2023-03-05

非-意味とテクスチャー 八上桐子の川柳 西原天気

非-意味とテクスチャー
八上桐子の川柳

西原天気
『川柳木馬』第173号・174号合併号
(2022年11月発行)より転載

世の中には、よくわかる川柳、すなわちサラリーマン川柳に端的な、誰にも書き手の意図が伝わる川柳があります。その一方に、よくわからない川柳、意味を解しにくい川柳もまた存在する。このふたつを仮に〔川柳A群〕と〔川柳B群〕と名付けることにします。ここに優劣や階層はありません(歴史性はちょっとある)。

〔A群〕は意味を明示して諧謔や皮肉をもたらし、一方、〔B群〕は意味了解性に重きを置きません。読者の感興という点でも、両者は大きく異なります。

〔A群〕と〔B群〕のあいだには、どう見ても大きな隔たりがある。橋の架かっていない大河が横たわっているかのようです。

と、まあ、言わずもがなの凡庸な書き出しになってしまったのは、ひとつに、私がふだん川柳ではなく俳句を親しくしているせいもあります。川柳に関しては門外漢。言い訳のように聞こえるでしょうが、そればかりでもない。川柳を外から見るという試みも、ひょっとしたら少しの意義があるかもしれません。

それだから繰り返し言うのですが、いったいどうなっちゃってるんですか? というくらいに、ふたつはかけ離れている。

けれども、ここからが、門外漢たる私に興味深いところなのですが、〔A群〕と〔B群〕にまったく行き来がないかといえば、そうではなくて、橋は架かっていなくとも、渡し船はある。意味了解性への固着と無関心は、つねに隔絶した地点として対立するのではなく、しばしば往還がある。そんな感じです。

どういうことか。句を挙げて説明しますね。やっとですよ。ぼんやりした話からすこしずつ抜け出せるよう、努力します。

雨と雨のあいだに挟む小倉あん

大好きな句です。素晴らしい。どこが素晴らしいのかというと、キュートなところ、とひとことで済まして筆を擱きたいところですが、そうも行かないので、例えば、雨は切り分けることはできません。きほん不可算名詞です(英語の授業を思い出しましたか)。雨粒のように数えることはできない。なのに、雨と雨で挟む? そこがまずもって不思議です。驚きです。おまけに、何を挟むかと思えば「小倉あん」です。さらなる不思議、かさねがさね驚きです。ぜんぜん美味しそうじゃない。でも、目の前にそんな光景があれば、うれしい。そこがキュートたる所以です。この句への私の愛が伝わったでしょうか。

と、ここで、別の読みも想像してしまいます(いちおう俳句を長くやっている、その悪癖が出ます)。

この句を一瞬の光景とは読まず、雨がやんで、また降り出す、そのあいだに小倉あんを挟む、と解する。「挟む」には、「休憩を挟む」といった時間的な意味もありますからね。私の読みとはまったく違う読み方もできる。この読みだと、散文的に意味が通り、現実の出来事を描いていることになります。「小倉あん」という五音のあと、「を食べた」などと補うと、さらに散文的になります。私の読みだと、ずいぶんとシュールな光景、現実にはありえない(ありえても、濡れちゃうよ、だめだよ、ということになる)。それとは大違い。

どちらが正しい読みなのか、作者の意図はどちらか、といった問題ではまったくありません。

つまり、冒頭にお話しした〔川柳A群〕と〔川柳B群〕は作品として隔絶しているのではない。意味了解性を放棄したかに、私には見える句も、別の読みだと、じゅうぶんに了解可能な句になってしまう。〔川柳A群〕的な読みが、〔川柳B群〕へと手を伸ばしてくる瞬間です。

こんなことを思うのは、かつて川柳の句会に参加させてもらったときの経験のせいでもあります。私にとって最初の(そして今のところ最後の)その川柳句会は、選者を立てるのではなく、互選・合評スタイルでした。参加者の柳人諸氏の句評を聴いていて驚いたのは、読みの方向がしばしば強く了解性へと向かうことでした。私には意味了解性が希薄で、それだからこその成果を得たかに見える句を、解釈によって現実的にありうる光景・ありうる出来事へと着地させようとする。その際には連想や象徴作用といった読解の道具が使用されたりもしました。おおげさにいえば、了解への欲求、わかりたい欲望を、そのとき感じたのでした。

清記用紙を眺め、現実着地型の読解を聴きつつ、「みなさん、こんなにわけのわからない句をつくっておきながら、読みは〈わけのわかる〉方向へと向かう。なんなのだろう、これは!」と軽い衝撃を味わいました。

(柳人の常識や共有知識からすれば馬鹿げたことを書いているかもしれません。そのときはご容赦)

