【句集を読む】
八上桐子『hibi』を読む
三島ゆかり
『みしみし』第8号(2021年節分)より転載
『hibi』(港の人、二〇一八年)は、八上桐子の第一句集。すでに川柳界で評価を得て増刷までされている句集であるが、私は俳人なので川柳の読み方を知っている訳ではない。丸腰で頭から読む。
すずめのまぶた
一頁に二句ずつ配置された余白の多い句集の最初の見開きを見よう。
降りてゆく水の匂いになってゆく 八上桐子
冒頭の句である。レイアウトさながら句も余白が多い。誰が降りていくのか、なにが水の匂いになってゆくのかは読者に任されていて、「…てゆく」「…てゆく」と畳みかけ調べを作っている。私たち生命体にとって水はかけがえがないものである。これから行く場所は非日常の郷愁に満ちた場所なのではないか。そんな期待が膨らむ。
指先の鳥の止まっていたかたち
かつて飼っていた手乗りの文鳥とかインコとか。もういないが、指先は覚えている。それは不在のかたちであり、寂寥のかたちである。
皆去ってさくらの下が濡れている
畳みかけるように不在と水が続く。伝統的な素材のさくらはそれ自体ではなく抒情として濡れている。
子に足を長めに描かれ春の象
ほんものの象ではない。デフォルメして描かれた象である。子が描いたという事実の痕跡だけが重要なのである。もしかすると、その子はとうに大人になっていて、手のかかった頃が懐かしさの対象なのかも知れない。
この句集はまず、そんなふうに始まる。機知とか諧謔とかは後回しなのだ。ここからは飛ばしながら見ていこう。
空豆のおそらく知っている雲間
風に溶けのこる泡立ち草の泡
どちらもものの名前に触発された句である。こんなふうに詠まれると、私の知っているそのものはなぜ空豆と呼ばれるのだろう、なぜ泡立ち草と呼ばれるのだろうとうろたえる。相手をうろたえさせたらもうしめたものだ。
梟の声だけ聴いている梟
どんな動物だって危険が迫らない限りは同じ仲間の声しか聴いていないのだが、「鵯の声だけ聴いている鵯」では句にならない。しばしば知性の象徴とされる梟だからこその諧謔である。
少年の一人は川を読んでいる
これが「少年の一人は本を読んでいる」だったら日本語の教科書に載っていてもおかしくないありふれた文章なのだが、ありふれた文章をなるべくそのまま残し一箇所だけ置き換えると、たちまち句として立ち上がる。「川を読んでいる」ってなんだ。思春期の心のざわめきが聴こえるようである。
川沿いに来るえんとつの頃のこと
高度経済成長の頃、社会として環境意識が未熟で、川沿いに林立する工場の煙突は煤煙を撒き散らしていた。空気は汚れ川は悪臭を放ち人々は生活に追われていたが、でも今とは違い全体にもっと生き生きしていなかったか。しかし、句はひらがな表記を生かし「えんとつの頃のこと」としか言っていない。余白に余情がある。
ねじれたガラス
よごれてもよい手と足で旅に出る
服とか靴なら分かる。ここでもありふれた文章からの置換で句が立ち上がっている。そもそも手も足もいつもと同じものしかないのだから、まるで普段のままなのだ。妙に可笑しい。
真鍮の把手のついている地名
これも同じ手法によるもの。不思議とオーストリアあたりのイメージが立ち上がるが、読んだ人それぞれだろう。同様の手法の句としては、「地下に出る笑うところを間違えて」「おひとりさまですかと闇に通される」「ヒツウチでいっぱいになる冷凍庫」などがある。カタカナで書かれたヒツウチは国籍不明な魚のようでもある。
両脚にはさんでつぶした半日
もちろん時間をつぶすという慣用表現はあるわけだが、物理的につぶしましたか…。
アサガオノカスカナカオススガシカオ
正木ゆう子の句集にも「ヒヤシンススイスステルススケルトン」という句が入っているが、句集にこういうものを入れるのは、今どきの若者のラップよりももっと古典的な感覚なのかもしれない。
水に溶ける夜
はじめての町をいちじく揺らすバス
これは俳句のようである。「いちじく揺らすバス」だけで、狭隘な道路を民家の植栽ぎりぎりに突っ走る路線バスの景が立つ。
くちびると闇の間がいいんだよ
こういう結局どこなんだか分からない句を読むと身体感覚がむずむずする。遊び慣れた男の口調がうらめしい。
からかって男の肺をふくらます
人工呼吸のマウス・トゥ・マウス法だろうか。遊び慣れた女のようである。
レシートが長くて川を渡りそう
いまどきのレシートは購入商品の列挙だけでなく、カード利用の内訳やクーポンなども連なり、とにかく長い。「川を渡りそう」とはよく言い止めたものだ。
夢に意味があってぬるいコカ・コーラ
向こうも夜で雨なのかしらヴェポラップ
ともに商品名の句だが、このふたつは交換不能だろう。コカ・コーラは夢や青春と強く結びついて刷り込まれているし、ヴェポラップは家族の無事と結びついている。地球上なら昼か夜かくらい分かるだろうと思ったとき、あの世の可能性に気づき愕然とする。
植物園の半券に似たおわり
一度園から出て昼食をとってから戻るといったケースを想定し、植物園では半券を持っていれば規約として再入場できるようにしているところがある。でもつまらなかったら話は別だ。人間関係でも、戻れるのにそれっきりになってしまう終わりはある。
ままごと
三月の水にもたれている金魚
沈むでもなく浮くでもなく均衡しているのは、まさに水にもたれているからだろう。そんなこと、考えたこともなかった。
向き合ってきれいに鳥を食べる夜
通常は加工された食肉を食べているので、魚に比べると原型を思い出すことは少ないものの、やっていることはこういうことである。俳句でこんな残酷な句はあまり見たことがない。
紫陽花へ向く六月の頭蓋骨
同様に真実を暴いた句である。解剖学的にじつに正しい。
おとうとはとうとう夜の大きさに
これは怖い。肉体の成長とともにこころの闇も広がっている。家族間は無防備なので、同じ屋根の下に夜の大きさのおとうとがいると思うと、ほんとに怖い。
器ごとあたためる
たんたんと等身大にする床屋
「たんたんと」は淡々となのかも知れないし、擬態語なのかも知れない。伸びた髪を切り、本来の自分のサイズになってゆくのかも知れないし、肩や首のこりがとれ、血行の回復とともに本来の自分の姿勢になってゆくのかも知れない。いずれにせよ、もともと1/1スケールの実物に対し、等身大と言っているのが眼目である。
素直に泣くには髪が多すぎる
上五が一音足りない破調である。上五が足りないせいで、ぼわっと髪があふれでた印象がある。床屋はこういうのを等身大にするのだろう。
その岬の、春の
隙間なく触れ合っている海と闇
本来「闇」は大気ではなく光がない状態であるが、こう詠まれると広大な夜の海が広大な夜の大気と触れ合っているさまを捉えて過不足ない。「海と闇」という、本来並べようもないものが、語呂のよさによりぴったり決まっている。
なのはなのひかりはるばるくるひかり
菜の花から目までの光の移動だけでなく、はるばるというのだから太陽から地球までの光の移動を詠んでいるのだろう。すべてひらがなの表記により、敬虔さが感じられる。
まとめ
いろいろな様相の句を見てきたが、句集に収められたその姿は概して静謐である。ざらざらの質感のカバーと余白が心地よく、何度でも繰り返し眺めたくなる。次に読めばまた別の日々や罅が見えてくるのだろう。
●
0 comments:
コメントを投稿