2022-11-27

三島ゆかり ロボットが俳句を詠む

ロボットが俳句を詠む

三島ゆかり

『みしみし』第5号(2020年・晩春)より転載

本稿は『俳壇』(本阿弥書店)二〇一六年新年号から二〇一七年一二月号まで二年間連載された記事をほぼそのまま転載している。ディアゴスティーニの組立キットよろしく、新しい号が出るたびにネット上で機能追加し、それとリンクした記事を目指したが、開発状況により適宜脱線した随筆となっている。


一.福笑いのように

お正月と云えば炬燵を囲んで福笑いに興じたことを思い出す人も多いことだろう。顔の輪郭を描いた紙の上に目隠しをした子が目、鼻、口を並べてゆき、できあがった変な顔を面白がるという単純な遊びではあったが、おさなごころに偶然の快楽ともいうべきものを強烈にインプットされたのだった。

さて、俳句である。袋回しという遊びをやったことがある人も多いだろう。五人なら袋を五つと短冊をたくさん用意して一題ずつ袋に題を書き、五分とか時間を決めたら後はひたすら全員で自分の手許の袋の題で時間内にできる限り句を作って短冊を袋に入れ、五分経ったら隣の人に袋を回し、というのを一巡するまで繰り返す。そのような追い詰められた状況の中から、なんでそんな句ができたのか自分でも分からないようなよい句ができることがある。なまじ考えると、人はマンネリズムに陥りやすい。語の思いがけない衝突を「とりあはせ」として重んじる俳句においては、偶然をあなどってはいけないのだ。その考えをさらに発展させると、コンピューター・プログラミングというテクノロジーを利用して、客観的、散文的に意味をくみ取ることができない語の連なりをランダムに無尽蔵に作り出そうという試みに至る。俳句自動生成ロボット「はいだんくん」の誕生である。

手始めに句型の雛形をいくつか用意して、そこに季語や名詞をランダムに流し込んでみよう。

 ①ララララをリリリと思ふルルルかな
 ②ララララがなくてリリリのルルルかな
 ③ララララのリリララララのルルルルル
 ④ララララにリリのルルルのありにけり
 ⑤ララララにしてリリリリのルルルルル

などいくつかの句型の「ララララ」とか「リリリ」に音数だけ合わせ意味を無視してランダムに名詞や新年の季語を流し込むとこんな句が生まれる。

 あかるさを今年と思ふ烏かな  はいだんくん
 をととひがなくてつぎめの年男
 正月の影正月の水あかり
 身長に去年の昭和のありにけり
 しろがねにして真空の鏡餅

私は一年中こんな福笑いみたいなことをしている。


二.二月は春の季語なのか

ロボットで季語を扱おうという観点から歳時記を眺めていると、あらためて品詞のこととか暦のこととか人間なら気にしないようなことに気づく。

ロボットなので「ララララや」とか「リリリかな」のララララやリリリに字数の合った季語をランダムに流し込むことを考えるわけだが、まずそこで行き詰まる。歳時記に載っている季語はざっと八割方くらいは名詞だと思うが、そこに断りもなく「春浅し」のような形容詞や「冴返る」のような動詞が混在している。「や」や「かな」はその前が動詞でもさまになるが、「ルルルルの」のルルルルにはさすがに動詞は入れられない。「春立つの」にはできないのだ。そんな訳で名詞、動詞、形容詞などを分類し出すと、日常生活ではまず出会わないような「霾(つちふる)」とか「雪しまく」とか品詞すらよく分からないものに出くわしては途方に暮れる。

また、現在日付から本日使える季語を取得しようなんてことを考えると、暦の問題に直面する。歳時記の中では二十四節気と新暦、旧暦が混在する。大抵の歳時記で【春】を引くと、立春から立夏の前日まで、みたいな説明がある。この立春とか立夏とかは、二十四節気に由来する。二十四節気は純粋な太陽暦なので、うるう年のある新暦とは、四年に一日程度の誤差がある。だから立春を引くと(二月四日ごろ)というふうに「ごろ」という表記がある。これに対し旧暦はややこしい。月の運行をベースにすると一年が太陽暦にくらべ約十一日短くなってしまうことから、二十四節気との折り合いにおいてずれが拡大すると閏月を置いて補正した。そんな補正量の大きさなので陰暦の睦月とか如月とかは、新暦の何月何日ごろから何月何日ごろまでという記載がない。

さて、ロボットの話なのであった。では立春から立夏の前日までを「春」として、二十四節気ベースで二月四日から五月五日までの期間、歳時記にある春の季語を使えるとしようとすると、あれ? 春の季語には「二月」がある。では二月一日から二月三日までは「二月」を春の季語として詠んではいけないのか。ロボットはここで悩んで自爆したくなるのだった。

 立春の鏡は夢となりにけり  はいだんくん


三.動詞て?

前号まではランダムに変化するのは名詞だけだった。今回はロボットで動詞を扱おうという観点から考える。日本語がネイティブな人なら普通にできることが、ロボットに取り込もうとするとあらためて難しい。

その一。動詞は活用する。活用の種類として文語文法なら四段とか下一段とかカ行変格とかあって、それぞれが未然形、連用形、終止形、連体形、已然形、命令形に変化する。口語文法ならさらに五段とか仮定形とかになる。「はいだんくん」は語彙を句型に流し込んでいる訳だが、あらかじめ語彙を登録するときに四段とか下一段とかの種類を併せて登録し、句型の側で未然形とか連用形とかを指定し、流し込むその場でロジックにより活用させている。ところで動詞は語幹と活用語尾に分かれる訳だが、二音の動詞の一部では語幹が活用語尾になっている(例えば「見る」の未然形、連用形)。単純に終止形から活用語尾をとって、未然形とかの活用語尾を足せばできあがりという訳ではない。日本語はじつに難しいのだ。

その二。動詞によってその前に使える助詞は決まっている。「水を飲む」というが「水に飲む」とは言わない。「朱に染まる」というが「朱を染まる」とは言わない。助詞「を」「に」は、動詞によって使えたり使えなかったりする。対策として語彙を登録する際に助詞と動詞を組み合わせ「を飲む」「に染まる」という単位で語彙登録する考え方もある。が、助詞を省略して切り詰めた表現をすることもある俳句でそれをやることは面白くない。かくして語彙を登録するときに動詞の属性として「を」「に」が使えるかを併せて登録することにする。

その三。動詞の語尾は音便して「ん」や「つ」になり、動詞の次に来る「て」はときどき濁音となる。「見て」「聞いて」「言つて」「楽しんで」…。 このあたり、ネイティブな日本人はなまじ自然にできてしまうので、法則として理解を超えている。ロボットを開発するために、外国人相手の日本語学校に通おうかと思ったりもする今日この頃である。

