2026-06-28

柳俳合同誌上句会2026 外野席から選句する 湊圭伍×山田耕司

柳俳合同誌上句会2026
外野席から選句する

湊圭伍×山田耕司  進行:西原天気



--こんにちは。週刊俳句100号を記念して開催された「柳俳合同誌上句会2026」。そこに、投句していないおふたりが選と選評で参加するという企画です。来ていただいたのは、川柳から湊圭伍さん、俳句から山田耕司さんです。

湊圭伍さんは句集『そら耳のつづきを』(2021年/書肆侃侃房)のほか、管見の範囲でもいくつかの川柳雑誌で作品を拝見していいます。また、私にとっては、『新撰21』(2010年1月/邑書林)掲載の関悦史小論「《現実界(レエル)》のほかに俳句なし」(湊圭史名義)という出色の作家論が長く強く印象に残っています。

山田耕司さんには、2冊の句集、『大風呂敷』(2010年/大風呂敷出版局)、『不純』(2018年/左右社)があります。また俳誌『円錐』で定期的に句を発表されています。個人的に、山田耕司句のファンです。無季の句も少なくなく、ときおり「川柳寄り」と、浅薄な私見ですが思うことがあります。

こんなおふたりです。私の理解では、ジャンル横断的な思考やセンスを持ち合わせた方にお越しいただけたと思います。

外野席からの選句には、もっと違う人選もあったでしょう。例えば、有季定型しか作らない結社出自の俳人。川柳プロパーについて、私には理解がないのですが、もっと川柳川柳した句を作る方。それも、おもしろかったかもしれませんが、今回の投句一覧だと、大いに困惑させてしまうかもしれません。それはやめておいたほうがいい。

なお、外野席から誰かが選句するこの企画は、句会の参加者10名にはお知らせしていません。

前口上が長くなってしまいました。それでは始めます。それぞれ、特選1句・並選4句を教えてください。

湊圭伍〔以下湊〕●
確認ですが、3題合わせた全体から、特選1句、並選4句でOKでしょうか。

--はい、30句全体からです。川柳の方は、たくさんの選に慣れているせいでしょうか、毎回、1題につき5句選で送ってくる方がいらっしゃいます。今回の30句から5句選は、俳句だと若干多めでしょうか。少なめよりも多めのほうが盛り上がると踏んで、こうしました。

湊●
了解です。山田さん、よろしくお願いいたします! 違った選になったらおもしろそう、と思いつつ。

特選は
友引が千日続く青山椒

並選が
金魚草群れ咲くころは千葉の旬
はよ食べなさい空気が抜けてしまう
暗に麩は往復はがきねばならない
アヴェ・マリアにも網戸はおしゃべりだ

山田耕司〔以下山田〕●
わあ。湊さん。ご一緒できてうれしいです! 川柳の選をするの、実は初めてなんです。よろしくお願いします。

特選
どうしても千枚通しだとしても

並選
アヴェ・マリアにも網戸はおしゃべりだ
千代田区の電柱にある夏日かな
白桃をてこてこ運び来て小声
青梅雨や和菓子を買うて橋の上

--ありがとうございます。1句、選が重なりました。《アヴェ・マリアにも網戸はおしゃべりだ》。ともに並選です。選評をお願いします。

湊●
街のなかの建物の一室でコーラスが歌われており、ただ開け放った窓の網戸を通して、外の人声や騒音も入っている、という景を思い浮かべました。「アヴェ」は「こんにちは」や「おめでとう」の意味があるらしい(「こんにちは」と「おめでとう」だと全然意味が違うだろ!)。「アヴェ・マリアの祈り」はイエスを身籠って目出度いとマリアを褒めたたえる歌ということで「おめでとう」が八割程度か。

一方、「網戸」の外の「おしゃべり」は 同じ事態をまったく別の解釈で話しているのでは? 頼りない境界である「網戸」の内と外に別の語り・別の時間が流れていて、しかも、この句がどちらにも与してなさそうなのがよいと思いました。

