『近現代詩歌』と僕の好きな五句
紆夜曲雪
紆夜曲雪
河出書房新社から池澤夏樹個人編集の日本文学全集『近現代詩歌』が刊行された。明治から現代までの詩・短歌・俳句を集めたアンソロジーで、個人編集とあるが俳句の選は小澤實が担当している(詩の選は池澤夏樹、短歌の選は穂村弘)。
こういう文学全集に俳句のアンソロジーが付されたのは一体いつ振りのことなのかと思って少し調べたところ、直近は『昭和文学全集35 昭和詩歌集』(小学館、一九九〇年)らしい。あるいは、明治以降という括りにこだわるなら『鑑賞現代日本文学33 現代俳句』(角川書店、一九九〇年)になるか。いずれにしても僕の生まれる前に刊行されたもので、当然のことながらこれらの本に関する当時の記憶はない。
だから今回、はしゃいでいる。
文学全集というもの自体、「そういうものが刊行され、インテリアとして揃える時代があった」というような認識でいた僕にとって、それはとても遠いものでもあったのだけれど、一方でブックオフに行けば一山いくらで買えるというとても身近なものでもあった。特に、よく文学全集の終わりの方に引っ付いている「現代名作集」や「評論集」、「詩歌集」は、知らない作家や作品に出会うことのできる、絶好のガイドブックだった。ジャック・デリダを知ったのは集英社の『世界の文学38 現代評論集』所収の「白けた神話」(豊崎光一訳)だったし、學藝書林の『全集・現代文学の発見』は松永延造や石上玄一郎といった作家の存在を教えてくれた。池澤夏樹の文学全集は、世界文学全集のときから、そういうなつかしい華やぎとともにやってきて、そして今年の九月末、新しい詞華集を僕たちの前に落としていった。
試みに『昭和詩歌集』と比べてみると、今回のアンソロジーの特徴が少し見えてくる。『昭和詩歌集』は千ページを超える上に三段組という、とにかく作品の量が豊富で、最初から最後まで読み通すことを想定していないような形式で編まれている。その点でいうと『近現代詩歌』の、一人五句に口語訳と鑑賞文という形式は、さらりと読み通すことができて、入門として極めて優しい。全集の一冊で、ここまで作品数を削ったアンソロジーって今まであったんだろうか。たぶん、なかったんじゃないか[1]。それに、入門用だからといって選が安易なものじゃないというのも、目次を眺めていると窺われてくる。
たとえば、個人的な関心でいうと、文人俳句として夏目漱石とかじゃなく尾崎紅葉を収録したことは、子規以外の俳句近代化運動の存在を見えやすくしていると思うし、一方で、そういう運動の割を食ってしまった旧派の増田龍雨を紹介していることなんかは、大切なことだという気がする。
というわけで今回のアンソロジー、それに小澤實の選にはかなり敬意を払っているのだけれど、もちろん全てに満足するような選というのは、ありえない。前置きが長くなったが、『近現代詩歌』が「近代・現代俳句のみごとなまでの多様性を示したいと思った」としつつ、扱いきれなかった、というより扱いえなかったものの中で、個人的に好きな句を、わずか五つだけれども、その周辺に並べてみたい。そうすることで『近現代詩歌』の立ち位置もちょっとは見えてくる気がする。作者・書誌の情報などの体裁は『近現代詩歌』に倣った。
高篤三(こう・とくぞう 一九〇一~一九四五 畑耕一門)[新興俳句 近代の抒情と下町の情緒]
目つぶりて春を耳嚙む処女同志 (雑誌『句と評論』 一九三四年四月号)
今でいう「百合」を詠んだ俳句ということになるだろうか。耳を噛むという行為と「処女」という言葉から性のニュアンスは感じられるが、「春の」でなく「春を」と開放感のあるフレーズになっていることで、「処女」という個人でなく、むしろそれを包み込んでいる世界ないしは空気のあり方を描こうとしているように見える。また、この少女たちは深い内省や禁忌の意識に身悶えているわけでもなさそうだ。水彩画のようなごく淡いタッチで描かれている。
