【句集を読む】
生駒大祐『水界園丁』を読む
三島ゆかり
『みしみし』第三号(2019年10月吉日)より転載。
生駒大祐『水界園丁』(港の人、二〇一九年)には、約十年間に作られた句が「冬」「春」「雑」「夏」「秋」の五章に収められている。「冬」から始まっているところに謎がありそうだし、「雑」の章があるところも興味深い。装幀はかなり凝った作りとなっていて、紙の質感も印字の具合も独特である。
さっそく「冬」から見ていきたい。なお、私の記事にはよくあることだが、全体を読み終わる前に章ごとに書き始め、実況中継の体裁をとるものとする。読者としての私のなかで、要するにこういうものだとフィルターができてしまうと、それに落とし込む作業になってしまいそうだから、そうなる前の一句一句に出会いたいのだ。
1.冬
鳴るごとく冬きたりなば水少し 生駒大祐
「冬きたりなば」と来れば誰しも「冬来たりなば春遠からじ」が頭を過ぎるだろう。漢詩かと思いきや英国の詩人シェリーの詩「西風の賦」の一節で、誰の訳なのかもよく分からないらしい。人生訓めいた英詩はさておき大祐句である。「鳴るごとく」と振りかぶり人口に膾炙した「冬きたりなば」が続いたら下五をおおいに期待するところであるが、かっこいいことは何も言わず「水少し」と置いている。この句が巻頭で「冬」の章の冒頭であるということは、『水界園丁』は渇水から始まって豊穣の秋に至る句集なのか。
奥のある冬木の中に立ちゐたり
疎である。十七音の中にできるだけたくさんの情報を詰め込む俳句もあるが、この句はそうではないようだ。「寒林」と言わず「奥のある冬木の中」とし、「ゐたり」と語調を整えつつできあがる疎な十七音に味わいがある。
肉食ひしのち山や川なんの冬
いったいどういう食生活なんだろうとも思うが、肉を食べた後の身の充実をいくぶん自虐的に誇張してみせ、つかのま楽しい。
ときに日は冬木に似つつ沈みたり
オーソドックスな万感の自然詠である。
数へてゐれば冬の木にあらはるる
一読かなり分かりにくい。何を数えていたのか、またなにが現れたのか。鳥とか洞とか数えられるもので冬の木に現れそうなものを思い浮かべても釈然としない。そもそも数える対象が現れるものなら、現れるまではゼロで数えられないだろう。そのあたりで「冬の木」をひとかたまりに季語だと思って読んでいたことに気がつく。現れたのは「冬」ではないか。だとすれば、対象物を数えていたのではなく、時間を数えていたのではないか。例えば自分がかくれんぼの鬼で、木に添えた腕に額をつけて目をつむりゆっくり十数えている間にみんないなくなる気配、孤独感。そこに不意にとりとめもなく冬を感じたのではないか。
目に見える対象やできごとを簡潔にあざやかに描く俳句もあれば、とりとめのない感じをとりとめのないままに描く俳句もあっていいだろう。
たそかれは暖簾の如し牡蠣の海
そもそも「暖簾の如し」という着想を得たのは、「たそかれ」の方からではなく一本の紐に牡蠣がいくつもぶら下がり、それが何十本も何百本もある養殖の景の方だろう。それを「たそかれや暖簾の如き牡蠣の海」としなかったのは、小津夜景がいうところの倒装法〔*〕だろう。漢詩によくある修辞の意図的な逆転である。「暖簾に腕押し」ということわざがあるが、倒装法によりつかみどころのない「たそかれ」が広がっている。
〔*〕小津夜景「器に手を当てる 宮本佳世乃「ぽつねんと」における〈風景〉の構図」(『豆の木』第19号、二〇一八年)
2.春
春雨の暗きが夜へ押し移る
道ばたや鰆の旬のゆきとどき
雨のとびかひてあかるき花の昼
いずれも明確な対象物があっての叙景句ではない。とはいえ個人に属する気分とも異なる、曰く言い難い大気感のようなものだ。たまたま選んだ一句目と三句目は雨を題材としているが、必ずしも雨そのものではなく幼児期の感覚のように暗くて怖い夜や明るくて華やかな昼と結びついている。また二句目は漁村を歩いてでもいたのだろうか、「鰆の旬」という普通なら知覚しがたいものの横溢を感じている。このような句に出会うと、そうそう、これこれ、と思う。
