2016-10-30

逆説的に考える 宮﨑莉々香

逆説的に考える

宮﨑莉々香 



〈はじめに〉 


「特に指定はしないので、私の5句をあげてください」と言われたが、何について書けばいいのか到底わからず、しばらく頭を抱えることとなった。「気になる俳句」と言われても、そこには少なくとも私の主観が入ってしまう。その点がどうも引っ掛かった。しばらく考えて、広島大学の樫本由貴に「あなたがどのような俳句をいいと思っているのかわからないから、それをどこかに書くべきだ」と言われたことを思い出した。「何をもっていいと思っているのか」を完全に論理立てて述べることのできる自信など到底ないが、私が今、どのような観点から俳句を見ているのか、何に興味を持っているかなど、書きながら整理できたらと思う。


はじめに、私が俳句を見る根底にあるのは、俳句から伝わるそれ自体の魅力と、その俳句を形成する言葉の組み合わせや、言葉同士による音の響き合いによる魅力のふたつである。一方はそこに書かれている作品「もの」でありながら、一方はそれを形成している言葉「こと」であるからである。

その中でも今の興味の対象にあるのは、言葉の逆説の範囲を広げることである。具体的には、普通は「あるもの」に対して修飾せず、異なるものを修飾するその言葉をあえて、その「あるもの」に対して使うことや、その「あるもの」の性質を他の言葉の効果により広げること、ある事柄を書き、その事柄とは反対のことを思わせることである。簡単に言うと、普通はNGだと言われている言葉の組み合わせを違和感のないように見せることに挑戦しているものを指す。例えば、高屋窓秋の〈頭の中で白い夏野となつてゐる〉の「白い夏野」のような言葉の組み合わせ方。本当は、夏野に対して「白い」などという修飾はしないが、「頭の中」という状況を付加することにより、普通はあり得ない言葉の組み合わせが景として立ち上がる。

もう一点気になっていることは、例えば、「流れる」という言葉は「星が流れる」や「水を流す」など、ものを動かしたり、もの自体が動くことに対して使う。そのものが、つまり「〜が流れる」と言わずに、「〜(もの)が、〜(どうして)、目を流れる」というように敢えて一歩踏みとどまらせる書き方による「何がどうした」だけではない、「何がどうした+α」を見せる効果である。

以上のような言葉的組み合わせの面白さを書くことを満たしながら、しっかりとその事物が見える俳句になっていることを見つめたい。確かに言葉には、ひとつの今ある使われ方や在り方があるかもれないが、その在り方は私たちと社会の在り方によって、変化していくものであり、その言葉の持つ意味や、組み合わされる言葉同士の表現の範囲も広がっていくものであると考えている。文法の大切さや言葉の本意を守ることも身にしみて感じているのだが、一方でそれらを理解し、少しずつ例外を認める必要性も感じている。



〈私の5句〉

以上に述べた事柄により、私が俳句を見ているという前提を認めた上で、5つの俳句を挙げたい。5句はそれぞれ異なる観点からアプローチし、読み進めることを前提として選んだ。

①ひとつの作品として気になる俳句(名詞だけに徹底して書き、事物を浮かび上がらせる技)

ある作家が気になることと、作家のある作品が気になることは同じではないと考えている。ある作家が気になることは、「素敵な作品を書くその人らしさが気になる」ということで、その人らしさを探るために私たちは句集を読む。反対に、作家のある作品が気になるというのは、その人の作品をいくつか読んだ上で、「いつもとは違う、この人のこういう部分もいいなぁ」としみじみすることだと思う。 

はじめてのみちのほそみち犬ふぐり 鷹羽狩行 (『六花』1981年) 

「はじめての」と来ると、その後に続く言葉は何なのか、何がはじめてに当たるのかと思いながら読み進める。なるほど、私が歩いているのは、はじめての道なのか。この後、はじめての道にある「もの」もしくは、その場所で起こった、そこでその人のこころが受け取った「こと」を想像するが、そのような書き方は成されず、その道は「ほそみち」であるのだという、道自身の記述が続く。ふと、犬ふぐりが目に入る。ここまで歩いてきたけれど、派手な大きなものが待ち構えている訳でもなく、さりげない緑が風に揺られている。