高篤三が八巣篤という号だった初期の作品で、この作者の真骨頂になる少年少女や浅草を描いた作品にはまだ距離があるが、ぽっかりと青空の空いている野原のような、自省や懐疑の介在しない作風の端緒は見えている。「新鮮な野菜があつて水の秋」(同、同年十一月号)の瑞々しさも「浅草は風の中なる十三夜」(同、三七年七月号)の情緒も、恐らくは掲出句と根を同じくしている。高篤三の作品が持つ不思議ななつかしさは、稲垣足穂の『一千一秒物語』などにも少し繋がって見える。「しろきあききつねのおめんかぶれるこ」(『俳句研究』、一九三八年六月号)「桃色の日光(ひかり)の中の花祭」(同、一九三九年五月号)
高篤三は新興俳句系の雑誌出身ゆえにその括りで語られることが多いが、一方で浅草に生まれ育ち、下町の庶民文化の洗礼を受けた人でもある。その点でいうと、久保田万太郎などとの繋がりでその作品を語ることもできるかもしれない。近代的な情緒を確かな手つきで掬いとる巧緻な言語センスと、下町の情緒への志向。この両方を併せ持っていた高篤三の作品の面白さは、そのどちらの文脈にも回収しきれないものだ。
阿部青鞋(あべ・せいあい 一九一四~一九八九)[虚の実在感]
虹自身時間はありと思いけり (『火門集』八幡船社 一九六八年)
高篤三が活躍した『句と評論』という雑誌は、実は渡辺白泉が当初活動していた場でもある。白泉がそこを脱退して創刊したのが『風』という雑誌で、ここで白泉、三橋敏雄、そして阿部青鞋が出会うことになる。この三人が戦時中していたという有名な(?)古俳諧研究の資料を探しているのだけれど、どの雑誌に当たればいいのかよくわからない。たぶんこの辺なんだろう。
掲出句を見てもわかるように、阿部青鞋の俳句は割と変だ。少なくとも、他にこういう作品は今でもあまり見ない。談林派俳諧の影響を指摘されていたりはするけど、三橋敏雄の「撫で殺す何をはじめの野分かな」(『眞神』)などと違って形からの影響関係は見えにくい。青鞋は古俳諧から、存在の根源に雫を落とすような、ユーモアのにじませ方を学んだ。
掲出句は、なんにせよ、虹というものが、時間というものはあるのだな、と思っているという。虹は時間が経つと消えるものだから、地上にいる人が、虹を見て時間の流れに思いを馳せるのは普通だ。けれども、この句は「虹自身」が「時間はあり」と思っているらしい。
この句、虹と時間なのに全然儚い感じがしないのが面白い。これが「時は流ると思いけり」なら少しは儚い感じも出ただろうけど、「時間はあり」、この重たい響きだ。同じ作者の「想像がそつくり一つ棄ててある」(『ひとるたま』)もそうだが、人間が考えたに過ぎないはずのものが、ずっしりとした実在感を得てそこに現れている。「虹自身」という言い方も、「虹」というぺらぺらのものに存在の重みを与える、とても強い言葉だと思う。阿部青鞋は〈虚〉のものに、手で触れられるような実在感を与えて描くことのできる俳人で、無技巧のように見えることもあるけれど、物凄い力量を持っていたのだと思う。「一生の白いかもめが飛んでくる」(『火門集』)「水鳥にどこか似てゐるくすりゆび」(『続・火門集』)
小川双々子(おがわ・そうそうし 一九二二~二〇〇六 加藤かけい門)[中部俳句 人間存在と言語]
風や えりえり らま さばくたに 菫 (『囁囁記』湯川書房 一九八一年)
前述した阿部青鞋の職業は牧師だったのだが(ちなみに高篤三は生涯定職を持たなかった)、この小川双々子もクリスチャンだった。掲出句の「えりえり らま さばくたに」はイエスが十字架にかけられて最期に叫んだという言葉で、「神よ、神よ、なぜ私を捨てたまうのですか」という意味になる。風の中で菫がそう叫んでいるのかもしれないし、あるいは菫に対して誰かがそう叫んでいるのかもしれない。風の音なのかもしれない。「えりえり」は菫が風に揺れている姿の擬態語のようにも見える。四つの一字空きがきれぎれに声を攫うみたいで、あ、そういえば葛原妙子の「疾風はうたごゑを攫ふきれぎれに さんた、ま、りぁ、りぁ、りぁ」(『朱靈』)も聖母マリアだった。
