2007-12-02

田中亜美 エアポケット

田中亜美 エアポケット



 羽の国の羽毛のやうな鱗雲   久保山敦子

全体にすっきりした端正な句が多く心地良く読めた。なかでも掲句は何でもないようで、いちばん心にのこった。

音読して、羽の国、羽毛、鱗雲のウ音ではじまる頭韻が印象的だった。

u no ku ni no  羽の国の

u mô no yô na  羽毛のやうな

u ro ko gu mo  鱗雲

全体はu , o音の母音がほとんどをしめる。上五・中七で「羽(u)」の音を重ねたのちに「やうな」でふっとあかるいa音へひらかれる。そして下五の「鱗雲」へと柔らかく着地する

復唱するうちに、今度は「羽の国(くに kuni)」の母音のi 音が響いてくる。奥羽山脈をいただく羽の国の風土。山国の夕焼けを繊細に感受する作者の姿が浮かんでくる。思いの深さも滲んでくる。

微妙に差異を含みつつ展開するリフレーン。音律のうつくしさをよく生かした句と思う。



 生姜から生姜の花を育てけり   寺澤一雄

「生姜の花」ってどんな花だろうと思ったが(不勉強ですみません)、ジンジャーの花と思い、納得した。

ジンジャーの花は南国産の真っ白い花、清冽で甘い芳香を放つ。ごつごつしたスパイシーな生姜から花が咲くことには、言われてみれば、醜いアヒルの子が白鳥になるような驚きがある。おまけに(たとえば生姜焼きとかの)「生姜」って、(トロピカルな香りとかの)「ジンジャー」なんだよなぁと、あらためて言語記号の恣意性だとかに思いを馳せたりもする。そうこう考えるうちに「育てけり」という措辞がますます面白くなる。

この句もリフレーンを生かしているが、表記の点でとくに面白いと思った。



 さつきから太陽に蝿枇杷の花   加藤かな文

陽溜まりのなかに蠅の居る風景を詠んだのだろう。「さつきから」の措辞に、ぼんやりとした冬の陽射し、なんともいえぬ倦怠感が感じられる。

「太陽に蝿」は、蝿があたかも太陽の黒点のように静止しているようなシュールな構図、鋭い感性の生きたスナップショットだと思う。だが、それ以上に「枇杷の花」という季語の斡旋が見事だと思った。白い小花が身を寄せ合うようにして咲く枇杷の花だからこそ、冬陽の柔らかい光源まで見えてくるのではないか。

ターナーの絵に描かれた太陽のような優しいイメージ。こんな陽射しにくるまれている蝿も悪くないなあと思えてきた。



 月面が芒を過ぎてから見ゆる   鴇田智哉

 十月の壁が染まつてきてをはる   同

私は氏の作品をまだ多く読んでいる訳ではないのだけれども、助詞の使い方の面白さに惹かれている。たとえば掲句の「月面が」「壁が」といった主格の助詞「が」である。

助詞「が」が使われることで、「~が~する」という構文上の主語・述語の対応は明確になる(それは多分に散文的でさえある)。ところが、主語と述語を対応させつつ意味を辿っていくと、今度は微妙にはぐらかされてしまう。そのことが前者のギャップと相俟って、このテクストが詩であることをより意識させているような気がする。

それにしても「十月の壁」が「染まつてきてをはる」というのは、何が「をはる」のだろうか。「壁」が毅然とした境界線のようなものの比喩だとしたら、裡側/外側から「染まって」くることは、「壁」そのものの存立を脆くする(=「をはる」)ということなのか。

思うに十月というもの自体、暑いような寒いようなひどくあやふやな、どうにも染まりやすい季節ではある。そしてそれは豊穣な実りの季節から末枯れの季節へ、ひとつの「をはる」ことへと向かう時空ではあるのかもしれない。

まるでエアポケットにはまりこんだ感じ、そしてそのエアポケットにはまること自体が、楽しい。



久保山敦子 「月の山」10句  →読む 鴇田智哉 「ゑのぐの指」10句  →読む 寺澤一雄 「生姜の花」30句  →読む 加藤かな文 「暮れ残る」10句 →読む

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