2015-07-12

【週俳6月の俳句を読む】この人の句をもっと 小池康生

【週俳6月の俳句を読む】
この人の句をもっと

小池康生


『末期』 利普苑るな

週刊俳句の『6月の俳句を読む』への執筆依頼が来たのは、編集部がこの『末期』十句をわたしに読ませたかったのではないかと推察している。昨年わたしは、角川俳句賞に『最初の雨』という五十句を応募した。これは、わたし自身が宣告を受けてからの治療、手術、術後の日々を描いたものだった。末期はのぞいていないが、末期かもしれぬという気持ちは味わった。

『末期』……あまりにも重い表題である。末期とは、死の寸前の限られた時間なのだから。作者に対し「死」という言葉を使うことさえ憚られるが、フィクションではない(と思える)作品に向かいあうためにあえて使わせていただく。

『最初の雨』を書き、相当な時間を経ての反省は、病床での俳句は、辛い悲しいのは当然のこと、本人にとって切実なことを書いても、赤の他人には、想像の範囲のことであり、悲しみや辛さはすべて「病床」という言葉の中にあると考えなければいけないこと。それは重々承知して創作にあたったつもりだったが、まだまだそれが足りず、病床の中にいる人間の幅広い感情や、意外な気持ち、意外な行動を詠いあげることができていなかった。

病の中になりながら病だけで生きていない自分や家族を、誤解を恐れずに書くことが必要だったということ。病床の中にある単調に見えつつ高低差の激しい感情。驚くほどのユーモアや、残酷さや、至ってニュートラルな感情……そういうバラエティさが欲しかった。それは書きながら意識してきたつもりだが、書き終え時間が経つとまだまだ物足りなく、反省多きデキだった。

この十句を読むということは、わたしの中のそんな背景を無視できない。

一句二句引くような読み方は難しいので、全部鑑賞してみる。

末期長くあれかし新茶啜りをり  利普苑るな

末期とは、ご病気の本人の一番つらい時期。看病する人も辛く、それでも長く生きて欲しいと願う。ここで、「八十八」というめでたい数字の隠された季語をぶつけてきた。

末期の状況に遠くにある「実り」を持ってきた。
香り高く、緑茶の新鮮な茶葉の色彩を17音に登場させた。
面白い取合せだが、作者自身が病を抱え、新茶を啜りながら、末期を長くあれかしと祈っているのだろうか。
それとも、作者は病人の看病しながら、その人の末期を「長くあれかし」と祈っているのだろうか?

「末期長く」というフレーズの中には「末長く」という言葉も織り込まれているのかもしれない。末期という重い言葉を使いながら、なかなかのユーモアである。縁起のいい新茶を飲みながら、末期の闘いに挑む。魅力的な劈頭である。

麦秋や病院よりも白き墓


麦の秋の黄金色。病院の白。それよりも白い墓。三つの色彩がわたしのなかではうまくまとまらなかった。

猫の待つわが家遠しや薔薇香る

帰る、帰られないと思い。やはり入院しているのは作者なのだろうか。
「遠し」が物理的な距離だけを指していないのは誰にも明白なのだが、薔薇はどう読めばいいのだろう。見舞いにもらった高価な薔薇。しかし作者には猫の香りが恋しいということだろうか。

病床の夏暁パッヘルベルのカノン


ドイツの、ヨハン・パッヘルベル作曲のカノン。卒業式や入学式に使われることの多い曲らしい。そうくると、病床の方はご本人ではなく若い方という想像も膨らむ。数句あとの「逆縁」という言葉も引っかかってくる。

あるいは、作者本人の卒業や入学を思い出しているのか。
それとも卒業や入学に関係なく、この曲の持つ旋律が作者の好みなのか。

全体の調べから、あまり悲しい感じはしない。好きな曲を、暁という最高の時間に聴いている場面が想像される。
入学や卒業も人生の大きな区切り。末期も大きな区切り、そういうものを引っ掛けながら、美しい明けの空をベッドから眺めているのかだろう。

聖五月額に楔打ち込まれ

強烈な句。数句あとの<夏蝶や水玉柄の脳画像>と合わせて読むとかなり苛酷である。わたしも内視鏡を体内に通しながら、モニターに映る自分の腫瘍を眺めたが、それは絶望しかない画面で、そこから検体の結果を待つ時間は、いくら楽天的な性格でも希望など持ちようがない。<額に楔を打ち込まれる>は、決して大げさではない。聖五月。クリスチャンだとしたら、この状況の意味を神に問いかけたくもなるだろう。この季語に磔刑の自分のイメージを合わせ、しかも楔は額に打ち込まれるのだから、どれほどの境涯を迎えているのか。あまりに切実である。額、そこに腫瘍があるとも読めてしまうが……。

