2016-10-30

夏をがしっと 近見晴海

夏をがしっと

近見晴海


夏がよくわからない。あんなにまっすぐで、あんなにもひねくれていて。まぶしくて暑いのが果てしなく続きそうに思えるのに、信じられないほどあっという間だ。初夏のきらめきへ駆けだして、夏半ばのまばゆさに佇んで、晩夏になると口をつぐんでしまう。数直線の12か月の、その夏の部分にいる間だけ夏の部分はおおきく緩くたわんでいってそれで抜け出せなくなって、なのに振り返った時にはもう戻れない直線なのだ。

夏は歯がゆい。「全力」が語彙にふえるから踊ってしまうし、転んでも踊りきってもひりひりするように仕組まれているし(わたしはびびりなので踊りきれた試しがないし)。それでも踊りたくて踊っているあいだにもいろいろのことが記憶として遠ざかって、気がつけばふしぎな祭りの踊りの輪のなかにいてその頃はもう秋だ。 

たしにとってかけがえのない夏そのものだった、吹奏楽の大会も俳句甲子園もなんだかあんまり大きくて、やみくもに食らいついてはそれなりの結果が出たり出なかったり、気がつけばいつももう夏のおわりだった。それがなんだか割り切れないで、夏をがしっと捉えてみるべくして、その年その年を生きている気がする。だけど夏を生きていると、夏に迷子にされてしまうので、反則をしていま夏を捉えようとしてみることにする。もうじき冬だけれど。



今回は五つの角度から。まずは先日『里』の見本誌と一緒に頂いた、現実感とユーモアのあるこの句集から一句。 

メニューにソーダ水とあり誰も頼まぬ 瀬戸正洋(『へらへらと生まれ胃薬風邪薬』) 

夏季補修を終えて午後のファミレスに来ている男子高校生たちだろうか。それとも土曜の昼下がり、大人たちの女子会だろうか。あちー、飲み物だけでよくね? と男子高校生。ひとまず飲み物を頼もっか、と件の女子会。どちらにせよ。ひらかれたメニューのドリンクページには、紅茶にカルピスにジンジャエール、ほかにもたくさんのみずみずしいものたち。その中に「ソーダ水」の文字。きっと、みな一瞥はしたのだ。けれど選ばなかった。無意識に見落としたひとや、今回はいいやと候補からはずしたひと。四、五人で囲むそのテーブルにウエイトレスが来て、しばらくお待ちくださいと去っていく。その後ろ姿などすぐに忘れて喋っていたことのつづき、でもそのうちのひとりは内心でちらとおもう。誰も頼まなかったソーダ水のことを。

これは〈不在〉の句だと思う。そういう括りがあるのかはわからないけれど。わたしはこういう構造に惹かれやすい。きらめきのなかを突きあってはしゃぎながら、笑って目を細めたときにきっと「何か」見逃しているわたしたち、そしてまばゆい季節であるがゆえにそういう事案のとかく起こりやすい、夏。この頼まれなかったソーダ水は、その「何か」の象徴みたいにも見える。



わたしにとってのそんな時間が詰まった地・松山にこの夏帰省した際、母校の図書館で句集を読みふけった。県外に出てはじめて、俳都松山に育っていかに恵まれていたかわかった。

手に取った幾冊かのうちの、『破墨』から一句(序盤に収録されている「なまぐさき日を揉んでいる海月かな」に惹かれて読み進めた一冊) 

浴衣干すひらりひらりと影飛ばし 高橋桃衣 (『破墨』) 

着ていた人の姿かたちが宿っているような浴衣だ。ひょっとすると、たましいみたいなものまで。こういうのを面影というのだろうか。「ひらりひらりと影飛ばし」というと浴衣に意思があるみたいで、でもたぶんほんとに、浴衣って生き物なんだとおもう。

夏の夜はふしぎだ。いま右に飛んだ影が、さっき左に放たれた影と同じものの影なのか、わたしにはわからなくなる。いまは凪いでいる眼前の浴衣が、つぎの風にはためいて夜に逃げ出してしまってもおかしくはない。翌朝目を覚ますころには、もとどおり干されていたりなんかして。



