【週俳9月の俳句を読む】
何を信じて俳句と関わるか
今井聖を探る
大藤聖菜
縁あって高校文芸部時代から俳句をはじめて、細々と続けている私である。
なぜ俳句を続けているのだろうか、と考えたときに、ただそこに俳句という一表現方法があるから、というのが真っ先に浮かんだ。まあ確かにそうではあるが、我ながらなんだか格好つけた言い方である。
よくよく考えてみれば、結局は、俳句という表現方法があり、そこに私を誘う俳人・俳友がいるからであると気づく。そして、私にとって、そのうちの一人が今井聖なのである。
私は、上京してからしばらくの間、いくつかの大学の学生句会に出入りしていたり、いろいろな俳句のイベントなどに顔を出していたりしていた。地元にいた頃と違って、圧倒的に多くの俳人に会うようになった。その分だけ多くの俳句にも間近に触れるようになった。けれども、その分だけよくわからなくなった。参加する句会や吟行によって、他の参加者の様子をみてはつくる句の感じを変えてみたり、自分自身お気に入りの句であってもこの句会に出す雰囲気ではないなと思ったり。自分を周りに合わせて無理矢理調節していく感覚。しかも不幸なことに、私は要領が悪いためにその無理が利かなかった。結局いい句が書けない。
そんな中、誘われて行った「街」の句会で初めて今井先生に会い、私が抱えていた問題は解決の糸口を得た。私は、何を信じて俳句と関わるかを自分の中で確立していかなければならないと思った。今井先生に共感する点は多く、私が唯一「かっこいい」と思う俳人である。
以下は、おおよそその理由にあたり、私が今井聖の「住宅地」十句を読みながら、今井の姿勢を探っていったものである。
流星二つ竈神厠神 今井聖
いったい我々は、何に祈りを捧げ、何に願いを込めて、何を崇めて、何を畏れ、結局何に守られているのだろう。無宗教だと言われたり、八百万の神をもつのだと言われたりする我々日本人にとって、このような問題は重要かもしれないし、考えても仕方のないことかもしれない。
とにかく、この句はおもしろい。
流星というきらきらしたものに、まさかの竈神と厠神を重ねている。助詞や文脈もそぎ落とされた三、四つのワードの並びから、私は上のようなことまで考えてしまった。
このようなスタイルで勝負できるのは、今井の新しいものを追い続けた結果の発想力と言葉のイメージを大切にする計算力によるところが大きいと考える。
今井は、新しい視点、新しい表現、そして新しい身体感覚を常に求めている。
逆に言ってしまえば、いわゆる俳句の「上手さ」に関してそこまで重要視することがない。「上手さ」ばかりを追い求めて、本当は手に入れることができたはずの「新しさ」を逃してしまえば元も子もないからであろう。
また、「上手さ」だけで押し切ろうとする句を良しとしない。いくら洗練された句でも、興味深さを持ち合わせなければ意味がない。
句会の講評では、いつもそれを軸に語られているように感じる。何が新しくて何が古臭くていやか、何がおもしろくて何がおもしろくないか。
甚平の隣に犬の合羽干す 今井聖
秋日さす犬の歯型のある椅子に
かと思えば、犬の出てくる一見平凡な句が並ぶ。だが、犬は犬でも、犬の合羽と犬の歯形である。ともに生活をしているのであろう犬と人間の距離が、実際の犬を登場させるよりも一層近く感じられるから不思議だ。これはきっと、人間の着る甚平と犬の合羽、人間の座る椅子と犬の歯形、それぞれの対比が、我々の身体感覚の延長線上にある生活感覚のようなものを刺激してくるからだろう。
露草の一つ仮説のやうに我 今井聖
「私」を表現することを辞さない、これが今井のやりかたである。街の俳句誌の表紙裏に掲載されている宣言文にも、次のようにある。「私たちは「私」を露出させ解放することを目的とします。」
一般的には、俳句という表現方法の性質上からか、「私」を消してしまうことの方が多く、むしろその方が好ましいとされる場合もある。しかし、あえて「私」を出していくことで、急速に真新しい一句にたどり着けるような、そんな気がする。他でもない「私」が詠んだ、他にない「私」の句だ。そして、同時にそれらは他の読者の新しい発見、新しい感覚を引き出す可能性も秘めるに違いない。
我々は我々の身体と心(あるいは脳)を離すことはできないために、結局はどこまでも主観的である。数値のような客観的データを扱うわけでもなく、文学の分野における表現になれば尚更そうである。そうなれば本来、その「私」を出していくほかないのだ。
この句に関して言えば、実験用語であるはずの仮説という言葉が、固いイメージから少し離れ、露草という言葉に連れられて幻想的な響きをもつようになった。そこでもやはり「我」自身のことを考えられずにはいられない。それをあえて隠すことをしないのだ。まさに、そのようなものだと思ったことを露出させ、解放していく。
笑はない家族九月の砂の上 今井聖
永遠に下る九月の明るい坂
そして、「住宅地」締めくくりの二句は、これまたかなり印象的である。笑はない家族だとか、永遠に下るのに明るい坂だとか、周囲に潜んでいるふとした矛盾のようなものをそのまま提示する。嫌みっぽい中年のような感じはせず、すべてを悟って開き直ったつもりの老人っぽさもなく、これはお世辞ではなく本当に若々しい。
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