 ふるさとに辛夷の少女満ちてきし  はいだんくん


四.修飾語をあしらう

前号までで季語、名詞、動詞をランダムに変化させるようになり、だいぶ俳句らしい目鼻立ちが整ってきた。さらに細やかな表現を獲得するために、今度は修飾語について考えてみよう。ただしロボットにやらせたいのは、意味が通ることではない。うわべだけもっともらしく、そのじつ、何言ってんだかさっぱり分からないもの、それでいて俳句以外のものではなさそうなもの、そんな句が求めるところだ。

さて、修飾を機能的に考えると、活用しない体言(名詞、代名詞)を修飾する連体修飾と、活用する用言(動詞、形容詞、形容動詞)を修飾する連用修飾があるわけだが、その区分よりは品詞ごとに見て行った方が分かりやすいだろう。

その一。形容詞。形容詞は事物の性状または事物に対する感情を表す。活用としてはク活用もしくはシク活用がある。赤し→赤く、など活用時にシが落ちるものがク活用で、うれし→うれしくなどシが落ちないものがシク活用であるが、動詞ほど複雑な活用ではない。
その二。形容動詞。「きれいだ」「すてきだ」の類いで、「だ」をとると名詞となる。異論はあるかも知れないが、ロボットとしては、名詞のひとつの特殊な属性として形容動詞を管理するものとし、活用語尾である「なり」とか「たり」は句型の一部として管理することにする。 形容詞や形容動詞は活用形により連体修飾となったり、連用修飾となったりする。ここまで来れば、修飾語として残る主なものはひとつだ。

その三。副詞。副詞は自立語で活用がなく主語にならない語で、主として連用修飾語として用いられる。状態副詞、程度副詞、叙述副詞などの分類があるにはあるが、俳句自動生成ロボットにとってそんな区別はあまり意味がないだろう。字数だけ気をつけて「いつせいに」とか「たちまち」とか「一寸」とか「やや」とか、俳句の表現として手垢にまみれた陳腐な語を登録しておこう。修飾語とは大体そういうものである。そこに本質はない、たぶん。

 人体は空よりうれし花の昼  はいだんくん


五.句の姿かたち

俳句自動生成ロボット「はいだんくん」は、ごく大ざっぱにいうと、かちっとした句型に対しランダムに語彙を流し込んでいる。前号までで季語、名詞、動詞、修飾語と、ランダムに変化する語彙の種類を増やしつつ、特に説明することもなくおのずと句型も増えていたのだが、今度は句型について着目してみよう。俳句入門書みたいな進行となり、改めて人間として作句のありように思いを馳せることになるかも知れない。

その一。切れ字。「はいだんくん」では「や」「かな」「けり」を使用している。切れ字によって何が何から切れているのかというのは諸説あるところであるが、俳句の前身である俳諧(連句)の発句が、脇(二句目)以降から切れて、一句として独立した世界を提示しているとする説に一票投じたい。切れ字のある句は切れ字によって独立するとともに、詠嘆し余韻を残す。ロボット自身は感情を持たないが、ロボットが切れ字とともに詠んだ句には詠嘆が感じられる。これは切れ字がまとった伝統とか文化とかによるものであり、読み手がその文化圏にいることを前提として成り立っている。これは人間が詠んだ句を観賞する場合でも同様である。作者の感情がどれほどの量で詠嘆していようと、句としてそれなりの形ができあがっていないと読者には伝わらない。多くの入門書が切れ字にページを割いているのは、手っ取り早くそれなりの形をマスターして先人と同じ文化圏に立ちましょうということなのだ。

その二。季語。「はいだんくん」は厳格な有季定型を貫いている。一句にひとつ季語を含み、季重なり、季またがりなど初心者にはタブーとされることはしない。一般的な入門書で季語を詠み込むにあたりもっとも注意されることは、「季語を説明しない」ということだが、その点ロボットはじつに気が楽である。季語もそれ以外もまったくランダムとしているので、大抵の場合、適度に意味が通らないのだ。もっとも偶然にまかせているので、意味が通り過ぎる駄目駄目な句ができてしまうこともあるが、そんなときは「次の一句」を押そう。

 蒲公英の影を漏らしてしまひけり  はいだんくん


六.俳句特有の言い回し

前号から句型について着目している。今回は俳句特有の言い回しについていくつか拾ってみよう。具体例はすべて俳句自動生成ロボットによる。

その一 直喩。比喩を行うときに「AはBのようだ」と直接に修辞する方法である。俳句なので「やうな」「やうに」「ごとし」あるいは「ごと」などを句型としては仕込む。「ごと」は「ごとし」の語幹だが、俳句以外でも多用されるのだろうか。変わったところでは、「○○を××と思ふ」というのも、俳句特有の直喩なのではあるまいか。

 たましひを裂け目と思ふ立夏かな  はいだんくん

その二。隠喩。たとえを引くとき、「ようだ」「ごとし」などの語を用いない修辞法である。俳句ではしばしば五七五のうちの十二音だけをフレーズを整え、残りの五音に季語など関係なさそうなことを取り合わせる二物衝撃の技法が行われるが、このときの十二音と五音の関係は、隠喩となっていることがある。

 こひびとの光り始める金魚かな  はいだんくん

その三。比較。「○○は××より△△だ」という文型において普通の散文では○○と××は比較可能な類似の概念であるが、この際、そんな垣根は飛び越えてしまうのもよいかも知れない。

 前髪は恋よりあはし夕薄暑  はいだんくん

その四。極端。「すべての」「あまねく」「いつせいに」「ばかり」などの極端な表現による言い切りは、俳句では心地よいものである。

 黒南風のやうな片恋ばかりなり  はいだんくん

その五。否定。不在を詠むことによって、逆にそれがあったときを読者に想起させるやり方である。反対概念の完全否定による強調という手法もある。

  サイダーがなくて鏡の乳房かな  はいだんくん

その六。段階。それが「はじまり」なのか「途中」なのか「跡」なのかに触れると、そこに鋭敏な感覚があるような思わせぶりな句ができることがある。

 階段は朝の始まり鉄線花  はいだんくん

それにしても、これだけの長さの記事のためにどれほど「次の一句」をクリックしたことか。馬鹿である。


七.ロボットは俳句を読めるのか

半年にわたって「ロボットが俳句を詠む」を連載してきたわけだが、俳句自動生成ロボット「はいだんくん」は今のところ人工知能ではない。単に、あらかじめ人間が仕込んだ句型に対し、あらかじめ人間が仕込んだ語彙を音数だけを合わせてランダムに流し込んでいるだけである。そのランダムであることが味噌で、ときに人間の常識に縛られない語の衝突が生まれる。それが楽しみでやっているだけなのだが、こういうことをやっていると、いろいろ言う人が現れる。「でもそれって『俳壇』に載せる句は最終的に人間が選んでるんでしょ?」「ロボットが自己学習して、句型や語彙を増殖してるわけじゃないんでしょ?」「そもそもロボット、俳句は作れても俳句を読むのは無理なんじゃないかしら?」「お気の毒にね」…。

