2023-02-19

三島ゆかり【句集を読む】岡田一実『光聴』を読む

 【句集を読む】

岡田一実『光聴』を読む

『みしみし』第9号(2021年夏至)より転載

三島ゆかり

『光聴』(素粒社、二〇二一年)は、岡田一実の第四句集。ツイッターを見ていると、岡田一実がものすごいいきおいで後藤比奈夫や山口誓子の全句を読破している様子がリアルタイムに伝わってくるのだが、それらは自身の句作にどのように反映しているのだろうか。頭から見ていこう。

描線

本章には二〇一八年の句が収められている。一頁に三句ずつ配置された句集の最初のページを見よう。

疎に椿咲かせて暗き木なりけり  岡田一実

いきなり意表をつかれる。現実には椿の木に花が咲いている訳だが、まるで花と木が別物であるかのような書きっぷりである。でも認識の仕方としてじつに正しい。私たちは花が咲くことによって「椿が咲いた」とか「山茶花が咲いた」と認識するのであって、花以外の部分は名もない「暗い木」でしかない。この大胆な書きっぷりこそが、科学ではない俳句の方法である。

空に日の移るを怖れ石鹼玉

直接的には石鹼玉をなんら形容していないのに、石鹼玉が石鹼玉として漂う刹那を詠み上げ、油膜のぎらぎらさえ見えるようである。擬人化の手法で対比的な大景を取り込み、擬人化にありがちな陳腐さをも回避して巧みである。

白梅の影這ふ月の山路かな

渋い。花そのものでも香りでもなく、月光によって地に生じた梅の影を詠んでいる。影でありながら「白梅」と明示することにより、モノクロームな世界を描くとともに季感をも持たせている。

最初のページから、俳句の素材になりそうもないありふれた景が、熟練した俳句の方法により次々、句としてスリリングにせり上がってくる。私は最後まで読み通せるか。

雨の中賑はふ川よ菜の花よ

雨によって川は勢いを増し、菜の花は生気を取り戻す。そのことを一語で「賑はふ」と言い止めている。ちなみに雨の句は多いかもしれない。ここまですでに「かんばせに雨のかかるも梅の花」「樹に雨の重さ加はる春にして」がある。また「賑はふ」については後で「虹立ちて市をにぎはふ銭の音」という句もある。

唾もて濡るる氷菓かなしも海を見る

霜状になった表面を舌で舐めるとそこだけ霜が溶ける。ソーダ味のシャーベットなら青が濃くなる。それだけのことを擬古典で句に仕立てている。家持の「うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば」や虚子の「川を見るバナナの皮は手より落ち」を呼び込み、かなしい。「かなしも」の「も」は詠嘆の係助詞。

描線を略さず烏瓜の花

夜に咲く烏瓜の花は、星形の花弁の回りに無数の糸状のものがレース編みのように広がっている。その糸状のものは一本一本が夜目にくっきりとしており、決してもやもやではない。その自然界のありようを「描線を略さず」と言い止めている。「描線」は本章のタイトルともなっており、作者にとって二〇一八年中の会心の句だったに違いない。

金魚田に空映る日の金魚かな

出荷され金魚売りに揺られたり金魚掬いに追われたり小さな金魚鉢に閉じ込められる苦難を思うと、金魚田にいる時期は金魚にとっていちばん平安な時期なのだろう。後藤比奈夫風のリフレインで詠嘆しているが、「空映る日の」が心憎い。リフレインの句では他に「鶏のまへ鶏の影ある西日かな」「送火の烟とものを炊く烟」「縄跳の吾をはなれて吾の影」などがあり、舌を巻くばかりである。

火の上の秋刀魚の眼沸きにけり

いわゆる台所俳句であるが、それ俳句にしますか、というなんでもないものをみごとに仕立てている。

数へ日や重ねて玻璃の青く澄む

年末の大掃除で窓を全開にしていて、重なった部分が光の加減で青く見えるのだろう。古くからある家の、木枠のガラス窓に違いない。  

解纜

続いて二〇一九年の句である。

書初の墨を遁るるみづの跡

ひらたく言えばにじみのことだろうが、「跡」となる前の刻々と紙の繊維を伝わり広がる水の様子を思い起こさせる。

狐火にけもの心や跳ねて飛ぶ

一転して諧謔の句である。なんだか楽しい。

ものの芽や空かたぶくと風あふれ

この一句だけ見ると科学的知識の欠如のようにも見えるが、前句「渦潮のうづ巻く前の盛り上がり」からページをめくるとこの句で、エネルギーの詩的イメージが推移している。また大地に視点を落とした「ものの芽」から一気に空に視点を転じているので、立ちくらみにも似て「かたぶく」が効いている。

