2022-11-27

三島ゆかり 作者の意図と作品の意味

作者の意図と作品の意味

三島ゆかり


『街』二〇一九年六号に掲載された記事である。それに先立ち同年三月、縁あって『街』の定例会で五十名ほどの前で講演を行っている。その講演のあと、「私は俳句自動生成ロボットの人ではない!」と思い立って不定期刊連句誌『みしみし』を創刊したのだった。


去る三月十日「街」の定例会で西原天気さんの進行のもと「俳句自動生成ロボットの現在と未来」という講演を行った。

私の作成している俳句自動生成ロボットは、世に言うAI俳句よりもずっと単純なもので、ほとんどを偶然性に依存している。簡単にいうと、品詞や音数を定めた「句型」とそこに流し込む「語彙」があり、諸条件、例えば、季語は現在日付をもとに当季とする/一句に季語はひとつ/一句に切れ字はひとつ/ときには押韻するとかっこいい、などを制御するロジックがある。ランダムにまず「句型」を選択し、つぎにロジックに従いながら句型が定める音数でランダムに「語彙」を流し込む。この原稿を書いているのは四月二十四日だが、ロボットが生成した晩春の句を無選択に二十句ほど並べてみる。ここは選句する目線でお付き合い願いたい。

  さみしさはそんな予感や百千鳥  ゆかりり
  磯巾着校舎をあはくして仰ぐ
  たましひの大気のありて春暑し
  耳の馬虻をながれるあんな森
  鼓膜とは影も砕ける百千鳥
  冷蔵庫穀雨のつぎめ読みかぬる
  木星を読む森家の磯巾着
  これは波これはこゑかと磯巾着
  反射してまだゐる蜂のうつくしき
  耳の穴波に遅れる風の影
  首すぢやまたも抱へる波の文字
  鏡の子虻をかなしむ影法師
  脊柱は多少抱へる磯巾着
  春風や鼻へ貼り付くくだり坂
  くちびるや顔をこらへてゆく穀雨
  花は葉にパリサイ人にたまるなり
  あかるさの蝶に遅れるくだり坂
  栄螺とは違ふうどんや喫茶店
  靴下の鼓膜のありて花は葉に
  囀に一寸宿つて遅刻坂

匿名で句会に紛れていたら、いくつかはつい選句用紙に書き写してしまいかねないレベルには達していると思う。ロボット開発者として自慢したい訳ではない。俳句はもちろん作者がいて作者が作るわけだが、一方で読者が読むことによって成立する側面もある。特に二物衝撃とか取り合わせと言われる技法においては、語と語の距離の良し悪しについて読者の鑑賞力に依存する部分が大きい。読者は俳句としてすがたかたちが整っていさえすれば、多少語と語の意味のつながりが突飛でも、むしろそこにこそ面白さを見出すように自分自身をこれまで訓練してきているのである。俳句自動生成ロボットはそのような俳句の特殊性、俳人の習性に依存して成り立っている。

上記の句群、「さみしさ」「たましひ」「うつくしき」「かなしむ」などの語がある。ロボットには感情も魂ももちろんない。ただ「句型」が要求する四音の名詞、五音の形容詞連体形、四音の動詞連体形などの箱に対してランダムに語彙を流し込んでいるだけである。そこに情感を見出すのは読者である人間のほうである。つい「たましひの大気」などという措辞に驚かされて選評し、作者がロボットだと明かされたら、まあ怒り出すのが普通だろう。でも、ちょっと待って欲しい。

 岩端やここにもひとり月の客  去来

よく言われる例だが、去来が「自分のほかに先客がいる」という意図で詠んだものに対し芭蕉は先客の方から「ここにもひとりいますよ」と話しかけてきたとする方が面白いとし、去来が芭蕉の解釈に感服したという。作者の意図と作品の意味は違う。ときとして、読者の読みは作者の意図をかるがると超える。俳句の前身はご存じの通り連句(俳諧の連歌)である。連句ではしばしば前句をわざと読み違えてそこに付け句することで諧謔を見出した。俳句はその短さゆえに意味が曖昧というだけでなく、その前身からして、作者の意図通りに読まなければいけないというものではなかったはずだ。

「作者の意図と作品の意味は違う」という考えを突き進めると、作者の存在理由はなんだか分からなくなる。意図を持たない、ただランダムに句を繰り出す俳句自動生成ロボットは、今こそすべての人間の俳句作者に存在理由を問いかける。俳句を詠むとは、そして俳句を読むとはどういうことなのか。棒の如く生きている場合ではない。

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