【句集を読む】
浅沼璞『塗中録』を読む
三島ゆかり
『みしみし』第4号(2020年節分)より転載
浅沼璞『塗中録』(左右社、二〇一九年)は、俳人、連句人として長いキャリアを持つ浅沼璞の第一句集である。俳句だけをひたすら追求してきた俳人の句集と、連句にも深く関わってきた人の句集は違うものなのか。もちろん人それぞれで一般論に敷衍などできないのだが、私の関心はもっぱら連句人の出す句集とはどういうものかにある。
もともとは俳諧の発句だったものが明治時代に正岡子規らによって「俳句」と呼び名を変えたのは、俳諧の集団性を離れ近代的な自我による文学を指向したからであった。俳諧は、発句であれば挨拶という性格があり、平句であれば前句の内容次第で、あるときは謎の運転手であったりあるときはニヒルな渡り鳥であったりして、そこに本来の自我はない。俳諧とは自己表現ではなくその場に応じた受注生産に他ならず、個性とはそのようにして生産された製品としての句に見え隠れする特徴にすぎない。あとがきで浅沼璞は「これまで私が句集を編まなかったのは、版元や予算等の問題以前に、編集主体が立ちあがってこない、という根本的な難題があった」と書いているが、これは俳句だけをひたすら追求してきた俳人、とりわけ嘘を書かないことを旨としてきた俳人には分からないかも知れない感慨だろう。
俳諧に限らず俳句でも題詠などで虚構を詠むことは少なからずある訳だが、そのような場合、虚構の中に身体感覚や実体験に裏打ちされた真実が部分的にでも含まれていれば、その微量の真実を核としてその句は力を持つことがある。『塗中録』では六篇の随筆により明確に章立てする訳でもなく句群が仕切られているが、どうやらその随筆は、微量の真実を読者と共有するために書かれたものと見受けられる。出現する順では随筆が先だったり句が先だったりしながら、微量の真実が「さっきのあれ」として印象づけられて行く。
さて、随筆による仕切りを位置情報としながらつぶさに見て行きたい。随筆の内容はこれから読む方のために詳しくは触れない。随筆と句とをひもづけて解説するようなこともしない。以下、基本的に句について書く。
1.入院
最初の随筆は入院体験と健康不安を綴っている。
あら玉の汗とゞろかす大太鼓 浅沼璞
「あら玉の」は一般には新年にかかる枕詞であり、そういう意味で句集全体の巻頭を飾るにふさわしいようにも見える。初詣の大混雑の熱気の中、身動きできずにいると元日ならではの大太鼓が轟く。ところが、本当はそれだから巻頭なのではない。「璞」という字が、あら玉なのである。掘り出したままでまだ磨いていない玉、その真価や完成された姿をまだ発揮していないが素質のある人、という意味である。つまり、私が璞と名乗る者です、と読者に挨拶している句なのである。単独の句集なので脇が付いて挨拶が返される訳でもなく、「玉の汗」と読み替えられ、後ろには夏の句が続く。
ゆつくりと蛇口漏れゆく夏の海
上五中七の近景に対し、下五に遠景を配した二物衝撃の句であるが、どちらも水であるため、蛇口から海が漏れて行くようで、じわじわと可笑しい。
秋高し抗凝血薬忘る
同じく二物衝撃の句であるが、こちらはずっと俳句らしい佇まいがある。ちょっとガタが来た年齢であれば誰にでも共感できる微量の真実があり、今この一瞬の秋空のうつくしさに対し緊張とともに釣り合っている。
俗情が耳にかゝりて春の髪
上から読んだときに一句の中で連句でいうところの「三句のわたり」となっている。中七「耳にかゝりて」は上五に付けば世間の事情が耳に入ってきて煩わしいという意味になるし、下五に付けば即物的に髪の毛が耳に触れるという意味になる。連句では付合いの中でこのように意味がすりかわることが醍醐味なのだが、俳句しかやっていない人なら、中七が観音開きになって句意がぶれるとか、駄洒落のような掛詞は本人が思っているほど面白くないのでやめましょうとか言うのだろう。
学歴もはらわたもなき鯉幟
「学歴」と並置する「はらわた」であれば性根とか野心という意味だろうかと次を読むと、唐突に「鯉幟」が出てくる。一瞬食べ物としての秋刀魚のはらわたあたりが頭をよぎりつつ、「鯉幟だったら、そりゃねえよ」と爆笑に至る痛快で破壊力のある句である。「はらわた」はかなりのパワーワードで、橋閒石にも「噴水にはらわたの無き明るさよ」というユーモラスにして寂寥感のある句がある。
