2015-07-12

【週俳6月の俳句を読む】よすてびとのうたⅢ 瀬戸正洋

【週俳6月の俳句を読む】
よすてびとのうたⅢ

瀬戸正洋


この作品を読むと私は何も言えなくなってしまうのである。私のように口から出任せばかり言っている人間は、言葉を発することに躊躇してしまう。ただ、熟読する以外に何もないと思ってしまうのである。読むほどに、私自身の愚かさ、情けなさ、いい加減さ、不真面目さ等々が目の前に現れてくる。私は心の貧しい人間であることを自覚する。

それでも、感想は書かなければならないと思った。

末期長くあれかし新茶啜りをり  利普苑るな
麦秋や病院よりも白き墓
猫の待つわが家遠しや薔薇香る
病床の夏暁パッヘルベルのカノン
聖五月額に楔打ち込まれ
逆縁の不孝よ父よ初蛍
かはほりや隣のベッドより寝息
病窓より航路と線路朝ぐもり
夏蝶や水玉柄の脳画像
目鼻消し泣きたき日あり雲の峰


その思いの中で新茶を啜る。ことのほか美味しいと思う。墓を眺めていると病院の壁よりも白いと感じその白さばかりが気になる。麦畑が風に揺らいでいる。薔薇の香る病室にて愛猫の待つわが家に帰りたいと願い。夏の暁にはパッヘルベルのカノンを聴く。聖五月、額に楔を打ち込まれる。だが、額に楔を打ち込まれたのは私たちであることを誰もが理解する。逆縁は決して不孝なことではないのだ。その年、はじめての蛍に出会うと、いつものことのように、もの思いに耽ってしまう。隣のベッドからの寝息。それを何気なく聞いていると、作者の脳裏にはかはほりが現れる。朝ぐもりの中、病院の窓より航路と線路を眺めているうちに父と小旅行などしたいなどと思う。脳画像を見せられれば水玉柄のように感じ、目の前に夏蝶が現れてくる。時には目や鼻を消したいくらい両手で覆い泣きたい日が訪れる。だが、そんな日であっても作者は病院の窓の彼方にある雲の峰に気付く。私たちは、そんな彼女にすこし安堵する。


ねむられずあさぎまだらになりかかる  喪字男

あさぎまだらの成虫の前翅長は五センチほどである。その蝶が八ヶ岳から沖縄や台湾まで飛ぶといわれている。国境を越える唯一の蝶なのだそうだ。その生態は謎に包まれているという。さて、作者は眠られなくなってしまったのである。まどろみの中、あさぎまだらになりかかっているような気がしている。謎に包まれた生態。もしも、作者があさぎまだらになれたとしたら人類の秘密兵器として、世のため人のために働くことができるのだ。だが、実際は「なりかかる」のである。この中途半端さ加減が作者自身だと思うし、誰もがそうなのである。

身を守るための仕組みの暑さかな  喪字男

この不快さは、身を守るための身体の仕組みから来るものなのである。暑いと感じなければ身体がだめになってしまうのだ。そう思えば何とか、この暑さも凌ぐことができる。これは精神の話なのである。たとえば、風鈴を聞き、吊りしのぶを眺めたりすることで暑さを凌ぐということと同じことなのだ。何かに騙されるということは弱い人間が生きていくうえで、非常に大切なことなのである。

オルガンをうれしく弾けば揚羽蝶  喪字男

窓の外の揚羽蝶を眺めていたら何故かうれしくなってきた。集会場なのか教室なのかわからないが、そこにはオルガンがあったのである。うれしくなったからオルガンを弾いたのである。躓くように飛ぶ揚羽蝶とオルガンの奏でるメロディーが何となく近しいもののように作者には思えてきたのである。

黴臭きエックス線を浴びにける  喪字男

エックス線が黴臭いのではない。エックス線は無色透明、無味無臭。つまり、その部屋が黴臭かったのである。従って、エックス線を当てられる前に、黴の胞子を身体中に浴びてしまったような気がしたのである。そこは、患者のほとんどが医者と世間話をして薬を頂いて帰る。そんな診療所なのかも知れない。してみると、作者はその医者にとっては貴重な患者なのだ。

キャベツ畑へきつかり二秒間の雨  喪字男

キャベツ畠にいたら、ひとつぶの雨が落ちてきた。ただ、それだけのことなのである。「きつかり二秒間」が気になった。いい加減な私には、とても出てこない言葉だ。作者は、もしかしたら、几帳面な人なのかも知れない。