名詞だけで書く時、私たちは十分に考えなければならない。なぜなら、その「もの」がそこにあるだけの「もの」として働いてしまう可能性があるからである。この句からは動詞を使わずに、とぼとぼと歩いて来る人の姿を想像することが可能である。「はじめてのみちのほそみち」のフレーズの平仮名はどれも曲線的で、述べ方もぐねぐね道を来ているような印象がある。名詞だけに徹底して、事物を動かす技術が巧である。

②川柳的な俳句

最近、名詞だけで作った俳句の中に、どこか川柳的なオチの可笑しみを感じる句を見かける機会が多いような気がしている。いつも使う言葉で書かれた、俗的生活に根ざした俳句は確かに嘘がないが、一方でその俗性にオチを感じてしまうことがある。「9月の俳句を読む」で取り上げた寿司出前専門店やスクータ据ゑ  小澤實は、「スクータ据ゑ」によりそこに置かれているスクータの様子が浮かび上がってくる印象を受ける反面で、寿司出前専門店に笑わされ、その笑いが「スクータ据ゑ」に引き継がれている印象も受ける。俗語による笑いが次の言葉へと引き継がれていると考えると、ここでの「スクータ据ゑ」はどこかオチ的にも感じてしまう部分が少なからずあるだろう。

同様に、〈「何が好き?」「ボクはやつぱり鮭の皮」 川又憲次郎〉の嘘のないそのままさが好きな反面、鮭の皮の落とし方には、オチ的な笑いが含まれるような気がしてならない。 

日に焼けし手首に輪ゴムそんな主婦 京極杞陽(『但馬住』1961年) 

俳句におけるどこか川柳的というのはいつからだろうと思い、ホトトギス同人であった京極杞陽に注目した。フフッと笑ってしまうような句は〈エレガントプリテイ薔薇はみな褪せし〉や〈木の葉髪あはれゲーリークーパーも〉〈今のめがねの前のめがねの秋の旅〉など特徴的に見られるのだが、掲句は「そんな主婦」のまとめ方がどうにも引っ掛かる。日に焼けた手首に輪ゴムをしているという、手だけに注目してく。「そんな主婦」により、その手が誰のものであるかがわかる。「そんな主婦」の「そんな」はあまりにもぼんやりとしていて、「そんな」を想像することは読者の想像に任されるのだが、そんな主婦は、奥様ではない主婦なのか、はたまた奥様でないようなこと(日焼けの手首に輪ゴムをしていること)をしている奥様なのか。「そんな主婦」に対する想像を繰り返すうちに、フフッと可笑しみがこみ上げてくるような。何が、川柳的にさせているのか、微妙な三段切れがそうさせるのだろうか。

京極杞陽の「そんな主婦」は、どこかその人が普段日常会話に使う言葉の一部であるだろう。普段の言葉遣いをそのまま書く、もしくは、目にした俗物を書くことにはそれがリアルであるという反面、ある一種類の笑いに落ち着いてしまうことが言えるだろう。

③上手な脚本のような俳句

上手な脚本は伝えたいメッセージと物語自体の構造が異なり、お話の中で、じんわりとそのメッセージを受け取ることができるものである。私の言うきゅうっとなる俳句は上手な脚本に似ているのではないかと考えている。読み下した時に、胸のどこかが、きゅうっとなる俳句。そのきゅうっ、は単に「せつない」や「さびしい」という言葉を使わなくとも伝わってくる。物語的刹那を「どういう気持だ」と直接的に言わずして伝える手法である。直接的に言わずしてものを使って滲み出すというのは俳句においては当たり前だとされるかもしれないが、以下の俳句を見てみたい。 

舞ふ雪や声掛けたくて相手なし 草間時彦 (『俳句研究』昭和523月号) 

『俳句研究』15句作品「くらがり」より。この句においては、何よりも「舞ふ雪や」が巧妙だろう。「雪舞つて」ではどこか理屈的になってしまう。雪の光景の中で誰かに声を掛けるシュチュエーションを感じながら、「アッ」と、声を掛けられずにいる私の姿、「相手なし」は、ぽつんとある、雪だるまのようにも見えてくる。雪の様子を描いただけではきゅうっ、とはならない。「声掛けたくて相手なし」によって描かれる一種の脚本的情景との組み合わせにより、効果が生じるのだが、ドラマ的光景におさまらない掲句のような、俳句の中の物語の在り方があるように考えている。

