2008-03-02

『俳句』2008年3月号を読む 上田信治

【俳誌を読む】
『俳句』2008年3月号を読む ……上田信治



雑誌を買ってくると、はじめに、ざーと斜め読みして、面白そうなところ気になるところに、折り目をつけます。今月は、自分が『俳句』2008年1月号の折り目をつけた箇所を、順にご紹介していきましょう。


●大牧広 特別作品21句「切山椒」p34-

待春や洗はれてゐし信号機
血流の怠け許さず蜆汁
昇りてはすぐにくじけし石鹸玉
頭から目刺を食べて荒るる海
いつ逝くにしても沈丁香るなり


●岸本尚毅「名句合わせ鏡(3)写生と可笑しみについて」p44-

私はテレビのお笑い番組が大好きです。最近感心したのが「中川家」という漫才コンビによる「昼食を食べて食堂から出てくる時のサラリーマン」のモノマネです。このモノマネは、爪楊枝をくわえた男が定食屋の扉をガラッと開けて元来た方へスタスタと帰ってゆくシーンです。男は、元来た方へ体を向ける直前に、路地の反対方向へチラッと顔を向けるのです。


ああ、波多野爽波の「写生と諧謔」とは、これに尽きますね。


●依田明倫「お日さまが」p56-

まだねむいのよ外套の朝の襞
やじろべゑかげろふてあるお日さまが


●矢島渚男「心に残る二十句」大特集 私という俳人を作った20句 p72-

芭蕉と古典だけで二十句を選ぼうかとも思った。作品の高さからすれば、現代俳句の多くは芭蕉にあったものを敷衍しているに過ぎないように思われもし、とてもその高さに及んでいない。〈芭蕉去てそのゝちいまだ年暮れず 蕪村〉の感がつよい。

「現代音楽の多くはモーツァルトの高さに及んでいない」「現代美術の多くはセザンヌの高さに及んでいない」「現代演劇の多くはシェークスピアの高さに及んでいない」……。
そんなこと言って、何になるっていうんでしょう。


●筑紫磐井「出会った俳句史・これからの俳句史」同特集 p90-

これまで多くの俳句論・詩論を書いてみたが、現在の私にとっては、郁乎、浩司、幸彦が揺るがしがたい存在である一方、虚子の〈帚木に〉や龍太の〈一月の川〉で示された原理も無視できないと考えている。最近では、虚子の〈風生と〉、龍太の〈雪山〉の句を冒頭の芭蕉の〈馬をさへ〉の句に近い思いで眺めている。
(耕衣、兜太、鬼房、憲吉、遷子、狩行、耕二は一概に共通の特徴をあげることはできないが、現代俳句をおもしろくしてくれた人々である。言っておくが、俳句は楽しいものではなく、鬼気迫るものなのだ。それを彼らは示してくれた。)


文中に挙げられているのは〈帚木に影といふものありにけり 虚子〉〈一月の川一月の谷の中 龍太〉〈風生と死の話して涼しさよ 虚子〉〈雪山のどこも動かず花にほふ 龍太〉〈馬をさへながむる雪の朝哉 芭蕉〉。 


●津川絵理子「自分史の一部分」同特集 p98-

ひし餅のひし形は誰が思ひなる  細見綾子
朝夕がどかとよろしき残暑かな  阿波野青畝
みひらきてこの世の不思議竹の春 鷲見七菜子

選句が面白かったです。


●ドゥーグル・J・リンズィー 「南極海」p124-

花柄を着て南極へ西行忌

この西行忌は、とんでもないんじゃないすか?


●藤原龍一郎 「現代俳句時評(3)読みの喜びについて」p148-

杉本零、正木浩一、白澤弓彦の三人の物故俳人の句集を取り上げる、時評としては、異例の内容。

要は評判になったり、賞を獲得したりした句集ばかりが優れた句集なのではなく、師系にこだわることなく、さまざまな句集を読むことで、自分に刺激を与えてくれる俳句との出会いが果たせるのだということである。

鰯雲髭そつて四時頃でよう    杉本零
夜の秋の誦して韻なき近代詩  

散る櫻白馬暴るるごとくなり   正木浩一
某日や風が廻せる扇風機 

雨の東京雨の東京かたつむり   白澤弓彦
真田十勇士夏野に一人づつ消ゆる

ああ、これは、、、、泣けるわ。「鰯雲」の句は知らなかったです。


●合評鼎談「「からだ感覚」から普遍性」宮坂静生・村上護・山下知津子 p181-

(作品の選の基準について)
宮坂 俳句は十七音字、さらに切字、季語など、ひとつのフィクショナルな、反リアリズムの形式を用いますね。私が俳句を詠む場合は、私の愛用語である「地貌」(ちぼう)、すなわち「土地の貌」という極めて個人的な場に立ちながら、フィクショナルな俳句の装置にいかに実感を込めるかということを考えております。ですから、選句をする場合もいかに作り手の地貌に基づいた実感が作品に籠っているか。それが一つの大きな意味での基準です。

それは俳句全体から見ると、かなり適用範囲の限られる概念なのでは? 「個人的な場」とは、そういう意味かもしれません。

それにしても、「地貌」とは、常に別の「地貌」とのごく分かりやすい差違によってしか成立しないものなんじゃないか、表現を支えるものは、もっと絶対的な個有性なんじゃないか、とか思っていると、