山田●
なるほど。そうですよね。この網戸は、ひとつの結界のようです。アヴェ・マリアの聖とおしゃべりの俗。聖と俗との対比という視点は、俳句っぽいものかもしれませんけれど。それを隔てる結界。

音と音。その間にある網戸。音が簡単に通過できる透過性の高いものとして、この網戸を捉えることもできるとは思うんですけれど、私は、視覚を鈍らせるフィルターのようなものとしてこれを受け止めてみました。

聴覚で受け取れる素材の間に、対象を視覚的に鈍らせたり濁したりするフィルターがある。これって、クールでメタリックな絵を見た時の受け止め方の描写なのではないかしら、とも思いました。世界を鈍らせたり濁したりして、俗の手触りに拉致するのが、句を作る際の自己の手応えになっているんじゃないか、そんな読みです。聴覚と視覚の混線、そのひねり具合も手ごたえの一部として。

「アヴェ・マリアにも」の「も」の向こう側に、作者自身のうちなるあやうげな浄らかさが漂っているようにも思いました。

--ちなみに「網戸」は夏の季語ですが、おふたりとも、そこにはこだわらなかった。《網戸》を境界・結界という語で表現されました。聖/俗がそれをはさんで共存しているイメージは、この写真にもよく合いますね。難しい題だと思っていたのですが、この句は、写真の説明からも逃れていて、いい感じです。おふたりの選評を聞いているうち、どんどんおもしろさが増していきました。

湊●
おふたりの読み・ご説明で、俳人は視覚を意識しているというか自然にその観点が入ってくるのだなと思いました。「網戸」が季語というのも、機能性よりは目にも入るモノ性を読みとらせるように効いてくるのではないか。

--ああ、なるほど。俳句の場合、機能はすでに季語の「意味するところ」に含まれているので(防暑)、そこをすっ飛ばして視覚に行きがちなのかもしれません。

山田●
たしかに、視覚的な要素を勘案するところが俳句にはあるかもしれませんね。共有情報である季語を取り込むに際して、いかにその句の一回性という肉を与えられるか、という視点が反映されているのかもしれません。これって、写生という方法意識ではなくて、概念を形而下にひきずりおろして可視化するプロセスとして捉えることもできるのではないかとも思っています。

--ちがうフィールドからお越しいただいたおふたりの話、とてもおもしろくて、「網戸」だけで記事がひとつ成り立ちますね。それでは次に、それぞれ、特選の句について、コメントをいただけますか?

湊●
私の特選句は、

友引が千日続く青山椒

です。

「友引」には幸せを引く吉、不幸や死を引く凶どちらの面もあるとして、ただ、それがずっと続くのだとしたらまことに不穏で、凶の側が色濃くなっていくように感じます。しかも、「千日」! 一方、「青山椒」はよい保存方法があるとしても、その香りはさすがに「千日」は持たず、見た目の鮮やかな緑もくすんでいってしまう。

この句、一度や二度読む限りでは、上五・中七の不吉さを、「青山椒」のピリッとした刺激が抑え込んでいる。だが、さらに眺めつづけて、「友引」の語をくりかえし唱えていると、山椒のもつ一種の魔除けの作用はすり減って、引かれた「友」たちの集合体ののっぺりとした薄気味悪さが印象づけられてきます。

『千夜一夜物語』よろしく、「千」につづく「一」に何かが隠されているのかもしれないけれども。

山田●
私の特選は、

どうしても千枚通しだとしても

手にしている道具があります。それが千枚通しであるとして、その道具の視覚的な要素を描写するという方向に進みがちなのが、俳句なのかもしれません。

時に、この句は、そうした道をすべて捨て去っています。これが千枚通しであるかどうかも、怪しい。人を殺傷することができるような凶器を手にしながら、それを日常の連続に属する千枚通しだと言い張る人がいる。血だらけだったりするかもしれません。どう見ても千枚通しではなさそうなのに。仮にこれが千枚通しだとしても、どうして血まみれなのか、どうしても千枚通しだと言い張る根拠はどこにあるのか、そのようなドラマを内包しうる作品なのだと思います。