いちいちごもっともである。でも、そんなことを言われると、人間はどうやって俳句を読んでいるのだろう。これはなかなか難しい。

 初夏の夜やふるさとの落し蓋  はいだんくん

今、はいだんくんが適当に作り出した文字列である。これを俳句だと識別し鑑賞しようとするとき意識的にせよ無意識的にせよ人間は何を行っているのか。ちょっと箇条書きしてみよう。

①既知の語や助詞を頼りに、文字列を構成要素に分解し意味を汲み取ろうとする。人間以外がやるには形態素解析という技術が必要となる。
 →初夏/の/夜/や/ふるさと/の/落し蓋

②五七五の定型に当てはめようとして、漢字で書かれた音数を補正する。初夏をショカと読むかハツナツと読むか、夜をヨと読むかヨルと読むか、などは、定型に当てはめてみないと多くの場合分からない。
 →ハツナツの/ヨやふるさとの/落し蓋

③俳句に特有な季語、切れ字、比喩、句またがり、破調、音の調べ、ひらがな/漢字の表記選択などの技法の使われ方を汲み取ろうとする。

④過去に同じような句がすでに存在しないかを確認する(何をもって「同じような」というのかも悩ましい問題だ)。

⑤以上をほとんど瞬間的に行い、いいか悪いか判断する(しかも判断基準は所属する共同体によって劇的に異なっているのだ)。

人間ってすごいですね、としかいいようがない。


八.ロボットは俳句を学べるのか

前号では「ロボットは俳句を読めるのか」を書いた訳だが、ロボットが仮に俳句を読めたとして、ではロボットが実作者として次の自作に役立つ要素を読んだ句から学べるのだろうか。それ以前にそもそも、人間の実作者はどういうプロセスで俳句を学習しているのだろう。

あるジャズ・ミュージシャンがどこかでジャズについて「いかにフリーだからといって、音階をドレミファソラシドと弾くわけには行かない。ジャズを弾くということは、ジャズのように弾くことなのだ」という意味のことを書いていた記憶がある。俳句だってたぶんそうなのだろう。俳句を詠むということは、俳句のように詠むことなのだ。では俳句のようだ、とは何なのか。じつに悩ましい。

悩ましいといえば、「はいだんくん」は今のところ人力で語彙と句型を増やし、語彙を句型にランダムに流し込んでいる訳だが、そもそも人間は俳句を学ぶときにそんなやり方を行っているのだろうか。半年前にこのコラムを始めたときに「はいだんくん」に仕込んだ句型には以下の3つが含まれていた。

 ①ララララをリリリと思ふルルルかな
 ②ララララがなくてリリリのルルルかな
 ③ララララのリリララララのルルルルル

これらはそれぞれ「露地裏を夜汽車と思ふ金魚かな 摂津幸彦」「階段が無くて海鼠の日暮かな 橋閒石」「一月の川一月の谷の中 飯田龍太」が元になっている。幸彦句と閒石句は、私にとってかなり近いものだ。露地裏/夜汽車/金魚、階段/海鼠/日暮といった語の運びの意味的な脈絡のなさが、伝統的な「かな」止めの揺るぎない句型に乗って、言い知れぬ詠嘆を感じさせる。分けても、幸彦句の郷愁を帯びた語彙の「と思ふ」による強制的な合体の威力、閒石句の「無くて」がもたらす不在感、不安定さは格別のものだ。一方で、平明な語彙をリフレインで結合した龍太句の永遠性と姿かたちのうつくしさはどうだろう。

実作者としての私は、これら三句から句型としてのオールマイティな俳句らしさを感じたから、その句型をロボットに取り込んだのだが、一般論として人はそんなふうに句型を学習対象とするのだろうか。また、それはロボットが代替して学習することができるのだろうか。悩みは深まるばかりである。


九.ロボットは何を目指すのか

前号では「ロボットは俳句を学べるのか」を書いた訳だが、ロボットが仮に俳句を学べたとして、ではロボットは何を目指すのか。個性とは何か。このあたり、人間の実作者にとっても悩ましい。

ふつう人がロボットに抱くイメージは、正確、高速、で休まない、サボらない、気分によるムラがない…などだろう。で、工業用ロボットが生産した製品の仕上がりについては、安定的に高品質、個性がない、…といったイメージではないかと思う。

さて、身近にこんな俳人はいらっしゃらないか。目に映るものを片っ端から客観写生すべく日頃から凄まじい努力をし、「多作多捨」とか「俳句スポーツ説」とかを信奉し精進している…。頭が下がることではあるが、これってロボットに抱いていたイメージの「正確、高速で休まない、サボらない、気分によるムラがない、…」を人力でやろうとしているだけで、目標が俳句そのものからすり替わり、単に「私はロボットになりたい」と言っているだけではないのだろうか。そのような努力とともに生産される句がもし「安定的に高品質、個性がない、…」だったとしたら空しい。克己的な作句態度と、できた句が面白いかはまったく別のことだ。「多作多捨」も「俳句スポーツ説」も波多野爽波が唱えたことだが、爽波自身の句は飄逸にして今も輝いている。

作句態度としてのロボットの話は金輪際捨て置くとして、やはり俳句なのだから、ロボットだって個性的な俳句を作りたい。では人間にとって個性とはなにか。ある作風が人から個性だと認められたとき、それを伸ばそうとすることは自己模倣ではないのか。自己模倣とは自己の作句アルゴリズムをパターン化して再生可能とすることではないのか。それは、まさに自分をロボット化することではないのか。

山口誓子最晩年の句集『大洋』から何句か引く。

 大雪原人の住む灯の見当らず  誓子
 揺れてゐる壁爐の火には形無し
 まだ水田美濃は水田を憚らず
 獅子舞の鬼紅舌を隠さざる
 船は見えざれど烏賊火は前進す
 新蕎麦を刻む人間業ならず
 鯉幟身をくねらせて進まざる

いかがだろう。この動詞未然形への執着、不在への執着。最晩年の山口誓子は、もはやロボットのようにして個性を繰り出していたのではないか。


十.ロボットがどんどん増える秋の暮

前号では、俳人にとって個性とは時としてアルゴリズム化された自己模倣ではないのかという話の中で、山口誓子の最晩年の句をいくつか引用した。

ではその句型をロボットに組み込んだら誓子ふうの句を詠むのか。この稿は「はいだんくん」というロボットをネット上に置いて進行していた訳だが、「はいだんくん」に誓子ふうの動詞未然形への執着句型を組み込んだところで、全体として誓子ふうにはならない。「はいだんくん」にはすでに八十個ほどの句型が仕込んであって、すでにある句型がぜんぜん誓子的でないからである。また、語彙の選択も、切れ字に対する考え方も誓子は独特である。それらを徹底的にやれば、ロボットであっても個性的な何かができるかも知れない。そもそも俳句なのだから、ニュートラルなことをやっても誰にも見向きもされないのだ。