逆縁の不孝よ父よ初蛍

「逆縁」が、作者と親御さんの関係なのか。作者と作者の子供さんとの関係かがまだ分からずにいるが、本人と親御さんとの関係と判断してみる。逆縁は幾つになろうが逆縁。この「初蛍」は、一句の中でどんな摩擦を起こしているのだろう。今年の初蛍は見ることができたのだろうか。まさか、思い出の初蛍ではあるまい。俳句のルールブックを気にしているわけではないが、思い出の蛍はいいとしても、思い出の初蛍なんて機能しないだろうなぁ。一連の句が病院内と思われるので、この初蛍の場所を想像しがたい。

かはほりや隣のベッドより寝息

この句が、十句のなかで最も印象に残った。自分が重篤であるだけでなく、同じ病室の人たちも皆それなりに重い病を抱えているのだろう。そして、病人の睡眠時間はまちまちである。蝙蝠がうごきだす時間、病院は慌ただしい。見舞い客の訪問。夕食を始める人、寝息を立てている人。病室でも、ロビーでも動きがある。窓からは、蝙蝠の乱舞が見える。不吉でもあり、その動きは慌ただしさや、錯乱などのイメージのつながりを生み出す。入院病棟ならではの生き生きした時間でもある。夕暮れに動き出す「かはほり」と「隣のベッドより寝息」の対比が際立つ。

病室より線路と航路朝ぐもり

病室より両方が見えるのだろう。それは末期の先の道の暗示と見るのが当然で、そうなると線路と航路が現実のものだとしても、このふたつを並列に記す必要があるのだろうかと疑問が沸く。もし並列に意味があるなら、それが読者に伝わるような描き方が必要だろうし、暗示として割愛できるなら、そのどちらかの路をもう少し書き込んで欲しいと思うのだが。

夏蝶や水玉柄の脳画像

末期の画像は怖いものだが、作者の事情は知る由もないので、作品は作品として読ませていただけば、この「水玉柄の脳画像」は悲しくはない。明るく弾んでさえ見える。入院中の画像はすべからく怖いものだが……。それとも疑いのあった画像を恐る恐る見ていたが医師の説明で明るい気分になったのだろうか。入院中の患者が、怯え、緊張したあとの開放感は相当なものだからなぁ。とんちんかんな読み方をしているのだろうか。病床の俳句として相当ユニークだ。

目鼻消し泣きたき日あり雲の峰に

人間そう簡単には泣かないものである。しかし、長い闘病生活のなかには、「泣きたき」日もあるのだろう。<目鼻消し泣きたき>が切ない。ひとりシーツに隠れてではなく、「雲の峰に」がいい。泣いてはいない心の叫び。夕刻の蝙蝠ではなく、真昼の雲の峰と向かいあっている。それは雲の峰でありながら、自分の中に屹立する自分を指しているのかもしれない。

闘病十句、説明をせずに思いの丈を詠いあげないことには面白くない。
しかし、それはなかなかすべてを理解できるわけではなく、作者とおなじ立場には立てない。ただ、垣間見る。歌の断片を聴くのみ。この人の句をもっと読みたくなる十句だった。


『秘密兵器』 喪字男

花合歓やピアスあふるるピルケース  喪字男

この句が特に印象に残った。
ピルケースにピアスが入っているのだ。ピアスを付けるときを身近に目撃する関係なのだろう。花合歓のほわーとした雰囲気に合う。花合歓の木陰でのシーンでも気持ちいい。〈あふるる〉ほどなのだ。さぞや趣味のあう品々が溢れているのだろう。女性の備品にはあまり深入りしてはイケナイ気もするが、それを垣間見る時間を得ると、親しみが増すことがある。


『何か書かれて』 福田若之

一句たりとも読み流せない手強い句が並ぶ。でも力を入れずに読んでみる。

ハンカチと呼べばそう詩と呼べばそう  福田若之

そう呼ぶから、そう認識され、そういう風に存在する。

広い田に引用されてゆく早苗


〈引用〉とう言葉に別のチカラを与え、それが嫌味でないことが不思議。

箱庭の作者が映り込む水面

カメラマンや監督を刺激するような句。箱庭の映像。そこにある水面。水面を強調したアングルではないのだけれど、すぐさまそこに箱庭の作者が映り込み、観客が「あっ!」と思うなり、その顔のサイズから水面のサイズ、箱庭のサイズが認識され、小さな驚きが錯綜感に変わってゆく。

夕立の幹にべたつく手が触れる

書かれていないことは、大きな木の幹で、暑い日にも関わらず木肌は乾いているということ。その気持ち良さを〈夕立〉と〈べたつく手〉で描いているのだろう。

何も書かなければここに蚊もいない


ハンカチの句と響き合い、この句でさらに飛翔させてゆく。
この十句を読んでの感想は、インテリ臭い句は嫌いなのだが、どうしてか、嫌悪感が沸かないということ。それぞれどこかに純化という仕事がなされているのだろう。


第424号 2015年6月7日
利普苑るな 末 期 10句 ≫読む
第426号2015年6月21日
喪字男 秘密兵器 10句 ≫読む
第427号 2015年6月28日
福田若之 何か書かれて 15句 ≫読む

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