--ありがとうございます。それぞれの選評を腑分けするようにお互いに語っていただくこともできるでしょうし、聞いてみたい気持ちはあるのですが、それをやっていたら、夜が明けてしまいそうです。簡単に。「採らざる」の弁をお訊きします。山田さんは《友引が千日続く青山椒》を、湊さんは《どうしても千枚通しだとしても》を、選外にされた理由を。ほんと、簡単でいいです。

山田●
友引ばかりが続くのは、大安や仏滅が来ないということでもあります。他者との相互作用のみに浸る日常を想像しました。その想像に、青山椒のピリリをうまく絡み合わせることができませんでした。

湊●
「友引」と「青山椒」については、確かに絡み合わないですね。その点、言葉の読み取り自体は山田さんと私で変わらないような気がします。そのうえで、私はそれぞれの言葉がワガママに動いて、ある意味裏切り合っているのを楽しんでいます。俳句っぽい姿の句ですが、川柳的に読んでおもしろがっているのだと思います。

山田さんの評にある「千枚通しだと言い張る」の「言い張る」は川柳のけっこう大きい部分だと思います。ふつうに考えたら無根拠なことを言い切ることで、そうでしかないと読者を引きずり込んでしまう。

「どうしても千枚通しだとしても」の句については、川柳のそんな力技が効きそうな感じはあったのですが、「どうしても」と「だとしても」の音の重なりが気持ちよくないなというのがあり、それがしばらく読んでも解消されなかったので外しました。音のくりかえしが悪いというのではないですが、この句の場合、音の重なりがダマになって気持ちよく通り抜けさせてくれないような。

言い切りに引き込む仕掛けとしては、「だとしても」の締めが思わせぶり過ぎるかな、と思ってしまったのも選ばなかった理由ですね。

--ありがとうございます。今日はこのへんしておきましょうか。

湊●
昨日、俳句甲子園の松山大会で初めて審査員をしまして、そのあと夜中まで飲んで今日は二日酔い気味で、そろそろ瞼が重くなってきました……。

山田●
湊さん、私も土曜日に高崎会場にて審査員をさせていただきました。ご一緒でしたら、盃を重ねていたことと思います。今日はありがとうございました!

interlude

--それでは再開です。それぞれ残りの並選について。まず、湊さんがお採りの《金魚草群れ咲くころは千葉の旬》。

湊●
「金魚草」はよくある園芸品種で何度も見たことはあるんですが、好きでも嫌いでもなく、どこで見たか記憶にもあいまいです。たぶん名前に入っている「金魚」のせいで、言葉の強さよりも現実の印象が薄いせいでしょう。

千葉在住・出身の方には悪いが、「千葉」もまた印象が薄い。この句のポイントはこの二つの印象の薄い存在をやや言い過ぎの「群れ咲く」で彩ることで掛け合わせ、名前がもつ言葉のポテンシャルを発揮させている点にあると考えています。

現実には地名である「千葉」に「旬」などはないでしょうが、無数の花、千の葉が群れて重なり合うことによって、この句の中で作られた言葉の交錯でのみ感じられる「旬」の感覚が伝えられます。

--金魚草を調べると仲夏の季語なんですね。2月に南房総の花卉農家でよく見る花なので、春の季語かと思っていました。

湊●
そう聞くと、実景から書かれた、土地の「旬」についての素直な句なのかな。「金魚草」が仲夏の季語というのも、「金魚」に引っ張られたのかなあというところでおもしろいですね。

--次は山田さん並選の《千代田区の電柱にある夏日かな》。いかにも俳句的な体裁です。

山田●
千葉から、千代田区へ。連想させる物語の数が多すぎて、千代田区についてはイメージが絞り込めないところがありますね。一方で、電柱の方は無名性の表象のようでもあります。多くの情報文脈を退けて、無名なる存在に心寄せをしているのが、この句の眼目なのだと思います。