ということを推し進めると、「はいだんくん」というただひとつのロボットを改良するのではなく、単目的なロボットを数多く作った方が、より俳句的だという考えに至る。旧作で恐縮だが、私のホームページ上の「俳句自動生成ロボット型録」には、数年来の試作が置いてある。今でも公開しているのは十二個だが、特定の俳人を模倣した六個と、単機能で実験的な六個に大別される。いくつか見よう。

「ひていくん」は山口誓子の「流氷や宗谷の門波(となみ)荒れやまず」「海に出て木枯帰るところなし」のような否定表現の要素のみをフィーチャーしたロボット。

 秋の午後沖の降る日のはみ出さず   ひていくん
 乗つてゐる小鳥の目には鉄鎖なし
 海は舞はざれど残暑は浸食す
 夢に桃変身直前かも知れず

ううむ、こちらはどうか。「俳諧天狗」は、三橋敏雄をして「天狗俳諧」と言わしめた摂津幸彦の句型と、レトロで官能的な語彙をシャッフルしたもの。

 三越にやはらかき眉垂れてをり  俳諧天狗
 夜汽車よりあゝ彼方より南浦和
 みごもりをあふれて紐が来てゐたり
 からだとは指美しく折る花野 

収まる場所を変えてはつぎつぎと立ち現れる摂津語彙を眺めていると、くらくらしてくる。このふたつのロボットを合体させることはできない。


十一.俳壇賞をめざす(うそです)

前号では旧作のロボット群のうち、特定の俳人を模倣したものを紹介した。今回は、残った単機能で実験的なものについて紹介する。

この原稿を書いている時点で第三十一回俳壇賞の締切は数日後に迫っている訳だが、三十句なりのまとまった数の俳句を揃える場合、人はしばしば連作とかテーマ詠の方向に走る。一句一句ばらばらにできたものよりも、その方が統一性があって訴求力がありそうだと考えるからである。であればロボットでも、句型をあらかじめ五十くらい用意して、傾向の極端に偏った語彙を流し込み、ざっと見て箸にも棒にもかからぬ句を捨てれば、一丁上がりでポンと応募できるのではないか。じつに横着で舐めきった発想であるが、私はそういう人間なのである。前号と同じ「俳句自動生成ロボット型録」のうち、「綱吉」と「諸般」はそのようにして作られた。「綱吉」は犬にまつわる語彙、「諸般」はショパンにまつわる語彙を元にしている。誌面の都合で諸般の句のみ紹介する。

 雨だれに父のにほひのして花野  諸般
 蟷螂を洗ふバラード第一番
 秋の田をゆるす軍隊ポロネーズ
 革命のかたちに月はかへりけり

さて〈雨だれに父のにほひのして花野〉であれば、ショパンにまつわる語彙は「雨だれ」だけで、同じ名詞でも「父」「にほひ」はショパンには関係ない。「綱吉」も「諸般」も、名詞群に属性を持たせ、句型の中でテーマの名詞群は一回だけ現れるものとし、名詞が二度以上現れる句型では他を普通の名詞群としている。このように句型を作っておくと、テーマ詠に限らず、個性を注入しやすいのだ。以後に作成したロボットは「はいだんくん」も含め、属性により名詞群を二分している。

もうひとつ「忌日くん」というロボットを紹介しよう。ご存じのように歳時記には季語として忌日が多く収められている。「忌日くん」はそれらには目もくれず、新作の忌日を刻々生み出す。

 鎖骨忌のひとつの朝の電気かな  忌日くん
 おほぞらの体毛紅きおほぞら忌
 遺伝子の抽斗送りパジャマの忌

忌日は不思議である。人名に限らず名詞に「忌」とか「の忌」を付けるだけで、あらあら不思議、季語となるのだった。


十二.あなたとは違うんです

前号では旧作のロボット群のロボット群のうち、単機能で実験的なものについて紹介した。うち「忌日くん」に関しては、二〇一二年に週刊俳句で西原天気さんと私にて対談を行った(二物衝撃と俳句ロボット「忌日くん」の爆発力)。対談の最後で私は、以下のように発言した(部分的な引用で文意が通じない部分のみ多少改稿)。

どこかの大学あたりでは真剣に俳句自動生成を研究されている方が多分いらして、そういう分野では日本語形態素解析技術やテキストマイニング技術を駆使して自己学習機能や共起表現機能を有するものがあるのではないかと想像します。今回はそのような先端技術に無縁なおもちゃにすぎない私のロボットを取り上げていただき、ありがとうございました。私のおもちゃではなく、先端技術の風を感じるような真の俳句自動生成ロボットの記事をいつの日か「週刊俳句」で拝見したいものです。

それから四年経つのだが、いまだに「私、大学で真剣に俳句自動生成を研究しています」という方には出会っていない。たぶん産業への応用の可能性が少なく、費用対効果に見合わないのだろう。自己学習機能については、俳句は囲碁や将棋と異なり勝ち負けがはっきりしないので、なにを成功体験として蓄積するのかが悩ましい。テレビ番組の評判解析なら、放送後ネット上を片っ端からその番組を示すキーワードでサーチして、それとともに用いられる特徴的な語彙を解析し、好評/不評を判断できようが、個々の俳句作品に対して、そのようなフィードバック解析を試みることは現実的には難しいだろう。

金に糸目をつけないなら、この際、大脳生理学分野での研究にも期待したい。人間が俳句を読んだとき、脳内でなにが起きるのか。被験者をふたつのグループに分け同じ俳句を読ませたときに、片方のグループでは脳内麻薬物質が大量に分泌され、もう片方はそうではなかった、なんて事実が科学的に説明できるなら、同じ傾向の人が同じ結社や同人に集まることが説明できるのかも知れない。そうなると科学のお墨付きで互いに、あなたとは違うんです、とか言うのだろう。でも、そんなことは解明されない方が、平和に暮らせるんだろうなあ…。

【追記】

この記事が掲載されたのは『俳壇』二〇一六年一二月号だったが、それから一年余りの間に世の中は劇的に進展した。二〇一八年二月二六日にNHKの番組でAI俳句が紹介された。北海道大学を中心とした「札幌AIラボ」で研究が進められているとのことである。