俳句にも、意味了解性をめぐる隔絶や対立があります。けれども、管見の範囲では、わかりやすさを求める俳人は、自分でもわかりやすい句をつくろうと心がけるのがもっぱらです。わかりやすい句をめざす人は、一読してわからない、いわゆる難解な句を、みずからの読解によってわけのわかるように、散文的に意味の通る句に変貌させようとはしません。好悪は別として、わからない句はわからないまま放置する。ちなみに、私が参加する句会には、意味の明瞭な句とそうではない句が雑然と並びます。

私自身は、意味了解性を希求するところがきわめて希薄です。散文的な了解を、俳句にも川柳にも求めない。「読解」によって、非現実を現実に近づけることもしません。もちろん、多声的に、非現実と現実が交響する句というものもあって、その効果を愛することはありますが、きほん、句は、書いてあるとおり。書かれていないことは、そこにはない。その潔さが、俳句の(そしてひょっとしたら川柳の)最大の美点と信じているので、連想や象徴作用、ほのめかしには抑制的な態度をとります。だから、たとえば、

真夜中の赤信号と心臓と

という句は、赤信号や心臓にコノテーション(言外の意味)がいやでも付いてくるにせよ、それよりもまず、明示された特定の光景に意識や気持ちを集中させてくれるという点で、素晴らしい。物語を呼び寄せそうで呼び寄せない。脈絡からみごとに切り離されて、赤く点滅する・赤く鼓動する衝撃的二物がしっかりと孤絶する。その置き場所として「真夜中」は適切です。まだ若い夜でもだめ、朝でも昼でもだめ。色の深度が重要です。

意味というものにどのような態度で向き合うのかという問題でもありましょう。いまお話ししている読みという事柄は。

ことばは意味の乗り物(vehicle)なので、語には、句には、どうしたって意味が付いてきます。けれども、取扱説明書でも法令でもなく、さらには散文でもない川柳(や俳句)には、因習的な意味のつながりから脱し、それによって不思議や驚きを生み出そうとする側面があるはずです。そうした野望の存在(一般的とは言いません)をまず前提として、では、どうやって? という方法論へと過程を進めれば、多くの現代川柳作家は、意味のつながりを捻じ曲げ、脱臼させます。あるいは従来的な脈絡からの脱線。この点、ていねいに説明すべきなのでしょうが、紙幅の関係から一例だけ、それも単純化して。食べものを食べない川柳がいかに多いことか。食べたら負け、とでも言うかのように。あるいは、給仕がおごそかに運んできた皿の上にかなづちが載っているかのように。

では、八上桐子さんの場合は、どうでしょうか。

なんか、ちょっと違う。

意味の希薄化・無化に向かう、というのが、私の印象です(結果として、句のそれぞれが悦ばしく軽い)。

では、どのように?

ひとつには、なにを語るか・なにをどう描くかといった意味の内容の後景化。つまり、そこはあんまり重要じゃないという設えです。

どちらからともなくうたう雨と豆

「雨」と「豆」が招喚された理由は、とりあえず〈音〉です。「あめ」と「まめ」。この句の主成分は、〈意味〉よりも〈音〉。シニフィアン(記号表現)がシニフィエ(記号内容)に先立つ。どちらか一方が「亀」でも「鮫」でもいいようなもの。ですが、そこには詩的造形の塩梅というものがありますから(八上桐子さんはこの方法のおいて巧みな作家です)、とうぜん計算はある。種子のもつ凝縮や始まりのイメージと雨に備わる包み込み効果が対照されて、「うた」が気持ちよく耳にとどきます。肌理(テクスチャー)の調整(この点でもきわめて巧みな作家です)も「雨と豆」だからこそ、ということも言えそうです。

ここで、私がこの作家に惹かれるのは、句に備わる肌理という要素が大きい。そのことに思い到りました。意味に説得されるのではなく、肌理を味わわせてくれるのです。

この肌理は湿度や温度をともなっていて、私にとってきわめて触覚的です。読解に先立って、あるいは読解をすっ飛ばして、肌理が届く。誤解のないように言っておくと、いわゆる(作家の)皮膚感覚というのではありません。いわば句に備わる皮膚に、句のまとう表層に、読者の触覚が反応するという感じでしょうか。

音もまた固有の肌理をもつかのような《雲呑という声のもうすでに遠い》《鈴の鳴る百年前と百年後》。描写として比較的了解性の高い《地下街の噴水 傷だらけの水》《日差しの角を削りつづけている川面》にもたしかな肌理があります(そういえば『hibi』は一巻のいたるところで〈水〉を感じた句集でした)。

さて、心許ないまま進めてきたこの稿もそろそろ終わりです。ことばは意味の乗り物だと言いました。川柳は俳句と同じく小さな乗り物です。意味をどう積むかが、作品の、作家の特質となります。八上桐子さんの乗り物は、丹念に選択され整理されているせいで、まるで荷が積まれていないかのようです。あるいはダンボール(表層)だけ。車輪への負荷はきわめて小さく、軽やかに疾駆する。ああ、なんてきれいな走りをするのだろう。と、ほれぼれ眺めているのですよ。

(了)

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