ひらがなに開かれているのと「菫」という可憐な花のイメージのおかげで、ここに緊迫感はほとんどないのだけれども、風と菫というのどかな世界の中でイエスの最期の叫びを聴いているあたりには、同じ句集の「だけどこの子は空襲で死んだ草」のような、今は見えないが確かにそこに在った犠牲者の声を聴いてしまう、この作者の聴覚を看て取りたいようにも思う。「芒には砕けたる扉のひかりがある」も同句集。
話は変わるが、『近現代詩歌』の良かったところの一つとして、下村槐太が収録されたことは挙げられると思う(Twitterでそういう意見を見た気もする)。関西での戦後俳句を考える上で、槐太の存在は大きいものだったらしい。『近現代詩歌』では「関西前衛派」として鈴木六林男が紹介されて、代わりに関西に拠点を持っていた赤尾兜子の『渦』などは紹介されていないけれども、槐太を紹介したことで関西のシーンの多様性が窺えるようにしたんじゃないかと思う。
一方で、この小川双々子や、師に当たる加藤かけいなどが活躍していた中部地方の俳句というのが、いまだにいまいちよくわからない。関西俳句という括りが成り立つなら中部俳句の研究も同じようにあっていいと思うのだが、どうなんだろう、たぶんあるにはあるんだろうけれども。短歌の方では今年、加藤治郎が『東海のうたびと』という本を出していた。
加藤郁乎(かとう・いくや 一九二九~二〇一二)[俳諧と前衛]
牡丹ていっくに蕪村ずること二三片 (『牧歌メロン』仮面社 一九七〇年)
今まで挙げた三人はどちらかというと全集で扱うには躊躇われる、収録されていたらちょっとビビるような人たちだったが、加藤郁乎は実際に収録される可能性も高かったのではないかと思う。今回のアンソロジーで採りあげられた増田龍雨も、加藤郁乎が『俳の山なみ』などでその価値を説いてきた俳人だ。
掲出句は『牧歌メロン』の諸作の中ではまだ大人しい方の言語遊戯だが、それでも一般的な俳句とはかなり異なるつくりをしている。「牡丹ていっく」はロマンティックみたいな即席の和製英語でもあるし、「牡丹で一句」と句を吟ずる場の演出でもある。造語と作句がパラレルに運動しているわけだ。蕪村の「牡丹散つて打ち重なりぬ二三片」を踏まえながら、そのパロディに留まらず、元の句が生まれる現場を言語によって再構築しているような感さえある。
加藤郁乎は吉田一穂に師事して西洋の詩法を自家薬籠中の物とした人だけれど、その詩法を俳句に応用したというよりはむしろ、俳諧という方法を現代に応用しなおすことで、新しい現代詩、新しい言語を作ってしまった。思潮社の『現代詩文庫』でも句集を中心にその詩業が編まれているのは、加藤の俳句がそのまま一つの現代詩であるという評価ゆえのものだろう。「切株やあるくぎんなんぎんのよる」(『球體感覺』)
石部明(いしべ・あきら 一九三九~二〇一二)[現代川柳 異界のエロスとタナトス]
さびしくて他人のお葬式へゆく (『賑やかな箱』手帳舎 一九八八年)
インターネットという無作為に何でもかんでもを繋げてしまう真っ白な空間で育った僕たちは、いつの間にか中村富二やら石部明やらの川柳も眼にしてしまって、衝撃を受け、検索ボックスに「石部明」などと打ち込んでネット上で読めるものは一通り読んで紙に書き写してamazonや日本の古本屋で本を探したりする。そうやって享受するものは増えて、でも、俳句と川柳の距離感みたいなものは結局わからないままでいる。
この近いようで、たぶん実際遠くもない詩に、俳句はどのようにして接していけばいいのだろう。たぶん、これはこれからの話。
掲出句の「他人」は、死んでしまった人との絶対的な距離から生まれた呼称だと読んだ。死なれたらひとは圧倒的なまでに他人になってしまう。それも含めてさびしい。そういう距離を隔てた死者という「他人」に、それでもなお関係し続けようとしてしまう、それもまたさびしくて、きっとまた薄暗い路地を歩いてしまっている。「水に浮く赤い神社の赤い秘所」(『バックストローク第36号』)