手許に札幌AIラボが二〇一九年に発行した『AI俳句』という冊子がある。俳人の大塚凱さんが選句したAI俳句十句とその鑑賞のほか、ラボ長の北海道大学大学院情報科学研究科教授・川村秀憲工学博士による「AI俳句集発刊にあたって」、ラボによる「AI俳句、その仕組みとは」という記事があり、そのすべてに英訳が付いている。川村博士の挨拶の1部を引用しよう。

人工知能で俳句を生成する試みの中には、強い人工知能を実現するために必要とされる様々な技術開発が含まれています。映像や音など現実世界の物事を言葉に結びつける技術、感情などの概念を理解し表現する技術、言葉の裏側に隠された多くの背景を読み取る技術、人がどんな物事に心を動かされるかを知る技術などです。人と人工知能が互いにわかりあえる存在になるためには、これらの困難な技術開発を実現させる必要があります。

そこには「人と人工知能が互いにわかりあえる」という目標に向かって、先端技術の風が確かに吹いている。今後の研究開発を大いに期待したい。


十三.打率を上げる

今回はいい句を作るのではなく駄目な句を排除することを、ロボットなりに考えたい。

今のところ、季語だろうがただの名詞だろうが意味判断せずに対等に現れる衝突の可笑しさを狙っている訳だが、いくらなんでもこれは駄目だろうという句ができることがある。

 初雪の雨の鏡を見つめけり  はいだんくん
 しづかなる小春の夜に遅れをり

どちらもだいたい同じ理由で駄目なのだが、「初雪の雨」も「小春の夜」も衝突を面白がる以前にあり得ない。天気に違う天気をぶつけてはいけないし、明らかに昼を詠んだ「小春」に「夜」をぶつけてはいけないのだ。

どうしたものか。大抵の歳時記には時候、天文、地理、生活、行事、動物、植物といったカテゴリーがあるが、大ざっぱすぎて役に立たない。「小春」は時候だが、時候だというだけでは「小春の夜」を排除できない。「冬の星」は天文だが、明らかに夜だ。雨の日に「山眠る」とは詠まないだろう。季語に限らずある種の語は、裏情報として天気や時間帯を明確に特定しているのだ。であれば、timeとかweatherとかの属性を季語や名詞に持たせて、その特定のものに対しては「昼」とか「雨」とかあらかじめ設定するしかないだろう。

連句では自他場という考え方がある。前句が自分を詠んだものなら付句は他人を詠む。前句が他人を詠んだものなら付句は場所を詠む。このようにずらして付けることにより衝突を避けるという知恵だが、それをここでも応用しよう。天気を特定する語が出たら、もう天気の語は出さない。時間帯を特定する語が出たらもう時間帯を特定する語を出さない。季語と名詞間だけでなく、名詞間でもそれができれば、極端な話、「昼の夜」みたいなものは出現しなくなり、ぐんと打率は向上するはずだ。

また、そのような属性を保持していれば、発展型として時刻や天気を外部から取得することにより、まさに今の時刻や天気に対して即吟することができるのではないか。なんだか無駄にすごい。


十四.派手なことをやる

「や」「かな」「けり」などの切れ字を基本とした正統派の句型の中で、句型レベルでなにか派手なことをやろうと考えたとき、まず思い浮かぶのはリフレインではないだろうか。うまく行けば、華麗な調べとともに対象を詠み上げることができる。

リフレインの名手としては、後藤比奈夫、鷹羽狩行、若い世代では山田露結あたりの名を上げることができる。中でも後藤比奈夫は最初期からリフレインのオンパレードで、ライフワークのようにしてその技法にかけていたことが分かる。何句か、雛形として句型をロボットに取り込む観点から取り上げたい。

 人の世に翳ある限り花に翳  比奈夫

「翳」という名詞が二回繰り返される。リフレインとしてはシンプルなものだろう。

 老に二時睡蓮に二時来てをりぬ  比奈夫

単語レベルでは「二時」という名詞が二回繰り返されているが、それだけでなく「老に二時」「睡蓮に二時」という対句表現でゆったりとした調べを獲得している。

 滝道といひて坂道のみならず  比奈夫

「滝+道」「坂+道」という同じ構造の複合名詞の一部を重ねリフレインとしている。

 蒐めたるフラスコにバラ展の薔薇  比奈夫

「バラ+展」という複合名詞に、そのかたわれの名詞を重ねリフレインとしている。

 深秋といふは心の深むこと  比奈夫

音読する限りリフレインとはいえないが、音読みの「深秋」に対し、訓読みの「深む」を重ね、字面としてのリフレインを実現している。日本語の漢字ならではの表現だろう。

ひとことに「リフレイン」と言っても、名手の技法は多彩で奥が深い。ロボットはいつの日かその境地に達することができるのだろうか、と思うはいだんくんなのであった。

 これは夢これはテレビの冬日かな  はいだんくん


十五.ロボットが『ただならぬぽ』を読む

二〇一七年一月に出た田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂)が面白い。俳句自動生成ロボットはランダムな言葉の衝突が身上だが、そのロボットが嫉妬するくらいランダムだ。ロボットの観点で二句見てみよう。

 翡翠の記録しんじつ詩のながさ  田島健一

巻頭の一句である。名詞だけを拾うと翡翠・記録・しんじつ・詩・ながさ。これらの名詞にどういう関係があるのだろう。記憶であれば翡翠にもあろうが記憶ではない。記録なのだ。翡翠が記録するのか、それとも人間が翡翠を記録した日記とか写真とかなのか。冒頭から読者を迷宮に引きずり込む謎の語の結合である。そして漢語をひらがな表記しなんとも人を食った「しんじつ」。これは助詞を省略して「翡翠の記録」の述語になっているのか、あるいは「詩のながさ」に副詞的にかかっているのか。そして「詩のながさ」とは? これらのすべてが読者に委ねられ、田島健一はなにも言っていない。俳句として並べられたランダムな語の連結は自ずと意味を求めて走り出す。これはまさに私が俳句自動生成ロボットでやろうとしていることそのものではないか。あえて散文訳を試みると、翡翠の刹那刹那の輝きに比べると、人間の詩(俳句も含む)のなんと長くてばかばかしいことよ、という感じか。意味ではなくそんな像をうかべる。翡翠といえば霊感に満ちた仙田洋子の句を思い出しておこう。〈父の恋翡翠飛んで母の恋〉

  海ぞぞぞ水着ひかがみみなみかぜ  田島健一

「ぞぞぞ」に呆然とする。なんということだ。そして「水着」「ひかがみ」「みなみかぜ」と頭韻を母音iで揃え全体では「み」を五個ぶち込んで調べを作り。助詞は何ひとつない。ただのランダムではなく音韻を手がかりにしている。じつは「はいだんくん」は音を管理していない。「水着」だったら、文字としての漢字二文字の「水着」、それから三音であること、夏の季語であることは管理しているが、「みずぎ」という読みはこれまで管理していなかったのだ。抜本的改修となるが、考えたい。


