【俳誌を読む】
『俳句界』2008年4月号を読む ……上田信治
●となりの芝生から 「笑い」の時間 久谷雉 p20-
毎回、俳句の「となりの」ジャンルの作家が、俳句について書く連載。
今回は、2004年の「中原中也賞」を(19才で)受賞した詩人、久谷雉さんが書いています。
久谷さんは〈なにはともあれ山に雨山は春 飯田龍太〉について、「この句に向きあうと、ぼくは口をおもいきりあけて、いや口だけではなく手足やお腹も総動員して、体ぜんたいでのびのびと笑いころげたくなる」「このとてつもない「なにはともあれ」が吹き荒れたあとにとり残される「山」がちいさくみえてしまうのもおかしいなあ」と書き、〈真白な大きな電気冷蔵庫 波多野爽波〉について、「そのような背景を一切拒絶するように、十七字の空間いっぱいにどっしりと無言でかまえている真白な箱のすがたに圧倒される」と書きます。
俳句を「やってない」人に、俳句がとどく、ということを確認できると、今さらながら、ちょっと嬉しく思ってしまう。
これらの俳句をとおして、ぼくはまだ「笑う」ことができるということを思い出し、そして安堵する。特に現代詩の一行としてとらえるには少々無理があるようなものに救われることが多い。
俳句の希望は「現代詩の一行としてとらえるには少々無理があるようなもの」のほうに、あるのかもしれません。
「なにはともあれ」や「冷蔵庫」の句を見ると、それは、往々にして「俳句としてとらえるにも少々ためらわれるような」句だったりもするのかもしれません。
●俳句界時評 「痰のつまりし仏」へ 林桂 p60-
例の「助動詞「き」」の問題で、昨年から「俳句界」誌上で、松田ひろむ氏と池田俊二氏(『日本語を知らない俳人たち』)のあいだで論争が続いていたそうで。
「私は高校時代の副読本たりし『徒然草』『枕草子』『源氏物語』の三冊を読みました。そして「き」「し」は100%この通り(※目睹回想)使はれてゐることを確認しました」と書く池田氏。
いっぽう松田氏は、平安末期以降においては、「継続動詞」(金田一春彦の動詞の4分類から)に「き」がついた「完了存続」という用法があった、として、池田氏が誤用とする俳句の「し」の少なくとも半分は誤用とはいえない、と主張します。
そして今月の、林氏。
江戸期や近代の俳人の「誤用」の指摘が何の意味を持つのだろうか。(…)江戸期の文献は江戸期の用法で理解するべきだし、明治期は明治期の用法として理解すべきだろう。まして、正岡子規や高浜虚子は文語表現から現在に繋がる口語文体を形作った人々で、現在の古語辞典を繰って俳句を書いている人々と同類ではない。
たとえば、池田が中古文法に則って自身の表現を統一して書こうとするのは、大切なことかもしれない。(…)しかし、他者も同様に中古文法で表現すべきだということはいえないだろう。(…)たとえ池田がどれほど厳密に中古文法を適用して書いたところで、それは現在においては擬古文体でしかない。そして、それは現在の表現なのである。
ま、林氏の言うことがもっともなのではないかと、思います。
はじめの引用の前に、林氏は「初学者にむけての文法学習として用法の誤りを正すのならともかく」と書いていて、そうそう、池田氏のような主張に考え込んだり、まともにとりあったりすることは、俳句を「お稽古ごと」化してしまうことなんだよ、と思いました。
●シリーズ魅惑の俳人4 福永耕二 p78-
「耕二の残された人生は無惨であった(…)失意の晩年といってよいだろう。」(筑紫磐井「福永耕二の青春性」)
筑紫磐井、酒井弘司、橋本榮治、黒坂紫陽子の4人の筆者による、福永耕二についての小論。筑紫氏が「失意」の事情をそれとなく書いています。
●特集・辞典 言葉の宝庫を楽しむ p116-
「酒の肴に辞書」(榎本好宏)
辞書を片手に晩酌をするうちに、仮説として「七夕」と季語「髪洗ふ」の関係に思い当たる。
「語彙の消失」(佐々木六戈)
『広辞苑』を通読した経験から、日本語にも(山本健吉による季の詞のピラミッドと同様の)地勢があると、気づいたという経験。
●文学の森句会報告 指導池田澄子 p188-
電車来ないね冬至だねそうだね 晃之
澄子さんの特撰句です。
ところで、来月号の予告に「横浜刑務所内の句会ルポ」の文字。ちょっと興味アリ。
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2008-03-30
『俳句界』2008年4月号を読む 上田信治
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