こういう文学全集に俳句のアンソロジーが付されたのは一体いつ振りのことなのかと思って少し調べたところ、直近は『昭和文学全集35 昭和詩歌集』(小学館、一九九〇年)らしい。あるいは、明治以降という括りにこだわるなら『鑑賞現代日本文学33 現代俳句』(角川書店、一九九〇年)になるか。いずれにしても僕の生まれる前に刊行されたもので、当然のことながらこれらの本に関する当時の記憶はない。
だから今回、はしゃいでいる。
文学全集というもの自体、「そういうものが刊行され、インテリアとして揃える時代があった」というような認識でいた僕にとって、それはとても遠いものでもあったのだけれど、一方でブックオフに行けば一山いくらで買えるというとても身近なものでもあった。特に、よく文学全集の終わりの方に引っ付いている「現代名作集」や「評論集」、「詩歌集」は、知らない作家や作品に出会うことのできる、絶好のガイドブックだった。ジャック・デリダを知ったのは集英社の『世界の文学38 現代評論集』所収の「白けた神話」(豊崎光一訳)だったし、學藝書林の『全集・現代文学の発見』は松永延造や石上玄一郎といった作家の存在を教えてくれた。池澤夏樹の文学全集は、世界文学全集のときから、そういうなつかしい華やぎとともにやってきて、そして今年の九月末、新しい詞華集を僕たちの前に落としていった。
試みに『昭和詩歌集』と比べてみると、今回のアンソロジーの特徴が少し見えてくる。『昭和詩歌集』は千ページを超える上に三段組という、とにかく作品の量が豊富で、最初から最後まで読み通すことを想定していないような形式で編まれている。その点でいうと『近現代詩歌』の、一人五句に口語訳と鑑賞文という形式は、さらりと読み通すことができて、入門として極めて優しい。全集の一冊で、ここまで作品数を削ったアンソロジーって今まであったんだろうか。たぶん、なかったんじゃないか[1]。それに、入門用だからといって選が安易なものじゃないというのも、目次を眺めていると窺われてくる。
たとえば、個人的な関心でいうと、文人俳句として夏目漱石とかじゃなく尾崎紅葉を収録したことは、子規以外の俳句近代化運動の存在を見えやすくしていると思うし、一方で、そういう運動の割を食ってしまった旧派の増田龍雨を紹介していることなんかは、大切なことだという気がする。
というわけで今回のアンソロジー、それに小澤實の選にはかなり敬意を払っているのだけれど、もちろん全てに満足するような選というのは、ありえない。前置きが長くなったが、『近現代詩歌』が「近代・現代俳句のみごとなまでの多様性を示したいと思った」としつつ、扱いきれなかった、というより扱いえなかったものの中で、個人的に好きな句を、わずか五つだけれども、その周辺に並べてみたい。そうすることで『近現代詩歌』の立ち位置もちょっとは見えてくる気がする。作者・書誌の情報などの体裁は『近現代詩歌』に倣った。
高篤三(こう・とくぞう 一九〇一~一九四五 畑耕一門)[新興俳句 近代の抒情と下町の情緒]
目つぶりて春を耳嚙む処女同志 (雑誌『句と評論』 一九三四年四月号)
今でいう「百合」を詠んだ俳句ということになるだろうか。耳を噛むという行為と「処女」という言葉から性のニュアンスは感じられるが、「春の」でなく「春を」と開放感のあるフレーズになっていることで、「処女」という個人でなく、むしろそれを包み込んでいる世界ないしは空気のあり方を描こうとしているように見える。また、この少女たちは深い内省や禁忌の意識に身悶えているわけでもなさそうだ。水彩画のようなごく淡いタッチで描かれている。
高篤三が八巣篤という号だった初期の作品で、この作者の真骨頂になる少年少女や浅草を描いた作品にはまだ距離があるが、ぽっかりと青空の空いている野原のような、自省や懐疑の介在しない作風の端緒は見えている。「新鮮な野菜があつて水の秋」(同、同年十一月号)の瑞々しさも「浅草は風の中なる十三夜」(同、三七年七月号)の情緒も、恐らくは掲出句と根を同じくしている。高篤三の作品が持つ不思議ななつかしさは、稲垣足穂の『一千一秒物語』などにも少し繋がって見える。「しろきあききつねのおめんかぶれるこ」(『俳句研究』、一九三八年六月号)「桃色の日光(ひかり)の中の花祭」(同、一九三九年五月号)