十六.ロボットが韻を踏む

すでに前号で予告してしまったようなものだが、音韻の話を書く。

子音と母音が必ずセットで現れるような日本語において、ましてや俳句において韻など踏んでなんの足しになるのか、という向きもあるかも知れないが、やはり作句においても鑑賞においても、音韻の使われ方に思いを馳せたとき、偶然に導かれることも含め認識を新たにすることはあろう。

 去年今年貫く棒の如きもの  高濱虚子

この句に含まれる母音oの数は、棒をボオと発音することにすれば、なんと十七音のうちの十一音を占める。この天体の摂理のようなスケールの大きな句の言い知れぬ感じは、もしかすると母音oの多さによってもたらされているのではないか。因果関係を公式化することはできないが、少なくとも無縁ではないのではないか。

 クロイツェル・ソナタ折り鶴凍る夜  浦川聡子

「クロイツェル」「折り鶴」「凍る」「夜」と、ru音で脚韻を踏みながら音数が次第に短くなることによってもたらされる(であろう)祈りにも似た切実感。

 海ぞぞぞ水着ひかがみみなみかぜ  田島健一

前号にも書いた「水着」「ひかがみ」「みなみかぜ」の頭韻をi音で揃えたmi音の執拗な反復。

特にここに挙げた浦川句、田島句では音韻先行で思いがけない語の結びつきを達成している、と感じられる。いや、注意深く言えば、そのように作者と読者が音韻について価値観を共有する文化圏があるはずだ。

であれば、そのような文化圏の存在を信じてロボットも韻を踏もうではないか。もっともロボットの場合、もともと思いがけない語の結びつきしかできないのに音韻先行のふりをして、そのような文化圏の読者に句を委ねるわけだけど。

 風花にかざす恋するふたりかな  はいだんくん


十七.ロボットに伝記的事実はあるか

 老人と別れてからの真冬かな

まずは句会のルーティーンに従って、作者匿名で読んでみよう。「…からの真冬かな」というもの言いは季節の推移を感じさせるので、老人と別れたのは少し前のことだろうとは察しがつく。では「老人」と作中主体の関係は? あるいは「別れる」とは「生き別れ」なのか「死に別れ」なのか? 「生き別れ」であるなら、例えば徒弟制度の厳しさがいやになって飛び出したが社会の厳しさに直面し、いかに自分が師である老人から庇護を受けていたかを思い知らされた「真冬」なのか。また「死に別れ」であるなら、故人の人柄を偲ぶにつけその不在が「真冬」なのか。いずれの読みも可能だし、句そのものが具体的事実を消し去り、読者によってどうとでも受け取れるような作りになっている。句にはとにかく「老人と別れてからの真冬かな」としか書いてないのだ。

そろそろ作者を明かそう。作者は橋閒石。この句は八十九歳で上梓した第十句集『微光』の最後の句で、句集上梓の数ヶ月後に閒石は他界した。全集には『微光』以後の六五句が載っているものの、掲句が周到に用意された辞世の句と言って差し支えないだろう。句集のタイトル『微光』は集中の「体内も枯山水の微光かな」による。函から出した句集本体は、つや消しの黒の紙張表紙に銀の字でタイトルと作者名をあしらっていて、なんとも生命の薄明かりを感じさせる。また、同じ句集の中には「人も物云う蛋白質に過ぎずと云える春の人」「銀河系のとある酒場のヒヤシンス」といった巨視的な句も見受けられる。

それらを踏まえて掲句をもう一度見てみよう。すると作中主体は作者の魂で、「老人」とはまもなく捨てることになる人間の肉体なのではないか、という可能性に気づく。そんな間近に迫る魂の「真冬」。いかにも閒石の辞世の句らしいではないか。しかしながら、しつこいようだが、句には「老人と別れてからの真冬かな」としか書いてない。

「はいだんくん」は連載を進めながら、俳句的思考とともにそのアイデアをロボットに盛り込むという体裁をとっている。「ノート」にバージョンアップの情報を記載しているわけだが、いつしかそのノートが「はいだんくん」の伝記的事実として、それを読むことによりロボットの句の読みが一変してしまう事態に至るのだろうか。


十八.ロボットがつぶやく

私が制作してネット上に公開している俳句自動生成ロボットのシリーズは、それぞれツイート・ボタンによりツイッターと連携していて、句が気に入ったらそのままツイートすることができる。

『俳壇』誌向けに制作しているロボットは「はいだんくん」であるが、別に「ゆかりり」というロボットがある。「ゆかりり」は実物の三島ゆかりが作りそうな俳句を自動生成するロボットで、俳句実作上の奇想にとらわれると、それをロボットでやったらどうなるんだろうと、しばしばアイデアを「ゆかりり」に仕込んで試してみる。それでうまく行ったものを「はいだんくん」に移植したり「ロボットが俳句を詠む」の原稿のネタにしたりする。「ゆかりり」と「はいだんくん」はそういう関係で、「ゆかりり」はより先進的で、「はいだんくん」はより枯れている。

というわけで、開発者の私に関心があるのはむしろ「ゆかりり」の方で、ツイート・ボタンでツイートするのはもっぱら「ゆかりり」の句である。ロボットの作った句をツイートしても二三人が「いいね」を付けてくれるのが関の山だったのだが、ここへ来て「あわ・みかわ」さんという面識のない方が「ゆかりり」の句をかなりの頻度でツイートしてくれるようになった。私をなぞらえたロボットの句を他人がツイートするのを私が読むのはかなり奇妙な体験である。つい返信で短評してしまう。以下「ゆかりり」の句はあわ・みかわさんがツイートしたもので、短評は私。

 彼女みなギリシャ彫刻春惜しむ  ゆかりり

→「みな」によって「彼女」が複数であるところが眼目ですね。同時に複数人の彼女がいるのか、歴代の彼女なのか。「春惜しむ」にそこはかとない徒労感があります。

 極楽や首都に遅れる抱卵期  ゆかりり

→「極楽」と「首都」、もしくは「遅れる」と抱卵期の「期」というふたつの対比が組み合わさることによって、微妙な意味の混乱が発生していますね。また「首都に遅れる」からは高度成長時代の残像が感じられます。

 ブラウスの略し始める春暑し  ゆかりり

→ぎゃ、非名詞の季語について手を抜いていることが露見している。非名詞の五音の季語を下五とする句型を登録するときに、春暑しとか風光るとか山笑ふとか、大抵のものは名詞+用言ではないかと、直前を連体形にして、変なことになってしまったようです。

この記事の読者の皆さんもせっかくですからツイート・ボタンでつぶやいて下さいね。


十九.俳句ソフト不正使用問題

二〇一六年に世を騒がせた将棋ソフト不正使用問題は、疑いをかけられ出場停止処分を受けた棋士に将棋連盟が慰謝料を払うことで双方が合意し和解した、と二〇一七年五月二十四日に発表があった。まずはめでたしであるが、技術の進化が第二、第三の同種の問題を引き起こすであろうことは想像に難くない。俳句界とて同様であろう。