海原に生まれ野分として吹ける
現代に生きる者としてことばの面白さを共感するが、「野分」ということばができた頃には、熱帯の洋上で発生した積乱雲の渦が時間をかけて海を渡ってくることなど知る由もなかったのだろうとも思う。百人一首の「吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐といふらむ 文屋康秀」の逆を行ったような味わいを感じる。
竹夫人すこし年上かもしれぬ
飄逸な句である。竹夫人は竹で編んだ抱き枕であるが、先人のネーミング・センスに舌を巻く。擬人化されたその名を興じて付けた中七下五がじつに可笑しい。
年月のうちに茶色く変色して光沢を放つ質感がありありと伝わる。
2.母
次の随筆は、独立した七七定型の句を十一句と、それを枕に、自覚ある年齢に達してからのわがままと母の寛容さの思い出。誰しもエピソードこそそれぞれ違えど、身に覚えがあることだろう。
この脛はかつての父の冬の脛
「冬の」の位置が眼目である。実際には肌の露出の多い夏季の方が父の脛を目にしていただろうが、通常は露出しない季節だからこそ、何かの事情で見てしまったものが微量の真実の核となっている。単に見かけが歳とともに似てきたということなのかも知れないし、体質的ななにかなのかも知れないが、微量の真実の核は濃厚である。「親の脛をかじる」という慣用句があるが、自分が父親になって改めて思い出したなにかという可能性もある。
また母が降つてきたのか細雪
父の句と隣り合って置かれている。肉親ならではの繰り返し思い出される、ありがたさばかりではない苦々しさは、誰にでも身に覚えがあるだろう。
魚ならここで手をあげたりしない
雑の平句のようだとも川柳のようだとも言える機知の句である。慣用句「手をあげる」には降参するとか暴力をふるおうとするといった意味があるが、いずれにせよ魚はそんなことをしないし、そもそも手がない。のであげようがない。
こういう機知のありようは、いわゆる無季俳句とも違うものだし、俳句だけをひたすら追求してきた俳人の句集であれば出会えない種類の句だろう。大雑把に言うと俳諧の発句は俳句となり平句は川柳となった訳だが、連句人が句集を出すとき「編集主体が立ちあがってこない」とは、できてしまった俳句と川柳を一冊の中でどう落とし前をつけるか悩ましいということでもあろう。
さみだれといふ部首さがす最上川
その隣の句。季語「さみだれ」がゲシュタルト崩壊して、「やまいだれ」「がんだれ」などの仲間になりかかっている。芭蕉句のパロディとしてそうとう可笑しい。
札付きの風鈴としてならしけり
人間界で極悪人として評判が立つときの言い回しをそのまま風鈴に適用して、めちゃくちゃ可笑しなことになっている。風を受ける部分の、あの紙の呼び名など考えたこともなかったが「札」なのか…。
3.恋
次の随筆は恋。一冊の句集の中で発句性と平句性に分裂して拮抗し、臨界点に達する頃合いで随筆が現れてはリセットし、微量の真実の核が餌付けのように撒かれる。笑窪、月齢表示のある腕時計、ポニーテール、…。
ゆく春の英文墓のうらに廻る
放哉の自由律俳句「墓のうらに廻る」に付け足して、ほぼ普通サイズの俳句に仕立て直している。「英文」が効いていて、横書きに誘われ廻りたくなる。
初東雲祈りはいつも目尻から
このように書かれると、自分が今まで寺や神社で折々に祈っていたものは何だったんだろうと、うろたえる。祈りとは対象に向かって念波のようなものを放射することなのか。それは身体の特定の場所から発射されるものなのか。そして、しあわせな気持ちにしてくれた恋人の笑顔を思い出したりもする。
4.旅
次の随筆は旅もしくは定住者としての父。微量の真実の核として、海と結びついた父上の記憶が綴られている。このあと妙に客観写生的な句と妙にリフレインに固執した句が続く。
短夜の底黒々と醤油差し
使っているうちにこぼれた醤油が醤油差しの底のまわりに黒々と乾いて、ざらざらに固まっているのだろう。短夜の蒸し暑さと醤油のにおいが脳の中に再生される。
秋霖や駅見下ろして駅の中
鉄道が立体交差する乗換駅だろう。片方の駅で電車を待ちながら、見るとはなしにもう一方の駅を眺めている情景であろうが、季語「秋霖」がやるせない。閉じ込められた日常の中で、ふつふつと別の人生を思い描いては打ち消しているのかも知れない。