高篤三は新興俳句系の雑誌出身ゆえにその括りで語られることが多いが、一方で浅草に生まれ育ち、下町の庶民文化の洗礼を受けた人でもある。その点でいうと、久保田万太郎などとの繋がりでその作品を語ることもできるかもしれない。近代的な情緒を確かな手つきで掬いとる巧緻な言語センスと、下町の情緒への志向。この両方を併せ持っていた高篤三の作品の面白さは、そのどちらの文脈にも回収しきれないものだ。
阿部青鞋(あべ・せいあい 一九一四~一九八九)[虚の実在感]
虹自身時間はありと思いけり (『火門集』八幡船社 一九六八年)
高篤三が活躍した『句と評論』という雑誌は、実は渡辺白泉が当初活動していた場でもある。白泉がそこを脱退して創刊したのが『風』という雑誌で、ここで白泉、三橋敏雄、そして阿部青鞋が出会うことになる。この三人が戦時中していたという有名な(?)古俳諧研究の資料を探しているのだけれど、どの雑誌に当たればいいのかよくわからない。たぶんこの辺なんだろう。
掲出句を見てもわかるように、阿部青鞋の俳句は割と変だ。少なくとも、他にこういう作品は今でもあまり見ない。談林派俳諧の影響を指摘されていたりはするけど、三橋敏雄の「撫で殺す何をはじめの野分かな」(『眞神』)などと違って形からの影響関係は見えにくい。青鞋は古俳諧から、存在の根源に雫を落とすような、ユーモアのにじませ方を学んだ。
掲出句は、なんにせよ、虹というものが、時間というものはあるのだな、と思っているという。虹は時間が経つと消えるものだから、地上にいる人が、虹を見て時間の流れに思いを馳せるのは普通だ。けれども、この句は「虹自身」が「時間はあり」と思っているらしい。
この句、虹と時間なのに全然儚い感じがしないのが面白い。これが「時は流ると思いけり」なら少しは儚い感じも出ただろうけど、「時間はあり」、この重たい響きだ。同じ作者の「想像がそつくり一つ棄ててある」(『ひとるたま』)もそうだが、人間が考えたに過ぎないはずのものが、ずっしりとした実在感を得てそこに現れている。「虹自身」という言い方も、「虹」というぺらぺらのものに存在の重みを与える、とても強い言葉だと思う。阿部青鞋は〈虚〉のものに、手で触れられるような実在感を与えて描くことのできる俳人で、無技巧のように見えることもあるけれど、物凄い力量を持っていたのだと思う。「一生の白いかもめが飛んでくる」(『火門集』)「水鳥にどこか似てゐるくすりゆび」(『続・火門集』)
小川双々子(おがわ・そうそうし 一九二二~二〇〇六 加藤かけい門)[中部俳句 人間存在と言語]
風や えりえり らま さばくたに 菫 (『囁囁記』湯川書房 一九八一年)
前述した阿部青鞋の職業は牧師だったのだが(ちなみに高篤三は生涯定職を持たなかった)、この小川双々子もクリスチャンだった。掲出句の「えりえり らま さばくたに」はイエスが十字架にかけられて最期に叫んだという言葉で、「神よ、神よ、なぜ私を捨てたまうのですか」という意味になる。風の中で菫がそう叫んでいるのかもしれないし、あるいは菫に対して誰かがそう叫んでいるのかもしれない。風の音なのかもしれない。「えりえり」は菫が風に揺れている姿の擬態語のようにも見える。四つの一字空きがきれぎれに声を攫うみたいで、あ、そういえば葛原妙子の「疾風はうたごゑを攫ふきれぎれに さんた、ま、りぁ、りぁ、りぁ」(『朱靈』)も聖母マリアだった。
ひらがなに開かれているのと「菫」という可憐な花のイメージのおかげで、ここに緊迫感はほとんどないのだけれども、風と菫というのどかな世界の中でイエスの最期の叫びを聴いているあたりには、同じ句集の「だけどこの子は空襲で死んだ草」のような、今は見えないが確かにそこに在った犠牲者の声を聴いてしまう、この作者の聴覚を看て取りたいようにも思う。「芒には砕けたる扉のひかりがある」も同句集。
