「ただごと」俳句10句選(+10項の「ただごと」性)
……選と短文 上田信治
(「俳句」2021年12月号より転載)
十項目の典型的な「ただごと」性を持つ句を選んだ。俳句という形式の本質的価値が、内容や発想ではなく、ただ「俳句らしさ」の実現から生じることの不思議さを、これらの句から味わっていただけたらと思う。
古池や蛙飛びこむ水の音 芭蕉
蛙はただ池に飛び込んだのであり、そのボチャンは何の美を生むはずもない「ただごと」だった。芭蕉が俳諧連歌の文脈をわきに置いて発句の独立を進めたとき、ただそれ自体である「①即自性」が、どんな文脈にも位置づけできない、屹立した詩世界を打ち開いた。
横浜の方に在る日や黄水仙 三橋敏雄
カレンダーに使われる美麗な風景写真が、芸術になりにくいことと同様に、俳句は、あらかじめある美しさを遠ざけた「②没価値性」を出発点に書かれる。この句の「横浜」は「の方」であることによって無意味であり、あわせて「黄水仙」をも没価値化している。
橙が壁へころがりゆきとまる 田中裕明
俳句の「③純粋性」は、言葉が定型に従って運動することだけがあって、他に何も取り柄がない「ただごと」句にこそあらわれる。橙が、句の始まりから終わりに向かって、ころがっていく。ジャンルの固有性だけで成立している抽象画のような一句。
拡声器プールに低き私語をする 山口誓子
「写生」は「月並」あるいは「小主観」の忌避とともに主唱され、それは押し進めれば「④反物語=反ヒューマニズム」の方法となる。ビデオカメラの映像のような誓子の「ただごと」は、人間の都合を離れて、世界がただあることの感触を伝える。
食べてゐる牛の口より蓼の花 高野素十
「ただごと」はいわゆる「文学らしさ」の不在であり、気のきいた言い回しや文飾抜きで書かれることで「⑤具体性」の極となる。写生句の「見える」ことの快感は、それが何の価値判断にも汚されず、ただ描写される「ただごと」であることから生じるものだ。
秋晴れの運動会をしてゐるよ 富安風生
ここまで見てきたように、俳句の「ただごと」は、素朴かつ正統的な詩文学に対する「否定性」を契機に生まれた表現であり、ダダイズムやパンクロックのような「⑥下降性」の価値を体現する。掲句の、子供俳句のような無内容さと呆然たる口吻は、その一例だ。
八月もをはりの山に登りけり 今井杏太郎
モチーフの価値を最小化するのではなく、語り口で「ただごと」の「⑦ミニマリズム」を実現した作家。ほとんど何も言わずに十七音を言いおおせる彼の方法は、たとえば「八月の」ではなく「八月も」として、極微量の「私性」を忍び込ませることで成立している。
いろいろな泳ぎ方してプールにひとり 波多野爽波
「ただごと」が、人間性としては自由奔放な「貴族性」の表現かもしれないと思うのは、それが美の規範性をまったく「わがまま」に扱うものだからだ。何をどう書いても「写生」だったこの人の、それは「⑧私性」の横溢した世界だった。
山々や三百六十五日と休日 阿部完市
無季句が、戦争あるいは性愛といった価値あるモチーフによらずに書かれるとき、それは濃厚な「ただごと」性を帯びる。掲句の、一句の言葉以外の何ものにも依拠しない「⑨自律性」は、有季定型の名句にも、しばしば見られる特性である。
冬晴のとある駅より印度人 飯田龍太
ロマネスクな表現を得意とする大作家が、ときに「ただごと」を試みるのは、それがもっとも本源的な「⑩俳句性」のあらわれる領域だからだ。なぜここで「印度人」なのか。それは「俳句」が「ただごと」であろうとして、龍太にそう書かせたのだと言ってみたい。
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