鳥すら絵薺はやく咲いてやれよ
八田木枯の句には「鶴」や「針」が頻出するが、生駒大祐にとっての「絵」も同じような頻出アイテムなのかも知れないと思い始めている。ここまですでに「よぎるものなきはつふゆの絵一枚」「手遊びに似て膝掛に描かれし絵」「大寒の寝べき広間に一枚繪」「二ン月はそのまま水の絵となりぬ」「芝焼の煙や壁の真中に絵」がある。共通するのは、動くことができない封じ込まれたもののイメージである。それは希望や危機に直面しても同じである。
3.雑
「雑」の章は十四句からなる。「無季」ではなく「雑」というあたり、単に有季にこだわって捨てることがはばかられた句群というばかりではなく、連句的な付け合いを意識したものなのではないか。実際、この章では、「冬」や「春」の章に比べると、前後の句の響き合いにもより強く考慮しているようである。前の句のイメージを引き取ったり、前の句との同字反復をしたりを、連句とは違うマナーで行っている。
星々のあひひかれあふ力の弧
一句目では、万有引力や惑星の軌道に関する科学的な知識が、句のことばに昇華されている。なるほど、ここに季を加えたら余分な感傷が生じてしまうだろう。ここで作者は句そのものではなく、配列の妙味により句と句のあわいに余情をあからさまではなく配置しているようにも思える。この句に後続する五句を挙げると②「いつやらの季題を君としてしまふ」③「友失せぬ欅を楡を置き去りに」④「在ることの不思議を欅恋愛す」⑤「恋いまや狐の被る狐面」⑥「小面をつければ永遠の花ざかり」である。最初の句の「ひかれあふ」から②「君」、②「君」から③「友」が導かれ、④「欅」⑤「恋」⑥「面」はそれぞれ前句の同字反復となっていて、全体的に星々があいひかれあうように隣り合う句は影響を及ぼし合っている。
西国の人とまた会ふ水のあと
七句目は六句目の「永遠」から導かれている。極めて抑制された書き方であるが、「水のあと」が喚起するのは津波もしくは干ばつの傷跡であり、永遠に続くはずだったものの破壊である。そして、この句に続く八句目は「鉄は鉄幾たび夜が白むとも」である。この鉄は廃墟かもしれないし、武器かもしれないが、句としてはまたしても極めて抑制された書き方で「鉄は鉄」だとしか言っていない。前後する「水のあと」の句と「鉄は鉄」の句のあわいに、文明の危機に直面した現代への言い知れぬ思いを感じる。
4.夏
すでに作者の術中にかなりはまっている自分にあらためて気がつく。
五月来る甍づたひに靴を手に
現代俳句の骨法として二物衝撃というものがあることは無論承知の上で書くのだが、この句は「五月来る/甍づたひに靴を手に」と切断して取り合わせの妙味を味わえばいいだけのものだろうか。むしろ切断ではなく、「甍づたひに靴を手に/五月来る」を倒置したものとして、五月が主語としても読めるようにわざと書いているのではないか。見回せは、この二句後には「夏立つと大きく月を掲げあり」があり、さらにページをめくると「夏の木の感情空に漂へり」や「雲は雨後輝かされて冷やす葛」がある。生駒大祐の作品世界では「五月」も「夏」も「木」も「雲」も世界の構成要素として生命を与えられて感情や意思があるように書かれているのではないか。「春」の章には「佐保姫に紅ひく神の大きな手」があったが、動植物のみならず時や気象現象も佐保姫と同じように神に司られた生命体で、ときに人の姿をまとっているようだ。
雲を押す風見えてゐる網戸かな
ここでの「風」もそのようにして生命体である。この一句だけ見れば、人によっては聖教新聞のテレビCMの「僕は風さん見えるよ」という子役を思い出すかもしれない。が、句集をここまで読んできて感じるのは、俳句を通じて自然と接することにより獲得したであろう独自にして強固な、俳人としての世界設計である。その設計に基づいて完成したのが、句集という作品世界である。そこでは現実世界とは異なる生命活動や時間の流れがある。単に擬人化によりうまいこと言ったぜという底の浅い措辞ではなく、生駒大祐にとって俳句とは現実世界から、違う秩序を持った作品世界への射影であり再配置だと考えた方が、腑に落ちる。