黒揚羽こつんこつんと水を飲む  喪字男

こつんこつんという仕草が面白いと思った。確かに、黒揚羽が水面では、そのような仕草をしたのだろう。だが、水を飲むときだけではなく、黒揚羽は、いつも、こつんこつんという仕草で飛んでいるようにも思える。つまり、「こつんこつん」とは黒揚羽の習性そのものなのである。そのとき、作者は、自分もそのようにして生きていることに気付いた。

くらがりに古ぶ上履き夏ゆふべ  喪字男

小学校の玄関だと思った。下駄箱には一年生から六年生までの上履きが整然と納まっている。四月に新調した上履きも夏休みの始まる頃にはだいぶ使い込まれ古くなってきている。下校して生徒のいなくなった玄関に作者は立っているのだ。

花合歓やピアスあふるるピルケース  喪字男

確かに花合歓にはピアスのイメージはある。ピルケースにピアスが溢れている。その様子もまた花合歓のイメージなのである。ピルケースにピアスが溢れていることに興味を持った男性の作者に興味を覚える。

おもひでに網戸の穴をくはへておく  喪字男

おもいでは、そのひとにとって一番大切なものなのである。そのひとの全てなのかも知れない。その、おもいでのひとつに、網戸の穴を加えておくという。その網戸は穴が開いているのだ。つまり、壊れている網戸なのである。さらに、穴は網戸とは違うのである。網戸の機能を損なわせてしまった穴なのである。他人にとっては取るに足らないもの、不用なものであっても、当人にとっては大切なものというのは確かにあると思う。

対UFO秘密兵器として水母  喪字男

水母は、対UFOに対して、何の役にも立たないのである。だが、作者はUFOに対抗できる秘密兵器なのだという。視覚的に似ているものの中で、一番、役に立たないものを選んでみたということなのかも知れない。反対に、水母を眺めていたらUFOをイメージした。そんなことなのかも知れない。だが、作者は、対UFOに対して、水母が秘密兵器であるということ何の疑いも持っていない。

出だしから吊られて夏の月うき世  喪字男

辛いことばかりで、かつ、儚い世の中に夏の月が出たのである。「出だしから吊られて」という言葉がうき世を象徴しているように思われる。夏の月は意志があり出てきたのではないのだ。出ることが嫌で嫌でしょうがないのだ。このことは夏の月に限ったことではなく作者自身も同様なのである。


名が鳥を仏法僧にして発たす  福田若之

仏法僧を知っているから仏法僧なのである。仏法僧を知らなければ、ただの鳥でなのである。仏法僧という名を知っているから仏法僧として発たしたのである。発たしたのは誰であるのか私は知らない。

ハンカチと呼べばそう詩と呼べばそう  福田若之

ハンカチと呼べばハンカチであると言っている。あらゆるものは全てそうなのである。人生とは自分で決めるものなのである。小説であろうと評論であろうと、これは「詩」であると本人が決めれば、「詩」であることに間違いはないのである。

広い田に引用されてゆく早苗  福田若之

広々とした田圃に早苗を植えていく。そんな作業を眺めていたら、あたかも「Word」に、コピーした文字を貼り付けていく作業に似ていると感じた。田植機の通った後には早苗が植えられている。「貼り付け」をクリックすると田植機と同じように「Word」に文字が並らび文章となる。引用という言葉から「コピー」「貼り付け」という言葉が浮かんできた。田植機の通ったあと整然と植えられている早苗を眺め、正しく、これは文学であると、作者は確信したのである。

古池が古び続ける梅雨、その音  福田若之

古池が、更に時を経た、とある梅雨の日の「その音」なのである。雨音、水面の揺れる音、風の音、風が何かを揺らす音...。ここまで書いて、何か、中途半端な解釈のような気がする。気がするということは、間違いなく中途半端なのである。私の中途半端な人生がそれを裏付けているのだろう。そんな私にとって「その音」たちは、私の脳髄を心地良く刺激している。

肉を得たことば蛆の口が動く  福田若之

肉とは腐った肉のことなのである。そこに蛆が湧き、蛆の口が動いたのである。俳句を作ることとは経験をことばとして思い出していく作業なのである。そして、この瞬間、作者の得たことばとは、「蛆の口が動く」ことなのである。

