【句集を読む】
橋閒石『微光』を読む
三島ゆかり
『みしみし』創刊号(2019年4月)より転載
橋閒石『微光』(沖積舎、一九九二年)は閒石の最後の句集である。章立ては、ローマ数字で単純にⅠからⅤまで五章となっている。順に見てみたい。
1 枯山水の微光
春の雪老いたる泥につもりけり
巻頭の一句である。「春泥」であれば春のぬかるみを指す季語であるが、あえてそうせず「老いたる泥」と詠み、老境の自身を投影させ雪を積もらすことにより消し去った。晩節への思いが感じられる。
火とならず水ともならず囀れる
「火とならず水ともならず」は人間のややこしい男女関係を念頭に置いた措辞であろう。
ほのぼのと芹つむ火宅こそよけれ
一句置いて、またしても火。「火宅」は仏教で、この世の、汚濁(おじょく)と苦悩に悩まされて安住できないことを、燃えさかる家にたとえた語。現世。娑婆(しゃば)。それを「ほのぼのと芹つむ」と修飾し、係り結びとしている。普通に考えれば形容矛盾であるところに諧謔が感じられる。
男手がなくて日暮や春の蔵
いかに老人とはいえ、男性がこのように詠んでいるところがじつに飄逸である。
ものの影猫となりたる朧かな
なんだか分からない影にぎくっとすると、ひと呼吸おいて猫の影だと分かる、その間合いを詠んでいる。朧だけに、なんだか分からない妖気が偲ばれる。ちなみにこれを発句として澁谷道、秋山正明と巻いた十八句からなる非懐紙連句『ものの影』が、橋閒石非懐紙連句集『鷺草』(私家版)に収められている。第三までを紹介しておこう。
ものの影猫となりたる朧かな 閒石
乾の蔵に匂う沈丁 道
ならべたる猪口は伊万里の赤絵にて 正明
人も物云う蛋白質に過ぎずと云える春の人
ものすごい字余りであるが、中七下五がきちんと定型に収まり着地を決めている。「人」の繰り返し、「云う」「云える」の繰り返しが無限ループ的で、人も物云う蛋白質に過ぎずと云える春の人も物云う蛋白質に過ぎずと云える春の人も物云う蛋白質に過ぎずと云える春の人も物云う蛋白質に過ぎずと云える春の人も物云う蛋白質に過ぎずと云える春の人…と永遠に続きそうな可笑しさがある。
掻き氷水にもどりし役者かな
閒石の句にはしばしば慣用句のパロディがある。役者といえば「水もしたたる」だろう。そのパロディだとすれば「掻き氷水にもどりし」は大爆笑ものである。
噴水にはらわたの無き明るさよ
そりゃあ、ない。
藁しべも円周率も冬至かな
無意味だが非の打ちどころがないくらい真実である。だが、無関係なものを並べているようでいて、藁しべの断面も円だし、冬至から地球の公転軌道を思い浮かべ他の二つが導かれたような気もする。
体内も枯山水の微光かな
枯山水は、水を用いずに石や白砂で山水を表現した日本式庭園。そのような抽象的な把握は、当然眼前の風物以外にも及ぶだろう。そんな直感がもたらした一句に違いない。ちなみに句集のタイトルは『微光』で、函から出した本体は、つや消しの黒の紙張表紙に銀の字でタイトルと作者名をあしらっている。
雪山に頬ずりもして老いんかな
章末の句は、巻頭の句と呼応し雪と老いの取り合わせとなっている。雪に頬ずりをするのではない。雪山である。俳句的なずれ具合と「も」による強意が妄執めいていて、老いの表現としてすさまじい。
2 良夜は月に任せたり
Ⅱ章は順不同で見ていこう。
あかつきの瞳孔や草萌えんとす
中七の五音目の「や」で切る。しかもその前がなんとも固い語の選択である。視覚器官を「や」で強調し、あかつきに光を知覚するように季節を知覚している。
蝌蚪の水地球しずかに回るべし
しずかに回らないと、慣性力で蝌蚪もろとも水がぶっ飛んでしまうのだ…というなんともアホクサな諧謔をしれっと句にまとめている。「べし」が効いている。
郭公の朝の雲形定規かな
おそらくは「雲形定規」ということばの面白さに導かれてできあがっているのだろう。どんな季語と取り合わせても雲形定規は雲形定規でしかないのだが、郭公の朝の静謐な空気感と、かの製図用具の取り合わせは、これはこれで効いている。
早寝して良夜は月に任せたり
閒石の晩年の句には独特の老境が感じられるものがいくつもあるが、本句もその類いだろう。「良夜は月に任せたり」の機知がじつによい。
心音もお多福豆も冬うらら
日輪も氷柱も呼吸始めたり
前章にも「藁しべも円周率も冬至かな」があったが、閒石にとって「も」のたたみ掛けは、まさに自家薬籠中のものだったに違いない。
3 ラテン語の風格
芹の水言葉となれば濁るなり
最近俳句界隈で「プレインテキスト」という言葉をよく見かけるのだが、もとより「言葉となれば濁るなり」などと書かれてしまっては二の句が継げないだろう。
足音がしておのずから草芽ぐむ
この足音は誰の足音だろう。「おのずから」とあるのだから春をつかさどる存在ないし自然そのものなのではないか。
さくらさくら少年少女より聰し
