうづめて葛の花
月今宵みづの出てゐる水飲み場
煙草買ふと云うて別れし良夜かな
あの山におほきな岩や紅葉づれる
鳥威なほして今日を終はる人
冷ゆる田と家具工場のありにけり
スケーターズワルツ丘から見る町は
地には霜やさしい人たちの自転車
網フェンスに絡みて枯れてそよ風よ
やすみなく暮れゆく空や毛の帽子
その年は二月に二回雪が降り

落選展2014_4 魂の話 大中博篤

画像をクリックすると大きくなります。



週刊俳句 第393号 2014-11-02
2014落選展 4 魂の話 大中博篤
クリックすると大きくなります

落選展2014_4 魂の話 大中博篤_テキスト

4 魂の話 大中博篤

Ⅰ リボルバー
人死んで煤煙の街花だらけ
暗闇に明日を見つければ    花火
止まらない震えや  祭りの音がする
溢れゆく梅雨の匂いや犬が死ぬ
診察を待つワラビーよ夏の果て
短日の駅に獣の影映る
ひたひたと鬼に成りゆく寒さかな
北風や目をつむりつつピアノ焼く
歩くたび世界が揺れる   冬至かな
悪霊や同じ台詞を繰り返し
休日のサラリーマンの手首かな
Ⅱ ジャンキーと犬
コカインの王国立ち上がる五月
黄昏の夢魔コカコーラ飲みほしぬ
〈山を焼く〉僕が傷つかないように
炭坑を吹っ飛ばしてる日の〈カンナ〉
悔恨が俺を追い抜いてゆく聖夜
狼に真昼の匂い   雨激し
風花や  犬を喰ふ犬見ておりぬ
迷宮の路地埋め尽くす鴉かな
虎の檻閉園のベル鳴り続け
手袋の中は暗黒   犀通る
Ⅲ 戦争と戦争
もののけの神社にうずくまる四月
旧寺院裸者の懺悔の音静か
蜻蛉の一斉に死ぬ神の杜
夕立去る大使館から血の気配
鱶の喰ふ肉赤々し夏の雨夜
風死して戦夢見る少年よ
ゆふなぎに 永遠に 祈る 聖母像
林葬や葬列の背に浮かぶ汗
はつなつの銃の全き冷たさよ
花芒 人美しく滅ぶベし
子守柿 戦艦一日掛け沈む
凍る湖戦車砲塔だけを出し
生剝ぎの獣の蒼き瞳かな
ヒトの血を浴びて眩き少女かな
Ⅳ チアノーゼ
走っても走っても街 春終わる
八月のまどろむ街の雑役夫
十月や花売り少女に花溢れ
また名前呼ばれて冬の商店街
焚火する男は清々と聖歌
飢えている 終点近きバスの中
Ⅴ「そうして」、と彼女は言った
憎しみは悲しみになる  春の雪
夏の果て密入国の船行けり
ラグーンにペンギン眠る午前二時
日盛りに青年が買う月と銃
かみさま、と少年祈る  雪激し
冬さうび抱かれて白き息となる
冬の雨遠くに紅き傘回る
グラビティ•ゼロ殖えてゆく蟲の群れ
街に海鯨が鳴いている 泣いて

落選展2014_5 最初の雨 小池康生

画像をクリックすると大きくなります。



週刊俳句 第393号 2014-11-02
2014落選展 5 最初の雨 小池康生
クリックすると大きくなります