話は変わるが、『近現代詩歌』の良かったところの一つとして、下村槐太が収録されたことは挙げられると思う(Twitterでそういう意見を見た気もする)。関西での戦後俳句を考える上で、槐太の存在は大きいものだったらしい。『近現代詩歌』では「関西前衛派」として鈴木六林男が紹介されて、代わりに関西に拠点を持っていた赤尾兜子の『渦』などは紹介されていないけれども、槐太を紹介したことで関西のシーンの多様性が窺えるようにしたんじゃないかと思う。
一方で、この小川双々子や、師に当たる加藤かけいなどが活躍していた中部地方の俳句というのが、いまだにいまいちよくわからない。関西俳句という括りが成り立つなら中部俳句の研究も同じようにあっていいと思うのだが、どうなんだろう、たぶんあるにはあるんだろうけれども。短歌の方では今年、加藤治郎が『東海のうたびと』という本を出していた。
加藤郁乎(かとう・いくや 一九二九~二〇一二)[俳諧と前衛]
牡丹ていっくに蕪村ずること二三片 (『牧歌メロン』仮面社 一九七〇年)
今まで挙げた三人はどちらかというと全集で扱うには躊躇われる、収録されていたらちょっとビビるような人たちだったが、加藤郁乎は実際に収録される可能性も高かったのではないかと思う。今回のアンソロジーで採りあげられた増田龍雨も、加藤郁乎が『俳の山なみ』などでその価値を説いてきた俳人だ。
掲出句は『牧歌メロン』の諸作の中ではまだ大人しい方の言語遊戯だが、それでも一般的な俳句とはかなり異なるつくりをしている。「牡丹ていっく」はロマンティックみたいな即席の和製英語でもあるし、「牡丹で一句」と句を吟ずる場の演出でもある。造語と作句がパラレルに運動しているわけだ。蕪村の「牡丹散つて打ち重なりぬ二三片」を踏まえながら、そのパロディに留まらず、元の句が生まれる現場を言語によって再構築しているような感さえある。
加藤郁乎は吉田一穂に師事して西洋の詩法を自家薬籠中の物とした人だけれど、その詩法を俳句に応用したというよりはむしろ、俳諧という方法を現代に応用しなおすことで、新しい現代詩、新しい言語を作ってしまった。思潮社の『現代詩文庫』でも句集を中心にその詩業が編まれているのは、加藤の俳句がそのまま一つの現代詩であるという評価ゆえのものだろう。「切株やあるくぎんなんぎんのよる」(『球體感覺』)
石部明(いしべ・あきら 一九三九~二〇一二)[現代川柳 異界のエロスとタナトス]
さびしくて他人のお葬式へゆく (『賑やかな箱』手帳舎 一九八八年)
インターネットという無作為に何でもかんでもを繋げてしまう真っ白な空間で育った僕たちは、いつの間にか中村富二やら石部明やらの川柳も眼にしてしまって、衝撃を受け、検索ボックスに「石部明」などと打ち込んでネット上で読めるものは一通り読んで紙に書き写してamazonや日本の古本屋で本を探したりする。そうやって享受するものは増えて、でも、俳句と川柳の距離感みたいなものは結局わからないままでいる。
この近いようで、たぶん実際遠くもない詩に、俳句はどのようにして接していけばいいのだろう。たぶん、これはこれからの話。
掲出句の「他人」は、死んでしまった人との絶対的な距離から生まれた呼称だと読んだ。死なれたらひとは圧倒的なまでに他人になってしまう。それも含めてさびしい。そういう距離を隔てた死者という「他人」に、それでもなお関係し続けようとしてしまう、それもまたさびしくて、きっとまた薄暗い路地を歩いてしまっている。「水に浮く赤い神社の赤い秘所」(『バックストローク第36号』)
[1] 短詩を網羅的でなく少数だけ掲載するという方法は、浅田次郎ほか編『コレクション戦争と文学』(集英社、二〇一一―二〇一三年)や高原英理編『リテラリーゴシック・イン・ジャパン』(筑摩書房、二〇一四年)などでも既に採られていたもので、今回のアンソロジーが発明したというわけではないけれども、〈全集〉が網羅性を犠牲にしているというのは凄いことのような気もする。もっとも、これは、この詞華集が持つ性質というよりは、今回の池澤夏樹版文学全集自体が持っている特徴なのかもしれない。
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