心中のまづは片恋たちあふひ
道ならぬ一途な想いの行く末が初めから見えているのだろう。「たちあふひ」の軽佻浮薄なうつくしさがなんとも不吉である。
蟬の穴より浅くあり耳の穴
「蟬の穴蟻の穴よりしづかなる 三橋敏雄」へのオマージュだろう。まこと人間が見聞きできるのは表層のできごとでしかない。
蚊遣の火消えゐる波の響きかな
幼少の旅行の記憶だろうか。波の響きにふと目が覚めると蚊取線香の火が消えている。それからしばらく眠れぬままだったのだろう。状態の持続の「ゐる」と「波の響きかな」と、句末に詠嘆する語順が絶妙である。
夕凪の水に遅れて橋暗む
「遅れて」がよい。平面である水面に比べれば鉛直に立ち上がっている橋の側面は、そのぶん夕日を受けている時間が長いのだろう。それが暗くなるまで見届けている時間の経過が「遅れて」である。先の「蚊遣」句の「ゐる」といい、本句の「遅れて」といい、時間の経過の捉え方のゆるやかさがじつによい。俳句は一瞬を切りとったものがよいとする言説をしばしば見かけるが、決してそれだけが俳句ではない。
暇すでに園丁の域百日紅
そのあたりを自解した句なのだろう。『水界園丁』という句集では、そのように時間が流れている。
5.秋
これまで見てきたような無生物の生命体化や「絵」への固執は本章においてもますますあらわで豊穣な季節を彩る。が、同じような句を挙げてもしょうがないので、違う観点からもう少し見てみよう。
烏瓜見事に京を住み潰す
「住み潰す」はあまり見かけない複合動詞であるが、壊れるまで住み続けるということだろう。あくまで実作者としての直感でしかないが、この句、最初は「今日を住み潰す」と一日の終わりを詠んだものだったのではないだろうか。そこから同音異義語である古都を得て最終稿としたのではないかという気がしてならない。複合動詞の句では他に「擦りへりて月光とどく虫の庭」「鳥渡る高みに光さしちがふ」などが印象的である。
天の川星踏み鳴らしつつ渡る
複合動詞に限らず、生駒句には一句の中に動詞をふたつみっつと詰め込んだものが多い。「ある」「ゐる」なども動詞に数えるならばじつに多い。生駒句を特徴づけているのは「覚えつつ渚の秋を遠くゆく」「雁ゆくをいらだつ水も今昔」などである。無生物の生命体化と一句の中の動詞の多用は、たぶん密接な関係がある。その一方で「虫籠の中の日暮や爪楊枝」「星空にときをりの稲光かな」のような動詞のない句ももちろんある。
ゆと揺れて鹿歩み出るゆふまぐれ
挙句である。多分にもれず動詞三個(うち二個は複合動詞を形成)を畳み掛けるが、眼目は句頭の「ゆ」だろう。動作の作用や状態を表す格助詞「と」の前に置かれ、句中に四回現れるyu音として調べを整えるとともに、たった一音、たった一文字で曰く言い難い状態を表現している。これは田島健一の「ぽ」〔*2〕とともに語り継がれるべき「ゆ」であろう。
〔*2〕「ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ」(田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂、二〇一七年))
6.まとめ
途中、私は「生駒大祐にとって俳句とは現実世界から、違う秩序を持った作品世界への射影であり再配置だと考えた方が、腑に落ちる」と書いた。違う秩序を持った作品世界では、時間も天体の運行も気象現象も生命体として扱われる。その作品世界を「水界」と名付け、現実世界から射影し再配置する作業者を「園丁」と名付けたのではなかったか。そんなことを感じている。
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