2014-12-14

『ユリイカ臨時増刊金原まさ子』と/を読む『ユリイカ臨時増刊悪趣味大全』 緊縛された村上春樹とジョルジュ・ポンピドゥ・センター 柳本々々

『ユリイカ臨時増刊金原まさ子』と/を読む『ユリイカ臨時増刊悪趣味大全』
緊縛された村上春樹とジョルジュ・ポンピドゥ・センター

柳本々々

テクストと書物とを区別して言うなら、今日あらゆる領域で現れているような書物の破壊はテクストの表面を露呈させているのだ、とわれわれは言おう。
(ジャック・デリダ、足立和浩訳「書物の終焉とエクリチュールの開始」『根源の彼方に──グラマトロジーについて(上)』現代思潮社、1972年、p.44)

「ユリイカ臨時増刊悪趣味大全」秋の暮  金原まさ子

金原まさ子さんの句集『カルナヴァル』(草思社、2013年)からの一句です。

この句でまず確認してみたいのは、『ユリイカ臨時増刊悪趣味大全』という書物があるのかどうか、です。

この書物は、実際にあるのかどうか。

あります。

『ユリイカ4月臨時増刊号 総特集*悪趣味大全』(1995年4月、第27巻第5号(通巻359号))が、それです〔*1〕

すぐに気がつくのは、この『ユリイカ臨時増刊悪趣味大全』が4月に出ているにも関わらず、金原さんの句においては「秋の暮」になっていることです。

これは、どういうことなんでしょうか。

こう、考えてみます。

ここには、ふたつの時間がある、と。

ひとつは書物の時間です。1995年4月に発刊された『ユリイカ臨時増刊悪趣味大全』がその時点から生きられている時間。

もうひとつは、この句の語り手がその書物にであうまでの/であってからの生きてゆく時間です。

つまり、この句は、「「ユリイカ臨時増刊悪趣味大全」」という悪辣なタイトルの引用に句の力点を一見仕掛けながらも、実は下5の「秋の暮」というふたつの時間が交錯するところにダイナミズムがあると思うのです。

そして、その時間の交錯は「臨時増刊」という時間を示すことばとも共振していきます。
「臨時増刊」であったにもかかわらず語り手には「秋の暮」までその書物はカテゴリーとして存在すらしていなかった。

しかし「秋の暮」に語り手が出会い、〈俳句〉として組織化した〈いま〉、それは語り手と書物がであった交錯する時間として、ただ唯一の〈めぐりあう時間〉として〈生き〉はじめるのです。

語り手にとってのそれが生の時間としての「臨時増刊」であったかのように。

またこの句における書名引用の表記としてのかぎかっこ(「」)にも注意しておきたいと思います。

書名が引用される際は通例、二重かぎ『』であらわされますが、この句においてはかぎかっこ「」になっています。

ですから、ここにも語り手の生きる時間の位相が『』から「」への変化としてあらわれています。

もっというならば、ここでは語り手は書名を引用しているというよりは、〈発話〉しているのではないかとさえ、思うのです。

つまり、語り手は、『ユリイカ臨時増刊悪趣味大全』にであい、そのであいを感得し、語り手の身体を通過した『』が、「ユリイカ臨時増刊悪趣味大全」という「」としての〈発話〉=〈声〉としてあらわれたのではないか、と。

このようにこの句においては、書名が〈引用〉されていたことによって語り手の生きる時間までが〈引用〉され交錯することとなったのですが、そもそも〈引用〉という行為は、なんであるのか。

〈引用〉に関するふたつの言説をみてみます。
単語から文章、書物から映像さらには人々の行動にいたるまで、引用することができるが、引用された参照体はひとまとめのものとして提示される。引用は「移し替える」ことであると同時に「ひとまとめにする」こと、つまり、統一することでもあるのである。(……)さらに引用されたものは引用する現在の文脈から離脱し、引用されたテクストは引用の文脈とは異なった時間性をもっている。
(酒井直樹「翻訳というフィルター」『岩波講座 哲学15 変貌する哲学』岩波書店、2009年、p.182)