耳鳴りもちあきなおみも冬隣
敢えて検索などせずに書くが、ちあきなおみはある日突然表舞台から姿を消した往年の大歌手で、記憶の中にしかいない。耳鳴りが他人には気づかれないように、ちあきなおみが記憶の中にいることも他人には気づかれない。「耳鳴り」という言葉は耳鳴りそのもののように母音iが鳴り続け、「ちあきなおみ」も母音の半分はiで、「冬隣」も脚韻としてiで呼応する。全体が耳鳴りのようであり、そのようにしてやがて冬がやってくるのである。
5.公衆電話
次の随筆は自分のことをなんと呼ぶかという話であるが、公衆電話の記憶が生々しい。携帯電話が普及する以前、日本人は公衆電話で恋をしていたのではないかと思うほど、記憶がざわざわする。
近景の心音となる冬かもめ
直前まで近景だった恋人の胸に耳をうずめ、心音と体温の深い安らぎの中で遠景の冬かもめを見ている。奥ゆかしい表現ながら甘美なロマンがある。
腕相撲してゐる影の腕うらゝ
腕相撲をすればその影もまた腕相撲をする。うららかな春の光の中で、腕相撲そのものではなく影の方を見ている。安心しきった充足感がそこにある。
6.曳尾塗中
最後の随筆は荘子の「曳尾塗中」の故事と攝津幸彦の思い出に触れ、故人の句に脇起しすることについて述べている。浅沼璞の書斎は「曳尾庵」であり、この句集のタイトルは『塗中録』であり、反骨精神で一貫している。レイドバックという言葉をふと思い出す。
東日本大震災のあと、実際に被害に遭われた方だけでなく多くの人々が心に傷を負ったにも関わらず、俳句界ではそれを俳句にしてはいけない空気があった。その空気は奇妙な同調圧力ともなり、震災句集を刊行したある俳人が被害者でもないのにと大バッシングを受けたりもした。浅沼璞は書く、「俳句ではできなかった震災詠が、脇起しでは自然とできた。いずれも三・一一以前の作品に対する挨拶だから、ためらいなくできたのだろうか。そんな挨拶でいいのだろうか」と。
随筆のあと西鶴、芭蕉、其角、蕪村、一茶、子規、虚子、久女、茅舎、幸彦の句に対しての脇起しが並んでいるが、十九ある脇起しのうち五つで震災について触れている。ここでは震災詠ではない、句集の最後を飾る脇起しを見てみたい。
菊月夜君はライトを守りけり 幸彦
かぼそく伸びる影の秋風 璞
脇について触れる前に、攝津幸彦の句がまず多義的である。「ライトを守る」といえば、第一義には野球の守備であるが、菊月夜なのである。ナイターであれば、こんな風流な季語は選ばないだろうから、第二義としては野球の言い方を借用したことに面白みがあって、実際には灯火を守っているという解釈が成り立つ。第三義として菊を皇室と捉えたりライトを政治的立場としての右翼と捉える見方も世にあるようだ。太平洋戦争前の京大俳句事件では、警察の弾圧に協力した某俳人がなんでもかんでも共産主義の隠喩とする読みをでっち上げたことにより、新興俳句系の多くの俳人が投獄されたものだが、十七音しかない俳句において底の浅い隠喩読みは慎むべきだろう。さて、脇を見よう。摂津句に対し「かぼそく伸びる影」と付けているということは、浅沼璞は第二義を採用したのだろう。ここで眼目は「影の秋風」の「の」である。普通に考えれば影という視覚情報に風を添えるのであれば「影に秋風」となるだろう。写生ならそれでもいいが、それでは挨拶として弱いのである。多義的な摂津句に対し、脇もまた多義的なのである。「影」は灯火としての「ライト」の影であるのみならず、攝津幸彦が俳句の現在に与えている影響力の意味も重ねられているのであろう。
あなたが亡くなって随分の時が流れました。決して多数ではないながら心ある俳人によってあなたの句業は脈々と読まれ続け、その影響は秋風に触れるように今に至っているのです。
という故人への語りかけではなかったか。脇起しとは、挨拶とは、そういうものである。
7.最後に
私自身の乏しい連句の知識を総動員して『塗中録』を読んだ。「俳句だけをひたすら追求してきた俳人」ではない自分を自覚しては句に深入りし、逆に深入りしないだろう読者層も思い浮かべた。連句をやっていてよかったと思う。
(了)
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