雨は灯に乱れて夏の欅かな

灯火に照らし出された雨がひときわ激しく見えるのはおなじみの光景だが、背後に暗く欅がそびえている。どこか原風景のようでもある。ちなみに「雨は灯に」とか先に見た「疎に椿」「空に日の」「火の上の」など、上五で短い単語を畳み掛けてリズムを作るのが、一実は憎たらしいほど巧い。

水流を逃しながらに蛇泳ぐ

蛇自身が流されないように水流と接する面積が最小になるように棒状を保ちながら泳ぐ訳だが、「水流を逃しながらに」が巧い。失われつつある見なれた田園風景の句としては他に「沢音のごと蟬のこゑ湧き揃ふ」「照りまさりたり夕方の雲の峰」「冬雲うごく明るきところ変へながら」などがある。詠み尽くされたはずの景と対峙し、今なお格調ある調べとともに新たな句が生み出されるのは驚くばかりである。

駆けて来る夏の帽子を手づかみに

「おっと、危ないよ」といったところか。つばが広いので顔も姿さえも見えないのである。近所の子だろうか。他に「流れくる浮輪に子ども挿してあり」「吾
を見て縄跳のまま横へ逸(そ)る」などがあるが、人間関係の距離がクールで、ありがちな吾子俳句やお孫俳句とは一線を画している。

こゑ

二〇二〇年の句である。この句集には三年分が収められているが、厚さにして三分の二ほどは二〇二〇年の句にあてられている。この年人類はコロナ禍というスペイン風邪以来の災厄に直面した訳だが、誓子が太平洋戦争で失われ行く人々の暮らしを俳句で書きとめるべく『激浪』を残したのと同じことを岡田一実はやろうとしたのではないか。手当たり次第に書きとめようとしたのだろう。興が乗ると、同じ題材が何句も続く。それは蟭螟であったりバナナであったり枯れた向日葵であったり滝であったり背子であったりする。全体を浴びるべきものであるが、泣く泣く切りとって何句か見てみよう。

初旅や脚を交互に前に出し

あまり歩くことのない日常生活なのだろうか。ことさらにいう「脚を交互に前に出し」が可笑しい。たまさかの歩ける喜びと若干の負荷をひしと感じているのだろう。

松明のあと一月の依然とある

松明のあとの一月の長さは、一般人よりも俳人にとってより長く感じられるのではないか。太陽暦が採用されたあと、歳時記には春夏秋冬の他に新年が追加され、新年によって冬が二分された。立春までの残りの冬はなんだか収まりの悪い期間なのである。

昼よりの雪を灯しの中に見る

降雪の少ない地方であれば、まだ降り続いていることにそれなりの感慨があるだろう。

梅まつり幟の裏の鏡文字

寒々とした梅林を盛り上げるためか、梅まつりにはやたら幟が目につく。簡素な幟なので、逆方向から見れば字は裏返り、ますます寒々とする。山口誓子は連作を構成する際に、フィクションとして美的空間のみを描くのではなく、それをぶち壊しにするような題材を敢えて加えた。例えば「天守眺望」に「桐咲けり天守に靴の音あゆむ」を加えたり、「枯園」に「部屋の鍵ズボンに匿(かく)れ枯園に」を加えたりする、露悪趣味と言ってもいいやり方だ。岡田一実があえて触れなくてもよい負の題材をも詠まずにいられないのは、誓子の影響もあろう。「密に糞あり鳥の巣とわかりけり」のような句にも、それは感じられる。

半袖を長袖に替へ袖を折る

ちょっと肌寒いなと感じて長袖に替え、結局袖を折っている景のようでもあるが、エアコンが苦手とか蚊が苦手とか日焼けが苦手とか、いろいろな理由で外出時に半袖を選ばない人は少なくない。