存在を示す動詞としての「ある」だと凡庸ですが、連体詞「ある」(ある日森の中クマさんに…という「ある」。某という意味)として、この「夏日」が無名な誰かの個人的な物語に属していることを暗示しているのかもしれません。「かな」という強調が、そのような読みを促しています。

--湊さんの並選、《はよ食べなさい空気が抜けてしまう》。これは俳句からは出てこない。川柳らしいと言っていいんでしょうか。

湊●
さすがにこれが俳句ならのけぞるかも(笑)。

まず、前半の会話体「はよ食べなさい」には、関西ふうのせっかちさがありますね。それだけではなく、五七五定型を諦めて会話体を採用することで生まれたリズム(あるいはその欠如)のせいで、後半の「空気が抜けてしまう」にもどこか音が足りないような、間の抜けた感が漂っています。

この句を読む体験そのものが、この「空気が抜けてしまう」感覚を味わわされることでもあります。言われるままに「はよ食べた」とて「空気」を食んでいるに過ぎず、とはいえ、空気が抜けきった皮のようなものが残るのだって気持ちいいとは思えない、というようなことを考えているうちに、この句の発話者はもう別のほうを向いている。

結局、「だから何(So What)?」なんですが、こうして「だから何?」まで 句を通過していく過程が川柳的体験だと思います。純粋川柳ですね(笑)。

--次は山田さん並選の《白桃をてこてこ運び来て小声》。

山田●
「てこてこ」をどう受け取るかですが、私は、幼い子供が大きめの白桃を抱えるようにこちらへ運んでくるさまを示す措辞として味わってみました。そのさまはかわいいものなのですが、それを消費することは、この句のポイントではないでしょう。

大切なものを一生懸命運んできました。ここにたどり着き、それを見せつつ、ひょっとしたら手渡してくれているのかもしれません。渡す相手だけに伝わる小声。そこに示されているのは、人と人との間に漂う親密さ。それこそがこの句の要と言えるでしょう。

「てこてこ」という表現で幼児のかわいらしさを引き出そうとしているのかもしれませんが、この言葉遣いにより、運ぶ主体としての幼児の姿を消すことにも成功しました。人の姿が書き表されていないことで、かえって「小声」の存在が際立っているようにも思います。

--最後ですね。湊さんの並選、《暗に麩は往復はがきねばならない》。

湊●
最初の「暗に麩」からよく分からないので、Google検索してみると、AI Overviewが〈「暗に麩」というフレーズは、おそらく松山市周辺のスーパー等で買える美味しい「お麩」についての話題か、もしくは打ち間違いのどちらかだと思われます。〉と教えてくれました。私の住んでいる場所が割れているのが気持ち悪いですね。

(松山はとくに麩の名産地やないやんけ、とつっこんでみたら、〈松山地域の伝統的な名産品として知られるのは「麩」ではなく、フワフワとした食感で知られる薄揚げの「松山あげ(程(ほど)の伊予名産 松山揚げ)」です。〉と出ました。程野商店の「松山あげ」は基本、刻みで売られていて、美味しくて使いやすく、軽いので、松山みやげにおススメです。閑話休題、)

「往復はがきねばならない」も相当ムリな言い回しです。「往復はがき(を送ら)ねばならない」と補ってやる義理は、読者には毛頭ない。句を真面目に読もうとすると、足場になるのは「麩」ぐらいしかないわけですが、足場としてはスカスカでいかにも頼りなく、読みの途中で裏切られる気しかしない。

これは、作者に直接「往復はがきねばならない」のでは。

--山田さんは、《青梅雨や和菓子を買うて橋の上》。お願いします。

山田●
絵の世界を叙景として捉えているとしたならば、その風景を説明するのではなく、気配を人のふるまいとして表現したところにこの句の良さがあります。「青」が効いています。絵との繋がりを示しているだけではなく、行為の清々しさを支えている世界観の基本色となっています。

ですが、私は、叙景の作品としてこの句を選んだのではありません。課題の絵には、道がありません。水路が見えていますが、そこからどこかへいける気配がありません。明るく美しい閉塞感。そんな印象を持ちました。