句集を読むようになったのはたしか高校二年生のときからで、はじめて読む句集の、まず装丁のうつくしさに胸が高鳴ったのをはっきり憶えている。「半年後、私たちは太陽の向こう側にいる。」という言葉に惹きつけられたあの季節から二年。つまりはふたたびそのときと同じ側にいる、ことになるだろうか。改めて読み返したこの句集から一句。 

合ひたくて地団駄を踏む夏の鴨 正木ゆう子(『夏至』) 

広大詩歌句の会、というサークルに参加しているのだけれど、顧問の教授が第一回合評会のときにこう漏らした。「近頃のラブソングはみんな「会いたい」とか「会えない」だとかばかり…。」

わたしは与謝野晶子の「清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふひとみなうつくしき」という短歌が好きで、逢うという動詞が結構すきなのだけれど、顧問の意見には同意である。似たり寄ったりでつまらないなと思うことが多いからだ(とはいってもかなり涙腺がもろいので、不意打ちで聴いて共感してしまうことはよくある)

さてこの句だが、「会う」じゃなくて「合う」なのがまさにだと思う(高校生のときに作文を書くために調べて知ったのだけれど、「出会う」は人間が対象で、「出合う」は事物が対象らしい)。夏は心なしかときめきを探してしまう。恋愛としてのときめきではなくて、もっと純朴な好奇心としてのときめきだ。でもそれがなんなのかがわからない。どこに行きつくのかも間に合うのかどうかも、肝心なことがなにもわからない。おのれ夏。というわけで突き進むしかないのだが、青春アニメのヒロインみたくスピードをだしているつもりでもカンカン照りの下をひいひい言いながらやっとこさ進んでいくことになるのが現実である。そんな道中、この暑い日の、それも陽だまりの池のなかを、鴨がぱしゃぱしゃやっていたりする。愛嬌があって微笑ましいので思わず足がとまる。と同時に、じぶんの必死さが滑稽なのを自覚させられる。どうあがいてもそれは不格好で、けれどともかく進むしかない。地団駄である。



念願かなって今年の秋はじめ、新宿紀伊国屋書店を訪れることができた。せっかく東京まで来たのだからできるだけ新しそうなものを、とおもって見ていて、七月のおわりに出版されたこの本を手に取った。句集の名の由来も心愉しい『文様』から一句。 

死んだから自由にしてと黒揚羽 鳴戸奈菜(『文様』) 

五指をぴんと伸ばして、小指の側を下にした手のひらをつくえに垂直に打ち付ける。たん、と短く音が鳴って、それっきり。死ってそういうものだとおもっていた。

じゃあ、ここがピリオドだと決まっているところで終われなかった物語はどうなるのだろう。そのまま垂れ流しに続いていくしかないのだろうか。

たん、と死んだ瞬間に、言葉は、意識は、もうおしまいになったはずなのに、そこには声がある。「死んだから自由にして」と。死ぬ、がピリオドだったはずなのに、こんなのは不条理だ。でも自由ってむずかしいし、わたしが黒揚羽にできることはなにもない。炎天下、あるいは濃い影のなかで、ただただ黒揚羽に視線を注ぐしかできないうちに空間がひずんでいきそうな感覚がする。夏蝶に蟻が群がってくる。蝉がもうずっと反響している。収束させることのできないいくつもの事態と、供養できない声たちが、いっそうざわめくような季節だ。



最後はこの夏、俳句甲子園全国大会の会場で購入したこの句集から(審査員として語る著者の声を生で聞いたこの夏の高揚感は忘れられそうもない) 

八月と言葉に出せば偲ぶ如し 池田澄子(『思ってます』) 

晩夏に敬虔な気持ちになる意識と、原爆や終戦記念日が八月にあることとは、密接に結びついているような気がする。直接的にそうおもうわけではないのだけれど、おそらく無意識のなかで。第二次世界大戦にまつわるもろもろの捉え方が国によってちがうのとおなじ理屈で、もしわたしが日本人として生まれ育っていなかったなら、夏というものに抱くニュアンスがきっとちがっていたと思うのだ。 

八月と言葉に出せば偲ぶ如し。たとえば言論の自由を危ぶむ主張も掲げられる今の時代に、この俳句はしずかに力強い。具体的なことが言われていないからこそ、何かひとつを指すよりずっとしなやかで丈夫だ。どんなに明るい景色をまえにしても、あるいはまばゆさのなかにいるときこそ、この意識を持ち続けねばとおもう。屈折角の大きな季節には尚更。

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