村上 その通りだと思いますね。(…)特に俳句は短詩形ですので、言葉と自分の経験、その関係を明らかにしてかからないと難しい。自分でしかできない経験を俳句に詠むことが一番大切でありながら、とかく言葉が先に来るのです。(…)しかし、言葉の先行はよくない。それは頭から先に来ているから。経験が根底になければ人を感動させることは難しい。そういうのは詩にもならなければ、文学にもならない。(…)自分の経験を重視せずに言葉が先行すると文学性がなくなるのではないか。

うわあ、こんな素朴な文学観で評論を、と思ってしまう。

村上さんの「言葉が先行する」という言い方には、もう価値判断が入ってしまってるから、どれだけ「経験」を力説されても、論点先取にしかならないわけで(「経験」と「言葉が先行」では、「経験」が勝つに決まっている)、

むしろ、俳句を作るとは、いわゆる「俳句」(フィクショナルな装置?)によって強いられる「経験」を、さらに言葉が追い越しはみ出していくことの繰り返しではないか、とか思っていると、

山下 私もお二人と言葉は違いますけれど同じようなことを考えていました。私は出発点において、俳句を構成していく言葉を発する場合、その主体の身体感覚からあまり遊離してしまってはいけないだろうと思います。自分の体をその現場に運ぶ、あるいは日々の暮しの中で、自分の五感で体得したもの、身を潜らせた言葉、そこに根差して俳句を作り始めることが大事であって(…)その上で、自分の体験とか五感をあるがままに事実報告的に言葉にしていくのではなく、宮坂さんが「フィクショナルな」とおっしゃったことと対応すると思うのですが、イマジネーションによる構成力が必要になってくるだろう、(…)ですから最初は村上さんがおっしゃった「個人的な体験」ということ、自分自身の現場をまずは存分に踏まえ、それから現場を潜り抜けたイマジネーションによって構成された作品というところで見て行きたいと思います。

これは、バランスのとれた、常識的な意見です。

新年号の句評に移ると、肯定するにも否定するにも、声の大きいのは宮坂さん。山下さんは、ほとんど3番目に意見を言う。「私も、その句をいただきました」「私も、その句はおもしろいと思いました」……控えめです。

おもしろかったのは、榮猿丸さんの7句「さぼるため」について。作品はたいへん評判がよかったのですが、

宮坂(…)気になったことが一つ。これは俳句の批評とはかかわりないけれど、付けられた短文に「俳句というマイナーな文芸を、文語というマイナーな言語で表現すること」とあったのが気になる。俳句の形式と文語を両方、マイナーと決めつけるのは夢をなくすね。同時代的な感性とつながりたい確認
というナイーブな気持ちは分るのですが。*原文ママ

山下 今、比較的若い年代の人たちで俳句をやっている人には結構、こういう認識はあるんじゃないでしょうか。

村上 そうなんでしょうね。

宮坂 そういうことが後ろめたいと言っているわけじゃないんですね。(…)それがおしゃれだと言っているんだね。

山下 おそらくそうだと思います。

宮坂さんに分ってもらえたようで良かった。でも、そんなにはっきり「おしゃれ」と言わなくても。


●17字の冒険者 p216-

東京の黄色集めて銀杏もみぢ 関根かな
水よりもゆつくり歩く梅日和 山口優夢
雪解水走る一枚岩の上    福場朋子
寒林や息するやうに雨の降る 中村夕衣

いちおう、一句づついただきました。
今月は、みなさんたいへん温和しかったですね。



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仮想書店 http://astore.amazon.co.jp/comerainorc0f-22



1 コメント:

民也 さんのコメント...

矢島渚男氏のコメント、

>芭蕉と古典だけで二十句を選ぼうかとも思った。
>作品の高さからすれば、現代俳句の多くは芭蕉に
>あったものを敷衍しているに過ぎないように思わ
>れもし、とてもその高さに及んでいない。

例えば高浜虚子は、自分の外に河東碧梧桐や日野草城が居たから、俳句詠みや選句、ホトトギスの経営に専念できて、「巨人」とか「アンチ巨人」になれたのだろう。彼らが居なかったら、ただの売れない大衆小説家で終わっていたかもしれないね。

芭蕉を手塚治虫氏に譬えるなら、虚子と碧梧桐は藤子不二雄で、草城は石ノ森章太郎、という感じかな。

現状を憂うとすれば、碧梧桐や草城が求めたものを同士募ってでも求めよう、それを世に広めよう、という人が居ないことのほうが、問題かも、です。敵が居なきゃ、どちら様も平和ボケするわね。そりゃ。

民也組の場合、季語も季節感も切り捨てた無季定型(韻句)ばかり作りたがるのや、俳句でカードゲーム(歌留多だけじゃないよ)したがっているのや、無駄に平明な句を作りたがっているのや、写生の対象が無制限だったりとか、俳句作らないのも居たり、わがままな奴ばっかり。

そのうち、この中の誰かが飛び抜けて世に出るかもしれないし、お互いにつぶし合って、共倒れして解散することになるかもしれない。今は、しかし、互いが対等であることで、いいライバル関係を、保っているのか?
保っていたほうが、いいのか?

判断は読者に丸投げ!(読者が居ると思うのは、作者の妄想だよん)


※情報撹乱班、任務終了…