雨後そのまま明るくならずソーダ水

ソーダ水が似合うのは行楽とかデートなので、本来浮き浮きするべき場面で心が晴れないのだろう。季語の選択だけでドラマを感じさせる。

水馬の水輪の芯を捨て進む

水馬の一歩ごとに水輪が広がる訳だが、広がりに着目するのではなく「水輪の芯を捨て」と捉えたところに俳人ならではの目を感じる。

裸寝の醒めデバイスに顔灯す

スマホ画面の明るさを詠んでいる。「西鶴忌Bluetoothに歌を聴き」という句もあったが、岡田一実が詠んでいるのは現代の今である。

草刈の歩むに障るところのみ

三鬼に「雪ちらほら古電柱は抜かず切る」があるが、それに通じるものを感じる。割り切った業者の仕事は限定的であるが、それを批判することは俳句の役割ではない。事実を記録するばかりである。「蜘蛛の囲を撮る其を払ひ他を撮る」も。もっとも、草刈も撮影も自分がやっているのかも知れないが…。

藤万緑日を洩らしつつ日を断ちつつ

葉の茂る藤棚だろう。日覆いとして下にベンチが置かれたりもするが、人工物ではないので差し込む日もある。「日を洩らしつつ日を断ちつつ」のリフレインに夏の午後の静寂を感じる。

水着著て水着素材の上着著る

ボレロのようなものが組み合わされた水着だろう。「ああ、あれ」としか言いようのないものを持って回って「水着素材の上着」と表現していてなんとも可笑しい。

繋がつてゆく人影と片蔭と

片蔭の始まりのようなところで、暑を逃れ炎天から人が集まってくるのだろう。次々と人影は片蔭と一体化する。あるいは、片蔭を行くのだが人影がはみ出しているのかもしれない。いずれにしてもシルエットだけに着目して詠んでいて面白い。

吾がキャンプ他家のキャンプと関はらず

現代というのは家族単位で孤独なのかも知れない。誓子流の吐いて捨てるような否定形を用いている。家族については、「行く秋の余所の家族と昇降機」という句もある。

麦茶沸かす傍に冷たき麦茶飲む

昨今は水出しのティーバッグとかペットボトルの麦茶もあるが、美味しさから言ったらきちんと沸かしたものが格別だろう。玉の汗を流して麦茶を沸かしていると、横では冷蔵庫から冷えた麦茶を出して飲んでいる。家族って楽しい。

一ト時の間を片蔭のひた伸び来

昼下がりのちょっとした時間にも太陽は回り片蔭が伸びている。たっぷり詠んだ「一ト時の間を」と対比的に詰め込んだ「ひた伸び来」の塩梅がよい。

光を引く宙の万緑地の万緑

「白猪 六句」と前書きのある一句目である。滝の上にも下にも万緑があり、それを下から見上げている構図だろう。「光を引く宙の万緑」の措辞が神々しい。

顔弾く滝の風なる水の粒

同じ句群の一句である。滝壺あたりの空気感を捉えて余すところがない。

蜻蛉つかふ空そのうへの空高し

蜻蛉はそんな高いところは飛ばない。蜻蛉にとっての交通機関かなにかのような「つかふ」がよく出てきたものだ。その上にははるかな秋の空があるのだ。

ゑのころの翠も金も一叢に

気がつけばすっかり枯れている猫じゃらしだが、過渡期には一叢に枯れていないものと枯れたものが混在することもあるのだろう。「翠も金も」の措辞が雅である。

読んでゐる字の脳に鳴る榠樝の実

「かりん」と鳴ったのである。

栗飯や食卓のほか灯を滅し

この句を読みながら、自分の行いを振り返った。確かに食卓に座る前にキッチンを消灯する。節電もあるけれど、そうではなくて、ここまでは調理モード、これからは食事モードないし団欒モードという切替のために消灯しているような気がする。

一切のせせらぎが夜や冷まじく

句集全体の掉尾を飾る句である。「小田深山 六句」と前書きがある句群の最後でもある。かなり賑やかだった一日もすっかり寝静まり、せせらぎの音ばかりが聞こえるのだろう。災厄に見舞われた二〇二〇年を締めくくることばが「冷まじく」であるが、そこには祈りにも似た明日への希望が込められているのではなかろうか。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」の「一切のせせらぎが夜」である。

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