【2014落選展を読む】
5. 文体
堀下 翔
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23 菜の花(前北かおる)
畸形のように短いこの詩形のなかで、いつか言葉は組み合わされ尽くすのではないか、だから俳句は有限である、という考え方がある。そんなことがあるとも思われないが、ひとつこの話から気づくのは、意味は言葉の組み合わせから生ずるのだったな、ということだ。
俳句が有限か無限かという話は結局、言葉の組み合わせは無限かどうかという点にかかっている。どちらが正しいのかは知らず、作者はぼんやりと、もしかしたら言葉の組み合わせが有限であるという予感は、ある点では、人間が選ぶ言葉に必ず意味があるという信頼に基づいているのではないか、と思う。
もっとも詩に意味を求めることがほとんど重要でないのは言を俟たない。
前北の句にはときおり得体のしれないものが混じる。
菜の花や乳白色の雨の降る 前北かおる
ちかちかと蛍光灯や吊し雛
つまり、どうして乳白色が、吊し雛が、ここにあるのだろうか、ということだ。あまりに突然なその斡旋は、雑然としていて、かつ、異様である。
それはもしかしたら、写生という発想が目指していた異様さなのかもしれない。頭の中ででっち上げた想定内の光景と決別するために、目の前の事物をそのまま言う。言葉が想定のそとへと飛び出す。写生はだから楽しかった。
写生うんぬんというのは前北の句がそれであると声高に言いたかったがためではない。重要なのは、冒頭の話に回帰するけれど、この人の句は、言葉は組み合わされるもの、すなわち、どのようにして隣り合わせるか選択するものであるという事実に立っているのではないか、ということだ。
50句に通底する雑然とした感じは、要素の多さでもある。〈ちかちかと蛍光灯や吊し雛〉。ちかちかと、というのは副詞であり、副詞は動詞にかかる。ちかちかと蛍光灯が点滅している、まで言わないとこのフレーズは完結しない。それを省略して別の要素を取り込んでいるからこの句はスマートではない。そうまでして作者は点滅する蛍光灯と吊し雛を隣り合わせようとしている。
言葉が隣り合うことの魅力がここにはあるし、作者に見えているのはきっとそれなのだろう。
24 草の矢(岬光世)
情報量の少なさはそれ自体が一句のよさだと筆者は思う。ああ、これだけでいいんだ、という安心感である。「草の矢」50句はその情報量の少なさがまず心に残った。
建て替ふることなく過ぎぬ秋桜 岬光世
自分の家を建ててかなりの時間が経った。親から引き継いだ家でもいい。建て替えてしかる年数にはなっているのだけれど、そのタイミングはとうに逃している。まあ、いいか。こじんまりとした秋桜の斡旋もあって、そういった生活感がこの句には充満している。
建て替えてもよい家を、というところを言わなかったのは、もちろん巧みな省略であるが、そんなテクニカルなことであるよりもむしろ、あっさりとした文体そのものが、この作者が描きたいと思っている生活を描くのにもっとも適切であることを思うのだ。
歴史的仮名遣いの気持ちのよさを取り込むべく、多くの句は積極的に平仮名に展かれている。これも、生活を描く文体。ただ〈鳴くこゑのひとつおほきく秋の蟬〉〈出航の合図をとほくをみなへし〉といった、感じは横溢しているけれど、よく見ればちょっと常識的だぞ、という句は多い。もっと書けることはある、という気はする。
たとえば、こんなふうな。
扉なく向き合ふ壁や冬紅葉
ある向かい合った壁に扉がない。そんなものはきっとたくさんある。だけれど言葉にされたそれがこんなに読者の胸をさわがせるのはなぜだろう。ない、ということを発見することのむずかしさがある。ない、という事実が生活にはあちこちにかくされている。
むつかしき門をくぐらず枯芙蓉
といった唐突な句がいくたびか挟まれるのも50句の特徴だった。〈念力のやうに鶏頭残りたる〉など。むつかしき門、とは何のことか分からないし、念力のように残る、というのもびっくりする。この人は生活空間をそのように見ているのか、と驚く。
やはりこれらも平易な文体で述べられていて、だからこそこれらの句を読者は信用できる。
25 モラトリアムレクイエム(吉川千早)
劇的なことを書こうとしている。
ごきぶりを初めて見た日煙草吸ふ 吉川千早
ごきぶりがいない土地から引っ越してきた人だろうか。ああこれが世に言うごきぶりであるか。人生にごきぶりが加わった。その日に煙草を吸ったという事実を並べ、この二つの事柄は関係性を持ち始める。
そんなことを関連づける作者を指して「劇的なことを書こうとしている」と言う。煙草を吸うような年齢にもなって、そんな些細なことに特別な意味を持たせずにはいられない作者。〈鍵穴に鍵置いてある桃の花〉といった意外な季語の置き方や〈秋雨や祖父は死んでも大男〉といった独特の景の嗜好にもその姿が見える。
〈オーバーザレインボー服薬死ぞ〉などは、ちょっと俳句としては強引なんじゃないの、という気がする。
26 猫鳴いて(利普苑るな)
王道的な取り合わせが中心の50句。形が整っていることの安心感がある。その型のなかでどれだけのことを述べられるか、というのは型を意識する人全員が共有する問題だろう。たとえば、
かなかなや若者集ふ橋の下 利普苑るな
を見ると、ああよかった、季語を除いた12音でこれだけたしかなことを言い得るんだ、と思う。学校が終わった若者たち。二、三人ではなく大勢で遊ぶ。そんなとき彼らはいつも決まって橋の下に行くのだった。公園となっている河川敷。川がすぐそこに流れる。花火をすることもあるし、そうでなくても集まってしまえば、子供が使うような遊具やアスレチックを駆けまわる。〈かなかなや若者集ふ橋の下〉はほんとうにそんな若者のことを書いているのだと思う。〈サルビアや二人の記憶喰違ふ〉〈足場より叫ぶ棟梁稲の秋〉などを読むとき、われわれは、取り合わせの俳句はどんなことでも書けるのだ、という事実を確認する
一句はとてもゆっくりとしている。緩急というものが俳句には確かにあって、それは作者によっても違うし一句によっても違うのだけれど、この50句はどれもが同じスピードのなかにある気がした。〈萍の揺れては増えてゐたりけり〉〈生身魂欠伸を猫にうつしたる〉といった一物仕立ての句でも同様であり、それもやはりひとつの安心感として受け取られた。
良いお年をお迎えください。
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2014-12-28
【2014落選展を読む】 5. 文体 堀下 翔
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