④ひとりの作家としての俳句

①で、俳句作品ひとつに絞って見るという観点からアプローチを行ったが、作家としての観点から作品を見たい。 

ひまはりかわれかひまはりかわれか灼く 三橋鷹女 (『羊歯地獄』1961年) 

三橋鷹女が好きな理由のひとつに、第一句集の印象が強い作家は多いが、彼女はそうではないということがある。第一句集『向日葵』には、〈夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり〉や〈みんな夢雪割草が咲いたのね〉など新鮮なものが並ぶが、晩年は自身の老いを見つめた〈白露や死んでゆく日も帯締めて〉等の俳句を書きながらも、作家としての変化を恐れず、ひとりの書き手としての在り方を貫いている。衰えることのない私性に確かなものを感じる。たしかにどの作家からも、その人の晩年の在り方や生き方がわかるのではないかと言われるかもしれないが、その人の名句と呼ばれるものが、その人らしさを保ちながらも、その人の名句としてのレベルを更新していくことはとても難しいことである。そのような自己更新の在り方を目指しながら書きたいと鷹女を読んでいると、身につまされる。

この句は言葉遊びのように「ひまはりかわれかひまはりかわれか」としどろもどろな述べ方をして、最後に「灼く」につながる。「向日葵とわたし、どっちが灼かれるのか、どっちだ、どっちだ」と展開を追う。「ひまはりかわれかひまはりかわれか」からは、向日葵の花が自分の顔と代わる代わるに浮かぶような印象も与える。ここでの「灼く」は向日葵よりも、私よりも、強いものとしてある。「灼く」の一点を目指して進む作りになっていながらも、「灼く」は独立する不思議を兼ね備えている。

⑤思い出を書き残すこと(思い出の俳句)

以下に挙げる俳句は少しだけ蛇足だと思われるかもしれない。しかし、その人の在り方を語ることが、ある句を読み返した時に少しだけ、違った見え方をすることがあるのではないだろうか。

私たちは一つのテクストとして俳句を読み進めるが、文章を読む時には、テクストの読みの掲示と同時にその俳句に関する語りを期待しているところがある。例えば、田中裕明の〈空へゆく階段のなし稲の花〉は白血病闘病の語りを付与することで、よりその句が心にしみわたっていくのではないだろうか。「人の思い出を聞かされても」と思うかもしれないが、その思い出を語ることは、時に、その人の俳句に寄り添うための鍵となるかもしれない。 

林が疎まつすぐ行けば水芭蕉  堀下翔(角川俳句賞応募作品より 2015年) 

堀下翔に、大学の近くの植物園でよく俳句を作っているからぜひ来てほしいと言われ、皆で足を運んだ。その時にはじめて、林を抜けた明るみにある、この水芭蕉の景色からこの句が生まれたのかと思った。

私が俳句をはじめた時には、もう既に亡くなられていた方が沢山おり、私がその人を知る手掛かりは残されているテクスト(俳句)しかない。そのテクストによってその人はどのようなことが書きたかったのかを推定することは出来るし、その方法が真摯であるようにも思う。しかし、一方でその人を知っている人から、昔話を聞くと、私と重なり合うことはなかったその人のことを少しだけ近くに感じられる。これまでは、書いたものに作家としての在り方が象徴されているような気がしていたが、その人物が時代の流れの中でどのような俳句的立ち振舞や行動をしたのかということも作家としての在り方に含まれる気がしている。


〈おわりに〉

以上の5句をそれぞれ異なる点から挙げながら、思うところを述べた。書き進めるうちに、「面白い」と思われている裏側には少し問題があることもあり、同じように、誰かが「つまらない」と思っていることには、違う人の「面白い」が含まれることもある、そのような逆説がそれぞれに含まれていると考える。私たちは、それが本当であるのかを懐疑することにより、物事を考えはじめるが、一様に考えた上で、異なる可能性を探ることが今必要とされていることではないだろうか。

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