引用という行為は、他者の言葉と共に考えるという意味で思考を活性化させてくれるが、一方で、他者の言葉を文脈から無理やりに引きはがし、言葉を切れ端にしたうえで自らの文脈に組み入れることでもある。引用された言葉がさらに引用されて、思わぬ場所にまで流通し、誰もが思わず口にしてしまう標語のような自明さでくり返されてしまうことは、しばしばある。もちろん、そのような言葉の無責任な移動こそ二〇世紀の文学を特徴づける重要な契機だったことは確かだが、引用によって文がその本来の土台から切断されてしまうことは改めて銘記するべきだろう。
(五味渕典嗣「漸近と交錯─「春琴抄後語」をめぐる言説配置─」『大妻国文』第43号、2012年3月、p.171)
書名が句において〈引用〉されたときに、その〈引用〉によってその書名がまとっている時間・空間をそのまま引っ張ってくるわけではなく、句の内部という「自らの文脈」において「異なった時間性」という新たな時間のなかに〈引用〉されたことばの〈生〉が息づいてきます。

そこには、ですから、五味渕さんが指摘しているように引用されたことばが〈自律〉し、勝手に「流通」していくという「標語」的危険もあります。

しかし、そうした文脈の移し替えによる新たな空間と時間の創出により、引用した書名=書物としてのテクストを書き換えるのもまた〈引用〉です。

たとえば書名を〈引用〉し節合している句に、関悦史さんの次のような句があります。

縛り棄てなる『ノルウェイの森』田に白鷺  関悦史 「日本景」『六十億本の回転する曲がつた棒』邑書林、2011年

ネット社会をも閉ぢ込めて『城』未完なれ  「襞」同上

『ノルウェイの森』は村上春樹が自身で「100パーセント恋愛小説」とキャッチコピーをつけた小説ですが、それが「縛り棄て」られている。〈都市小説〉とイメージされる村上春樹の小説とは相反するような「田」んぼに。

永遠に「未完〔*2〕」のカフカ『城』に「ネット社会をも閉ぢ込めて」さらに〈未完〉たれ、というカフカ『城』のハイパーテクスト化による〈未完〉の読み換え。

〈引用〉された書名=書物が、そのテクストの内部を参照されながら句に節合されていくのではなくて、むしろ「縛り棄て」「ネット社会」というテクストを取り巻く〈外部〉を参照しながら、そのテクストの〈内部〉が読みかえられていくという、〈引用〉による実践がなされているのではないかと思います。

考えてみれば、〈書名〉というのは、誰もが日々、文章で、ことばで、会話で、WEB上で、ツイッターで、ブログで、論文で、書店で、追憶で、ベッドで、〈引用〉しているわけです。

しかし、問題は、そうした〈引用〉が「標語のような自明さ」で語りの磁場にはまってしまわないようにするための〈仕掛け〉です。

金原さんの句であれば〈めぐりあう時間〉の交錯によって、関さんの句であればテクストの〈外部〉と接続させることによって〈仕掛け〉が施されているように思うのです。

また、〈書名〉そのものの〈引用〉ではなく、書名の書誌情報を〈引用〉した高山れおなさんの次のような句もあります。

ISBN4‐00‐008922‐6の顔、パリに  高山れおな「パイク・レッスン」『句集 俳諧曾我』書肆絵と本、2012年

書名ではなく、図書を特定するための番号であるISBN(アイエスビーエヌ、International Standard Book Number)=国際標準図書番号を〈引用〉することにより、〈標語〉的に反復される〈非―創造〉的事態を回避し、逆に、無―標語的な番号コードという、コードを特定しなければ徹底して無味乾燥な〈ラベル=顔〉を句に貼りつける〔*3〕

このことによって読み手が句を一読した瞬間喚起される即時的な意味性を駆逐し、しかし句の時間をたどろうとしたものに対しては「の顔、パリに」とハイパーリンクとしての〈補助線〉をいれておく。

でも、だからといってその〈意味内容〉で句が充填されるわけではなく、あくまで句はISBNしか示していないので、このリンクはリンクとして機能しているわけではない。わけではないが、ここには句というショートスパンの電撃のような俳句的時間に対して、ハイパーリンクを貼ることによるロングスパンの書物を介した時間性が胚胎されている。