私がこの作品において着目したのは「や」です。俳句の切字「や」はテーマを提示します。そして、下へ読み進めたのちに、冒頭へ読者の視線を回帰させる働きを内蔵します。このような俳句ならではの修辞を用いることで、この明るく美しい閉塞感を示そうとしたのではないか、というのが私の視点です。一句の中で言葉が循環しつつどこにも行かない。それは、この絵の印象に限ることではなく、俳句作品がそれとなく目指す境地なのかもしれないと思うところがあります。

--ありがとうございます。選外で気になった句があれば、どうぞ。

湊●
最初、各題2句で選んでいて、【3 写真で一句】では次の句が並選でした。

夏川とさて明日はなき摩天楼

句の3分の2は題の絵を説明しただけで、雑と言えば雑な作りなんですが、「さて明日はなき」と大げさで無責任な見えを切ったところでその雑さが逆に活きていると判定します。

「摩天楼」は“Skyscraper”の訳で、この語は19世紀後半までは、背の高い人や馬、船のマストの天辺の三角の帆などを指していたらしい。1880年代後半にアメリカの大都市で高速建築が次々と建てられるようになってようやく現在の意味が定着して、それからまだ一世紀半しか経っていない。

暗渠から這い出てくる川、デジタル感のある絵に描かれた街にさえ「夏」を感じる感性からすれば、明日「摩天楼」が消えてしまってもどうでもよいではないか。瓦礫をどうするかについては考える必要がありますが。

結構暗渠好きなのでちょっとリサーチしましたが、この絵は渋谷川、八幡橋? 関東の人にはよく知られた場所なんですね、ネットに写真がいっぱいある。

--渋谷川です。「よく知られた」というほどでもないのですが。

湊●
山田さん並選の「千代田区の電柱にある夏日かな」「白桃をてこてこ運び来て小声」「青梅雨や和菓子を買うて橋の上」、それから「てのひらの蚊を捧げたり雨あがり」「ひるがほの花へ煙や鳥を焼く」、これらの句も、俳句としてまとまっていて世界の手ざわりがあり、 ぞれぞれに佳句だと思います。選んだ句と分かれたのはふり返ってみると、直感的に「読みで遊ばせてくれるかどうか」と感じたかどうかかな(評者のワガママですが、川柳の選や読みではこのワガママはけっこう大事だと思っています)。

とは言え、山田さん評を読んだ後だと、自分の俳句の読みの甘さを感じますね。「千代田区の電柱に・ある夏日かな」は思いつきませんでした。改めて考えると、俳句だと存在の「ある」は余分なので、という読みの展開は十分あり、というところなんですが。

白桃をてこてこ運び来て小声」の関係性まで踏み込んだ読みもなるほどです。私はからくりの茶運び人形を思い浮かべて、ちょっと気持ち悪い感じ、と読んでいました。子供のもつ異界性というようなテーマで。まあ、読み過ぎですね(笑)。

青梅雨や和菓子を買うて橋の上」は擬古典調?という辺りで私の読みは止まってしまいました。俳句のフォームにこだわることで読みを進められるのですね。

川柳らしい句では、山田さん特選の「どうしても千枚通しだとしても」、それから「さかなのうわさにふさわしかった」も気になっていました。「さかなのうわさ」の句は広がりがあってよいですが、ちょっとぼんやりしているとも言えて、周りに別の句を置く(連作?)ほうがおもしろくなりそう。実を言うと、投句一覧では、

さかなのうわさにふさわしかった
アヴェ・マリアにも網戸はおしゃべりだ

と並んでいて、キリスト教的な背景(イエス・キリストの象徴が魚[Ichthys イクトゥス])、「うわさ-おしゃべり」のつながりが(偶然?)生まれています。川柳の選者選の句会であれば、各題10句から5~6句ほど選ぶことになりそうですが、この2句はぜひ最後に並べたいところです。川柳・選者選ふうの選です(勝手に川柳句会、ですみません)。

【3 写真で一句】
タピオカ吸ふ暗渠の果てのあをぞらに
てのひらの蚊を捧げたり雨あがり
まやかしがまやかしを呼び照り返す
夏川とさて明日はなき摩天楼
さかなのうわさにふさわしかった
アヴェ・マリアにも網戸はおしゃべりだ

--なるほど。こう並べると、短句のない長句ばかりの連句のようです。《タピオカからおしゃべりまで、流れを感じます。句会もまた共同作業だったとは! 山田さんは、なにかありますか?