さて、我らが「はいだんくん」を実作支援に使用しようと考えたとき、これはどうにも使い勝手がよくない。ユーザインターフェースが「次の一句」ボタンしかないのがなんとも物足りないのだ。やはり、ユーザが自分で季語や特定の語句を入力でき、それを用いた句を返すようなものでないと、実作支援には使えないだろう。いくつかの改善策を考えてみる。

◆季語
「はいだんくん」の季語は、現在日付をもとにその日使えるものをランダムに返している。二十四節気や忌日も登録されているので、今日から小暑か、とか今日は重信忌か、とか気づくのには役に立つが、数ヶ月後に発行される原稿の季節には合わない。デフォルトは現在日付で構わないが、日付はユーザが指定できるようにしたいではないか。

◆語彙
句会で出題される兼題/席題をそのまま指定してロボットに作らせたいではないか。余談ながらスマホの角川合本俳句歳時記アプリでは全文検索という機能があり、季語だけでなく検索ができる。例えば「告ぐ」で検索すると、〈癒え告ぐるごとく北窓開きけり 佐藤博美〉〈鰯雲人に告ぐべきことならず 加藤楸邨〉がヒットする。これは紙の歳時記ではできない便利な機能である。

◆差し替え
ロボットが作った句が、大体いいんだけどここがねえ、という場合、大体いいところは固定して、ここがねえというところを部分的に差し替えたい。

◆複数案表示
デジカメでブラケット撮影というのがあり、露出とかホワイトバランスとかISOとかを少しずつ変えて、一回のシャッター押下で複数枚の写真を撮ることができる。であれば、「はいだんくん」でも季語を上五、中七、下五に置いた三案を表示すると
か、季語だけ異なる三案を表示するとかあると、ユーザがそうそう、これこれと選べるではないか。

このくらい便利になれば実作支援に役立つことだろう。ところで、俳句のことをよく知らない人に、俳句には歳時記というものがあって、そこには季語の意味と例句が載っていて、俳人は歳時記を引きながら俳句を作るのだという説明をしたら、「え、それってカンニングじゃないの」と言われた。そこか…。


二十.動詞の語彙を収集する

ロボットのことを考えていないときはネット上で連句を巻いている。八年ほど年間十巻前後を捌いているのだが、ネット連句ならではというべきか連衆もいろいろで、面識のない人もいれば、ここだけのお忍びの俳号で参加されている方もいる。いちばん最近満尾した巻の冒頭は以下。

 葉脈のみるみる伸びる立夏かな  伸太
 薫風わたる河岸段丘  ゆかり
 国境を超える列車に身をおきて  媚庵
 ユーロ紙幣で払ふ飲み代   銀河

ここまで巻いたところで捌き人の私が茶目っ気を発揮し、伸びる→わたる→超える→払ふ、と続いたのだからすべての付句に動詞を入れようと突飛な提案をし、実際そのように進行した。中間を割愛して名残裏の花の座と挙句のみさらに記そう。挙句では最後とばかりになんと三個も動詞を投入している。

 新聞を綺麗にたたむ花の午後  桃子
 来ては睦みて消ゆる双蝶  伸太

 かくして三十六句で使われた動詞は以下四十九個。

ア行:上ぐ、あり、おく、追ふ、泳ぐ
カ行:抱へる、帰る、聞く、消ゆ、崩る、来、零す、
 超ゆ
サ行:さぶらふ、凍む、棲む、する
タ行:確かめるたたむ、呟く、つむる、飛ぶ、とる
ナ行:ながれる、鳴く、なる、にじむ、濡らす、
 眠る、伸びる、登る
ハ行:走る、果つ、はびこる、払ふ、吹き抜ける、
 ほかす
マ行:負ける、まるめる、むづかる、睦む
ヤ行:焼け落ちる、揺れる、読む、捩よぢれる
ラ行:弄す、論ず
ワ行:わたる、笑ふ

さて、連句を巻いていないとき私はロボットのことを考えている。これら、連句の運びの中で自然に得られた、まとまった量の動詞は俳句自動生成ロボットに取り込む語彙としてじつに貴重である。そういう観点でみると、文語(上ぐ、あり、…)、口語(おく、追ふ、泳ぐ、…)、方言(ほかす)、カ変(来)、サ変(弄す)、濁るサ変(論ず)、複合動詞(吹き抜ける、焼け落ちる)など、じつに多岐にわたっている。動詞の活用についてはこの連載の三回目で一度触れたが、法則として理解を超えているところがあり、カ変、サ変のあたり、これまでロボットへの取り込みを棚上げしていたところもある。ここは魔法の呪文を自分にかけよう。「しゃあねえ、やるか」と。


二十一.頭韻を踏む

先月「はいだんくん」を大改修してリリースした。いろいろ手を入れた中で目玉と言えるのは、頭韻を踏むことができるようになったことだろう。この連載の十五で田島健一について触れて以来、懸案だったものだ。

「はいだんくん」では、以下の三通りで頭韻を踏むことができる。

(一)母音+子音(つまり同音)
 あかるさは姉より紅し洗ひ髪  はいだんくん
 夕立のゆびきりやけふ揺れんとす
 図書館の鳥図書館の心太
 肩ひもの風の多くて髪洗ふ
 ありのまま汗のあくびをあふれけり

(二)母音
 顔文字をまるめてゐたるはだかかな  はいだんくん
 ふくらみや閏皐月のくだり坂
 ががんぼは睫毛のやうに果てにけり
 ひらがなを西日と思ふ時間かな
 バタフライぱらぱら漫画よりたのし

(三)子音
 先生としづかな空とゐて涼し  はいだんくん
 駆けてゐる金魚の子には海馬なし
 にんげんもにほひもなくて夏帽子
 過ぎ行きて裂ける水星百日紅
 マニキュアの森を用ゐる祭かな

 もちろん韻を踏まないこともできるし、韻を踏むように指定しても、条件に合致する語がなければ、韻は踏まない。また、母音か子音を指定しておけば自ずと同音も現れるので、現状は「母音」「子音」「なし」がランダムに一対一対三の割合となるように設定してある。

こうして掲句を見渡すとどうだろう。(一)はいかにも言葉遊びとして意外な語の連結を求めているように、(二)(三)は繊細な調べに気を使っているように見えてこないだろうか。もしわずかでもそんな気がしてくるとしたら、それは読者のあなたの心の中で起こっていることに違いない。なぜならロボットは韻を踏むにしても踏まないにしても、今までどおりなにも考えていないのだから。