これも、ひとつの、〈引用〉から起ち上がる句をめぐる〈めぐりあう時間〉の創出なのではないかと思います。

引用から書物へ、書物から引用へ、引用から書物へ、とう無限の往環運動が、〈時間性〉をかたちづくっていく。

その書物と引用をめぐる〈往還的めぐりあい〉を次のベンヤミンのエッセイ、あるいはボルヘスの短篇、もしくは寺山修司の俳句の〈引用〉に託すという〈悪趣味〉を経由してこの文章を〈終わらない・終わり〉にしたいと思います。
私の仕事のなかの引用文は、道に現われる盗賊のようなものだ。武装した姿でいきなり飛び出してきて、のんびり歩いている者から、確信というものを奪ってしまう。
(ヴァルター・ベンヤミン、浅井健二郎訳「一方通行路」『ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅』ちくま学芸文庫、1997年、p.122)

「この本は『砂の本』というのです。砂と同じくその本にも、はじめもなければ終りもない、というわけです」
 彼は、最初のページを探してごらんなさいと言った。
 左手を本の表紙の上にのせ、親指を目次につけるように差し挟んで、ぱっと開いた。全く無益だった。何度やっても、表紙と指のあいだには、何枚ものページがはさまってしまう。まるで、本からページがどんどん湧き出てくるようだ。
(ホルヘ・ルイス・ボルヘス、篠田一士訳『砂の本』集英社文庫、2011年、p.141)

書物の起源冬のてのひら閉じひらき  寺山修司 「望郷書店」『寺山修司著作集 第1巻 詩・短歌・俳句・童話』クインテッセンス出版、2009年


【註】

〔*1〕
ちなみにこの特集にはどんな記事が組まれていたか任意であげてみると、
森村泰昌「デテステミュージックのこと」、小谷真理「ソンタグから遠く離れて」、松尾スズキ「悪趣味と「きどり」」、バクシーシ山下「愛は負けず嫌い」、横尾忠則×中沢新一「霊と貨幣のテロル」、高山宏「アルス・マカロニカ」、巽孝之「〈鉄男〉が時を飛ぶ 日本アパッチ族の文化史」、上野俊哉「市民たち、悪趣味たりうるにはあと一歩だ! 悪趣味の文化政治」、風間賢二「バッド・テイスト・ストーリー20」、佐々木敦「キャロライナー試論」などが、ある。

これも任意だが、たとえば、〈悪趣味〉に関しては以下のような言説がある。

「悪趣味であるか、いい趣味であるか、そんなことはどうでもいいのだ。私の興味は、「そこにパワーは存在するか」、それにつきる訳で。」(松尾スズキ「悪趣味と「きどり」」『ユリイカ4月臨時増刊号 総特集*悪趣味大全』1995年4月、p.26)

「悪趣味と(良き趣味の)共同体の関係には、もっと回収不可能な関係、絶対に調停が不可能になるような契機=瞬間がありうるのであって、そうしたポイントを問題にしなければいささかも「悪趣味」について分析したことにはならない。」(上野俊哉「市民たち、悪趣味たりうるにはあと一歩だ!」同上、p.52)

〔*2〕
「カフカのテキストでは、いくら待ってもいつまでたっても、どこからも特別で霊的な──女性の──声は響いてくれない。ただ、それについての上級審なき議論が、果てしなくつづいてゆくばかりであるか、あるいは、おのれの不成立を抱え込んだ読み手が、読解不能のそのテキストを前にしてなすところがないかのいずれかである。『城』は、テキストの成立根拠をめぐる果てしなき論議の連鎖からなりたっている」(原克「判読できない判決文、あるいはあらかじめ下された死刑判決」『書物の図像学』三元社、1993年、p.128)

〔*3〕
書誌情報からのこの句の分析は、福田若之さんの「【句集を読む】 幻滅とその後 高山れおな『俳諧曾我』を読む」(http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/12/blog-post_16.html?m=1)を参照してほしい。このISBNの書物は、マシュー・ゲール、巖谷國士・塚原史訳『岩波 世界の美術 ダダとシュルレアリスム』(岩波書店、2000年)である。「この句の肝は『岩波 世界の美術 ダダとシュルレアリスム』を書誌番号で示したことなのだ。それは手法としてただ新しいから重要というわけでは決してない。そうではなくて、どうしても書物をたどらなければこのイメージにたどり着けない仕組みになっていることが重要なのである。タイトルと表紙は読めば記憶に残ることも多いだろうが、本のISBNなど、普通は記憶しない。それはむしろ、どこかに記録されている、という類のものである」と即時的な意味喚起をさせない句の構造を指摘している。


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