もともとは大学生のサークルなどがやっていた合否確認代行電報の「サクラサク」はすっかり市民権を得て、予備校の広告あたりでも普通に見かける訳だが、この句の場合はどうなんだろう。二〇一七年三月十六日に放送されたTBS『プレバト』の「車窓には桜つぎこそサクラ咲け 相島一之(夏井いつき添削後)」が頭をよぎる。そういう意味なら、毎年必ず咲くさくらは確かに「少年少女より聰し」だ。
入口も出口もなくて春の昼
またしても「も」のたたみ掛けであるが、永遠に続くような春昼の気分がよく表れている。
粽ほどきつつ枕詞のこと
十七音着地の大破調である。粽寿司のいぐさの紐をほどきながら、ううう、長い、あしひきの山鳥の尾の粽かな…なんてことを思い始めた心の状態を詠んだのだろうか。そう思うと大破調が効いているような気がする。
ラテン語の風格にして夏蜜柑
これは名句だと思う。木にわんさかなった果実は、まさに南方伝来の風格がある。ところで夏蜜柑の学名はCitrus natsudaidaiといい、後半は日本語そのままである。検索してみると、現在夏蜜柑として知られるものは、江戸時代中期、黒潮に乗って南方から山口県長門市仙崎大日比(青海島)に漂着した文旦系の柑橘の種を地元に住む西本於長が播き育てたのが起源とされ、本来の名称は「夏代々(なつだいだい)」だったが、明治期に上方方面へ出荷する事となった際に、大阪の仲買商人から、名称を「夏蜜柑」に変更するよう言われ、それ以来商品名として命名された「夏みかん」または「夏蜜柑」の名前で広く知れ渡ったらしい。
水ごころ無くて落葉を掃きいたり
閒石の句には故事成句のパロディが多い。「魚心あれば水心」は「相手が好意を示せば、こちらも好意を持って対応しようということ」であるが、知るかと落葉を掃いている屈折のし具合が妙に可笑しい。
4 銀河系のとある酒場の
きさらぎや抛物線また双曲線
「も」はないが、これも並列たたみ掛けのひとつのバリエーションである。硬い数学用語をふたつ、これもまた硬質な響きを持つ季語と取り合わせて読者に委ねた作りなので、委ねられた読者として読まねばならないのであるが、本格的な春に向かって万物がダイナミックに変化するイメージがこれらの語の取り合わせによって立ち上がらないだろうか。閒石の時代にそんな言葉はなかったかも知れないが、人によっては「板野サーカス」と呼ばれるアニメの演出技法を思い浮かべるかも知れない。
またひとつ椿が落ちて昏くなる
「昏くなる」は漢字の用い方により日が暮れて暗くなることだと分かるので、「またひとつ椿が落ちて」と直接的な因果はない。次第に暮れていたのだが、またひとつ椿が落ちてにわかに気がついた、という感じだろうか。「また」が絶妙に効いていて、なんともやるせない老境の時間の流れを感じる。
銀河系のとある酒場のヒヤシンス
この句集の中でもっとも知られた句だろう。「とある酒場」はこの地球のものだろうか、それとも銀河系のどこかにパラレルワールドのように存在する生命体のいる惑星に思いを馳せているのだろうか。言い知れぬ寂寥感とともにいま今が過ぎて行く。
大旱やエンサイクロピディヤブリタニカ
長い固有名詞と季語だけでできた人を食った句である。ブリタニカ百科事典は一七六八年創刊で、一九九四年以降は光ディスクとオンラインでデジタル版が発売され、二〇一〇年の第一五版を最後に紙媒体での百科事典編纂を取り止めた。この句集が上梓されたのは一九九二年であるが、すでにデジタル化が話題に上り百科事典の日照りの時代が予見されていたのだろうか。普通エンサイクロペディアと表記するところ、発音に忠実に「エンサイクロピディヤ」としているあたり、思わずにやっとしてしまう。なお、大鑑とか大巻とかの語呂合わせの可能性も捨てきれない。
夕ずつや揺るるほかなき百合鷗
語呂合わせといえば、こちらの句ではyuで頭韻を揃えている。「夕ずつ」は宵の明星である金星。ユリカモメは夜間は飛行せず海上を漂うので、事実としてまったく正しいが雅語を駆使して頭韻を揃え、うつくしい句に仕上がっている。
冬空の青き脳死もあるならん
最近は脳死という言葉が話題になることがあまりないような気がするが、一九八〇年代後半から一九九〇年代にかけては、臓器移植などをめぐる倫理的な観点から関連書籍がいくつも出版され議論がかまびすしかった。そんな中での掲句だろう。生きているのに冬空が青いこともなんにも分からない、それもまた生なのだろうかという感慨だろう。
5 不思議としずかな明るさの、幽かなおもむき
最終章は挙句についてだけ触れておく。
老人と別れてからの真冬かな
自身が十分老人なのだから、他人のことを「老人」とは呼ばないだろう。ということは、これは自身の肉体が滅びたあとの、さっぱりした魂の存在を仮定して詠んだ句なのではないか。思えば巻頭の句は「春の雪老いたる泥につもりけり」であった。巻頭句において春の雪で消した「老いたる泥」なる肉体と、巻末ではついに別れる。最初から最後まで老いがテーマだったのだ。輪廻する魂は銀河系のとある酒場にもふらりと立ち寄ったりするのだろうか。
(了)
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