二十二.節という概念を導入する

またまた「はいだんくん」を大改造した。これまでその日使える季語をまずひとつ決定して、その音数の季語を使う句型を選択していたのだが、逆にした。単純に句型をひとつ決定してから、その音数のその日使える季語を選択するようにした。従来季語から決めるようにしていたのは、「勤労感謝の日」とか「建国記念の日」とか変な長さの季語をフィーチャーしようとしたら、季語から決めた方がいいだろうという考え方だったのだが、このままだと季語とその他との互換性の点で決定的に発展性がないだろうと考えを改めた。その上で芭蕉に立ち返ろう。

 古池や蛙飛びこむ水の音  芭蕉

この句は主語+述語という普通の文章のかたちではない。俳句独特のかたちである。上五に名詞節、下五に名詞節、そして中七に下五にかかる連体修飾節がある。大ざっぱにふたつの名詞節で構成されているので、先に現れる方を首名詞節、最後に現れる方を尾名詞節と仮称することにする。また「や」は切れ字ではあるがほぼ首名詞に従属して現れることから首名詞節に含むものとする。また切れ字に限らず「の」「は」「が」などの格助詞とも互換だろう。

同様にこの句には現れないものの「かな」はほぼ尾名詞に従属して現れることから、尾名詞節に含むものとする。中七はこの句では「三音の季語+動詞連体形」となっているが、全体として連体修飾節でありさえすればその中は、「六音の季語+の」とか「三音の季語+のごとき」とかいろいろ代替は可能である。さらに句全体でどこか一箇所に季語が現れることが制御できるのであれば、すべての名詞と季語は互換である。同じように切れ字も句型ではなくロジックの側の制御により、句全体でどこか一箇所に切れ字が現れることにすればよい。

こんなふうにして先に季語を決めることをやめたことにより、季語を節の中に置いて名詞と互換に扱うことが可能になり、〈古池や蛙飛びこむ水の音〉という単一の句型からロボットは以下のようなバリエーションを生み出すに至った。

 放課後や桃に遅れるお下げ髪  はいだんくん
 色鳥のいつもあふるるふたりかな
 少年の蜩らしき耳の穴
 稲妻の一浪といふ泣きぼくろ
 空気椅子秋の灯しのお下げ髪
 蟋蟀の行き過ぎてゐる重みかな


二十三.節という概念についてもう少し

前回の記事はロボットの改造の話と、「節」という概念を導入する話が錯綜し、後者が多少説明不足だったかも知れない。要は単語レベルではなく、もっと大きな節でざっくり俳句を捉えることにより、句型・節・単語という入れ子構造として、三段階のかけ算でできあがる句のバリエーションが広がるということだ。で、「古池や蛙飛びこむ水の音 芭蕉」は主語+述語という普通の文章のかたちではなく、首名詞節+連体修飾節+尾名詞節という俳句独特のかたちであることに着目したのだった。

思えば二年前この連載は以下の句型から始まった。

 ①ララララをリリリと思ふルルルかな
 ②ララララがなくてリリリのルルルかな
 ③ララララのリリララララのルルルルル

連載八回目で種明かししたとおり、それぞれ摂津幸彦、橋閒石、飯田龍太の句が元になっている。

 露地裏を夜汽車と思ふ金魚かな  摂津幸彦

一見主語と述語がありそうだが、節で分解すると連体修飾節(12)+尾名詞節(5)である。「古池や蛙飛びこむ水の音 芭蕉」には首名詞節と尾名詞節があることにより二物衝撃を構成していたが、こちらは見かけ上一物からなる。「露地裏を夜汽車と思ふ」と続いたものはすべて、「金魚かな」に連体修飾として連なる。外形的に連なっているのに意味的に切断があるというのが、俳句ならではなのだ。

 階段が無くて海鼠の日暮かな  橋 閒石

「階段が無くて」が期待する「困る」とか「落ちる」とかがなく、解決しない副詞節となっている。副詞節(8)+尾名詞節(9)である。述語がないのに副詞節があるということが俳句的なのだ。

 一月の川一月の谷の中  飯田龍太

首名詞節(7)+副詞節(12)。主語的な「一月の川」が副詞的な「一月の谷の中」にリフレインの調べで連結しているが、述語がない。これも俳句ならではだ。

もちろん主語と述語がきちんとある句もある。

 夏草に機罐車の車輪来て止る  山口誓子

「夏草に」は主語に先行した目的語であり「機罐車の車輪」が主語だが、述語はふたつの動詞をたたみかけていている。「機罐車の車輪」は中七としては字余りなのに格助詞の省略と動詞のたたみかけによって、句としてみごとに着地を決めている。誓子だからできることだ。こういう句に出会うと、これまでに作ったロボットをすべて破壊したくなるのだった。


二十四.最終回 ロボットは死なず、ただ壊るるのみ

最終回である。せっかくだから最後にロボットが詠んだ句を三十句載せよう。


 鱗  はいだんくん

ふくらみに渦巻く丘を桔梗かな

水澄むや胸の谷間の喫茶店

おだやかに天国を積む秋の恋

虫の夜にひとり染まつて更衣室

恋愛の行き過ぎてゐる秋黴雨

図書館に遅れる羽を夜露かな

色鳥を絞り始める除光液

秋霖に首都と染まつてゐる如し

骨盤も予感もなくて女郎花

うつくしき鮭は火星に染まるかな

おほぞらや鵙に微笑むお下げ髪

稲妻に染まるさみしさふくらはぎ

なかんづくしづかな耳を菊日和

秋の日のあふれ始めるハイヒール

兄弟のなめらかにして秋の雨

高気圧案山子の鼓膜消えかぬる

撫子の前髪や窓泣かんとす

惑星をしみじみ濡らす鰯雲

蟋蟀はをかしな森をもみあひぬ

いつせいに野分に染まる進路かな

聴覚の長月といふくだり坂

少年の耳の多くて鳥渡る

自ずからかなしき波を秋灯

幻聴の鱗となりてねこじやらし

爪先に渦巻く窓を秋の雲

倍音にかへる石榴や束ね髪

はらわたの花野のやうなひびきかな

これは櫛あれは耳かと秋の雲

長き夜の迅き漢字もあるならん

木星に微笑む影を冬支度

結局のところ、俳句のようであろうとすることに何の意味があるのだろう。ロボットは気がつくと銀漢亭の前に立っていた。


【追記】
『プレバト』で、あるとき夏井いつきさんが「初心者はとかく、舞う、踊る、染まるなどを使いたがる」という話をされた。面白がってロボットの語彙の頻度設定を変えて遊んでみたのだが、一部戻し忘れていて、上記三十句生成時にはなんと「染まる」の頻度が百倍になったままだった。上の句群で「染まる」の句が何句あるかお暇な方は数えてみて下さい。

(了)

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