山田●
俳句と川柳が混在する中から選句をするのは、初めての体験でした。俳句らしさとか川柳らしさとか、それはよくわかりません。

そもそも俳諧は、〈和歌ではない〉ものとして育ってきたわけですし、近代俳句は、〈江戸俳諧ではない〉ことを足がかりに膨らんできたわけです。現代川柳も、幾層もの〈……ではない〉を潜り抜けてきたのではないでしょうか。

〈……ではない〉ものを選んでいる。その覚悟で、作品に向かい合いました。

すると、その結果、なぜこんなことを書くのだろうか、という作家の動機のようなものへの想像が鑑賞の中心軸となりました。選び終わっても、作家の動機などがわかったわけでもありません。しかし、〈らしさ〉によりかからずに鑑賞できた快感が、事後に残りました。皆さんの作品と湊さんの鑑賞文のおかげだと思っております。ありがとうございます。

--それでは最後に、余興として、どの5句が柳人作かを推理していただけませんか? ぜんぶは大変なので、【千】の10句で。もちろん、作者が柳人か俳人かなんて、あまり意味はないとは思うのですが。それに、俳句と川柳どちらもつくるという人も混じっていますから。あくまで余興で。

1 金魚草群れ咲くころは千葉の旬
2 友引が千日続く青山椒
3 千鳥格子の隙間に生まれ
4 一千年後のあたらしい息を吐く
5 千里眼で地球一周した風景
6 千代田区の電柱にある夏日かな
7 たのしい王手の千年でした
8 鳥除けの針千本と蜘蛛の子と
9 くしゃくしゃの千円札のアレやって
10 どうしても千枚通しだとしても

(番号で柳人作と思う句をお答えください)

山田●
3、5、7、9、10。

湊●
とりあえず、川柳っぽい句と俳句っぽい句に分けると、 川柳っぽい句が6句になってしまいました。うーむ、俳人が川柳っぽい句を出していたり、また逆もあるのか。そうなると相当難しいですね。

柳人が書いた川柳かな、と若干自信があるのが、5、7、9ですね。あと、3、4、10 が川柳っぽい句ですが、これらは俳人が書きそうな匂いもします。逆に、柳人が書いた俳句っぽいのは、1、2でしょうか。柳人がまず書きそうにないのは、6、8。

1、4、5、7、9で行きます。

ちなみに、かたちから川柳と判断するのは、3、4、5、7、9、10です。

--では、答え合わせ、行きますね。山田さんは4つ正解。10番は俳人作、それも山田さんがよくご存じの俳人です。

湊さんも4つ正解。1番は俳人作です。「川柳っぽい句ですが、これらは俳人が書きそうな匂いも」とおっしゃった3、4、10。10は鋭どかったですね。あと、「かたちから川柳と判断するのは、3、4、5、7、9、10」というところ、鋭いです。10を除けば、全正解。つまり、柳人作は、3、4、5、7、9です。

おふたりとも正答率80パーセント。クイズ的には充分に優秀ではないでしょうか。

あ、そうそう、おふたりの選句5句の内訳をお伝えしておきます。湊さんは柳人作を2句、俳人作を3句、山田さんは柳人作を1句、俳人作を4句、お採りです。どなたの作かは第1001号のリリースをおたのしみに。

今回はほんとうにありがとうございました。おふたりのおかげで、予想した以上におもしろいセッションになりました。

湊●
何だかテンションが高くて(俳句甲子園の影響?)、急ピッチで話してしまいましたが、楽しかったです。別の読みが出る緊張感と、山田さんならという安心感がありました。

山田●
ありがとうございました! 何かの機会に川柳の会に参加させてください。

(了)

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