霊長のくちびる忌まわしく螢  福田若之

くちびるとは不幸を呼び込むものなのである。何か嫌な感じがするものなのである。それは、霊長類だけのことではない。美しいご婦人のくちびるこそ、不幸を呼び込む元凶なのである。蛍とは儚きもの。くちびるとは正反対のものなのである。作者も私も、美しいご婦人のくちびるの方が好きなのは当然のことだと思われる。

螢火がすでに言葉のなかに棲む  福田若之

言葉のなかに蛍火が棲むことは間違いなのである。何故ならば人は蛍火について語り尽くしてしまったのであるから。語り尽くすことで世の中が良くなることなど何もないのだ。知識をひけらかすことは罪悪なのである。

箱庭の作者が映り込む水面  福田若之

箱庭には池が作られている。小さな水面ができている。その水面に作者の顔が映り込んだのだ。庭の池の水面には顔が映ったりすることもあるだろう。だが、これは、箱庭なのである。人が拵えたものなのである。人が拵えたものに作者自身が映ること。それは、ひとつの歴史なのかも知れない。

蛾の思う蛾は蛾ではない鱗粉散り  福田若之

私が私であると思っていることは得てして他人から見ると間違っていることの方が多い。これは、私たちの話ではなく蛾の話なのである。だから、蛾にとって非常に大切な鱗粉が散ってしまうのである。自分を信じ過ぎること。それは間違いであり生きるうえで非常に危険なことなのである。

読むことに伴うまばたきと西日  福田若之

本を読むとき、太陽との関係は微妙である。西日となると、目にとっては、もうだめなのである。まばたきと西日。読むことにとって必要なものと不必要なもの。不必要なものというよりも、老人の目を痛めつける西日は害毒なのである。

夕立の幹にべたつく手が触れる  福田若之

夕立のとき幹は濡れていなかったのかも知れない。雨は、そこまで届かなかったのだ。雨宿りのために思わず駆け込んだ大木の下。幹に手が触れたとき、自分の手がべたついていたことに気付く。原因は、全て、こちら側にあるものなのだ。

病葉を語れば落ちてゆく言葉  福田若之

病葉は落ちていくものなのである。病葉を語るから言葉が落ちていく。私たちが何も語らなければ落ちるものなどないのだ。つまり、語ることが罪悪なのである。うつむいて、何も語ることなく、静かに、黙って暮すことが正しく生きることなのである。

しばらくは夕焼けのなか塔の麻痺  福田若之

夕焼けの中に塔がある。夕日に染まっている塔を眺めていると、塔そのものが麻痺しているような錯覚に陥ってしまった。麻痺するはずのないものが麻痺しているのだ。全ては夕焼けの仕業なのである。夕焼けは、いったい何を考えているのだろうかと作者は思っている。

何も書かなければここに蚊もいない  福田若之

文字にしたことにより、はじめて「蚊」は存在する。言葉を発するから何かが存在する。何も書かなければ存在するものなど何もない。言葉を発せなければ存在するものなど何もない。老人になると、存在する何もかもが消えてなくなればいいと思うときがある。

沸騰したお湯に入れて三分間待った訳でもなく、電子レンジに入れてスタートボタンを押した訳でもなく、ボンカレーをそのまま食べた。ご飯が温かいのでそれなりに旨いと思った。

三十数年前、正月料理に飽きボンカレーを食べた記憶がある。テレビでは箱根駅伝の復路のゴールの映像が流れていた。それ以来のボンカレーファンなのである。私は、決してカレーライスが好きなのではない。帰宅して夕飯がカレーライスだと嫌な気持ちになったりもする。有名な食材の入った高級レトルトカレーなど問題外なのである。

場末のスナックで、午前零時も過ぎた頃、カレーライス、あるいは、焼きそばを注文することがある。それが、ボンカレーだったり、マルちゃん焼きそばだったりすると、私は思わず顔が緩んでしまうのである。タクシーに乗り、ふり返ると、扉の前でママが手を振ってくれている。生きていくことも、まんざらではないなと思う。


第424号 2015年6月7日
利普苑るな 末 期 10句 ≫読む
第426号2015年6月21日
喪字男 秘密兵器 10句 ≫読む
第427号 2015年6月28日
福田若之 何か書かれて 15句 ≫読む

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